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第一章 運命炸動のファーストリープ
6・罪無き殺人者
しおりを挟む暗闇が、臭気を助長していた。鉄錆と生臭さの混じった不快な臭い。
《あの時》の妹と同じ臭い。
ぼんやりとした光が照らすのは、林田の喉から生えた無骨で大振りのナイフ。
僕を脅した時と同じものだった。
さらに、明かりに照らされたのはもう一人いた。
それは、泣き声の主。
「私じゃない。私じゃない。私じゃない私じゃない私じゃ――」
地面に転がる薄手のジャンパー。
脱ぎ散らかされ、土に汚れた下着に、帽子。
そして、壊れたレコーダーのように同じ言葉を繰り返す半裸の少女。
光の無い目を見開き、ガタガタと震える姿が《夢》の中の妹と重なり胸が張り裂けそうになる。
何が起きたのか、一目瞭然だった。
――引き返せ。通報しろ。関わるな。
頭の中の警報音が最大にまで高まる。
それでも、僕は動けない。動き出せない。
恐怖からでは無かった。確かに現実離れした光景に震えは止まらない。
だけど、僕自身の恐怖などちっぽけに思えてしまうほどに目が離せない《理由》があったのだ。
それは、彼女の《瞳》。
光を反射せず、全ての物から心を閉ざしてしまった《絶望の|表情(かお)》
林田達に汚された妹と同じ、そして飛び降りを行う直前の僕と同じ《死相》だった。
共感なのか同情なのかは分からない。
けれど、放っておいてはいけないと理性ではなく本能が叫んでいた。
「だ、大丈夫。ぼ、僕は何もしない。だから、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから」
声は、情けないほどに震えていた。
文章も滅茶苦茶。語彙も馬鹿みたいに少ない。
みっともない事この上なかったけれど、僕の精一杯だった。
「違うの。私じゃ、私じゃないの。私は殺してないの」
「うん。分かってる。分かってるから」
死体に刺さっているのは、彼自身のナイフだ。
あくまでも想像でしかないが、何らかの事故によって突き刺さったのだろう。
「何が、あったの?」
僕の言葉に、少女が顔を上げた。死の色を湛えた瞳で、真っ暗な表情で。
「いきなり、声かけられて、無理矢理連れ込まれて……私、家に帰ってハンバーグ作らなきゃいけないのに。なんで。なんでこんなこと」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから。大丈夫、僕は君の味方だよ。君、名前は?」
「あかり。くぎょう、あかり」
「年は?」
「じゅう、よん」
「そっか。僕の妹と同い年だ」
クギョウ・アカリ。知らない名前。
だが間違いない。彼女は、僕と同じ被害者だ。
《奴ら》に全てをメチャメチャにされただけの何の罪もない女の子だ。
会話が成立した事で少しだけ落ち着いたのか、彼女はゆっくりと今起きた事を語り始めた。
彼女の語りは、支離滅裂で、感情的で、バラバラな出来事の繋ぎ合わせだったけれど、何とか意味を理解する事は出来た。
「……え?」
だけど、彼女の話を聞いているうちに、僕の胸へと薄暗い闇が這い寄ってくるのを感じる。
――何で。どうして。そんな。
例えるなら不安。
例えるなら後悔。
――バカな。これじゃあ、まるで。
どうして、僕がこのような感情を抱いてしまったのか。
答えは簡単だ。
何故なら、彼女は。
――《僕のせいじゃないか》!
僕の行動の結果、《奴ら》に強姦をされ、殺人犯の汚名を着ることになってしまったとしか思えなかったからだった。
■
十月六日。
今年十四歳になる九行あかりは、非常に上機嫌で駅前大通りを歩いていた。
時刻は午後四時半。太陽がビルの果てへと沈もうとする夕暮れ時。
普段は鬱陶しいとしか思わない人々の群れさえ、今の彼女の気にはならなかった。
あかりの機嫌が良いのには理由がある。
ゲームセンターの対戦ゲームで連勝出来た事は勿論、何より嬉しかったのは彼女の兄が今回の連休を利用して実家に戻ってくる事だった。
幼い頃に母を亡くした彼女。半年前に父が再婚した継母とは折が合わず、父の帰宅はいつも深夜だ。
家の中が苦痛でしか無かった彼女にとって、兄の夏秋が戻ってくるのは、何よりも嬉しい事だった。
――今日は、私が夕食を作るんだ。
兄の大好きなハンバーグ。
七か月ほど前、大学入試の前日にうまいうまいとがっついていた姿が脳裏に浮かぶ。
材料は帰宅途中に買いこんだ。あとは家に帰るだけだ。
思わず、彼女の薄い口元に笑みが浮かんだ。
帰宅すれば、優しい兄が待っていることだろう。彼女のハンバーグを心待ちにしていることだろう。
少なくとも、この連休中は家の中では一人ぼっちではないのだ。
ただ、彼女は知らない。
これから彼女に振りかかる残酷な運命を。
九行あかりは、家に帰る事など出来ない事を。
「おう、久しぶりじゃん」
突然、後ろから男の声が聞こえた。
振り返り、確認する。男の顔に見覚えは無かった。
ひょろりと背の高い、長髪の男。年は高校生か、もう少し上のように感じる。
「えっと、どちらさま、ですか?」
彼女の頭の中で今朝のニュースで見た《通り魔事件》の事が浮かぶ。
「えっ。俺の事覚えてないの? ひどくね? ほら、よく顔見てくれよ」
長髪が腰をかがめ、顔をあかりへと近づける。品の無いコロンの香り。あかりの苦手な臭いだった。
「……ナンパですか?」
「あ、バレた? 今、ヒマかな」
どうやら、通り魔では無いようだった。
そもそも、こんな夕方の駅前大通りで人を惨殺するだなんてあり得ない。
僅かな安心があかりの胸を満たす。
だが、気を抜いてはいけない。
「見て分かりませんか? 今から帰らないといけないんで。あんまりしつこいと大声を出しますよ」
そのまま、男を避けて足を進める。
街を歩いていて声をかけられたのは一度や二度では無い。彼女が学んだのは、こう言う手合いには付き合わずビシリと突き放す事だった。
ただ、彼女には一つの誤算があった。
この男はナンパなどの為に彼女に声をかけたのでは無かったのだ。
彼女は、もっと用心深くあるべきだった。
「声ェ? どうやってだよ?」
突如、男の声が氷のように冷たいものへと変わった。
同時に、彼女の背中に何か尖った物が突きつけられる。
「ナイフだ。声を出せば、刺す」
「……こんな大通りでそんな事してタダで済むと思ってんの?」
睨むように後ろを振り返る。恐怖はあったが、こんな男に屈するのは御免だった。
それに、勝算もあった。いくらイカれたナンパ男と言えど、この人通りの中で無茶をするとは思えなかったからだ。
だが直後。
彼女の勝算は甘い幻想でしか無かったことに気づいてしまう。
「一人じゃないんだなァ、これが」
あかりの背中に突き付けられているナイフを、別の二人の男が壁となり隠していた。
これでは、彼女が襲われているのが他人からは見えない。
「動きを止めんな。ついてこい。言う通りにすりゃあ乱暴はしないさ」
相手は三人。それも自分よりはるかに大柄で、凶悪そうな男たち。
抵抗すればどうなるか分からない。
男の目には、冗談では済まされない狂気と邪悪さが宿っていた。
声は出せない。出したら殺される。ならば、どうすればいいか。
彼女の出した答えは《視線》。
周囲の人に、目で助けを求めようとしたのだ。
異常な状況の中、冷静な判断を発揮するあかり。最善の手、完璧な答え。
だが――
彼女の視線に応える者はいなかった。
それどころか、目を合わす者さえ存在しなかったのだ。
無関心、無興味。彼女は、孤独だった。
この幾千もの人の群れの中、一人ぼっちだった。
声は、出せない。出したら、殺される。
男たちは表面上は笑顔で彼女の手を取り、白い乗用車へと連れ込んでいく。
とうとう、彼女が連れ去られたことには気づく者は誰一人現れなかった。
まるで、最初から彼女などいなかったかのように街の時間は流れて行く。
ただ、駅の大通りに不自然に転がるスーパーの買い物袋だけが、家族との食事を楽しみにする少女がここにいた事を示していた。
そして、その袋も。人々の波に埋もれ、
やがて踏み潰された。
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