『狭間に生きる僕ら 第二部  〜贖罪転生物語〜 大人気KPOPアイドルの前世は〇〇でした』

ラムネ

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開始せよ

記憶の扉の向こうには、あの「少女」がいた。

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俺の喉が、ひとりでに声を漏らした。

消える? 

俺が?

なんだよそれ、冗談だろ。

そんな、まるで俺が“記憶で出来た存在”みたいな言い方じゃん。
「でもそれは……」
言いかけた俺の口に、突然、風が吹き込んだ。ただの風じゃない。俺の胸の奥にしまっていた「あの記憶」が、風に煽られてひらりと舞い上がる感覚。赤い靴。鉄柵越しに手を振る人影。なぜか泣きそうになった、幼い頃の夕暮れ。

「……この記憶……」

俺の指が、一つの扉を自然に指し示していた。他の扉と違って、ほんの少しだけ開いていた。中から、ほんのりと鉄と埃の匂いがする。それはまるで―何かが出てくるのを、待っていたかのように。宮司が小さな声で言った。
「なあ成瀬、そこだけ……開いてるのって、ヤバくないか?」
わかってる。だけどもう、ここしかないってわかってる。
俺は、取っ手に手をかけた。扉の向こうには、きっと俺が“なかったことにした記憶”がある。
「行くぞ、宮司。」
俺の言葉に、宮司はぶるぶる震えながら頷いた。
「……うん、死ぬときは一緒だぞ。」
そして、ゆっくりと扉を押し開けた――。


扉の向こうには穏やかな夕方の公園があった。真っ赤な空とオレンジ色の暖かい光が公園を照らし、木製のブランコと滑り台の影がにゅっと伸びていた。俺たちの影はない。

まさか、死んでしまったのか…。

右隣にいる宮司に目をやると、どこか遠くを見つめている。宮司の手はいつの間にか俺の腕を離していた。宮司の両手がだらしなく垂れさがっている。
「いいえ、御心配には及びませんよ、お二方。罪のない人を冥界に誘うようなことは致しません。第一に、私は死神などではございません」
背後から、日下部さんの声がした。日下部さんは、普通の好青年に戻っていた。さっきまでの姿はいったい。
「では、ここがどこなのか、説明を差し上げますね。」
日下部さんはまっすぐに俺たちを見た。その目はさっきの爬虫類のようなものではない。でも、何かが奥で眠っている気配がする。
「ここは、“失われた記憶の投影空間”です。蓮さん。あなたの記憶の中で、“忘れたくせに忘れられなかったもの”それがこの場所を形づくっています。」
俺はもう一度、公園の景色を見渡す。どこか見覚えがあるようで、でもはっきりと思い出せない。その時、ブランコの方で何かが揺れた。誰も乗っていないはずの木のブランコが、ギィィ……と、まるで誰かが座ったように、勝手に揺れている。
「なあ、成瀬……あれって……」
宮司が震える声で言った。

その瞬間、俺の脳内に、鋭いノイズみたいな音と一緒に、何かの映像が割り込んでくる。
ー泣いている女の子。俺の制服の袖を掴んで、何かを必死で言っている。でも、俺は顔をそむけて、その手を振り払った。そして、走り去る。

「……うわっ……!」
俺は頭を押さえてしゃがみこんだ。なにこれ、知らない……いや、思い出したくなかった。日下部さんが、静かに言った。
「忘れた罪はありません。しかし、“選んで忘れた”ことには、意味がある。それに向き合う覚悟があるなら、先に進めます。どうしますか、蓮さん。」
頭の中で、あの女の子の泣き声がリフレインする。忘れたはずの記憶が、俺の心を叩いてくる。俺はゆっくりと顔を上げて、ブランコに向き直った。
「……思い出すよ。全部。」
「おい…成瀬?どうした…。何が見えた?」

宮司には何も見えていないんだ、きっと。

あの女の子は、俺が中学三年の頃に近所に引っ越してきた家族の末娘だった。俺が登校中にその公園を通る時にも、俺が部活終わりに日が落ちてから公園を通った時にも、毎日同じようにその子はブランコを漕いでいた。毎日同じ服。毎日同じ靴。今思えば、あの子はたぶん…。

あの日。俺が当時好きだった人に告白して粉砕した日の帰り道、その女の子はブランコに座っていた。でも、その日は漕いでいなくて、代わりに小さな小さな方が上下に不規則に揺れているのが見えた。
「どうしたの?」
精いっぱいの優しい声で、公園の柵の向こう側からその子に声をかけた。その少女はハッと気づいたように顔を上げたかと思うと、俺の方を振り返った。髪の毛は荒れ果てた庭みたいにボッサボサで、顔も良く見えなかったけど、とてもきれいな、澄んだ青い海みたいな瞳がボサボサの前髪からほんの少しだけ顔を出していた。
「お兄ちゃん、今日、ひとり?」
その子は、ブランコから足を下ろして、ぎこちなく立ち上がった。しゃがれたような、でもまだ幼さの残る声だった。
「……うん。ひとり。」
俺は柵の門を開けて、公園の中に入った。その子は俺をじっと見ていた。まばたきもせずに。
「じゃあね、今日だけ、あそんでほしいな。」
そう言って、右手を差し出してきた。小さな、小さな手だった。爪の間に土が入り、指先には小さな傷。でも、どこか「ひとりで戦ってきた人の手」だった。俺はその手を、気づいたら握っていた。
「名前、なんていうの?」
「……おしえるのは、明日ね。」
そう言って、彼女は笑った顔のまま、目をそらした。

――でも、それが最後だった。次の日も、その次の日も、公園にその子はいなかった。どこかへ行ってしまったのか。それとも、最初から“いなかった”のか。俺は、怖くなって、その記憶を心の奥底に沈めた。

いなかったことにした。

でも今、その子のブランコが、あの時と同じように揺れている。俺がブランコに近づくと、揺れていたブランコがぴたりと動きを止めた。まるでその子が俺の存在に気づいたように。ブランコの鎖に右手を添えながら、初めてあの子と会話した日を必死に思い出そうとした。名前も教えてくれなかった、綺麗な目をした少女。荒廃した世界に、頑張って一輪花を咲かせているような少女。数えきれないくらいの星の中から、たった一つ、自分が探している星を見つけようと空に手を伸ばす。その時、星が一つだけ瞬いた。
「やっぱり、名前、今日教える。私…僕…ほんとは圭吾って言うの。」
あの子は名前を教えてくれなかったんじゃない。俺がそれを忘れていただけで、あの子が俺に名前を教えてくれたという事実は間違いなくどこかに息をひそめて存在していたんだ。

けいご?

ユウとかルキとか、中性的な名前ならともかく、けいごって言うのは明らかに…。
「成瀬さん、あなたがお持ちの小説の内容を今一度思い出しては下さいませんか。そこに、鍵がございます。」
日下部さんの声が、地面を伝って心臓の中に語り掛けてくる。
「成瀬、お前さっきから黙りっぱなしでどうしたんだよ。」

宮司は、混雑した大型ショッピングモールで親とはぐれた幼児みたいな面持ちで俺と日下部さんを交互に見ている。

小説。

その時俺は、何であの本に興味を持って手に取ったのかを急に思い出した。

舞台は架空の王国。そこではドラゴンが王族の家来として、一人一人の王族に仕えていた。そこの第一王女のセリフ。

「ホントの僕は」

それが本の帯に、印字されていた。俺の中で何かが手をつないだ。架空の世界っていうのはきっと、俺たちとは別の世界の現実なんだっていうことに。
「よくぞ、お気づきになられましたね。…が、キーパーソンはあなた一人ではございません。」
日下部さんの言葉の余韻が、沈黙の空間に深く浸透する。俺の背筋を何かが這い上がった。まるで、“まだ記憶していない誰か”の指が、心の奥に触れてきたみたいだった。
「それって……まさか、圭吾が?」
俺の問いに日下部さんは静かに頷いた。公園の空が、夕暮れから次第に薄闇に変わっていく。
「圭吾様の魂の行方が、残響の界に留まっているのです。あなたの記憶の中で彼が『少女』であったこと。それは事実であり、同時に真実ではございません。」
「ど、どういうことだよ……」
宮司の声が震えていた。
「圭吾様は、自らの存在が“どちらにもなれない”と感じておられました。王国で生まれたものの、血筋による身分は持たず、性の在り方も規格からは外れていた……それゆえ、大人たちは、彼を“忘れる”という選択をした。」
「……忘れる?」
「記憶から、歴史から。すべての記録から。けれど、蓮さん、あなたは唯一、あの子の名前を聞いた。覚えていた。それが、魂をこの界に繋ぎ止めた最後の鎖だったのです。」

俺は、まるで自分が巨大な歯車の真ん中にいたことを、いまやっと理解した。

「彼の魂は、次の扉の先にございます。ですがその前に――」
日下部さんが振り返り、こちらにまっすぐな目を向けて言った。

「“本当の姿”で向き合っていただかねばなりません」

その瞬間、公園の中心にブランコが現れた。誰も乗っていないのに、軋んだ鎖の音とともに、ゆら、ゆら、と静かに揺れている。その後ろに、もう一人の「俺」が立っていた。あの時、あの場所で、あの少女と向き合うことを選ばなかった、自分だ。
「……成瀬?」
宮司の声が遠い。
「俺、たぶん、ここで一回、逃げたんだ。」
あの日、ブランコに座っていた圭吾の前で、俺は声をかけて、そして――それ以上、近づかなかった。助けようとも、名前を呼び続けようともしなかった。そんな自分の臆病さを、どこかで封じ込めていた。それを、今、ここで向き合わなければいけないんだ。

俺は、歩き出した。

ブランコへ、過去の自分へ、そして圭吾へ。
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