戦後戦線異状あり

一条おかゆ

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第一話 戦後のアンゲリカ2

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 医薬品の鼻につく香りが充満した室内。鼓膜を潤す蓄音機の奏楽に、検診衣姿のアンゲリカは気を良くし、背もたれに深く身体を預ける。

「ショパンの夜想曲(ノクターン)ですか……。心が、静まりますね」

 穏やかな声を掛ける先にあるのは、白衣を着た大男の背。
 机と睨めっこしており、振り返ってくることは無い。ただ胴間声のみを返してくる。

「正確には『第二番変ホ長調』じゃ。……というか、本当はこんな子守歌より、シュトラウスの円舞曲(ワルツ)でも流したいんじゃがのう」
「検診中にダンスでも踊るんですか?」
「んなわけなかろう。わし個人の趣味じゃよ」

 そう言うなり大男は椅子を逆に引き、半身でアンゲリカへと向き直る。
 その顔容を目にして一瞬、彼のことを欧州樋熊かと見間違えた。仕方あるまい。それほどに大男の髭は濃く、顔一面に生い茂っているのだ。
 もし、纏った白衣と手にしたカルテが無ければ、直ちに身構えたであろう。

「いつ見ても凶悪な顔をしていらっしゃいますね、先生」
「ついでに目の検診もしていったらどうじゃ?」
「目、ですか? 別に悪くないですよ、凶悪な先生の顔もはっきりと見えますし」
「……お前はよくそれを何の含みも無く、本人の前で言えるのう」
「……。先生曰く……病気ですから」

 一拍置き、彼女は自虐めいた笑みを溢した。
 微かな頭の左傾に、内外に巻いた髪の毛先が、儚げに揺れる。
 先生と呼ばれた大男はカルテに目を伏し、自身の髭を摩りつつ、

「……大丈夫じゃ。必ず治る。……とは言っても、問題はその治り方だ」

 先生は面を上げ、言葉を続ける。

「既に耳にしておるかも知れんが、第四世代魔石の副作用が唐突に消失した魔術師の例が、ここ最近何件も出ているそうじゃ。治るといえば……治るんじゃ。しかしのう、心を取り戻した者は皆……」
「暴走や自殺……中には記憶や自我の消失を引き起こしてしまう……」
「……そうじゃ」

 打つ手を持たぬのか、声を落とす先生。アンゲリカの胸中に巣くう不安が一層強まる。

 第四世代魔石とは、大戦中に粗製乱造された大量生産品の魔石のことだ。
 その粗末さ故に副作用が強力で、大戦終結から五年の歳月が経ち、第五世代魔石に置き換えられた現在でさえ、後遺症だけが只管尾を引き続けている。
 現出する副作用の効果自体は世代間によって異なるが、アンゲリカが戦中に摂取した第四世代魔石における最たる副作用は二つ──感情の鈍化と、共感性の欠如だ。
 もしも感情が鈍化すれば、人間味が薄れ、共感性が欠如すれば、同時に社会性を失う。
 魔石とは、人を機械へと変じる小さな工場。それ以外の何物でもない。
 しかし、この副作用が戦争という一種異常な場に於いて有用であると軍上層部は判断。第四世代魔石の積極的製造・使用に拍車が掛かり、アンゲリカを含む大戦中の魔術師達は皆、この意図的薬害の塊に犯されることとなったのだ。

 薬も過ぎれば毒となる、とはよく言ったものだが、始めから毒を与えられた彼女達に薬はない。あるのは『結果』という、症状の発症のみ。
 そして心底気を病むことに、副作用という地獄から解き放たれた後も、煉獄が待ち構えている……。

「この門をくぐる者、汝一切の希望を棄てよ、か……。魔石を使用した時点で、私は地獄の門をくぐっていたようですね」
「そう気を落とすな、皆が皆イカレてしまうわけではないはずじゃ。それに、時が経てば何かしらの解決策が見出せるやも知れぬであろう。お前は未だ、森に入ったダンテと同じじゃ。要は奈落にさえ落ちなければいいのじゃよ」
「雌豹と雄獅子と……雌の狼でしたっけ? ……障害は強力そうですね」

 自身の左手を返し、掌の下に視線を向ける。
 意味も無く力を籠め、手首の長掌筋を浮かび上がらせた。
 それと同時。音楽が鳴り止み、蓄音機の音が雑音だけとなる。先生は席を立った。

 ◇◇◇

 翌日。
 塹壕外套(トレンチコート)を羽織ったアンゲリカは、荒事の後の休日、というウンフェアツァークトからの細やかな贈り物に感謝し、

「ふんふふ~ん♪ ふふふ~ん♪」

 鼻歌を伴って、タイルの敷かれた通りを鹿のような軽快な足取りで行歩。
 如何に路上演奏の伴奏が耳に届き、ここが『芸術の都』と称されるヴィエナであったとして、少しズレていると言わざるを得ない。百合の花が如く見目麗しい歩く姿も相まって、街行く人々は奇異の視線を飛ばす。
 しかし、本人に周囲の視線を気にした様子は一切ない。
 更に、たちが悪いことに、彼女は手を振り始めた。

「レベカ」
「ん? あっ! アンジェ!」

 投げ掛けた声に振り返る人物は、カフェテラスの白椅子に腰掛ける一人の女性。
 濃褐色のショートカットに濃褐色の団栗眼をした、どこか幼さの見え隠れする容貌だ。黒地のワンピースドレスではあるが、表情筋がほぼ死滅した誰かさんとは違い、愛嬌ありげで可愛らしい。
 アンゲリカはそんな彼女──レベカと呼んだ女性の対面に位置する席へと歩み寄り、しなやかな動作で腰掛けた。

「ごめん。少し遅れた」
「いいよ、全然気にしてないし。それより……ほら、冷めちゃうよ」

 丸机の上には、静かに湯気を燻らせるコーヒー。注文しておいてくれたのだろう。
 アンゲリカは常と変わらぬ表情で、驚きを声にする。

「頼んでいてくれたんだ、レベカ。……完璧なタイミングだね」
「アンジェ電波をビビッっと感じたからね。あ、そろそろ来るなって思ったんだよ!」

 白い歯をこぼし、満面の笑みを向けるレベカ。
 魔術をも遥かに超越した『アンジェ電波理論』とやらは大いに謎だ。しかし、親交の深さ故に行い得たのは証明の要らぬ事実。彼女との友情を実感し、心が弾む。

「不思議な理屈だけど……ありがとう」
「いいの、いいの。さささ、どーぞ」

 レベカに促され、アンゲリカは足を組み、カップを顔に近づける。
 芳醇な香りを鼻孔に通し、口縁を桜唇につけると、悠々と傾けた。
 コーヒーの渋み弱く、コクの深い、心身共に温まる最上の一啜り。
 カップを下ろすとき、口からはつい、感嘆の吐息が漏れていた。

「はぁ……美味しいね」
「良かった! 私、コーヒー飲めないから分かんなくて」

 レベカは笑みつつも、肩を竦めた。喜々とした話し振りで、言葉を募る。

「アンジェのお眼鏡にかなう……ん? お舌鏡? まぁいいや、アンジェが気に入ってくれたみたいで、私嬉しい!」
「ふふっ。自分も、美味しいと思えるコーヒーを選んで貰えて、心から嬉しいよ」

 アンゲリカの口元に真白の三日月が浮かび、眦が僅かにほぐれる。
 どこか艶やかで、至極上品な笑み。レベカは恥ずかしげに目線を逸らした。

「う、うん……!」
「……どうかしたの?」
「い、いや、ちょっと久し振りだから、直視するのが畏れ多いというか、尊みが深いというか……。その、なんというか……」

 デウシュ語を未だ堪能に使いこなせてはいないからか、レベカの口から不思議な言語センスの表現が飛び出す。しかし、マギヤロク人の彼女故に仕方の無いこと、と判断。深く追及はせず、適当に意味を思料した。
 ──自分が中尉だから、その地位が尊く、深いってこと?
 無論違う。大いに異なる。
 しかし目を逸らしたレベカが、感情の起伏に乏しいアンゲリカの心中を読むことが出来るはずもない。彼女は子供っぽく唇を尖らせると、手持無沙汰の両手で、紅茶の注がれたカップを持ち上げた。

「……ホント、兵隊さんなのが勿体無いよ。もしアンジェが歌劇(オペラ)のズボン役(男装歌手)なら、間違いなく人気出るのに」
「そうかな?」

 アンゲリカは正しく自己評価出来ず、小さく首を傾げる。
 その脳の揺れで呼び覚まされたのか、「そう言えば」と記憶を口にした。

「最近ヤーパン(日本)では、タカラヅーカっていう女性だけの歌劇団が人気だそうだよ」
「へー、少し行ってみたいかも! でもヤーパンってすごく遠いよね……。二重帝国から出たことないし、旅費も時間も掛かるだろうし、どこにでも繋がるドアでもない限り、行くのは無理かな……」

 扉は当然のこと、未だ飛行機での旅は一般的ではない。十年前に沈んだ豪華客船のように、危険を孕んだ長い船旅を経なければならない。
 それ故に、旅を決心させる障害が非常に多い。しかし、

「ねぇレベカ。自分が連れて行く、って言ったら?」
「行くっ!」

 レベカは勢いよくカップを置き、前屈みに顔を突き出す。

「アンジェと一緒なら、どこへでも行きたいよ!」
「ありがとう、レベカ」
「でも……ヤーパンに行く予定なんてあるの?」

 背を真直ぐに戻し、レベカは問う。
 ヤーパンはこの世界の最果てとも言える島国だ。日本趣味(ジャポニズム)への傾倒か、余程の事情でもなければ、旅の目的地に据えることはまず無い。

「……実は、自分に剣を教えてくれた師匠の故郷がヤーパンなんだ。だから三十までには一度行ってみたくてね」
「じゃああと数年内には行くってこと?」
「何があろうと行くってわけじゃないけどね。それに自分は兎も角、レベカは四月から魔石工廠で働き始めるんだよね。なら、暫くは行けないかも知れないね」
「むぅ~」

 レベカは子供っぽく頬を膨らませる。しかし、彼女が陸軍省内の魔石工廠に採用されたのは事実。業務が安定するまで、長旅は控えるべきであろう。

「まぁそう膨れないでくれよ。聞いた話によると高待遇らしいし、ヤーパンに行くころには、きっと貯金も沢山貯まっている……」

 言い終わる直前──メガホン越しの大音声が響き渡る。

「良識あるヴィエナの市民よ、立ち上がれ!」

 音源は四つ辻の軒先。舞曲の潮時を迎えた指揮者のように、大げさ極まりない身振りで語る男性だ。

「六年前の大戦に勝利したことで、何が変わったというのだ! セルビジャの無辜な人民の命を奪い、諸民族に弾圧の限りを尽くし、結果。三年前の冠領戦争を引き起こしただけではないか!」

 彼は周囲に幾人かの同志を伴い、六階建ての白壁に背を押されているかのように、威勢良く大言壮語を振り撒く。

「帝冠領側の人民、そしてデウシュ人よ……自己批判せよ! セルビジャ人、マギヤロク人は今、真に帝国主義のくびきに置かれている! 我々が悪しき制度を打破する前に、自らで目覚めるのだ!」

 マギヤロク人であるレベカとは違い、アンゲリカはデウシュ人だ。更に彼女は、陸軍情報局の実働部隊である防禦隊の中隊長だ。彼等の言うところである「弾圧の限り」とやらを行事の如く、ひとつ執り行うのが道理である。
 しかし、アンゲリカは行動しない。物静かに目を閉じ、コーヒーを再度喉に通す。

「この二重帝国の支配階級たるデウシュ人は、我々他民族を生き物とさえ思ってはいない! 人間的権利の一切必要のない、家畜としか捉えていない! 故に戦い続けよ、セルビジャの戦士達! 再度武器を取れ、王冠領の英雄達! そして、独立と平等を手にするのだ!」

 闇夜のガス灯に引き寄せられる羽虫のように、人々が男の元へと集まり、群衆を成す。
 そこへ、人混みを掻き分ける多数の足音と、衆人の視線を集める呼子笛の鳴き声。それを耳にして始めて、アンゲリカはおもむろに立ち上がった。

「少し荒事の気配がしてきたし、帰ろうか」
「う、うん」
「この続きは自分の家で……どうかな?」

 春寒の小夜風のような、すれ違う警官隊の起こす風が、外套の裾をはらりと捲った。
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