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第1章 1
しおりを挟む売り場にかかっていた埃よけの布を取り払うと、その下からはパステルカラーの雑貨や、ラメのまぶしいコスメが顔を覗かせた。
開店準備の担当だけが体験できるこの瞬間が麻由は好きだ。
このディスプレイに今日はどのくらいの女の子たちがはしゃぎ、買い物していくのだろう。考えただけでわくわくしてくるのだ。
レジを開け、在庫管理用のパソコンを立ち上げる。そうこうしているうちに後輩のエリナと同僚の蘭がバックヤードから売り場へと出てくる。
老舗百貨店である福丸屋、その東京店が麻由の職場だ。
東京駅直結という立地の良さから、若い女性向けの売り場を強化するとの本部のお達しで、三階には新たに『フルール』という売り場が生まれた。デパートを若い女性にも日常的に使ってほしいというコンセプトで、手の出しやすい価格の雑貨や化粧品が並ぶ一画だ。
麻由はこの売り場の部門長を務めている。
今日は金曜日だ。開店直後の現在は客の姿はまばらだが、夕方になればお客で溢れかえるだろう。
今のうちに前日の売り上げをチェックしようとレジ裏の書類をあさる手に、一冊のファイルが触れた。
ついそのファイルを引き出してしまい、貼り付けられている付箋の文章に眉をしかめた。
ファイルの表紙には企画書のタイトル、それから『塚原麻由』と自分の名前が入っている。それらを覆い隠すように「もう出してこないでください 空閑(くが)」と書かれた大きな付箋が貼られていた。
忌々しいメッセージに晴れやかだった気持ちが一気に暗くなっていると、後輩が話しかける声が聞こえた。
「塚原先輩はどう思います?」
「えっ」
慌てて手にしていた企画書の入ったファイルを奥に押し込んだ。
「ご、ごめん。よく聞いてなかった」
「このブランドの新色がよく売れてるから、なんでかなって」
同僚の蘭が正方形のアイシャドウのパッケージを持ってひらひらと振っている。
麻由はそれを見て納得した。
「それ、今月の『ノンノン』で紹介されたからじゃないかな。そこからSNSでもよく見かけるようになったし」
職業柄、ファッション誌や美容雑誌はよくチェックしている。蘭の手にするコスメが大きく掲載されていたのは印象に残っていた。
「塚原先輩すごーい! ちゃんと研究してるんですね」
後輩のエリナが手放しに褒めてくれるものだから、すこし照れてしまう。
確かに研究の意味合いも強いが、もう半分は自分の趣味みたいなものだ。流行を知るのは単純に楽しい。
「在庫も少ないし、上にもう少し多めに仕入れてもらうよう報告しておくね」
手元のパソコンからさっと数値を入力する。
『フルール』は売り場面積こそ大きくないが、順調に売り上げを伸ばしていっている。広くない分確実に売れるものを置きたいのだ。
何をいくつ仕入れるかは部門長の麻由の決定権が大きい。セレクトショップを運営しているようでそれが楽しかった。
「さすが同期の星だわ。私も見習わないと」
「な、なにそれ」
蘭の言葉に驚いて顔を上げる。
「だって私たち同期の中で、麻由が一番の出世頭だもの」
麻由は二十七歳という若さで部門長に抜擢された。たしかに一般職の販売部門からこの年齢で役付きになれたのは光栄なことだ。
けれど正面から同期に言われてしまうと照れくさい。
「そんなことないって。たまたまだよ」
「照れない照れない。本当にみんな期待してるんだからね。麻由ならもっと上目指せるって」
蘭に同調してエリナも勢い込んで話し出す。
「そうですよ! うちらの世代でも塚原先輩に憧れてる人多いですもん。仕事できるし美人だし」
「も、もういいから……」
「塚原先輩も催事の企画書出してみればいいのに!」
その一言でほんのりと高揚していた気持ちが一気に沈んだ。
蘭もエリナに同意してはしゃいでいる。その声が遠くに聞こえた。
企画書ならもう出してるし、ボツになった。そう言ったら二人はどんな顔をするだろう。
福丸屋東京店は売り場の最上階である八階が催事フロアになっている。ブランドとのコラボ企画や季節ごとの商品を集めたイベントなどがほとんど常時開催されているのだ。
四月からは体制が新しくなって、従業員であればだれでも催事の企画書を提出できるようになった。
これまでは企画営業部が主体となって行っていた催事に他部門からも参加できると、社内でも話題になっているのだ。
「面白いこと考えますよね、本部の人って。空閑さんでしたっけ。空閑マー……なんだったっけ?」
「マーチャンダイザー。販売営業部が作った新しい役職らしいけど、覚えにくいわよね。商品の仕入れから売り出し方法までなんでも決める人ってことらしいけど」
「それです、それ。バイヤーとは違うんですか?」
「バイヤーは買い付けだけでしょ? マーチャンダイザーは買い付けももちろんだけど、どう売るかの戦略を立てたり、必要だったら商品開発もやるらしいわよ」
エリナと蘭が新体制について話しているのを麻由は黙って聞いていた。とても話に入ろうという気持ちにはなれなかった。
「でも横文字って覚えにくいですよねえ。今まで部門長とかフロア長とかのわかりやすい役職ばっかりだったのに。急にマー……」
「マーチャンダイザーね。まあ、いいんじゃない? 忙しくてこっちに顔出すこともないだろうし。みんな省略してMDって呼んでるらしいわよ」
「あ、それでいいんですか。MDなら覚えられそう」
二人が話題にしている人物こそ、自分の企画書をボツにしたあげく、もう出してくるなと付箋を貼った空閑という男だ。
空閑は元々各店舗を総合的に管轄する本部に所属していたのだが、この四月から現場を経験するために東京店の企画営業部に配属になった。
この『フルール』という売り場は本部時代の空閑の提案だ。これまでは年配者向けの印象が強かった福丸屋に若者を呼び込もうと発案したのは空閑だった。そして、実際にその提案は今のところ成功している。
麻由ははじめ、空閑がこの東京店に配属になったと聞いたとき、心の底から嬉しかった。この売り場の革新的なところは部門長である自分が一番心得ている。
会ったことはなかったが、空閑には尊敬の念すら抱いていた。同じ店舗で働けると聞いて、期待が高まったものだ。
「どんな人なんですかねえ。噂では結構若いらしいですけど。あと海外ですごい経営の資格とったらしいって」
「MBAでしょ。それは噂じゃなくて本当らしいわよ」
「え、じゃあ社長の息子っていうのも?」
「ほんとほんと。うちの会社、親会社含めて一族経営じゃない? その空閑一族」
「あ、確かに変わった名字なのに聞いたことあると思ったら親会社の名前と一緒なんですね」
福丸屋は空閑グループの系列企業だ。空閑グループといえばほかにも駅前のファッションビルや高級志向の温泉宿など幅広い経営で有名だった。
「社長一族なら、会ったときのために練習しとかなきゃですねえ。マーチャンダイザー、マーチャンダイザー……うわ、間違えそう」
エスカレーターを上がってくる客の頭が見えて、ぼんやりしていた麻由ははっと我に返った。
「二人とも、おしゃべり一回やめてね」
麻由の注意で二人はさっと接客用の顔になる。
お客さんが来てくれて良かったと、麻由はほっと胸をなで下ろした。これ以上空閑の話を聞いていたくはなかった。
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