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第六章 恋理無常のテンダーライアー
2・想、情、誘
しおりを挟む「こっちー。ミライさん、こっちだよー」
トイレから出てきた僕に、九行さんがトレードマークの帽子を振って呼びかけてきた。小さな体を目一杯伸ばす姿はさながら小動物のようだ。
廊下を埋め尽くす人を掻き分けどうにか合流すると、九行さんは微笑んで帽子をバッグにしまいこむ。地獄絵図さながらの上映終了直後のロビーにおいて、まさに彼女は砂漠に咲く一輪の花だった。
「結構人が多いね」
「人気作品だしね。人に酔っちゃいそう」
「でも、面白かったよ。ありがとう、誘ってくれて」
映画は、よくあると言えばよくある恋愛ものだった。
人の寿命が蝋燭の形で見える主人公。ある日彼は恋をする。だが、彼が一目惚れてしまったのは、よりにもよって蝋燭がほとんど消えかけている少女だったと言う話だ。
どこか、僕に境遇が似ている主人公ではあったが、一つだけ違う部分がある。彼は、運命を覆す事を諦めたのだ。
消える蝋燭は絶対であり、伸ばす事は出来ない。事実を受け入れた彼は、せめて生きている間は幸福な時間を送ってもらおうと奮闘し、そして笑顔のヒロインの最期を看取る。
胸が痛くなるような悲恋ものだった。
「ねえ、早く出よ。エレベーター来てるよ」
僕だったらどうしていただろう。一月前の九行さんの事件で、最後のリセットに失敗していたら何を考えていただろう。
色々あり過ぎたせいで完全に内容には集中できなかったとは言え、いつの間にか映画の主人公と自分を重ね合わせていた。
「ねぇったらー」
余韻に浸っている所で、九行さんの声を受け正気に戻る。
「あ、ごめん。って、え?」
思わず奇妙な声が漏れた。
《彼女は、僕の手を引いていた》。
僕の手を、握っていたのだ。
「どうしたの?」
「い、いや。何でもない、よ?」
後ろ暗い感情が、僅かではあるが頭の外へと吹き飛ぶ。
落ち着け、落ち着け僕。
はぐれないように手を引かれているだけだ。下手に意識してはいけない。素人童貞丸出しではないか。女性免疫どころか、対人免疫が少ない事がばれてはいけない。何故かは分からないけれどそんな気がする。
「ほらほら、早く行こ。閉じちゃうよ」
九行さんの手は驚くほど小さく、そして暖かかった。
引っぱられるようにエレベーターへと入ると、彼女の小柄な体が僕の腕にぴたりと寄り添ってくる。
「ぎっしりだね。苦しいよ」
「す、少しだけの我慢だよ」
ドアが、閉まった。近い。近過ぎる。吐息さえも触れそうだった。
勿論気のせいだ。僕と九行さんでは身長差がありすぎる。それでも、脳は限界まで危険信号を発していた。
密着した体。微かな体温。静かな息遣い。彼女の全てが僕に手の内にあるような錯覚。万能感に酔ってはいけない。勘違いしてはいけない。
全ての理性を動員し、平常心を保つ。
大丈夫、僕ならできる。自らの体を焼き、腕を切断したほどの精神力を持った僕ならば。
『一階です』
必死に耐える中、ようやく間の抜けたガイダンスと共にドアが開いた。
ようやく解放される、そう思っていた。
直後、僕は自身の浅はかさを思い知る事になる。
「あっ、行こう。早く早く。詰まってるよ」
再び僕の手を取り、エレベーターから飛び出す九行さん。
満員だと言うのに危険な事この上ないが、そんな事を考える余裕はすぐに失われた。
「……っ!」
声にならない悲鳴。理性が、吹き飛びそうだった。
飛び出した彼女の長い髪の毛がふわりと舞い、僕の鼻先をかすめたのだ。
甘い、シャンプーの匂い。鼻孔をくすぐる魂を奪われそうな香り。意識が刈り取られそうになった僕は、彼女のなすがままに出口へと連れられて行った。
「どうしたの。具合でも悪い?」
「いや、大丈夫」
果たして、今まで僕が立っていた空間は天国だったのか、それとも地獄だったのか。
一つだけ分かる事は、ここが普通の現実である事だ。周囲のざわめきや、遠くから聞こえるパトカーのサイレンが九行さんから気持ちを逸らしてくれる。
ようやく外へと脱出に成功した僕は、深く息を吸い込んだ。
冬夜の冷たい空気に混じって九行さんの匂いが混じっている気がした。まずい、まだ意識している。
「これからどうしよっか」
「門限は大丈夫なの?」
時刻は午後七時を過ぎているはず。
家庭にもよるが、中学生が出歩くにはあまりいい顔はされない時間だ。
僕も本当は連絡しなければいけないのだが、生憎携帯の電池が切れていた。時期も時期だし、長い説教を覚悟しなければならないだろう。
「連絡入れれば九時ぐらいまでは大丈夫かな。どうせ、家に帰っても一人と同じだし。あっちも私なんていない方が良いだろうし」
あっち、とは継母のことに違いない。折り合いがつかないのは相変わらずのようだ。
何か言わなければならないと気が焦る。
視界には、伏し目の九行さんが見せる寂しそうな横顔。
声をかけたい。励ましたい。だけど、僕の貧弱な語彙と人生経験では、慰め言葉など一つも出てこなかった。
「……じ、じゃあさ、ご飯でも食べる?」
代わりに出てきたのは、とんでもない提案。
ちょっと待て。自分で放った言葉を疑う。
《今、僕は彼女を夕食に誘ったのか?》
「えっ?」
九行さんが、目を見開いた。
自分の行為に気付いた瞬間、心臓が喉から飛び出しそうになった。夕食だ。ディナーだ。まさにデートだ。
喉が渇いたのでカフェに行くなどと言うレベルでは無い。二十世紀にライト兄弟が人類初の有人飛行を成し遂げた時ほどの重大な出来事。歴史書に名が残ってもおかしくは無い。いや、おかしいのは僕の頭だった。
「いや、何でも無……」
「いいよ。行こ。ファミレスで良いよね?」
今度は実際に喉から心臓が飛び出したと思う。
まさかの了承である。先程からずっと思っていたのだが、今日の九行さんはどこかおかしい。
積極的と言うか、何と言うか。
先導する彼女の吐く息は、白い。
来週には十二月に入るのだから当然だ。冷たい外気の中で唯一感じる彼女のぬくもり。手と手が重なる場所が妙に熱を帯びている。
例えようも無く幸福な気持ちだった。
胸が温かく、鼓動は早い。ずっとこんな時間を過ごしていたい。
だけど、頭の隅にこびりついている不安だけは拭えなかった。
僕に幸せを享受する資格はあるのか。
映画を見ている時も、九行さんの手を握っている時も、頭の冷たい部分が常に囁いていた。
僕は、人殺しだ。罪人だ。
グリードは慰めてくれたが、事実は覆せない。直接手にかけ、そしてセーブまでをした。
果たして、そんな人間が人並みの幸せを得る資格があるのだろうか。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
沈みそうになる心境の中、底抜けに明るいウェイトレスの声が僕たちへと届けられた。
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