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第一章
5.寄り添う手(1)
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それから、いくつかの日が巡った。
ハザルは毎日、決まった時刻に家を出て、村を大きく囲むように巡回路を辿る。茂みの陰から飛びかかってきた魔獣を斬り伏せることはあっても、命を脅かされるような戦闘になることはなかった。
村では、ささやかな頼まれごとも絶えない。酔った男を家まで送り届けたり、壊れかけた柵を直したり、井戸の桶を引き上げるのを手伝ったり――気がつけばハザルの名は、村のあちこちから聞かれるようになっていた。
夕刻になると、あの日の約束通り、ハザルはたびたびフィノの家の食卓に加わっていた。大鍋いっぱいの煮込みの日もあれば、山菜や川魚の塩焼きが並ぶ日もある。どうやらフィノが献立を被らないよう工夫しているらしく『ハザルさんが来るようになってから、食べたことない料理が出るようになったねぇ』と老女が何気なく言った一言に、フィノが顔を真っ赤にする一幕もあった。
ギニアンはというと、最初こそハザルを警戒していたものの、今では椅子を引く音にびくりと跳ねる程度で、ハザルの存在もさして気にせず、部屋の中をぽてぽてと歩き回るようになっている。
反対に、フィノが木の盆いっぱいに食事を乗せて、ハザルの家を訪ねてくる日もあった。扉を開ければ「おじいさんたち、早く寝ちゃって」と、照れくさそうに見上げてくるフィノを追い返すこともできず、その夜は二人で静かな夕餉を囲むのだった。たわいない会話も長くは続かず、ときどき食器の触れ合う小さな音だけが響く。それなのに、その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
その日の夕暮れも、巡回を終えて戻ったハザルの家の戸口に、盆を抱えたフィノの姿があった。
「こんばんは。今日もお疲れさまでした」
「ああ。入れ」
戸を開けたハザルは短くそう告げると、フィノから盆を受け取り、食卓の上へと運んだ。
「先に座って待っていてくれ」
一言だけ残し、ハザルは踵を返して調理場へ向かう。かまどの鍋を覗くと、中では薬草の煎じ汁がふつふつと小さな泡を立てていた。鼻を刺すような独特の苦い匂いが、狭い室内を満たしている。
背後できし、と床板が鳴り、フィノが部屋に足を踏み入れた気配がした。その足音が途中でぴたりと止まる。
「ハザルさん、それは?」
背にかけられた声に、ハザルは鍋の中身を杓子でゆっくりとかき混ぜながら、振り返らずに答えた。
「匂いがきつくて悪いな。強壮剤だ。見回りの前にはいつもこれを飲んで――」
「ピィ、ピィッ!」
言いかけたところで、足元から甲高い鳴き声が響いた。
(……ギニアンか?)
いつもの小さな声とは違う悲鳴のような鳴き方に、ハザルは眉を顰めて振り向く。視界に飛び込んできたのは、蒼白になったフィノの顔だった。
「……フィノ?」
「す、すみません。少し、気分が」
名を呼ぶと、フィノの肩がぴくりと震える。口許が引き攣り、無理に笑顔を作ろうとしているのが分かった。突然の異変にハザルは鍋の下の火を手早く払うように消すと、殆ど駆けるような勢いでフィノのもとへ歩み寄った。
「立っていられるか」
「だ、大丈夫です。本当に、ちょっと……っ」
そう言いかけた足元が、ふらりと揺らぐ。
「おいっ――」
ハザルは反射的に腕を伸ばした。倒れ込んできた身体を、そのままぐっと抱き寄せる。触れた瞬間、その体温の低さに気づいた。こうして腕の中に納めてみると、細い肩の線が痛いほどはっきりと分かる。額が胸元に触れ、掠れた吐息が衣越しに伝わった。その不意の近さに、戸惑いが胸をよぎる。それでも、腕の力を緩めることはなかった。
フィノの震えた指先が、触れたハザルの上衣を押しやろうとする。自分の重みを退けようとする仕草に、ハザルはむしろフィノを強く抱き寄せ返した。
「ごっ、ごめんなさいっ」
「いい。運ぶぞ」
フィノがか細い声で「……はい」と俯いた。その返事を聞くが早いか、ハザルは腕を回し直し、膝裏と背をしっかり支えて抱き上げる。フィノの身体が驚きで強張り、指先がぎゅっとハザルの上衣を掴んだ。蒼白だった顔には、僅かに赤みが差しているようにも見える。その心許ない重みを腕に感じながら、ハザルは寝室へと歩き出した。
寝室に入ると、ハザルは腕の中のフィノを寝台へそっと横たえた。そのまま身を屈め、襟元へ手を伸ばす。
「少し開けるぞ」
そう断りを入れてから、胸元にこもった熱を逃がすように衣服の襟を緩めた。うっすらと汗ばんだ白い喉と鎖骨が覗く。ハザルは調理場から水を注いだグラスを持ってくると、寝台の縁に腰を下ろし、片腕をフィノの背に差し入れて優しくその上体を起こした。
「……飲めるか?」
グラスを差し出すと、フィノはうっすらと唇を開き「はい」と答えた。両手で包み込むように受け取った指先は、まだ微かに震えている。ハザルはグラスの底を支えるように手を添えた。こく、こく、と水が喉を通るたび、フィノの喉が上下する。少し息を整えるように間を置いてから、フィノはグラスを返してきた。
「ごめんなさい。少し、苦手な匂いがして」
掠れた声でそう言い、申し訳なさそうに目を伏せる。
「大丈夫だ。気にすんな」
ハザルは短く返した。責める気など欠片もない。むしろ、あの匂いひとつでここまで顔色を変えたことのほうが気がかりだった。
フィノが俯いたまま、もう一度「すみません」と呟くと、膝元から「ぷ」と短い声がした。いつの間にかフィノの膝の上に、ギニアンがちょこんと座り込んでいる。ハザルのあとをついて来て、そのままフィノが寝かされた拍子に、膝へと身体を落ち着けたのだろう。
「ギニアン。一生懸命、ハザルさんに伝えてくれてありがとう」
フィノが力なく微笑みながら頭を撫でると、ギニアンは「くるる」と小さく喉を鳴らした。
ハザルは毎日、決まった時刻に家を出て、村を大きく囲むように巡回路を辿る。茂みの陰から飛びかかってきた魔獣を斬り伏せることはあっても、命を脅かされるような戦闘になることはなかった。
村では、ささやかな頼まれごとも絶えない。酔った男を家まで送り届けたり、壊れかけた柵を直したり、井戸の桶を引き上げるのを手伝ったり――気がつけばハザルの名は、村のあちこちから聞かれるようになっていた。
夕刻になると、あの日の約束通り、ハザルはたびたびフィノの家の食卓に加わっていた。大鍋いっぱいの煮込みの日もあれば、山菜や川魚の塩焼きが並ぶ日もある。どうやらフィノが献立を被らないよう工夫しているらしく『ハザルさんが来るようになってから、食べたことない料理が出るようになったねぇ』と老女が何気なく言った一言に、フィノが顔を真っ赤にする一幕もあった。
ギニアンはというと、最初こそハザルを警戒していたものの、今では椅子を引く音にびくりと跳ねる程度で、ハザルの存在もさして気にせず、部屋の中をぽてぽてと歩き回るようになっている。
反対に、フィノが木の盆いっぱいに食事を乗せて、ハザルの家を訪ねてくる日もあった。扉を開ければ「おじいさんたち、早く寝ちゃって」と、照れくさそうに見上げてくるフィノを追い返すこともできず、その夜は二人で静かな夕餉を囲むのだった。たわいない会話も長くは続かず、ときどき食器の触れ合う小さな音だけが響く。それなのに、その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
その日の夕暮れも、巡回を終えて戻ったハザルの家の戸口に、盆を抱えたフィノの姿があった。
「こんばんは。今日もお疲れさまでした」
「ああ。入れ」
戸を開けたハザルは短くそう告げると、フィノから盆を受け取り、食卓の上へと運んだ。
「先に座って待っていてくれ」
一言だけ残し、ハザルは踵を返して調理場へ向かう。かまどの鍋を覗くと、中では薬草の煎じ汁がふつふつと小さな泡を立てていた。鼻を刺すような独特の苦い匂いが、狭い室内を満たしている。
背後できし、と床板が鳴り、フィノが部屋に足を踏み入れた気配がした。その足音が途中でぴたりと止まる。
「ハザルさん、それは?」
背にかけられた声に、ハザルは鍋の中身を杓子でゆっくりとかき混ぜながら、振り返らずに答えた。
「匂いがきつくて悪いな。強壮剤だ。見回りの前にはいつもこれを飲んで――」
「ピィ、ピィッ!」
言いかけたところで、足元から甲高い鳴き声が響いた。
(……ギニアンか?)
いつもの小さな声とは違う悲鳴のような鳴き方に、ハザルは眉を顰めて振り向く。視界に飛び込んできたのは、蒼白になったフィノの顔だった。
「……フィノ?」
「す、すみません。少し、気分が」
名を呼ぶと、フィノの肩がぴくりと震える。口許が引き攣り、無理に笑顔を作ろうとしているのが分かった。突然の異変にハザルは鍋の下の火を手早く払うように消すと、殆ど駆けるような勢いでフィノのもとへ歩み寄った。
「立っていられるか」
「だ、大丈夫です。本当に、ちょっと……っ」
そう言いかけた足元が、ふらりと揺らぐ。
「おいっ――」
ハザルは反射的に腕を伸ばした。倒れ込んできた身体を、そのままぐっと抱き寄せる。触れた瞬間、その体温の低さに気づいた。こうして腕の中に納めてみると、細い肩の線が痛いほどはっきりと分かる。額が胸元に触れ、掠れた吐息が衣越しに伝わった。その不意の近さに、戸惑いが胸をよぎる。それでも、腕の力を緩めることはなかった。
フィノの震えた指先が、触れたハザルの上衣を押しやろうとする。自分の重みを退けようとする仕草に、ハザルはむしろフィノを強く抱き寄せ返した。
「ごっ、ごめんなさいっ」
「いい。運ぶぞ」
フィノがか細い声で「……はい」と俯いた。その返事を聞くが早いか、ハザルは腕を回し直し、膝裏と背をしっかり支えて抱き上げる。フィノの身体が驚きで強張り、指先がぎゅっとハザルの上衣を掴んだ。蒼白だった顔には、僅かに赤みが差しているようにも見える。その心許ない重みを腕に感じながら、ハザルは寝室へと歩き出した。
寝室に入ると、ハザルは腕の中のフィノを寝台へそっと横たえた。そのまま身を屈め、襟元へ手を伸ばす。
「少し開けるぞ」
そう断りを入れてから、胸元にこもった熱を逃がすように衣服の襟を緩めた。うっすらと汗ばんだ白い喉と鎖骨が覗く。ハザルは調理場から水を注いだグラスを持ってくると、寝台の縁に腰を下ろし、片腕をフィノの背に差し入れて優しくその上体を起こした。
「……飲めるか?」
グラスを差し出すと、フィノはうっすらと唇を開き「はい」と答えた。両手で包み込むように受け取った指先は、まだ微かに震えている。ハザルはグラスの底を支えるように手を添えた。こく、こく、と水が喉を通るたび、フィノの喉が上下する。少し息を整えるように間を置いてから、フィノはグラスを返してきた。
「ごめんなさい。少し、苦手な匂いがして」
掠れた声でそう言い、申し訳なさそうに目を伏せる。
「大丈夫だ。気にすんな」
ハザルは短く返した。責める気など欠片もない。むしろ、あの匂いひとつでここまで顔色を変えたことのほうが気がかりだった。
フィノが俯いたまま、もう一度「すみません」と呟くと、膝元から「ぷ」と短い声がした。いつの間にかフィノの膝の上に、ギニアンがちょこんと座り込んでいる。ハザルのあとをついて来て、そのままフィノが寝かされた拍子に、膝へと身体を落ち着けたのだろう。
「ギニアン。一生懸命、ハザルさんに伝えてくれてありがとう」
フィノが力なく微笑みながら頭を撫でると、ギニアンは「くるる」と小さく喉を鳴らした。
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