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開始せよ
嵐の前の静けさ〜何も起こらなさすぎて逆に不気味すぎる件について〜
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さっきまで確かに存在していたはずの建物が、跡形もなく無くなっている。ただ風に揺れる雑草と、一本の電信柱がぽつんと立っているだけ。
俺は無意識に自分の頭を両手で挟んだ。ズキンと、軽い頭痛のようなものが走る。目を閉じて深呼吸。
「お待たせしましたー。……どうしました?」
玄関から日下部の声。俺は何でもないような顔を作りながら、カーテンをさっと閉じる。
「いや、あの、ちょっと暑かったんで。空気の入れ替え的な」
「そっか。じゃあ、行きましょうか」
彼はそう言って、俺の表情を一度だけじっと見た。けれど何も言わず、先にドアを開けて外へ出て行った。
たぶん、俺の顔に“何か”が浮かんでたんだろう。でもそれをあえて言わないあたりが、彼の優しさか、あるいは……。
サンダルを履いて一歩外に出る。太陽の光は、普通の朝と変わらない。近所のガキの笑い声が、遠くでかすかに聞こえる。
だけど心のどこかに、「何か取り返しのつかない世界に一歩踏み込んだ」感覚があった。
日下部は手に地図を持って、振り返りもせずに歩いていく。その背中を追いかけながら、俺は小さくつぶやいた。
「……ほんとに、どこまで行くんだ、これ」
次の角を曲がった時、ふと風が止まった。まるで、世界全体が一瞬だけ息を飲んだような、そんな気がした。
「そういえば日下部さん、幽霊船って知ってます?本当は存在しない船なのにあるように見えるっていう、外国の話らしいんですけど。幽霊マンションなんてのもあったりして。あはははは」
なんだこの気持ち悪いウソ笑いは。もう少しマシに笑えないか。うふふふ。あ、ダメだ、俺にウソ笑いの才能はない。
気づいたら風が吹き始めた。風が気持ち悪さを取っていってくれたような感じがして救われた。そういえば日下部さん、何歳なんだろ。下の名前も何となく知っておきたいな。
「幽霊マンション、か。ありそうで、なさそうで」
日下部さんがふっと微笑んで、視線を前に向けたまま答えた。俺のどうしようもないウソ笑いを、笑わずに拾ってくれるその声が、妙に落ち着いていて逆に怖い。
だけど、少しだけ安心する。風が通り過ぎていく。
「…あの、日下部さんって、何歳なんですか?」
唐突な問いに、自分でもちょっと驚いた。けど、なぜか気になったんだ。どこか大人っぽいけど、同じ大学生くらいにも見える。
「僕? 二十二ですよ。たぶん、あなたとそんなに変わらないですよね?」
「俺は十九なんで……やっぱ、ちょっと上っすね。あ、あの、下の名前って……」
「透です。日下部 透。あなたは?」
「……あ、えっと、成瀬 蓮です。」
「成瀬 蓮くん。いい名前だね」
日下部——いや、透さんは柔らかく笑った。太陽の光がその表情にかかって、少しだけ眩しかった。風が止んで、代わりにまたセミの声がうるさくなってくる。さっきまであんなに怖かった世界が、少しだけ距離をとってくれたような気がした。
「蓮くん。あの空き地、もしかしてさっきと何か違ってた?」
「……え?」
その一言に、背筋がすっと冷えた。
「僕もね、朝見たときより……草が、少し伸びてた気がしたんだ。気のせいだといいんだけど」
俺は言葉を失った。
何も変わっていないはずの空き地。でも俺も、さっきカーテンを開けたとき、ほんの一瞬——地面が少し、湿っていたような気がしていた。
ピンピロピン チンチロリン
俺のスマホだ。誰だろ。スマホの画面を見る。宮司龍臣。小学校で同じクラスになって、俺のすぐ近くの大学に通うことになったやつ。
だんだん奇妙な触手に侵され始めているこの世界に、お前だけが俺の日常を保ってくれるんだ、宮司。俺を日常に帰らせてくれ。普通の日常で良いから。
応答するをタップして画面を右耳に当てる。
「よお。成瀬、元気?」
ああ、お前はちゃんと俺の日常の一部だ。なるべくいつも通りの声を出すようにしたけど、自分の声がどこか遠くの誰かの声みたいに聞こえた。さっきまでの空き地、封筒、青い旗、全部をひとまず頭の棚に押し込んでおく。今は、宮司の声だけに集中したい。
「いやさー、今こっち来てんだけど、成瀬ん家寄ってもいい?」
「……へ?」
「あ、言ってなかった?今日午後からそっちで用あって、今もう駅降りたとこ」
世界が少し揺れた気がした。現実がぐいっと腕を引いてくれる。
「マジか。今ちょっと……いや、ちょうど良かった。来て来て、すぐ来て」
「おお?なんかあった?お前のその“ちょうど良かった”って、たいていロクな時じゃないよな」
「来たら話す。とりあえずチャリで10分くらいだろ?待ってるわ」
「りょーかい。ジャムとパンよろしくー」
電話を切って、スマホを胸ポケットに戻す。俺はもう一度空き地を見た。さっきよりもほんの少し、風に揺れる草の高さが高くなっているような気がした。気のせいであってくれ。
「すみません、友達が今こっちに来るらしくて。合流したらもう一度だけ…向かいを、確認してもらってもいいですか?」
透さんは穏やかに頷いた。
日常がこちらに戻ってきている。
そのはずだった。
でも心のどこかで、俺は知っている。
宮司が来る前に、何かが起こる。
何かが、この空き地に足音を落とす気がしてならなかった——。
俺は無意識に自分の頭を両手で挟んだ。ズキンと、軽い頭痛のようなものが走る。目を閉じて深呼吸。
「お待たせしましたー。……どうしました?」
玄関から日下部の声。俺は何でもないような顔を作りながら、カーテンをさっと閉じる。
「いや、あの、ちょっと暑かったんで。空気の入れ替え的な」
「そっか。じゃあ、行きましょうか」
彼はそう言って、俺の表情を一度だけじっと見た。けれど何も言わず、先にドアを開けて外へ出て行った。
たぶん、俺の顔に“何か”が浮かんでたんだろう。でもそれをあえて言わないあたりが、彼の優しさか、あるいは……。
サンダルを履いて一歩外に出る。太陽の光は、普通の朝と変わらない。近所のガキの笑い声が、遠くでかすかに聞こえる。
だけど心のどこかに、「何か取り返しのつかない世界に一歩踏み込んだ」感覚があった。
日下部は手に地図を持って、振り返りもせずに歩いていく。その背中を追いかけながら、俺は小さくつぶやいた。
「……ほんとに、どこまで行くんだ、これ」
次の角を曲がった時、ふと風が止まった。まるで、世界全体が一瞬だけ息を飲んだような、そんな気がした。
「そういえば日下部さん、幽霊船って知ってます?本当は存在しない船なのにあるように見えるっていう、外国の話らしいんですけど。幽霊マンションなんてのもあったりして。あはははは」
なんだこの気持ち悪いウソ笑いは。もう少しマシに笑えないか。うふふふ。あ、ダメだ、俺にウソ笑いの才能はない。
気づいたら風が吹き始めた。風が気持ち悪さを取っていってくれたような感じがして救われた。そういえば日下部さん、何歳なんだろ。下の名前も何となく知っておきたいな。
「幽霊マンション、か。ありそうで、なさそうで」
日下部さんがふっと微笑んで、視線を前に向けたまま答えた。俺のどうしようもないウソ笑いを、笑わずに拾ってくれるその声が、妙に落ち着いていて逆に怖い。
だけど、少しだけ安心する。風が通り過ぎていく。
「…あの、日下部さんって、何歳なんですか?」
唐突な問いに、自分でもちょっと驚いた。けど、なぜか気になったんだ。どこか大人っぽいけど、同じ大学生くらいにも見える。
「僕? 二十二ですよ。たぶん、あなたとそんなに変わらないですよね?」
「俺は十九なんで……やっぱ、ちょっと上っすね。あ、あの、下の名前って……」
「透です。日下部 透。あなたは?」
「……あ、えっと、成瀬 蓮です。」
「成瀬 蓮くん。いい名前だね」
日下部——いや、透さんは柔らかく笑った。太陽の光がその表情にかかって、少しだけ眩しかった。風が止んで、代わりにまたセミの声がうるさくなってくる。さっきまであんなに怖かった世界が、少しだけ距離をとってくれたような気がした。
「蓮くん。あの空き地、もしかしてさっきと何か違ってた?」
「……え?」
その一言に、背筋がすっと冷えた。
「僕もね、朝見たときより……草が、少し伸びてた気がしたんだ。気のせいだといいんだけど」
俺は言葉を失った。
何も変わっていないはずの空き地。でも俺も、さっきカーテンを開けたとき、ほんの一瞬——地面が少し、湿っていたような気がしていた。
ピンピロピン チンチロリン
俺のスマホだ。誰だろ。スマホの画面を見る。宮司龍臣。小学校で同じクラスになって、俺のすぐ近くの大学に通うことになったやつ。
だんだん奇妙な触手に侵され始めているこの世界に、お前だけが俺の日常を保ってくれるんだ、宮司。俺を日常に帰らせてくれ。普通の日常で良いから。
応答するをタップして画面を右耳に当てる。
「よお。成瀬、元気?」
ああ、お前はちゃんと俺の日常の一部だ。なるべくいつも通りの声を出すようにしたけど、自分の声がどこか遠くの誰かの声みたいに聞こえた。さっきまでの空き地、封筒、青い旗、全部をひとまず頭の棚に押し込んでおく。今は、宮司の声だけに集中したい。
「いやさー、今こっち来てんだけど、成瀬ん家寄ってもいい?」
「……へ?」
「あ、言ってなかった?今日午後からそっちで用あって、今もう駅降りたとこ」
世界が少し揺れた気がした。現実がぐいっと腕を引いてくれる。
「マジか。今ちょっと……いや、ちょうど良かった。来て来て、すぐ来て」
「おお?なんかあった?お前のその“ちょうど良かった”って、たいていロクな時じゃないよな」
「来たら話す。とりあえずチャリで10分くらいだろ?待ってるわ」
「りょーかい。ジャムとパンよろしくー」
電話を切って、スマホを胸ポケットに戻す。俺はもう一度空き地を見た。さっきよりもほんの少し、風に揺れる草の高さが高くなっているような気がした。気のせいであってくれ。
「すみません、友達が今こっちに来るらしくて。合流したらもう一度だけ…向かいを、確認してもらってもいいですか?」
透さんは穏やかに頷いた。
日常がこちらに戻ってきている。
そのはずだった。
でも心のどこかで、俺は知っている。
宮司が来る前に、何かが起こる。
何かが、この空き地に足音を落とす気がしてならなかった——。
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