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番外編

泣き虫ポチの冒険

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「ただいま~」
 玄関のドアを開けるや否や、私は右足で左足のローファーを脱ぎ捨てて家の中に転がり込んだ。バタバタと階段を駆け上がる時にお母さんの『おかえり~』というのんびりした返事を聞いた気がするけれど、それに頓着することなく軽快な足音を立てて一段ずつ登っていく。

 二階にある自室を通り過ぎ、父の書庫のような、物置のような場所のドアを開けた。母によって綺麗に掃除がされたその部屋は、私が足を踏み入れるのが数年ぶりだとしても埃一つ舞うことはない。
 私は硝子戸の付いている大きな本棚の扉を開けた。カチンッという音を立てて開いた本棚から、古い本特有の匂いが広がった。

「たしか、ここらへんに…」
 どこだったっけかな、と一つ一つ背表紙のタイトルを確認しながら目で追っていく。『全く、お母さんに似てせっかちに育ったのねぇ』と日に何度も言われてしまうのも頷けるほどせっかちでうっかり屋な私は、同じ本の並びを3度確認してようやく目当ての本を見つけることができた。

 薄くて少し大きなその本は、父の読むしっかりとした固い本の中で異彩を放っていた。
 父が持つ本にしては可愛らしすぎるその本の表紙には、ぽろぽろと涙を零している子犬の絵が描かれている。

「あったあった!“泣き虫ポチの大冒険”!」
 懐かしい~!とつい呟きながら、パラパラとページをめくる。
 残念ながら美術は万年あひるが並ぶ私にとって、この挿絵がどれほど上手いのかはわからない。物語を読む分には支障がない程度の絵が付けられたその絵本を、小さな頃の私は母にせがんで何度も読んでもらっていたものだった。

 通っている高校の文化祭の出し物で、うちのクラスは劇をすることになった。
 どんな物語がいいか明日までに一人一つ案を持って来て、なんて無茶苦茶な実行委員の言葉に涙目になった私は昔よく読んでもらったこのお話を思い出したのだ。
 高校生の文化祭でするには少しばかり幼い内容かもしれないが、一人一案のノルマとしてはセーフだろう。

 パラパラと無造作にページを開いていた手を止める。むむむ、と唇を尖らせて首を捻った。
「そいやこの本、書店で見かけたことがないんだよねぇ」
 いくら薄いとはいえきちんと本の形を成しているし、後ろにはきちんと『蘭書房』と出版社の名前も刻まれている。あれ、そういえばバーコードや値段が書かれていないけれど…と更に首を捻る。
 捻りすぎて首が肩についたあたりで、私はにぱっと笑った。
 考えてもわからないものはしょうがない。またもや母から譲られた頓着のなさで、私はその薄い絵本を開いた。



 ―――むかしむかしのその昔。本当にあったかなかったか。とある犬がおりましたとさ。
 その犬は名前をポチといい、大層泣き虫なことで有名だったといいます。
 ポチはその名から連想されるように、とても平凡で、真面目で、それでいてものぐさな犬でした。毎日真面目に働き、よく食べ、時に怠け、きちんと眠りました。
 ポチはリードに繋がれた道を、ただひたすらにせっせこ歩み続けておりました。

 そんなある日のこと。

 ポチにとても悲しいことが起きました。
 大好きで大好きで、とても大切にしていた物を壊してしまったのです。ポチはリードで引っ張られることに慣れてしまい、ついには目を閉じて前を歩いていたせいでした。

 自分の怠慢と、慣れてしまった日常に対する驕りで大事なものを失ったポチは、毎日泣いて暮らしました。泣いて、泣いて、泣いて、ポチが気づいたときには辺りに涙が溢れ、湖が出来ていました。

 虹は、湖から咲くといいます。
 ポチの涙でできた湖から、虹の橋が架かっていました。橋はなんと、剣と魔法がきらめく冒険の世界へと繋がっていたのです。
 その橋はポチを誘います。ポチはその橋に導かれ二次の世界へと旅立ってゆきました。

 剣と冒険の世界は、不思議なスリルとリアルに満ちていました。
 目を焼かんばかりの眩しい太陽、肌を溶かさんばかりの灼熱の砂漠。心の軸を失ってしまわんばかりの孤独。
 見渡す限りの視界には、人も木も水も。なにもありませんでした。
 ポチは世界で一人きりになってしまったような寂しさを感じました。
 いえ、現にポチはその時、その瞬間。世界に一人きりだったのです。
 ポチ以外には誰もいない、広い砂漠という世界。砂も、雲も、空も、空気さえも。なにもかも、ポチにとってはよそよそしく、全く知らない世界のものでした。

 ポチはあまりの孤独に涙すら出せませんでした。
 広く深い闇はビロードの布のようで、ポチを優しく、けれど執拗に包み込もうとします。
 冷凍庫に入れられた水のように。蓋を開けたまま放置してしまったマニキュアのように。ポチの心と体は、心細さに固まってしまいそうでした。

 その時。
 砂漠の砂に飲まれ、夜の波に溺れそうだったポチを引き上げる者達がいました。


 雲の賢者。ぬばたまの王。

 歪な魔女に、太陽を捕らえた狼。

 そして聖なる騎士でした。


 雲の賢者は、鏡を取り出しました。
 ―――己の顔を見てごらん。なんて不細工な顔だ。こんな不細工は見たことがない。その不細工な面に免じて、お前に知恵を授けよう。


 歪な魔女は、美しく笑いました。
 ―――この世にこんな泣き虫がいたなんて。毒りんごを食わせるまでもありゃしない。この小瓶が満杯になるまでお前の涙を集めたら、さぞ特別な魔法ができることだろう。


 太陽を捕らえた狼は、尻尾で掃いました。
 ―――脆弱だ。貴様はあまりに貧弱だ。我が牙に噛まれることを恐れぬのなら、尾に掴まることを許してやろう。


 ぬばたまの王は、剣を差し出しました。
 ―――つけた刃は脆く拙い。だがその身を守る棘程にはなろう。


 聖なる騎士は、鎧を授けました。
 ―――これは其方の身を守るだろう。けれど心までを守るには少しばかり心許ない。我が盾を持って、其方を守り慈しもう。


 泣きはらした顔は笑顔に変わり、零した涙は美しい指で拾い上げられました。冷え込んだ体はふかふかとした毛皮で包まれ、この世界を歩くための爪と衣で、いつしかポチは立派とは呼べないにしろ、そこそこ、この世界を歩けるようになっていました。


 世界の条理に慣れてくると、ポチにも余裕が生まれました。元の世界へ戻りたい。ポチは縋る思いで博識そうな賢者に問いかけました。

 ―――賢者さま、私は元の世界に戻れないのでしょうか?
 ―――君の望みは空に瞬く星のように果てしない。けれど星を掴めるかどうかを議論することに意味はない。

 ポチは元の世界に戻るために、旅に出ることにしました。
 けれども向かう先が分かりません。ポチはこの世の何もかもを知っていそうな魔女に質問をします。

 ―――魔女さん魔女さん、この世界の終わりはどぉこ?
 ―――さぁてねぇ、私が知ってるのは…。希望を閉じ込めた塔くらいなもんさ。運が良ければ、長い髪を下ろしてくれることもあるかもねぇ。

 希望が詰まる塔とは摩訶不思議。ポチに理解は出来ずとも、魔女の指さすその方向へ進むことへ決めました。
 けれども今度は、自分一人で行けるのかとても不安になりました。ポチは一番強そうな王様に尋ねました。

 ―――王さま、私は歩いてゆけるでしょうか?
 ―――六つ重なる影ならば恐れることはないだろう。

 王さまは迷うことなく手を差し伸べてくれました。
 その手を取ろうとして、ポチは自分が何も持っていないことに気づきました。彼らの好意に、返せるものが何もないのです。
 ポチはポロポロと涙を零しながら狼を見つめました。

 ―――力強く気高い狼さん、私に力を貸していただけますか?
 ―――尾だけで飽き足らず我が牙まで求めるか。貴様の強欲はいつしか破滅を呼び寄せるだろう。だが破滅の足音よりも早く、我が足は空を駆ける。この背に貴様を乗せるぐらいわけもない。

 狼の天邪鬼な言葉がしばらくわからなかったポチも、触れる尾の暖かさはわかりました。ポチは依然として巻かれたままの尾に顔を埋めると堪え切れない笑みを零しました。

 知恵を、道を、力を、勇気を。

 全てを上げ膳据え膳で用意してもらったポチは、自らの両手をもう一度見ました。剣を握るにはそぐわない肉球がぽよんぽよんとついているだけの、何もできない甘やかされた手がそこにはありました。
 ポチは一度大きく息を吸い込むと、意を決して大きな大きな騎士さまを見上げました。

 ―――騎士さま、私は貴方がたを守れますか?
 ―――其方には其方の役目がある。私に春の風を届けておくれ。剣では花は芽吹かない。

 動物好きな騎士は全身を撫でポチを甘やかしました。耳をくすぐり、背中を撫で下ろし、これでもかというほど喉を鳴らさせます。
 肩透かしを食らって意気消沈していたはずのポチは、いつしか脱力するように地に四肢を投げだし、白い腹を見せながら全身の力を抜いていました。騎士の撫でテクニックに完敗してしまっていたのです。

 そのポチを見て、全員が笑いました。
 その笑顔を見て、何の役にも立たないと思い込んでいたポチは自分の役目が少しだけわかりました。

 ポチ達はそれぞれの役目を抱えて旅立ちました。海を越え、森を越え、いくつもの苦難を乗り越えてきました。
 いえ、ちょっと大げさに言いすぎましたね。お盆の帰省渋滞の最中におトイレに行きたくなる程度の危機を、いくつか乗り越えてゆきました。

 明けても暮れても歩き続け、月の光を受けて光り輝く塔を見上げた、その時―――



「―――ちゃん、…あら、寝ちゃってたの」
 帰ってきたと思ったらリビングに顔も出さずに二階へと駆け抜けた娘を探して、母は物置の戸を開けた。書庫としても使っているため、古い本棚には大量の本が理路整然と収納されている。持ち主の神経質さを伺わせるような本棚に、背をもたらせて眠る娘に母は頬を緩めた。

「また懐かしいもの読んで…。眠るときにいつもせがんでたから、読んでるうちに眠くなっちゃったのね」

 一度物置を離れ、持ってきたブランケットを母は娘の肩にかけた。膝で開かれたままになっている絵本という名の薄い本は西日に照らされ煌々と光っている。そっと、大事な宝物に触れるようにして母はその本を手に取る。そして、娘の開いていたページをそっと読んだ。

「そのポチを見て、全員が笑いました。その笑顔を見て、何の役にも立たないと思い込んでいたポチは自分の役目が少しだけわかりました。」

 本をなぞるその指先の優しさに、母の声が震える。

「何度も何度も、ここでクイズを出したよね。…もう高校生だから、わかるかな」



 頭もよくない、心も強くない、魔法も唱えられない、なーんにも持っていないポチが手に入れられた、とってもとってもすごいもの。

 さて、なーんだ。







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