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「菜乃ちゃん」
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「それで、君はどうしたい? 俺の言いなりになる?」
彼が席を立ち、机に手を置いてこちらを覗き込む。
「もしあの子が目を覚ましても、『あれは自殺でした』って君を庇って証言してくれるって信じてるなら、無理強いはしないよ。そういう美しい友情が君たちにあるのならの話だけど」
私は何も答えなかった。けれど無意識のうちに頷いていたのか、それとも私の表情から何かを読み取ったのかは分からないが、彼は満足そうに笑みを浮かべて「決まりだね」とだけ言った。
今の自分は、おそらく冷静ではないのだろう。しかし落ち着いていたとしても、私は彼の提案を呑んでいたように思えた。彼の要求を突っぱねて、以前と同じように平穏に暮らそうと思っても──彼はあらゆる手段で私を追い詰めるような気がしたのだ。
教室の中はもう、ずいぶんと暗くなっていた。もしかしたら、月がもう出ているのかもしれない。いや、どうだろう。私にそれを確かめる余裕はない。少なくとも、彼を前にしている今この瞬間は。
「じゃあ、まず服を脱いでもらおっかな」
一瞬、耳鳴りのように何も聞こえなくなった。心臓の鼓動が、体を突き破りそうなほどにばくばくと鳴っている。
椅子に座ったまま後退しかけるも、それより早く彼の手が胸元に伸びてきた。椅子の脚先と床が擦れ合う、不快な音。制服のネクタイの結び目に、指を引っかけて強引に引き寄せられる。
彼との距離は数ミリも離れないままに終わった。むしろ、上体が椅子の背もたれから浮いたせいで、相対した彼の顔はさっきよりずっと近くにある。
「それとも、キスからの方がいい?」
彼が甘く、微笑した。笑った途端に吐息が吹きかかる。生温かい空気が、鼻先を掠めた。この男にも体温はある。それを理解した瞬間、自分でも意味の分からない恐怖が脳裏を満たした。もしいま手の届く距離にカッターナイフでも落ちていたら、躊躇いなく彼の顔に振りかぶっていただろうと思うほどに。
「俺も突き落として殺す?」
でも、俺はさやかちゃんみたいにはならないよ。そう囁かれた。いや、幻聴の類だろうか? だって彼の唇は笑みを描いたまま動いていない。けれど色の薄い彼の目が、明らかにそう言い聞かせていた。
ほとんど胸倉をつかまれているような姿勢のままで、首を左右に振る。声は出せなかった。砂を飲んだかのように喉が渇き、痛みを伴っていたから。
「ねえ、勘違いしないでよ。俺はね、君を怖がらせたいとか、痛めつけたくてこういうことをしてるわけじゃないんだから」
彼はそう弁解し、「ほら、見て」と言いながら、制服のポケットに指先で触れた。
「コンドーム」
ああ。もし声が出ていたら、私はそんなふうに声を漏らしていただろう。ポケットの、おそらく箱ごと突っ込んだのだろう台形の膨らみ。
「持ってきてるんだよ。安心させてあげたいから。最初から、君にひどくするつもりなんてなかったし」
ひどくするつもりなんてなかった? それは私にとって、こう言い換える方が正しかった。最初から私と「そういうこと」をするつもりで、この場に呼び出したんだろうと。
私は彼の瞳を覗き込んだ。そこにわずかばかりでも──人道的な意識が残ってさえいたら、それに縋りつきたかった。しかし彼の目は、私の視線を捉えた途端に、よくない光を帯び始めた。興奮を得て爛々とし始める、透き通って異様な目。瞳孔が開き切っている。
「あはは。ね、菜乃ちゃん。キスしよっか」
今度こそ本当に、制服の襟元を掴まれて引き寄せられる。体が一気に浮き上がった。唇が触れ合う。生温かいものを感じた。ただそれだけだった。それに反して、指先は冷えて、凍りつきそうな程になっていたけど。
彼が席を立ち、机に手を置いてこちらを覗き込む。
「もしあの子が目を覚ましても、『あれは自殺でした』って君を庇って証言してくれるって信じてるなら、無理強いはしないよ。そういう美しい友情が君たちにあるのならの話だけど」
私は何も答えなかった。けれど無意識のうちに頷いていたのか、それとも私の表情から何かを読み取ったのかは分からないが、彼は満足そうに笑みを浮かべて「決まりだね」とだけ言った。
今の自分は、おそらく冷静ではないのだろう。しかし落ち着いていたとしても、私は彼の提案を呑んでいたように思えた。彼の要求を突っぱねて、以前と同じように平穏に暮らそうと思っても──彼はあらゆる手段で私を追い詰めるような気がしたのだ。
教室の中はもう、ずいぶんと暗くなっていた。もしかしたら、月がもう出ているのかもしれない。いや、どうだろう。私にそれを確かめる余裕はない。少なくとも、彼を前にしている今この瞬間は。
「じゃあ、まず服を脱いでもらおっかな」
一瞬、耳鳴りのように何も聞こえなくなった。心臓の鼓動が、体を突き破りそうなほどにばくばくと鳴っている。
椅子に座ったまま後退しかけるも、それより早く彼の手が胸元に伸びてきた。椅子の脚先と床が擦れ合う、不快な音。制服のネクタイの結び目に、指を引っかけて強引に引き寄せられる。
彼との距離は数ミリも離れないままに終わった。むしろ、上体が椅子の背もたれから浮いたせいで、相対した彼の顔はさっきよりずっと近くにある。
「それとも、キスからの方がいい?」
彼が甘く、微笑した。笑った途端に吐息が吹きかかる。生温かい空気が、鼻先を掠めた。この男にも体温はある。それを理解した瞬間、自分でも意味の分からない恐怖が脳裏を満たした。もしいま手の届く距離にカッターナイフでも落ちていたら、躊躇いなく彼の顔に振りかぶっていただろうと思うほどに。
「俺も突き落として殺す?」
でも、俺はさやかちゃんみたいにはならないよ。そう囁かれた。いや、幻聴の類だろうか? だって彼の唇は笑みを描いたまま動いていない。けれど色の薄い彼の目が、明らかにそう言い聞かせていた。
ほとんど胸倉をつかまれているような姿勢のままで、首を左右に振る。声は出せなかった。砂を飲んだかのように喉が渇き、痛みを伴っていたから。
「ねえ、勘違いしないでよ。俺はね、君を怖がらせたいとか、痛めつけたくてこういうことをしてるわけじゃないんだから」
彼はそう弁解し、「ほら、見て」と言いながら、制服のポケットに指先で触れた。
「コンドーム」
ああ。もし声が出ていたら、私はそんなふうに声を漏らしていただろう。ポケットの、おそらく箱ごと突っ込んだのだろう台形の膨らみ。
「持ってきてるんだよ。安心させてあげたいから。最初から、君にひどくするつもりなんてなかったし」
ひどくするつもりなんてなかった? それは私にとって、こう言い換える方が正しかった。最初から私と「そういうこと」をするつもりで、この場に呼び出したんだろうと。
私は彼の瞳を覗き込んだ。そこにわずかばかりでも──人道的な意識が残ってさえいたら、それに縋りつきたかった。しかし彼の目は、私の視線を捉えた途端に、よくない光を帯び始めた。興奮を得て爛々とし始める、透き通って異様な目。瞳孔が開き切っている。
「あはは。ね、菜乃ちゃん。キスしよっか」
今度こそ本当に、制服の襟元を掴まれて引き寄せられる。体が一気に浮き上がった。唇が触れ合う。生温かいものを感じた。ただそれだけだった。それに反して、指先は冷えて、凍りつきそうな程になっていたけど。
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