思い出だけが生きる場所

綾崎暁都

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第二話

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「寺山誠治、何だか作家みたいな名前だね」
「よく言われるよ」
 次の授業のため理科室に移動していたところ、たまたま藤島紗華と廊下で二人きりとなり、彼女からそう言われる。
 あの日から、放課後、誰もいない屋上で会話する間柄となる。お互い人の目のつくところでは話しかけないし、それを知る者は他に誰もいないだろう。
「そういえばあの時訊いてなかったのだけど、サリンジャーのどういうところが好きなの?」
 彼女は薄っすら微笑みながら訊いてくる。
「どういうところって、まあ、藤島さんと理由は大体同じかな。意地っ張りなのに、臆病なところ。こんな風にね」
 前から女子生徒数人の姿が見えると、ぼくは歩調を速めて、彼女よりも先に行ってしまう。我ながら本当に、意地っ張りな臆病者だと思う。
 授業が終わり放課後になると、ぼくは図書室などで少しばかり時間をつぶしてから、屋上へと向かう。ドアをゆっくりと開けて、屋上の様子を見る。フェンスの近くに女子生徒の姿が一つだけ。近づくとそこには彼女の姿が。
「今日も来たんだ」
 藤島紗華はいつもと同じく微笑を浮かべる。彼女の顔、表情共に、とても美しいのだが、正直なところ、何を考えているのか、全く掴めない。
 彼女の謎めいた雰囲気は、最初に出会った時から変わっていない。初めて会ったのは、ぼくがこのセカイに来たばかり。この高校の入学式の前日、桜満開の並木道がある坂を上っているところだった。そして、桜吹雪がこちらにやって来るその瞬間、ぼくの目に彼女が写り込む。きれいで長い黒髪に、何とも言えない表情。目の前に現れた美少女に、ぼくは思わず目を奪われた。
 そして次の日に、彼女は再びぼくの目の前に現れる。今度は同じクラスメートとして。入学式で答辞を読み上げる彼女の姿を後ろから見ていた。
「どうしたの?ぼーっとして」
 彼女が顔を近づけてきたのに気づき、はっとなる。
「あっ、いや、やっと授業が終わって、気が緩んだのかな。おれ、ちょっと疲れてるのかも」
 このセカイでは自分のことをおれと呼ぶ。現実ではないからか、口調もやや男らしく、かっこつけた感じに変えてみた。
「早く帰って休んだら」
「いや、大丈夫。今日も風が気持ちいいから、ちょっと眠くなっただけだと思う。もう眠気はないよ」
「確かに。今の季節、ここで昼寝すると、気持ちよさそうだね」
 ぼくは上手くごまかせたことで、ほっとする。ここで彼女に嫌われでもしたら、ぼくの器量では仲直り出来る自信がない。
「どうだろう。授業中居眠りするのだけは我慢してきたから、その反動のほうが正しいのかもしれない」
 ぼくは思わずそんなことを口にする。
「授業は退屈?」
「まあ、ほとんど全部と言っていいかな。受験に必要な科目はもちろんのこと、体育や音楽も得意ではないからな」
 これは本音だ。現実セカイで元々、運動は苦手なほうだし、音楽的な素養は全くといってない。勉強はそこそこ出来るほうだが、それはあくまで進学のために仕方なくやっていたことだ。
「じゃあ、寺山君にとって、何か夢中になれるものは?何が得意なの?」
「夢中になれるもの?得意?……そうだな。……分かんないや、思いつかない。多分、それを今探してるところ」
 夢中になれるもの、得意なことなんて、本当に思いつきもしない。ぼくに何があるのだろう?
「ここはそれなりの進学校だから、勉強はそれなりに得意なんじゃない?」
「たまたま合格出来たんだよ。勉強が得意ってほどのものではないさ」
「随分謙虚だね」
「ただ自信がないだけだよ」
 彼女の表情、そしてここまでの会話の流れから、何やら見透かされているように感じ、ぼくは居心地が悪くなる。
「虚勢を張るよりは、ずっといいと思うけど」
「どうだろう。女の子って、自信がない男は嫌いじゃないの?」
「そんなことはないと思うけど。人によるだろうし、わたしは威張り散らしてる男子よりは、自信なさげな男の子のほうが可愛いと思うけど」
 彼女の表情は先ほどから微笑んだままだが、何か嘲笑っているように見えてきて、ぼくは益々居心地が悪くなる。
「本が好きなのだから、本が夢中になれるものじゃないの?」
「本っていうか、小説を読むのは好きなほうではあるけど、どちらかというと、他に暇をつぶす方法が思いつかないからで、元々は仕方なく読み始めたというのが正しいのかもしれない」
 これは本当のことだ。現実セカイで親からネット依存のことを心配されて、無理やりネット断ちをさせられたことがある。その時、入院先の図書室でぼくは仕方なく一冊の本を手に取った。それがサリンジャーが書いた『ライ麦畑でつかまえて』である。
「仕方なくか。わたしも、もしかしたら、そうかもしれない」
 彼女は遠くの景色を見ながら、何やら一瞬、感慨深い表情を浮かべる。
「本を読むのには耐久力が必要。好きでなければすぐ挫折しちゃう。余程の読書家でも、最初はそれなりに苦戦する。だって、読み始める時、最初は孤独だから」
 何やら意味深な言葉に、ぼくは不安を感じる。それと同時に、これは彼女の心の内面が垣間見えた瞬間にも思え、関係を深めるチャンスだとも取れる。しかし、ぼくには不安のほうがまさっていた。
「確かに。最初は本を読むのは嫌いだったかも。マンガやアニメのほうが入りやすいからね」
「そう。絵や映像のほうが受け身で楽だから。でも、今になってみると、目で入ってくるものが、邪魔になってくる感じがする。何だろう。ノイズが入ってくるような。だから、文字から読み取って、自分の頭の中で思い描いたセカイのほうが、居心地良く感じられる気がする」
 これにはぼくも同感だ。いや、彼女から言われて、自分が本を読んでいる理由を再認識した気がする。
「現実が嫌いなの?」
 ぼくは思わず彼女に訊いてみた。
「どうだろう。……分からない。多分、嫌いってことはないと思うけど」
 彼女は今まで以上の微笑みを、こちらに向けた。でもぼくには、彼女が何やら取り繕ってるように見えた。
「こっちも訊くけど、寺山君は、今の日常。今生きてるこのセカイが嫌いなの?」
 今度はこちらが訊かれる番だ。訊かれて改めて思うが、この問いにちゃんと答えるのはとてもつらい。
「嫌いって……まあ、嫌いかどうかは分からないけど、退屈に感じることが多いかな。多くの時間、学校に行って授業を受けてることが多いから。おれ、勉強嫌いだし。って、前にもこんな会話しなかったっけ?」
「そうだっけ。さっき、同じ質問をしたからじゃない」
 緊張からなのか、何なのか分からないが、どうやらデジャヴを感じたらしい。いや、そうじゃない。彼女を見ていると、前にもどこかで会ったことがある。そんな風に感じてしまうことに、今になってようやく気づいたのだ。
「本の話に戻るけど、藤島さんって、どんな本を読むのが好きなの?」
 話題を変えようと質問したが、この問いこそ以前にも訊いたような気がする。
「まあ、わりと他のジャンルも読むけど、基本は小説。日本の小説だと昔の作家、最近のものだとヤングアダルト系、中高生向けの小説を中心に。あとは海外の作家はよく読むかな。ジャンル問わずね」
「何かおすすめはある?」
「……『百年の孤独』」
 タイトルだけは何となく聞いたことがある。
「どんな小説なの」
「マコンドっていう架空の町が舞台で、ブエンディア一族が滅亡するまでの百年間を描いたお話。ガルシア・マルケスって、コロンビアの作家が書いたの」
 彼女は一呼吸おくと、話を続ける。
「最初読み終わった時、何なのか全く分からなかった。でもね、また読みたいなって思ったの。この小説を読んでいると、とても不思議な感覚になっていく。嬉しいとか悲しいとか、そんな簡単にはっきりするような感覚じゃなく、何て言ったらいいのだろう。それが分からないから、また読みたくなる。そんな物語」
 孤独。この百年に一体、どんな孤独があったのだろう。何て言ったらいいのか分からない、不思議な感覚。ぼくは今、無性に読みたくなった。
「読んでみたいな。『百年の孤独』」
「だったら、今度貸してあげるよ」
 何やら話が上手くいき過ぎてるような気がする。まるで非現実的な魔法が、現実に溶け込んで混ざり合ったかのようだ。
「ありがとう。読むの、本当に楽しみだ」
「じゃあ、寺山君だったら、何をおすすめしてくれる」
 おすすめか。正直言って、何も思い浮かばない。
「う~ん、え~……う~ん、思い浮かばないな。え~と、じゃあ、サリンジャーとか」
「サリンジャーは『ナイン・ストーリーズ』とかも含めて、一通り読んだかな」
 確かに。読書家である彼女なら、当然全部読んでいそうだ。ぼくは途端に恥ずかしい気持ちになり、話題を変える。
「藤島さんってさあ、本を読むこと以外、他に好きなことってないの?」
 急に話題を変えてしまい、会話の流れとしては、とても不自然だ。彼女に嫌われないだろうか。ぼくはさらに恥ずかしくなり、そして不安にもなる。
「そうだね……呼吸。空気を吸うこと。当たり前のことだけど、こうやって思いっきり息を吸って吐いてってやると、わたしって、生きてるんだなあって、実感するの。とても幸せなことみたいに」
 そんな風に思うなんて、考えもしなかった。彼女が言うように、呼吸なんて本当にごく当たり前なこと。それが幸せみたいに感じられるなんて、ちょっと自分には想像出来ない。
「あっ、そうだ。わたし、実は小説を書いているの」
「へぇ~、そうなんだ。ちなみにどんな小説」
「『自由な呼吸を求めて』ってタイトルの小説。初めて書いた小説で、書いたのもこれ一作だけなのだけど」
 先程の会話といい、この小説のタイトルもかなり意味深だ。ただ、彼女を攻略するうえで、彼女の心の内面を知る絶好の機会を得たと言える。自分の読解力に自信は無いが、何としても読み解きたい。
「読んでみたいな」
 ぼくがそう言ったら、一瞬どことなく、彼女の顔に嫌悪とも恥ずかしさとも取れる表情が表れる。彼女のこんな表情は初めてだ。そして、彼女は黙ったまま、遠くの景色を眺めている。もしかしたら、地雷を踏んでしまったのかもしれない。でも、話を持っていったのは彼女のほうだ。ここに来て最初の試練が訪れたように感じる。彼女を攻略するためにも、引き下がるわけにはいけない気がした。
「読んでみたいな。せっかく小説書いてること話してくれたのだから、読んでみたいよ。気になるタイトルだし」
 上手く言えたと思えないが、彼女はぼくの言葉に口を開く。
「ごめんなさい。本当は言うつもりはなかったのだけれど、話の流れでつい。……本当は見せたくないのだけど……稚拙な文章……だけど、それでも大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」
「分かった。今度、これも一緒に持ってくるよ」
 そう言うと、彼女は再び微笑んでみせる。良かった。どうやら彼女の機嫌を損ねずに済んだようだ。
「ありがとう。楽しみにしてる」
 ぼくはそう言うと笑顔を見せた。自分の顔が一体どんな風になっているのか、鏡を見ていないため、当然確認することは出来ないが、気持ちとしては、見ていて気持ちのいい笑顔になったつもりだ。
 チャイムが鳴り気がつくと、空は黄金色に変わっていた。日が暮れてきて、そろそろ部活動も終わり、みんな下校する時間帯だ。
「この季節のこの場所、この時間帯に見る、この夕日。夕日を見るのは本当に好き。何でだろう。目の前に広がる黄金の風景に手が届きそう。そう思えるから、なのかな」
 そう言葉を口にしたこの時の彼女こそ、まるで黄金のように輝いていた。同時に儚げな雰囲気も漂わせて。
「今日はもうここまでだね」
 そして、ぼくらはここで別れて、次の日、放課後になり屋上に行くと、フェンス越しに彼女が立っていた。彼女はぼくに近づくと、『百年の孤独』と自作の小説『自由な呼吸を求めて』の原稿をぼくに渡した。
「今日は用事があるから」
 彼女はそう言うと、屋上を後にした。ぼくは詮索することなく、彼女を見送った。
 帰宅すると、誰もいない家の中、ぼくは直ぐ様ベッドの上に横になる。そして、彼女から受け取った原稿を手に取ると、ぼくは読み始めた。
 ある日、主人公が目を覚ますと、みんな顔がのっぺらぼうになっていたという物語だ。顔がはっきりあるのは主人公だけ。全くと言って表情は読み取れないが、両親は何やら主人公のことをおかしな目で見ているように思えるし、外に出るとみんなおかしなものがいるように、のっぺらぼうの顔をこちらに向けてくる。学校に行っても、それは同じだ。先生や他の生徒はもちろんのこと、今まで仲良かった友だちまでが、気持ち悪いものでも見たかのように、主人公から離れていく。この状況に主人公は息苦しさを覚え、家出をする。どこに行ってものっぺらぼうの顔だらけ。このセカイに自分の居場所はないのではないだろうか。そんな絶望を胸に抱えながら、重たい足を何とか前に動かし、息苦しさを感じずに暮らせる場所を見つけるため旅を続ける。といった内容のお話。
 あっという間に読み終わると、ぼくは天井を眺める。読み終わってすぐの感想は、まるでカフカの小説を読んだかのように感じたことだ。『変身』のように不安や孤独感を丁寧に描いている。それはとてもユーモラスに、またとてもシニカルに、そして、とてもとてもリアルな白昼夢を見ている感覚になった。
 恐らく彼女はこれを書くうえで、カフカの影響をかなり受けているだろう。カフカを読んだことがある人なら、誰もがそう感じる内容だった。カフカももちろんだが、ぼくは彼女の小説にとても共感する。現実セカイで生きていて、何となく息苦しさを感じている毎日だった。このセカイに来て、息苦しさは改善した気がするが、でもやはり、完全には拭いきれていない気がする。ぼくはカフカの小説やプロフィールを読んで、カフカ自身、一体どのような孤独や不安を抱えていたのだろうと思うのと同じく、藤島紗華、彼女が抱える心の内側に、より一層興味が湧いた。だが同時に、彼女の深淵に入り込んだら、そこから抜け出せなくなるのではといった不安も感じる。
 いろいろ思い浮かんだ言葉が頭の中をぐるぐる回ると、段々めまいがして気分が悪くなってきた。こんなにいろいろ頭の中で考えを巡らせるのは久々だ。慣れないことをしたせいで、ちょっと疲れたのだろう。ぼくはそのまま眠りについた。
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