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第六章 恋理無常のテンダーライアー
4・隠、認、告
しおりを挟む至福の時間は、終わりを告げようとしていた。
天野丘駅から彼女の家へ送るまでずっと、二人で他愛のないお喋りをする。
映画の感想、クラスメイトの笑い話、将来への不安、家族に対しての愚痴。
住宅街を並んで歩いていると、視界の端からライトを灯した自転車が迫ってきた。
見慣れた制服に身を包んだ男性。警察官だ。きっとパトロール中なのだろう。
目を付けられたら非常に面倒臭いことになるのは想像に難くない。何せ、中高生の二人組だ。まだ九時を回っていないとは言え、下手を打ては注意くらいでは済まない気がする。
咄嗟に九行さんの袖を掴み、目の前のマンションの敷地へと連れ込む。
「ふぇっ?」
「ついてきて」
不審に思われないよう、ペースを崩さずに入口をくぐる。
振り返ると、警察官は僕達に気付かなかったように通り過ぎて行った。軽く息を吐き、後ろの少女へと目を向ける。
「もうすぐ家なのに、絡まれたら面倒でしょ」
「堂々としてれば平気じゃない?」
「この前、夜中にコンビニ行っただけでネチネチ嫌味を言われたんだよね。正直、関わりたくない」
「うわぁ。ヒドいね、それ」
敷地から顔を出し、周囲を確認。人は歩いていない。
それから軽い冒険が続いた。
今日に限って何故か多い警察官や、ついでに道行く大人の目を盗み九行さんの家へと向かう。
時には彼女が提案する裏道を通り、時には物影に身を隠してやりすごす。
小さな興奮が胸から湧き出る。同じ時間を共有している感覚が僕ら二人を繋いでいる。
「まるでスパイ映画みたいだね」
息をひそめて並んで歩く中、九行さんが口を開いた。
「ミッション・インポッシブルとか?」
「うん。あと007とかメタルギア」
「なんかゲーム混じってない?」
「あはは、つい。でも面白いよ。貸そうか?」
「オーケー。期待して……っ!」
言葉が、止まった。
突如、道の曲がり角から懐中電灯の明かりが差し込んできたのだ。
すぐさま路上駐車していた車の影へと二人で飛び込む。ブロック塀と車の隙間は狭く、息苦しい。
どうして警察から隠れる真似をしているかに既に意味などなかった。強いて言えば、楽しいからだ。
近付く二人分の足音。
ちらちらと動き回る懐中電灯の光。車の陰で屈み、冷たい夜空の中で二人で寄り添う。
無言のまま、呼吸すらも殺して。
僕たちの体は、密着していた。
触れあう腕と腕。互いの体温すらも感じられる距離。
エレベーターの時とは違い、寒さが彼女の温かさを際立て、より実感させていた。
警官達の気配をすぐそばに感じる。
恐らく、もう目の前にいるはずだ。もし見つかったらただでは済まないだろう。
いつの間にか、冷えた指先にぬくもりがあった。
視線をずらすと、九行さんの手が僕の指先を強く握っていた。そのまま、体ごと僕へと寄りかかってくる。
再び心臓が爆発しそうになる。凄まじいまでの心拍数は危機に対してだろうかか、それとも彼女の行為に対してなのか。
心音が外に漏れてしまっていないか不安になる。荒くなりそうな呼吸を必死に抑え、歯を食いしばる。
甘い匂い、冷たい風、彼女の温かさ、瞳を閉じた九行さんの安らかな表情、二人分の足音。
五感で感じるもの全てがごちゃごちゃになり、何が何だか分からなくなる。
どれだけの時間が経っただろうか。
足音も光もどこかへ通り過ぎていた。
「ミッションコンプリート、だね」
車と塀の隙間から体を抜きながら、鼻歌交じりに九行さんが言う。
先程までの緊張感は何だったのかと言うほどに気楽な様子だった。僕も道へ戻り、周囲を見回す。
誰もいない。音も無い。
目に映るのは、街灯に照らされた九行さんの姿だけだ。
彼女は、微笑んでいた。無邪気に、優しく、包み込むように。
気付けば僕も笑っていた。どうしてかは自分でも分からない。だけど、何だか笑わずにはいられなかった。
こんなにも清々しい気分になったのはいつ以来だろうか。
「でも、やだな。もう終わりだなんて」
肩を落とし、殊更ゆっくりと歩を進めながら九行さんが呟いた。
「そう、だね」
どうして、時間は過ぎていくのだろう。
許されるのならリセットして今日と言う日を何度でも繰り返したい気持ちで一杯になる。
だが、現実は非情だ。
始まりには必ず終わりがある。
ゲームのように。映画のように。人生のように。
既に九行さんの家は目の前だった。
あと二十メートル程でに辿りつくことだろう。
「でもさ。わざわざ送ってくれなくても良かったんだよ? 面白かったけど」
「駄目だって。最近は物騒なんだから。一人で帰す訳にはいかない」
「例の殺人事件? でも、一か月前から何も起きてないよね」
先月、二件目の事件が起きた猟奇殺人事件。
未だに犯人は捕まっていなかった。如何に僕が非力で無力とは言え、今の時期に九行さん一人で帰す事はできない。
「それでも、だよ。たまには格好良い所、見せないといけないしさ」
「そんな事言うからカッコつかないんだよ?」
痛い所を突かれ口ごもる。相変わらず僕は余計な一言が多いようだ。反省しなければならない。
もっとも、反省しても直らないのだけれど。
「でも私はカッコいいと思うけどなぁ」
「え?」
彼女の声は小さく、僕の耳は上手く聞き取れなかった。
「何でも無いよ。って、もう着いちゃった。楽しい時間って流れるの早いね」
「本当に、ね。もっと遊びたかった」
もっと一緒にいたかった、とは口が裂けても言えなかった。
彼女と共に過ごす時間が終わってしまう。
離れたくない。帰ったら、また僕は一人で震えることになる。
グリードは頼りになる友人ではあるが、心を締めつける痛みから解放してはくれないのだ。
名残を惜しむように、僕達の間に沈黙が流れる。
薄闇の中で、じっと見つめ合う。
引き留めたい。手を取り、抱きしめたい。
どう言う訳か瞼が痙攣し、涙が出そうになる。
いい加減認めなければならない。
口にしたい言葉がある事を。伝えたい想いがある事を。
「ねえ、九行さん」
「な、なに?」
僕の声も、そして彼女の声も震えていた。
言うなら今しかない。
今日を逃せば一生伝える事は出来ない。確かな予感が胸をよぎる。
もう、自分の感情から目を背ける事は出来なかった。
心の中で認めてしまったのだ。
九行さんの事を好きだと言う気持ちに。
そうだ、僕は彼女に惚れている。
心を包んでくれる笑顔に、僕には無い行動力に、小さく細い体躯に、色白の整った顔立ちに。
言え。言うんだ。
出来る、僕には出来るはずだ。
口にしろ。想いを形にするんだ。
もう、後悔しないと誓ったはずだ。
覚悟を決め、口を開く。
――しかし。
突然、呼吸が詰まった。
喉に鎖が絡みついてしまったかのようも声が出ない。
言葉が、紡げない。
『お前を裁くことができる人間がこの世にたった一人だけ存在する』
今朝聞いたグリードの言葉が脳裏によみがえる。
『それは、お前自身だ』
今、理解した。
僕は、自分で自分を裁こうとしているのだ。
人殺しが幸せになってはいけない。居場所を見つけてはいけない。
僕に、そんな権利は無い。
魂を縛る罪悪感が、僕の体にブレーキをかけていた。
たった一言発すれば、全ては変わる。
なのに、僕の口から出てきたのは、
「……また、遊ぼう」
つまらない台詞だけだった。
力が、抜けていく。
心が砂になってしまったかのようだ。
罰を与えようとする自分に気付いてしまった以上、もうアクセルを踏むことはできそうになかった。
「……うん。また、ね」
九行さんの表情が沈みこむ。まさか、期待していたのだろうか。僕は、彼女の気持ちを裏切ってしまったのだろうか。
それでも、僕の気持ちが変わる事は無かった。
安らぎを求めてはいけない。
居場所を作ってはいけない。
大切な人を悲しませた罪も、全てひっくるめて受け入れることが僕の義務なのだ。
喉に巻き付いた鎖が全身へと伸びていく。
ただの鎖では無い。鋭く尖った金属の茨だ。
以前、九行夏秋のアパートの前で見た幻覚とは比べ物にならない力だった。
抗う気持ちすらも奪う、魂への呪縛。巻き付いた鎖が僕の体を操り、九行さんから背を向けさせる。
今日、彼女と過ごせただけで満足しないといけないんだ。
心を、血を、肉を、脳を凍結し、全てを諦めようとした――
――その時。
「ねぇ、ミライさん」
背後からかけられた少女の声が、去ろうとする僕の足を引きとめた。
「私、ミライさんに感謝してる。言葉で言い表せないくらい」
「……っ」
彼女の言葉は素直に嬉しい。
だからこそ、もう止めてくれと言いたかった。
彼女が僕に好意を示す度に罪の鎖は力を増していくのだから。
「三人から助けてくれた時も、兄さんの事件の時も」
最初の出会い。林田達から襲われる彼女を救った日。僕はただ、罪悪感から助けようとしただけだった。
なのに、いつの間にか僕の目的は変わっていたのだ。
九行さんだから助けたい、と。
「私ね、兄さんの借金を知った時、凄く辛かった。裏切られた気持ちでいっぱいだった。けど、ミライさんがいたから耐えれたの。受け入れる事が出来たの。強くなれたの」
強くなる? どう言う意味だ。
「私、思うんだ。《人は、困難を受け入れて強くなる》って。全部ミライさんのお陰だよ」
彼女の言葉が胸に突き刺さった。
理屈ではなく実感として理解した。
人は裏切りや困難を受け入れ、再び立ち上がって強くなれる。
僕はきっと、彼女が立ち上がる助けになれたのだろう。
けど、僕はそんな大層なものではない。
「今日はね、凄く頑張ったんだ。恥ずかしいけどくっついてみたり、手を握ってみたり。けど、ミライさん、すごく辛そうな顔してて。迷惑、だったよね」
「……そんなわけ、無い」
息をするのすら苦しい中、必死に声を振り絞る。
全霊を込めたと言うのに、締めつけられた喉は掠れた声しか漏らしてくれなかった。
九行さんは僕の葛藤に気付いていた。それでも彼女は僕を元気づけようとしてくれていたと言うのか。
申し訳ない気持ち、情けなさ、希望。
様々な感情が混じり合い、再び声を詰まらせてしまう。
何を口にしていいのか分からない。どんな顔をすればいいのかも分からない。
流れる沈黙。動かない体。
彼女がどんな表情をしているのか、何を考えているのか確認する術さえ僕にはない。
どれほどの時間が経ったろうか。沈黙を破ったのは九行さんだった。
否、破ったなどと生易しい表現では足りない。
彼女が放った言葉は、とてつもない爆弾だったのだ。
「私さ――」
息が、止まる。
「ミライさんの事――」
全てが、止まる。
「好き、だよ――」
思考も、心臓も、時間さえも。
何もかもが、止まってしまったのかのようだった。
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