泣き虫ポチ シリーズ番外編置き場

六つ花えいこ

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それから、これから

5話

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 いつの間にか約束の土曜日になっていた。
 いつものように夕さんが車で迎えに来てくれた。そのまま二人でスーパーに寄って、あらかじめ伝えておいたレシピの材料を買っていく。
 二人で並んで材料を選び、籠の中に商品を入れていく。
 たったそれだけなのに色々と気恥ずかしくなって、私はろくに夕さんの顔さえ見れなくなっていた。

 お弁当作りの特訓はすぐに始まった。夕さんは隣で同じ操作をしながら、私が混乱しないようにゆっくり、ひとつずつ教えていってくれた。
 こういう事を面倒くさがりそうな夕さんに、始終申し訳なさが付きまとう。

 けれど夕さんは、一度だってそんな素振りを見せずに、失敗する私に根気強く何度も付き合ってくれた。
 お昼ご飯にするはずだった料理は、結局晩御飯になってしまった。作りながら幾度と重なる味見で既に鱈腹だったが、二人で必死にお腹に詰め込んだ。

 台所のお片づけをして、お茶でも入れようと茶器を探すが見当たらない。そういえばここはミネラルウォーターのお家だもんなぁと納得する。
 これはいよいよハーブティなんて送っても邪魔になるな―――と苦笑しながら外を見ると、窓の向こうは真っ暗闇に包まれていた。

 夜は、その日の内に夕さんに家に帰らされる。私はいつでもお泊りできるように、必要最小限の物は大きなカバンにそれとなく潜り込ませている。けれど、今まで一度もそれを使う機会はなかった。



 カーテンのレースをくぐり、ガラス窓に額を押し当てる。ぼんやり窓の向こうを見ていると、夕さんがいつの間にか隣に来ていた。
 夕さんも、レースの中に入ってくれている。申し訳なさに、慌てて外に出ようとするのを止められた。

「何見てたんだ?」
「えっと」
 夕さんの家に如何にして泊まれるかを考えるのに夢中で、外の景色なんてひとっつも見ていませんでした。とは言えずに口籠る。そんな私を見て、夕さんが眉根に皺を寄せる。

「愛歩」
「はいっ」
 名前を呼ばれると、いつもビクリとする。嬉しさと、驚きと、戸惑いで。夕さんが隣にいる奇跡に、まだ慣れない。

 夕さんは慌てて振り返った私の頬をそっと大きな手のひらで包んだ。お、お。ちゅーいきますか。ちゅー!ちゅーいったら、次はえっち、いけますか?今日こそいけますか?
 私はそっと目を閉じて薄く口を開いた。触れ合う唇に、よっしゃと心の中で拳を握る。このまま、きっと雪崩れ込めるはず。

 夕さんが何度も唇の角度を変えて口づけてくれる。それに応えるように、私も夕さんの唇に積極的に吸い付いた。
 夕さんの唇の温度に温度を合わせるように、柔らかさを共有し合えるように、くっつく唇を意識しながら、手を伸ばして夕さんの襟足を撫でた。

 指の腹で、じょりと毛を逆撫でる。
 それだけで、私の体にぞくりと甘い痺れが伝った。

 もっと、もっとと夕さんの唇を啄む。柔らかい内唇を舌で舐め、甘噛みする。無意識の内に擦り付けていた下半身を強調するように抱き付いて、夕さんの目を覗きこんだ。

 夕さんの目が、蜃気楼のように揺らいでいる。顰められた眉にキスをして、視線に私の気持ちをのせる。ねぇ、ねぇ。しましょう。いいでしょ、ねぇ。ねぇ。ほしいの。夕さんがほしいの。

 自信が、ほしいの。

「あゆ―――」
 み、と夕さんの掠れた声が告げる前に部屋に電子音が鳴り響いた。夕さんは一瞬にして顔を大きく歪め、一息つく。私をぎゅっと抱きしめた後、忌々しそうに携帯に向かって歩いていった。

「もしも―――どうした」
 不機嫌そうな顔は、電話口の声を聞き一変する。私に『悪い』と手を挙げると、寝室に入っていった。
 仕事の電話なのだろう。堅い声で、あれやこれやと話し合っている。私は地べたに座り、ソファの座面にしなだれた。

 あぁ、今日もだめだった―――。

 一体いつ、私が逃げないってわかってくれるんだろう。それともやっぱり、夕さんにとって私はもう…考えれば考えるほど深みに嵌っていく。ダメ、そんなことないって。考えちゃいけないってわかってるのに、どうして思考の闇は抜け出せない。

 しばらくして寝室から出てきた夕さんは、申し訳なさそうな顔をして謝った。
「悪い。明日仕事になった」
 なんとなくわかっていた言葉に、私は出来るだけ目一杯の笑みを返す。

「お疲れ様です。お仕事頑張ってくださいね!」
 励ますようにそう言えば、夕さんは一瞬固まり、何故かとても苦しそうに笑った。



***



 次の日の日曜日は丁度いいとばかりに夕さんへのクリスマスプレゼントを買いに走った。

 あれから色々考えて、天然成分の精油と、ディフューザーをプレゼントすることにした。
 ディフューザーも小ぶりのものにすれば場所も困らないだろうし、何かあれば捨てるのも簡単だろう。少なくとも、ペアのカップを贈るよりも私にとっては簡単だった。

 贈り物は金額ではないとわかっていても、やはり気になる部分である。あまり安物は渡したくなかった。
 スティックタイプのフレグランスはスタイリッシュなものが多く、こちらのほうが夕さんの部屋に合っているんじゃないかと唸る。
 気分によって楽しむ香りを変えてもらえるようにすべき?それとも香りは一種類にするべき?でもそれって、私の香りを覚えてくださいって言ってるようで鬱陶しくない?重くない?私は商品の前で、飽きもせずうんうんと唸り続けた。

 結局、コードレスタイプでスタイリッシュなディフューザーを見つけ、それを購入することにした。見ていたどの商品よりも小ぶりで、大型のスマートフォンぐらいのサイズだった。これなら、邪魔になったら処分も容易いだろうとほっと息をつく。

 精油は迷った。一種類では意味深に感じるが、あまりたくさんあっても男性は面倒くさがるかもしれない。夕さんを思い浮かべながら香りを選ぶのは、心底楽しかった。
 こんな幸福が、ずっと続けばいいのにと思わず願ってしまうほど。

 清涼感があり男性に好まれるティーツリー、夕さんの家のシャンプーの香りだったイランイラン、そして。あの湖での香りをもし覚えていたら…と思い、オレンジスイートの香りを。

 意味深にとられることを避けたくせに、そっと“過去の自分”を潜り込ませる己の浅ましさに、会計をしながら自嘲が漏れた。

 商品を受け取り、店を出てすぐに携帯が鳴った。ほんのりと薄暗くなっていく街の中で、一人鞄をごそごそと漁る。
 彼専用の着信音のおかげで、見つけた携帯のディスプレイを見るまでもない。

「はい」
『今、忙しいか?』
「いいえ。夕さんにふられて寂しくって、一人で街をウロウロしてただけですから」
 冗談交じりに伝えれば、何故か電話先の夕さんがほっとした息を吐く。 

『今から会えるか?』
「え!お仕事、終わったんですか?」
『あぁ』
「会いたいです。今ね、えっと―――」
『愛歩、後ろ』

 え、と振り返ると通勤服に身を包んだ夕さんがすぐそばに立っていた。私は携帯を耳に当てたまま、くしゃりと笑った。

「今日はもう、会えないのかと」
「急いで終わらせてきた」
 電話越しじゃない生の声で夕さんがそういうと、私が持っていた携帯を取って通話終了の操作をした。そして私の鞄に勝手にポイすると、冷えた私の手を取ってゆっくりと歩き始めた。

 夕さんの背中に飛びついてぎゅーとくっつきたい気持ちを、ぐっと堪える。

 だめだめ、そういうのは。夕さんにはしちゃいけないんだ。



***



 夕さんとご飯を食べる時、申し訳なくなる時がある。
 フグのお鍋や、アワビのステーキ、関サバのお造り。お肉よりお魚のほうが好きだといった私の言葉を忘れずに、美味しいご飯に沢山連れて行ってくれる。

 もちろん毎回ではないけれど、予約が取れたときは夕さんの知ってる美味しいお店に連れてきてくれるのだ。
 それが、彼のプライベートな柔らかい場所を垣間見せてくれているようで、とても嬉しい。

 しかし、今日のようにお会計を席でするお店なんて初めてで、私は緊張のあまりに咄嗟に悲鳴と財布を出してしまった。
 目を丸くする夕さんとお店の人は、だけども柔らかく笑ってくれた。
 夕さんが出したお金を小さなお盆で受け取り、おつりを持ってくるためにお店の人が襖の向こうに消えていったのを確認して、私は小さく声を出した。

「すみません、恥かかせちゃって」
「お前はまたそうやって…。あのなぁ、俺は笑われたんだぞ」
「す、すみません…」
 顔を俯け、肩を窄める私に夕さんはため息をつく。

「ちがう。素敵な恋人さんですね、と笑われたんだ」

 夕さんの思いがけない言葉に顔が真っ赤にほてるのを感じた。気を紛らわせるために手元にあったお茶を一気に飲もうと口につけて、あまりの熱さにそのままむせる。
 夕さんが驚いて向かいの席からやってきて、背をとんとんと叩いてくれる。

「す、すみま、せ、げっほ…けほ…」
「わかったから、話すな。」
 こういうことが前にもあったことを、咳き込みながら思い出した。オフ会で椋さんにわさびアイスを差し出された時のことだ。あの時、思いがけないほど近くにいた夕さんに私は動転してしまい、収まる咳も収まらなかった。

 今こうして恋人同士になって、二人の距離は確実に近づいたはずなのに。どうしてこんなにもまだ遠く感じるんだろうか。

「落ち着いてきたか?」
 下半身が熱くなりそうなほど優しい夕さんの声に私はこくんと頷いた。

「ご面倒をおかけしまして…」
「面倒じゃない」
 ため息交じりにそういう夕さんに、苦笑を返す。

「あの、とても美味しかったです」
「あぁ」

「連れてきてくださって、ありがとうございます」
「あぁ」

「ごちそう、さまでした」
「あぁ」

 夕さんは、付き合いだしてからこういう顔をするようになった。とろけてしまいそうなほど甘い、優しい瞳。いたたまれずに俯きそうになる気持ちを奮い立たせて、私はこぶしを握る。

「あの、いつもこういうお店じゃなくっても、あの」
 可愛く小首を傾げてご馳走様、でいい値段ではないだろうお店でのデートに、私は正直すでにびびっている。

 こんなお店で当たり前のようにたかる女、と思われるのも嫌だし、かといってこんなお店に連れてきてもらっておいて財布を出すような不作法もできない。
 私の言わんとすることを察した夕さんが、珍しく意地悪な笑みを浮かべる。

「なんだ、飼い主試験はもう合格か?」

 思いがけない言葉に、ポカンと口を開く。飼い主?試験?なんだっけ、なんだっけとこめかみを押さえて記憶を掘り起こす。あれは、ええと。

『俺のペットになるか?』
『まずはお試しに一度飲みに連れてってください。いい飼い主だったら飼われてあげます。お兄さんがいつも得意先の接待で使うような、美味しい美味しいご飯屋さんですよ!』

 そんな。あんな。冗談のようなおねだりを。
 覚えてくれてたんですか。律儀に、守ってくれてたんですか。

 やめてくださいよ、己惚れそうになる。もしかしたら、私が思ってるよりもずっと好かれてるんじゃないかなんて。己惚れそうになる。

 泣きそうになる顔に力を入れた。

「すみません、あんな冗談。言ったことも忘れてて。まさかずっと気にさせていたなんて…すみません、忘れてください。」

 大慌てで言いつくろう私に、夕さんは『あぁ』と返事をした。

 その顔は、あの時紅茶に映った私と同じ表情をしていた。






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