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煙雲の章 旗巻峠
旗巻峠
しおりを挟むはるか水平線の彼方が僅かに明るくなると、薄靄の中眼下には蒼く茂った稲原が、黄色くなり始めた稲穂を載せ、静かに広がっていた。
刹那、朝露が燦めき、目覚め始めた鳥達の声が遠のいた。
辺りは静寂へと還り、碧さを増した稲原が、蒸した空気の中に横たわっている。
彼方の水平線は見えない。
朝陽を浴びて輝くのは、田畝の中を大きく蛇行する大河であった。
翠色の田畝の間には、玄々とした無数の塊りが静かに蠢いていた。
『あれは人馬に相違ない、ここは旗巻峠ではない、わしは一体どこに居るのだ。』
纏わり付く湿気に、面を拭った。
拭った掌を下ろしながら脇を見やった瞬間、陣の裏手で馬が嘶いた。
鳥の声が騒がしく還ってくる。
白露の朝の涼しさに、蒸し暑さからの汗ではない、背中を冷汗に似た冷たいものが伝い落ちた。
北東の方角から剣戟の音と銃声が響いてくる。
太郎平の眸に燿が戻る。
采配を左手前方に指して号んだ。
「丑寅の方角に敵襲ぞ、撃てえっ。」
新政府軍の長州藩良城隊は、洋式戦術に慣れ始めた伊達藩方の射撃に阻まれて、それ以上軍を進めることが出来なくなった。
アームストロング砲の砲撃が混じる攻撃に、やむを得ず、良城隊は峠の北側から大きく迂回し始めた。
銃声は北方の峰口からも響いてきた。
「子の方角にも敵ぞ、撃て、撃てえっ。」
使い慣れてきた後装銃の銃撃は、長州藩と中村藩の小隊の征く手を阻んだ。
峠の東側正面より中央本道を進んできた館林藩と中村藩の小隊は、やはり堅い守りの前に両側の高台に廻り込むこともままならず、立ち往生していた。
「戦は優勢ぞ、押し返せ。」
太郎平は、駒ヶ嶺争奪戦でも離れずに留まったこの峰を、死守することだけを考えていた。
「敵を一兵足りとも登らせるな、頭の上から砲弾の雨を降らせるのじゃ。」
両眼を見開き、足元の斜面を上がってくる敵方を睨めつけていた太郎平の後背が急に騒がしくなった。
哨戒兵が走り寄ってくる。
「午の方角より敵襲、その数五、六百。」
新政府軍の左翼部隊、鳥取藩六小隊と砲兵、御親兵、広島藩、相馬藩の小隊からなる大部隊が、旗巻峠南方の羽黒山の山頂を登って、尾根つたいに一気に伊達藩陣地になだれ込んできた。
「迎え撃てえ、何としてもここを持ちこたえるのじゃ。」
不意を突かれた太郎平は隊の軍首を南に向けようと必死に采配を振るった。
しかし、寄せ手の勢いは予想を超えて素早いものだった。
瞬く間に峠の陣地を奪われ、伊達藩勢は敵勢のいない北西方向へと壊走し始めた。
阿武隈川河畔の金山まで退かざるをえなくなった伊達藩勢は、ついに剣が峰たる旗巻峠を新政府軍に奪われ、浜街道側からの伊達藩領内への侵入を容易にすることとなった。
太郎平は、あいかわらず大内を占拠しているはずの、新政府軍を睨みつけていた。そして、こうべをめぐらせて後ろを見やると、兜を脱ぎ床几に腰を下ろした。
もう一度振り返り、阿武隈の川面を眺めながら、伊達家御一家筆頭鮎貝家当主として、この奥州の地に敵兵を踏み入れさせたことに慚愧の念を強く感じていた。
そしてふと、朝方の光景がまた脳裏によみがえってきた。
『あれは、文治五年の阿津賀志山の戦いではなかったか。』
父祖鮎貝盛次が藩祖政宗公に従って柴田の郡に移り、政宗公が奥州の覇者としてこの地を治められて二百七十年あまり。
ついに異国のやからのじゅうりんを許してしまったが、かの時もまた奥州藤原三代百年の治世が鎌倉方二万五千の大手軍により灰燼に帰することとなったのだった。
『古来、奥州はみちのくと呼ばれ都からは遥かかなたでありながら、地味豊かで様々な物産を産する土地であった。しかしそれが、執拗に侵略され支配される理由ともなっていたのか。』
日の本の国が歴史の大きなうねりの中で、血を流し合う戦が続いている。
それでも、実質石高百万石とも言われる伊達の稲原は、今年ももうすぐ黄金色に染まって、こうべをたれる稲穂が広がる季節を迎えようとしていた。
『かつて芭蕉翁は平泉で、~つわものどもが 夢のあと~とよんだが、これ以上故郷の地を荒らさせるわけにはいかないのではないか。』
太郎平はもう一度川面を、そして大内に居るはずの、”侵略軍”を見やって立ち上がり、配下に下知した。
「旗巻峠を奪われ、金山までしりぞいたことを、藩のお歴々にご報告するのじゃ。」
配下が立ち去ると、再度振り返り、ほんろうされながら流れゆく木の葉を見つめた。
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