聖女の、その後

六つ花えいこ

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後編

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 魔法使いに言われて見下ろした先には、なんと――私がいた。

 いや、正確に言えば私はここにいる。現実として中々受け入れられてはいないが、遥か上空で漂う竜の背に乗っているのだ。先ほどまで捉えられ、拘束されていた処刑台に未だ残っているはずがない。

 しかし、実際に広場には、拘束されたままの聖女がいた。その姿は、まぎれもなく私だ。
 現場は、突如いなくなったはずの処刑人に慌ても、動じてもいない。刑は、滞り無く執行された。

 そう、たった今――
 執行人が持っていた大鎌を振り落ろし、処刑台に磔られていた私の首を刎ねたのだ。

 私は、悲鳴にならない悲鳴を、喉の奥に貼り付けた。あまりの出来事に震える歯がカチカチと音を鳴らすばかりで、声をあげる事さえ出来ない。

 そんな私をたくましい腕が抱き締める。反対隣から、力なくぶら下がっていた手綱を大慌てで掴んだ人物のおかげで、竜の降下は免れた。

 ――自分が死ぬ光景を見た。
 尋常じゃないほどの震えが走る。あまりの出来事に、瞬き一つ出来ずにただ下界を見下ろす。

 飛んだはずの首が、地面に落ちること無くふわりと浮いた。

 かと思うと、そのままキラキラと光の粉になって宙へと消えていったのだ。

 驚きの声をあげる暇もない。
 切断されていた胴体も、美しく輝く光の粒となって虚空に消える。

 その光景は、到底この世の物とは思えない。美しい光となり消えていった私――“聖女”を、その場の民衆は皆、息も出来ずに凝視していた。

 どれだけの間、そうしていただろうか。
 息を飲むには長い時間、まるで広間は静止の魔法でもかけられたかのよう。

 最初に動いたのは、執行人であった。
 自らが首を切り落とした人間が光となって消える姿を、目の前でまざまざと見せつけられたのだ。その驚きは計り知れまい。あまりの出来事に覚束ない足で後退すると、崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
 腰を抜かした執行人を皮切りに、集まっていた民衆にどんどんと波紋が広がっていく。徐々に訪れてくるのは、驚愕と――心底からの恐怖だった。

「……せ、“聖女”様だったんだ」

 一人の人物が、ようやくその言葉を口に出来た。集まっていた者全ての、総意であった。

「聖女だったんだ! 本当に、聖女様だったんだ!!」
「たから俺はやめとけって言ったんだ! か、仮にも聖女様を処刑するだなんて、」
「何言ってんだお前! 昨日あんだけ、『あれはどうしようもない法螺吹き女だ』って酔っ払いながら豪語してたじゃねえかっ!!」
「どうすんだい! 聖女様を、殺しちまったんじゃないだろうね……! 罰が当たったりしたらっ」
「国が勝手にやったんだっ! 俺たちは関係ねぇ! おい! 帰るぞ!」

 慌てふためいている民衆は、蜘蛛の子を散らすように広場を後にした。民衆の動揺を見て正気に戻った騎士たちが押し留める。今、この場から誰一人として逃がしてはいけないことくらい、呆然と成り行きを見守っていただけの私でも、さすがに理解できた。

 執行人、特に鎌をおろした人物は、見て取れるほど全身が震えている。
 気の毒だが、それも仕方ないことだろう。彼は今――物心ついた時からずっと信仰してきた、女神の御遣いせいじょを、その手にかけてしまったのだから。




 そんな光景を、遥か上空から六人と一体が見守っていた。

「あれは?」
 後尾から二番目に座っていた、青白い服をきた年若い男の子が、最後尾の魔法使いを振り返りつつ尋ねる。その問いに、魔法使いは素直に答える。

「幻覚。風で視界を塞ぎ、幕を覆った。感触、匂い、鼓動、全て存在する、幻覚。それを国中の人間に施した。サオトメヒジリが、そこにいる幻覚。光となって、消失する幻覚」

 そして、早乙女聖は執行人の意思により処刑され、光の粒となって消えた。天にまします全ての女神の御許に還るように。

 見せられた民衆は、堪ったものじゃないだろう。

 半ばから別世界の出来事のように眺めていた私は、とっくに瞬きも出来るようになっていたし、体の震えも止まっていた。

 そして、今更ながらに抱きしめられていることに気付いて顔を上げる。無表情な冷たい視線を持った見張り兵……もとい、魔王討伐の立役者、伝説の勇者様がいらっしゃった。

 強く抱きしめている腕に頬を染める程純情ではないが、久しぶりの男性の温もりと匂いにトキメキを覚えないわけではない。特にこんな状況だ。
 わかりやすく現代風に言うなら、ジェットコースターロマンスだ。お化け屋敷ラブだ。ゲレンデ効果だ。

「私を、助けてくださったのですね」
「余計な世話かと慮ったのですが、どうしてもお助けしたく――昨夜お許しを得ようと馳せ参じましたところ、救出に拒否されなかった為実行に移しました」

 淡々と告げられる言葉は平坦なのに、熱を感じる。
 確かに、昨日そのような会話をしたかもしれない。今際いまわきわの慰めだと思っていたが、まさか本当に助けにきてくれるなんて――逃げ出す手はずを整えてくれるなんて、思ってもいなかった。

 それも、伝説の勇者様ご一行が。

 国の機関が定めた処刑から逃げ出すなんて、一体誰が考えつくだろうか。少なくとも、25年間平成の日本で生まれ育ってきた私には無理だった。
 そんなものは、映画やドラマの中だけの出来事で、実際に自分に起こるなんてゆめゆめ思いもしない。

 ああ、そうか。これは現実だけど、ファンタジーな世の中だった。
 私は唐突に今、現状を理解した。

 この世界には、剣と魔法があるし、王もいれば幻獣もいる。
 女神に祈りを捧げる為に三番目の鐘の時刻では絶対に手を止めて膝を折るし、王の指の動き一つで人が殺される、そんな世界なのだ。

 そして、そんな世界は、強さで全てを手に入れられる。
 世界中からの歓声も――よく聞く、富も名声も、世界の平穏も、一人の人間の身柄さえ。

「魔法をかけたのは、千年に一人の鬼才と恐れられる希代の魔法使いです。絶対に幻覚だと露見することはありません。万が一にも露見した場合は、貴方に危害を加えようとする者全て、打ち払います。千の兵が来ようとも、万の兵が来ようとも、決して貴方の視界に入れる事無く消し去ります。必ずや守りきってみせます」

 絶対の力を持つ、絶対の自信がある者だけが出せる、確信に満ちた声。私は、あまりの告白に息すら止めて、勇者を凝視していた。

「貴方はもう、世界も国も魔王も関係ない。ただの、サオトメヒジリ様です」

 その言葉に、堪えていた涙がどうしようもなく溢れ、一粒、二粒と雫となり、日の光に輝きながら落ちていった。




 召喚された偉業の結晶じゃない。
 国を救う為の“聖女”じゃない。
 “聖女”を騙__かた__#った大罪人でもない。

 ただの、早乙女聖に戻れる――そう思ったら、どうしても涙が止まらなかった。

 戻りたくて戻りたくて、でも誰にも言えなかった。自分でも気付いてなかった、本当の気持ち。

 私は、私に戻りたかった。

 約束したから責任を果たしてたんじゃない。居候させてもらってるから仕方なく神殿の手伝いをしてたんじゃない。他人に認めて欲しいから頑張ってたんじゃない。
 名前なんて、呼び方なんてどうでもよかった。

 ただ、早乙女聖だと、自分で自信を持って叫べるだけの確証が欲しかった。安心が欲しかった。私でいていい、場所がほしかった。

 求めて呼び出したのなら……せめてこの世界に、居場所がほしかった。

 早乙女聖を、この世界に求めてほしかった。

 私は、この世界に、人に――早乙女聖として、必要とされたかった。

 どうせ帰れるのだからと虚勢を張って、勝手に呼び出したくせにと彼らを真っ直ぐ見る事すらせず、生意気な虚栄心だけは一丁前で。

 それでも私は心の底では求めていた。

 彼らが、“聖女”じゃない“私”を求めてくれる日を。けれどそれは結局、最後の最後まで訪れる事無く、心の奥底に隠していた希望と共に光となって、彼方へと消えていってしまった。

 その粒を、私ですら途方もなく感じてしまうほどの沢山の粒たちを、一つ一つかき集めて、抱き込んで、優しく守りながら、彼は真摯な瞳をぶつけてくる。どんな風にも、もう二度と散り散りにさせないように包み込んでくれながら、無表情な冷たい視線を持った彼は優しく、けれど限りないほど、情熱的に求めてくれた。

「どうして、」
 訳がわからなかった。聖女として接してきた人々では絶対にくれなかった言葉を、ただ一度会っただけの彼が言ってくれる事が、どうしてもわからなかった。

「どうして、とは何についてか伺っても宜しいでしょうか」
「全部です。どうして、助けてくれたんですか。どうして、」

 もう利用価値もないはずなのに――優しくしてくれるんですか。

 弱い私に、相変わらず無表情な彼は、冷たい視線のまま淡々と告げた。

「救われたからです」
「え?」
「私は、貴方に救われたのです」

 先ほどまでの流暢な語りが嘘のように、端的な言葉しか口にしなかった彼に、首を傾げることで意思を伝える。

「おーい、言葉を足してー」
「それじゃ伝わりませんよ勇者さんっ!」
 狭い竜の上で成り行きを見守っていた面々から声が上がった。そう言えば、いつの間にか忍者さんは船首に移動していて、竜の首につけられた手綱を握りしめているし、勇者さんは私の前に座り、不安定な体を支えるように体ごと抱きすくめてくれている。そしてそれを、勇者一行が眺めている。

 ようやく状況を把握した私は、恥ずかしさのあまり頬を染める。体をねじって、彼の体と少しだけ隙間を作る。

 彼は、全ての怒りをぶつけるようなオーラを纏いながら、忍者さんを振り返った。本当にありがたいことに、その視線を受けるのは私では無く忍者さんだった。今、両手が自由だったら、蒼白な顔をしてこちらに助けを求めている忍者さんに向かい、両手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えていたことだろう。

「まじ勘弁してー! お前さんの眼力だけで本気でおっ死んじまいそうなんだよねぇ。俺。まぁ、俺が伝えてもいいけどさー。その場合彼女には俺の言葉として伝わるからな。怒るなよ?」

 忍者さんのため息交じりの説得を聞いた勇者さんはしばらく考えた後、ゆっくりと私に向き直して、その重い口を開いた。

「……世界を、救えと――魔王を倒せと。どの国、どの神殿に赴いても、言われてきました。お前達には、その力があると……ですが、魔王の滅――世界の安寧……平和、ではなく。この身の無事を……この身を案じてくださったのは、貴方が、初めてでした……とても――……嬉しかったのです」

 先ほどの方が、余程こっぱずかしい台詞だったと思うのだが。絶対に助けるだの救うだのとはスラスラと言えたのに、と私は目を丸くした。

 しかし、こんなにも言葉を探しながら、自分の気持ちを表現してくれたたどたどしさに、胸が高鳴る。私は勇者さんの目を、真っ直ぐに見つめ返した。

「貴方は、それを特別なことだと思ったのですね。私の心が広く、清いからだと。ですが、それは……」

 あんなにも言い難い事を、一生懸命言葉にして伝えたくれた彼に報いたくて口を開く。彼が私に失望する恐怖を見つめると、紡げなくなりそうだったため、一息で続ける。

「それはきっと、私には現実味がなくて。明日の未来さえわからない、そんな生活をしていなかったからです。この世界で、自分の立っている場所の認識がとても薄かったからです。いつ今日が終わるかわからない――皆のように、そんな恐怖と戦っていれば、余裕もなく縋っていたことでしょう。私は、立場が違っただけです」

「ですが、あの時貴方は祈ってくれた」

 真摯でまっすぐな目は、冷たさの中に熱く燃える意思を持っていて、見つめる私を溶かすようにじっと見つめ返す。

「貴方だけが、祈ってくれた」

 その一言に、彼の気持ちの全てが詰まっていた。辛いことを吐き出すかのように顔を顰めながら告げる声は、淡々としたものなのに、少しだけ震えていた。

 私は、どうしようもなく胸が詰まって、痛みをこらえるように両手で押えて蹲った。

 ――私の祈りは通じていたのだ。
 あんなに拙かった祈りでも、彼の力となっていた。彼の心を支えれていた。

 こんな風に、祈りとは届くのだろう。
 嬉しかった。どうしようもなく感謝の気持ちが溢れた。
 毎日祈りを捧げ続けてきた女神様に、心からの感謝を贈る。ありがとうございます、ありがとうございます――堪え切れない喜びが、全身から溢れ出さないように身を丸め、必死にそう繰り返した。

「お加減が?」
 突然身を屈めた私を不審に思ったのか、堅い声が聞こえ、慌てて背を伸ばした。その顔は相変わらず無表情で、なんとも感情を読み取れない。しかし、これだけは信じられた。彼は、私に真意以外をぶつけてこない。

 彼が何らかの思惑や義務から動いているわけではないことがわかり、私は自分が思っている以上に安心していることに気付いた。
 国中の人間に非難された後なのだから、誰にどれだけ嫌われようとも痛くも痒くもないはずなのに――彼に嫌われたくないと、強くそう思っている自分に驚く。

 あんなに震える声で自分の気持ちを伝えてきてくれた彼に。嫌われたくないと、強く。

 私は昨日と同じく、感謝の気持ちを伝えるために、顔を上げて精いっぱいの笑みを彼に向けた。どうしても、この気持ちを伝えたくて、出来る限りの笑顔を向ける。

「ありがとうございます。助けていただいて、私の事を、大事に思ってくださっていて。ありがとうございます」

 私の言葉に、勇者さんは一瞬無表情の顔を硬直させた。本当に一瞬の出来事で、人の機微に詳しいわけでもない私はそれをなんとなくしか読み取れなかったが、後ろにいた勇者一行の人たちは違ったらしい。彼らが驚きにざわめいたのを、肌で感じた。

 彼は強張らした表情筋をすぐに元通りに戻すと、私の両手をそっと取り恭しく礼をした。
 それは、絵本の中の騎士がお姫様にするような儀式で。
 そんな場面に自らが直面するなんて考えたことすらなかった私は、思わず凍り付く。

 唖然としていた私は、顔を上げた勇者さんの視線の鋭さに、真剣さに、まるで視線の刃に刺されたような印象を受けた。

 彼は、その真摯な視線を向けたまま口を開いた。

「剣を握るので指は硬いはずです。長さがお気に召すかはわかりませんが、足りないならば精進します。御子の事もご安心ください。試したことはありませんが、近親にそういった病の者はおりませんので、子種はあるはずです。夜伽も貴方が満足なさるまで頑張ります」

 なにを言われているのかわからず、一瞬頭が真っ白になった。

「酒も貴方の望むものを望むだけ手に入れます。テレビというものが何かは未詳ですが、必ず代わりのものを用意致します。ネンシューというものも、貴方より勝ってみせます。彼方の世界に貴方が置いてこざるをえなかったもの、全ての代わりになります。身を粉にして尽くします。ですからどうか、この命尽きるまで、私の傍にいて下さい」

 何も考えれない頭の中身をそのまま映し出したかのように、私の顔は驚愕を表現していた。
 見開いた口に閉まらない口。人前で、開けたことがないほど顎を落としていた。

 とりあえず、突拍子もないことを言われていること。そして、こんな状況で、しかも人前で言うことじゃないことを言われている……ということだけは理解した。

「いや――助けてくれたことに、そんなに責任を感じなくていいんですよ?」

 ショックから立ち直ると、首を横に振りつつ、彼に落ち着くように制しながらそう言った。

 神殿で洗礼を受けた当時、彼は15歳の少年だった。

 洗礼の時に会っただけの勇者さんのことを、私はずっと成人男性だと思っていた。世界を救おうという勇者様なのだ。そうであって然るべきだと――大人の私の勝手な思い込みも相まって、そう信じて疑っていなかった。

 その彼が未成年――どころか、義務教育中の、まだ守られるべき子どもであるなどと、どうして信じられただろう。

 その話を聞いた時の衝撃は、未だ忘れていない。そんなにも若い少年が、世界を救う過酷な旅に耐えねばならないことに、心の底から悲しみを覚えた。

 だというのに。

 世界中で誰よりも大きな苦難を乗り越え、どんなものでも手に入る彼が今、信じられない言葉を私に投げかけている。
 責任なんかに縛られる年でもなければ立場でもない。彼は今から選り取り見取りの左うちわ、なんとか大王も真っ青のハーレムを築けるお人なのだ。

 こんなおばさんの一言に感謝し、助け出してしまったからと言って……責任を感じてはいけない。取ろうと思ってはいけない。思春期にありがちな一時の感情で、一生の誓いを果たしてはいけない。

 彼は、その時の年齢にありがちな年上の異性への憧れを、そのまま大事に抱え続けていたのだろう。私が想像することしか出来ない過酷な旅の中、彼の言う通り私との思い出が心の支えになっていたのかもしれない。その記憶が強すぎて、憧れが恋心だと錯覚してしまったのだろう。

 思春期にありがちな、一時的な熱情だ。

「今、いや、と……」

 この世の絶望を全て背負い込んだかのような顔をした勇者さんが、深い失意の底に沈んでしまった。

 そんな彼にかける言葉が見つからなかった私は、口を開いたり閉じたりを繰り返しながら彼に生気が戻るのをひたすら待った。

 振ったことは誤解だが、結果的に振ってしまえてよかったと思っているずるい30歳の私がいる。もう一度仕切りなおすのは可哀想だから、なんて言葉で蓋をしながら、その実、もう一度あの熱を込めた瞳で見つめられながら求婚されて、頷かない自信がなかっただけの、ずるい大人だ。

 痛みに耐えるような視線をお互いに向けながら、沈黙を続ける私と勇者さんの周りから、のんびりとした会話が紡がれ始めた。

「勇者さんがこんなにお話したところ、僕、初めて見ました」
「相槌以外も話せたんだな」
「昨夜も傑作だったしねぇ」
「へぇ、どんなことがあったの?」
「それがねぇ――」

 話し声は次第に早く大きくなり、青く抜けるような大空に、楽しそうな笑い声が響いた。
 その笑い声に釣られるように竜が咆哮し、その嘶きは広い空へと溶けていった。



 ――そしてそれから四年の月日を迎える頃。

 かつて“聖女”と呼ばれた女は、母となった。




 終わり
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