クラムチャウダー

植田伊織

文字の大きさ
1 / 1

クラムチャウダー

しおりを挟む
牛乳の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 部屋の隅で砕けた「昨日までの日常」の欠片をそのままにして、私は一人、キッチンに立つ。
 小鍋で暖めていたクラムチャウダーからくつくつという音がするのを聞き、慌てて中火だったコンロの火を蛍火に切り換える。どうやら火が強すぎたようだ。小麦粉を焦がさぬよう、弱火でじっくり、されど確実に温めなければ。

 『事を成すには確実に』

 母から届いたスープ缶を温めるだけの話に、父の口癖を持ち出すのは流石に大げさだろうか。

 缶の中に入っている濃縮されたスープの素を小鍋にうつし、空になった缶の中に牛乳を入れてかき混ぜ、弱火でじっくり温める。
 ゲル状だったスープの素が牛乳によってとろみを増し、キューブ型に切りそろえられたじゃがいもやにんじんが顔を出す。
 ミルクの甘みとそれを引き立てるほどよい塩味、アサリの慈悲深いうまみが舌の上に広がるのを夢想しながら、私はスープを温めていた。

 すると、キッチンカウンターに置いたスマートフォンが、誰かからの着信を告げた。その途端、さっと風が吹いたかのように心に靄がかかる。
 火を消してカウンターへ向かった。
 一体誰からの着信だろう。
 暗澹たる思いで画面を覗くと、母からだった。ほっとしたのと同時に体中の力が抜けて、一呼吸の間ぼうっとしてしまう。
 はっと我に返って、慌てて受信ボタンを濡れた指先でタップする。スピーカーモードに切り換えて、私は母が喋りだすのを遮るように、話し出した。

「母さん久しぶり! 今ね、この間母さんがくれたスープ缶を温めてる所。昔から好きなんだよね、クラムチャウダー。小学校の頃、ショッピングモールにスープ屋さんがあって、休みの度に買ってもらってたっけ。それを覚えていて、事あるごとに送ってくれるんでしょう? ありがとねー」

 母は、押し黙ったまま何も言わない。居心地の悪い沈黙が二人の間に横たわる。その気まずい雰囲気に耐えられなくって、私は馬鹿みたいに話し続けた。

「疲れるとね、このアサリの旨味が身に染みるような気がしてさ。あと、缶スープ独特のサイコロ型のじゃがいもね。舌で潰せるほどなめらかで、しっかり味もついていて、なんだかついついつまんじゃう。
 自分で作っても美味しいんだけどさ……そこまでの元気は無いわけよ、今はまだ」

 視界がほんの少しだけ歪んだ気がして、慌てて天を仰いだ。ふーっと勢いよく息を吐いて、肺の中を空にする。
 先刻の、夫とのやりとりがフラッシュバックしそうになった。ぎゅっと目をつぶりながら頭を振って、ゆっくりと酸素を取り入れる。
 こういう時は呼吸が浅くなりがちだ。意識して改めなければ。

 ――改めて……何になるというのだろう?

 夫が若い女と出て行って、“平穏な温かい家庭”に恵まれていたと思っていたのは私だけと思い知って。

 ――大したものではないのかも知れないけれど、私にだってあるんですよ、自尊心。

 今はもうぺしゃんこになってしまったそれを、なんとか奮い立たせて身の振り方を決めねばならない。そんな、胸中がぐちゃぐちゃな今の私が、正しい呼吸法で健康に生きて、丁寧な暮らしなんてして、何になる?
 自嘲気味に唇が歪む。

「もう何もかも捨てて楽になりたい気持ちしかない。それでも、そういうわけにも行かないでしょう?
 だったら、しゃがみ込んで泣きわめいてもなんにもならない。
 不貞の証拠を集めて、離婚した後の仕事も探して――まだ、こどもが居なくて良かった。動きやすさが違うから」

 この人ならば一緒に幸せになれる――そんな予感は粉々に打ち砕かれた。
 目を閉じれば、様々な映像が苦痛を伴って襲い掛かる。

 離婚届を差し出す夫は、突然の事態に驚いて固まる私の事を、虫けらでも見るような目で見降ろしていた。その傍らで勝ち誇ったように微笑んだのは、夫の浮気相手。肌の質感が私とは全く違って、はりも潤いも段違い。
 私は彼女の若々しさを目にして悟った。
夫は、私達夫婦が長い時間をかけて築いてきた信頼関係よりも、この肌を選んだのだと。
 目の前が真っ暗になった。
 気が付けば一人、夫婦で生活をしていたアパートに取り残されていた。
 私に悪い所が無かったなんて言わない。寝坊をして朝食を作れなかった日もあった。掃除だって得意じゃなくて、我が家が夫にとっては過ごしにくい空間だったのかも知れない。
だからといって、「これ」はない。

 スープカップに温めたクラムチャウダーを注ぎ、木製のスプーンをカトラリーケースから取り出した。キッチンカウンターに背をあずけて、そのままずるずると床にしゃがみ込む。椅子やソファーに座る気力は無かった。体育座りをして、カップを膝のあたりで支えてみる。
 スプーンをカップに差し入れ、クラムチャウダーをひとすくい。立ち上がる湯気をぼんやり眺めながら、スプーンをのそのそと口の中に運び込む。
 懐かしい味がふわっと口内に広がって、少しずつ、体が温まった。視界が再びにじむ。

「いつでも帰っていらっしゃい」

 突然ふつっと黙り込んでしまった私に、優しく呼びかけるように母が言った。

「お父さんとお母さんはいつだってあなたの味方。可愛い娘がみすみす不幸になる様を、黙って見ていられる訳ないでしょう」

 それが、感情をせき止める何かを壊す引き金となった。
 まず、人のよさそうな顔をした両親の顔が思い浮かんだ。次に、嬉しい時も悲しい時も、平等に見ていた自宅からの風景や、結婚をすると報告した途端、涙を流した父の顔が鮮明に蘇った。結婚式で、父が顔を真っ赤にしながらバージンロードを歩いていた事や、両親へ感謝の手紙を読み上げると、ハンカチで涙をぬぐいながらも私を抱きしめてくれた母の事――いろんな思い出が洪水のようにあふれ出てきて止まらない。
 私は零さないようにスープカップを床に置いて、膝に顔を押し付け、声を殺して泣いた。

「ありがとう、もう少しだけ頑張ったら……そっちへ帰るね。『事を成すには確実に』。あいつらの不貞の証拠を、一つでも多く見つけなきゃ」

 上手な演技なんて出来ているとは思わなかったけど、少しでも母が心配しないよう明るく言った。
 通話を切って、私はドアノブにかけたロープを燃えるゴミの中に放り投げた。――まだその時じゃない。
 部屋の隅に目をやった。夫が普段使っていたマグカップが粉々に砕け散っている。夫が呆然とする私にイラついて、投げつけたものだ。
 当たり前に繰り返すと思い込んでいた日常は、もう二度と戻らない。

 カウンターに戻って再びクラムチャウダーを食べた。ふと、夫はこのスープが嫌いだった事に思い至る。ただの趣向の違いにすぎないそれが、私達の未来を予言していたように思えてきた。

 茜さす夕暮れが部屋の中を照らす中、私はただただ、自身を労わった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

処理中です...