朱のゆりかご

久画嵜ミロ

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第一章

16.迫る影(2)

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「……フィノ?」

 そのとき。背後から名前を呼ぶ声に、フィノははっと顔を上げた。

「あ、……おばあ、さん」

 声のする方へ振り返ると、戸口の方から老女がこちらへ歩み寄ってくるところだった。フィノは「来ちゃだめだ!」と喉元までせり上がってきた叫びを、どうにか飲み込む。

(ここで騒いだらおばあさんまで、関わらなくていいことに巻き込んでしまう)

 フィノの張り詰めた声音に気づいたのか、老女はきょとんと小首を傾げながら、男とフィノを交互に見やった。

「洗濯物を取り込むって言ってから戻ってこないから、どうしたのかと思ってねぇ。そちらの方は?」

 男は張り付いたような笑顔を浮かべながら、老女へと軽く会釈した。

「はじめまして。この先の山手の方で学者まがいのことをしている者です。フィノくんとは昔からの友人でして」

「おお、そうだったのかい」

 心底ほっとしたように老女が顔を綻ばせると、フィノの眉がぴくりと動いた。よくもそんな嘘をすらすらと口にできるものだと、刺すような視線で男を見据える。

「ここは若いもんが少なくてねぇ。この子も寂しい思いをしてるんじゃないかと思っていたんだよ」

「そうでしたか」と微笑む男を疑う様子もなく、安心しきった表情の彼女に、フィノは手足の先から力がすうっと抜けていくのを感じた。

(違う! 友だちなんかじゃない。どうしよう、どうしたら)

 フィノは胸の奥で声にならない悲鳴をあげた。それでもどうにか平然を取り繕おうと、奥歯をぐっと噛み締める。

「しかしいい村ですね。人も少なくて、のどかだ」

 そんなフィノをよそに男は辺りを見渡しながら、さも感心したように目を細めてみせた。そしてフィノの方へ軽く身を屈めると、老女の耳には届かないほどの小さな声で囁く。

、賊に襲われでもしたら……ひとたまりもないでしょうね」

「……っ!」

 フィノは思わず目を見開いたまま固まった。耳朶を打った言葉は、先ほどまでの柔らかい調子の底に、雹のような冷たさと鋭さを孕んでいる。

「どういう、意味ですか」

「ただ、そう思っただけですよ」

 男は嫌悪を滲ませながら見上げるフィノなど意にも介さず、「そうだ」と思い出したように両手を合わせた。今度は老女にもはっきり聞こえるような調子で言葉を継ぐ。

「せっかくですから、久しぶりにゆっくりお話したいですね。もしよろしければ、私の家で食事でもどうでしょうか」

 この申し出に頷いたらその足で〝あの場所〟へ連れて行かれる。そんな予感がして、フィノは腕に抱えた洗濯物をぎゅっと抱きしめたまま、頭の中で必死に思案した。

(嫌だ、行きたくない。でもここで僕が断りでもしたら。この村に、本当に運悪く何かが起こるかもしれない)

 いつも薬草を分けてくれる老人。洗濯をしながら世間話に花を咲かせる女性たちや、村じゅうを駆け回る子どもたち――ここで暮らす人々の姿が、次々と脳裏に浮かぶ。

(皆を巻き込んでしまう……だったら)

 フィノは腕に込める力を強める。抱きしめた洗濯物は、もうすっかり皺だらけになっていた。足元で、ギニアンが不安そうにこちらを見上げている気配がする。フィノはがくりと肩を落とし、目を閉じた。

(……僕ひとりが、ついて行けばいいだけだ)

 ――けれど、そんなフィノの瞼の裏にはひとつだけ、頼りたい背中がぼんやりと浮かび上がっていた。

(あの人がもし、僕の思うとおりなのだとしたら)

 うまくいくかどうかも分からないのに、最後の望みを彼に預けてしまいたくなる。やがて決意を固めたように顔を上げると、無理やり口許に笑みを作って、老女へと問いかけた。

「そうですね。おばあさん、行ってきてもいいですか?」

「ああ、もちろんだとも。友だちと食事なんて、滅多にないことだろう? ゆっくりしておいで」

 老女が皺だらけの目許を緩ませる。その様子を眺めていた男は、さぞ愉しそうに唇の端を吊り上げていた。

「夕飯はもうできているので、おじいさんと食べてくださいね。それと」

 すぐそばには男の気配がある。不用意に助けを求めるような言葉は、とても口にできなかった。

「洗濯物なんですが……ハザルさんにひと言伝えておいてもらえませんか?」

 フィノはできるだけ何でもないことのように言葉を継いだ。彼に、ハザルに、どうか気づいてほしい、その僅かな希望を託すように。

 ――白い服を、間違えて取り込んでしまったので、僕の部屋の衣装棚から回収しておいてください。



    ◇



「……白い服?」

 巡回から戻り、もう一度フィノと話をしようと家を訪れたハザルは、玄関先で老女からそう言づてを受け、思わず眉を顰めた。

(白い服なんて俺は持っていない。それに、あいつに洗濯を頼んだ覚えもねえが)

「中に入ってもいいか?」

 胸の内で訝しく思いながら、「奥の部屋だよ」という老女の言葉に軽く会釈を返し、ハザルは敷居を跨いだ。いつも食卓を囲む居間を抜け、フィノの部屋へと足を踏み入れる。
 部屋の中はいかにもフィノらしく整えられていた。質素な寝台と、小さな机。壁際には衣装棚がひとつ置かれている。余計なものはひとつもない、こざっぱりとした空間だった。足元でかさかさ、と音が鳴る。

「ギニアン」

 音のする方を見やると、ギニアンが小さな足で部屋を行ったり来たり、落ち着きなく動き回っていた。

「お前は留守番か」

 ハザルが声をかけると、ギニアンははっとしたようにこちらを振り向き、ちょこちょこと駆け寄ってきた。足元まで来るなり、ハザルの下衣の裾をかりかりと甘噛みするように齧り始める。

「どうした」

 普段の彼には見られない動きに、ハザルは眉根を寄せる。まるで何かを訴えかけているように思えてならない。怪訝に思いながらも、ギニアンから一度視線を外し壁際の衣装棚へと歩み寄った。取っ手に手をかけて戸を開けると、内側には綺麗に折り畳まれた衣類が整然と並んでいる。
 その奥――隅の方に、ぽつんと白い上衣が置かれているのが見えた。

(これか)

 ハザルは腕を伸ばし、その上衣を手に取った。手触りはごわついていて、ところどころ薄汚れた染みが残っている。元は白かったはずの生地は長い間放置されていたのか、黄ばんだようなくすみが目立っていた。少なくとも、これが自分の服ではないことはひと目で分かる。

(あいつの言っていた白い服ってのは、これのことか?)

 フィノが何を伝えようとしているのか、皆目見当がつかない。胸の引っかかりを拭えないまま、ハザルは畳まれていた上衣をゆっくりと広げていった。視線が自然と袖のつけ根辺りへと落ちる。
 そこに、見慣れた刺繍が縫い留められているのを目にした瞬間、ハザルの指先が止まった。

(……これは、まさか)

 どくん、と心臓がひときわ大きく鳴る。次の瞬間には鼓動が早鐘を打ち始めていた。この標章を忘れられるはずがない。かつて嫌というほど目にして、最後には自分から背を向けた印だ。
 気づけば、上衣を掴む手に力がこもっていた。くしゃり、と布が歪み、黄ばんだ生地に深々と皺が刻まれる。

「……フィノ」

 その名を呼んだときには、もう身体が動いていた。上衣を放り投げ、ハザルは殆ど駆け出す勢いで部屋を飛び出す。

「ハザルさん?」「どうしたんだね」

 背中越しに老夫婦の驚く声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。焦燥感に突き動かされるままハザルは家を飛び出し、夕闇が濃くなりつつある村の通りへ走り出していった。
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