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本編
28。人魚
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ある深い海のなかに住む人魚姫。
彼女は十五歳の誕生日に、難破した船に遭遇し、そこで溺れていた人間の王子を助けてあげた。人魚姫はその王子に一目惚れするものの、人間に姿を見られてはいけない彼女は、王子が目覚める前に海に帰っていった。
海の中に帰ってからも、彼女はその王子のことが忘れられなかった。恋い焦がれ、王子に会うことだけを夢見た彼女は、ついに禁断の魔女の家を訪れ、彼女に人間にして欲しいと頼む。
魔女は、人魚姫のその美声と引き換えになら、尾ひれを足に変える飲み薬をあげるといった。しかし、人間になったのち、王子から真実の愛を得られなければ、彼女は海の泡になって消えてしまうという。人魚姫はそれでも構わないといって、その薬を手に入れた。
人の足を手に入れた人魚姫は、人間界に降り立った。無事に王子と再会し、住むところがない彼女は、王子の計らいで宮殿で暮らせるようになった。人魚であった彼女が地を歩くのは、ナイフで抉られるような痛みを伴ったが、それでも彼女は王子といられて幸せだった。
しかし、王子の心は難破した時に助けてくれた女性にあり、声を失った人魚姫にはそれが自分であると伝える術がなかった。その後、王子は隣りの国の姫君が、自分の命の恩人であると誤解をし、彼女との結婚を決めてしまう。
彼らの結婚式の日。死を覚悟した人魚姫の前に、彼女の姉の人魚たちが現れた。久しく見る彼女たちからは美しい髪が消えていて、人魚姫がそれはなぜかと問うと、彼女たちは自分の美髪と引き換えに、魔女から短剣を貰ったといった。そして次の朝日が昇る前に、人魚姫がこれで王子の心臓を刺せば、彼女は人魚に戻れ、生き永らえることができるという。
その日の晩。人魚姫は短剣を持って、王子の寝室に行った。しかし、彼女は刺さなかった。寝ている王子に口付けてから海に飛び込み、海の泡になっていったのだ——
* * *
長い、夢を見た。
夢は、見ている間はあんなに鮮明なのに、起きるとふっと消えてしまうのはなぜなのだろう。
まあ、特にこんなに熱が出ているときは、仕方がないよね……
次の日。
蛍は熱が39度近くまで出てしまって、ゼミはおろか大学にも行かれず、ベッドに固定して眠っていた。
苦しいけど風邪を引いて良かったと思っている–––築島先生と顔を合わせずにすむから。わたしは、ポーカーフェイスなんてできないから、きっと隠し通すことなんてできない。
昨日は、一人でショックを受けていたけれど……考えてみれば、そう。先生に好きだなんて言われたことは、一度もないのだ。交際しようと言われたこともない。ただこの肉体関係を続けたいかと聞かれて、頷いただけ。わたしが勝手に好かれていると解釈していただけだ。
先生はわたしを別人と重ねている——先生からもらう不自然な形の愛情も、これで説明がつく。
ウトウトしていると、階段から複数の足音が聞こえて来た。
今日は仕事でいつもいないお母さんが、会社を休んで看病してくれている。だけどもう一人は誰のものだろう。
”それにしても、あの子の先生がこんなに格好良かったなんて、”
なんかぼそぼそ会話が聞こえてくるけれど、一体……
「お母さん……?」
ノックの後、ドアが開いた。
「蛍ー? ゼミの先生がお見舞いに来てくださったわよ」
その言葉を聞いた瞬間、布団を頭まで被った。
「あら、どうしたのかしらこの子……あ、先生、ソファにかけてくださいね。いまお茶をお持ちしますから」
「お構いなく」
お母さんは、下に降りて行ってしまった。どうしよう。
「いつまでそうしている気だ」
そう指摘されて、そろそろと布団から顔を出した。
「具合はどうなんだ」
先生はいつもと変わらない様子だった。
「大丈夫、です」
「病状は正しく風邪なんだな」
「はい……湿疹や嘔吐はないし、生肉や生鮮魚介類も食べてないから……」
「そうか」
先生は、ちょっとほっとしたように見えた。
「熱は出し切ったほうがいい。今朝から38度以上あるなら、夜にはほとんどのウイルスが死滅するだろう。そうしたら熱は勝手に引く——あと水だな。時間をかけていいから二リットルは飲んでおけ」
「はい」
「そしてこの解熱剤は——」
先生は、わたしの机の上にあった薬の箱を取った。
「ああ、やっぱり毒だから飲むな」
裏に書いてある成分表を見て、ゴミ箱にポイと捨てた。
「大体、なんでこんなものがこの家にあるんだ。きみの父親は薬剤師だろう」
「……お父さんはいま、単身赴任中なの……お父さんがいないと、お母さんは宣伝されてる薬を買っちゃうの、なんか効く気がするって言って……」
先生からみたら、お母さんは無知で哀れな消費者のうちのひとりなんだろうか。
「そうか。ならこれからは、きみがお母さんを守ってあげなきゃな」
ズキっとする。
「ゼミはいくら休んでもいいから、回復したら出席してくれ」
そうだね……
先生は、実は優しい人だ。
いまも、心配そうにわたしを見てくれている。
でも先生は、わたしを見てはいない–––
また階段から足音が聞こえてきて、先生は鞄を持った。
まだだ。
「あら、先生。もうお帰りですか?」
「ええ、お邪魔しました」
「いまお茶を入れましたのに、」
「白井くんも、僕がいるとくつろげないでしょう。様子を見に来ただけですから」
まだだめだ。
「また大学で。お大事に」
そういって、先生は部屋を出て行った。お母さんは見送りに行った。
ドアがパタリと閉められて。階段を降りる足音も、聞こえる声も小さくなっていった。
もう、いいかな……
わああああああん。
わたしの涙腺は崩壊した。目から滝のように涙が溢れてくる。
ずるいよ。ひどいよ。なんでこんなに好きにさせたの。
でも……わたしが馬鹿だったんだ。
愛の告白から始まったわけでもないのに。なんで先生が自分のことを好きでいてくれているなんて思えたんだろう……
わたしは泣き疲れてまどろみながら、もしここに白雪姫の毒リンゴがあるなら、かじりたいと思った。眠れる森のお姫様のように、ずっとずっと眠ってしまいたいと思った。そして人魚姫のように……
ああ、そうか。
そういうことか——
わたしには、小さい時から不思議だったことがある。
おとぎ話の人魚姫は、なんで王子様を短剣で刺さなかったのか——
足を裂いて人間界にやってきたのに。声をなくして代償を払ったのに。命を助けてあげたのに。なのに他の女性を選んだ男性なんて、もう彼女にとって王子様じゃないはずだ。
だから、せっかくお姉さんたちが作ってくれたチャンスをみすみす捨てるなんてと、彼女が泡になることを選んだ理由がわからなかった。
でも、いま、やっとその答えがわかった。
王子様に愛されてなくても、自分が愛しているからだ。
相手が他の女性を好きでも、まだどうしようもなく彼が好きだからだ。
そんな相手を、殺せるわけがなかったんだ。
* * *
彼女は十五歳の誕生日に、難破した船に遭遇し、そこで溺れていた人間の王子を助けてあげた。人魚姫はその王子に一目惚れするものの、人間に姿を見られてはいけない彼女は、王子が目覚める前に海に帰っていった。
海の中に帰ってからも、彼女はその王子のことが忘れられなかった。恋い焦がれ、王子に会うことだけを夢見た彼女は、ついに禁断の魔女の家を訪れ、彼女に人間にして欲しいと頼む。
魔女は、人魚姫のその美声と引き換えになら、尾ひれを足に変える飲み薬をあげるといった。しかし、人間になったのち、王子から真実の愛を得られなければ、彼女は海の泡になって消えてしまうという。人魚姫はそれでも構わないといって、その薬を手に入れた。
人の足を手に入れた人魚姫は、人間界に降り立った。無事に王子と再会し、住むところがない彼女は、王子の計らいで宮殿で暮らせるようになった。人魚であった彼女が地を歩くのは、ナイフで抉られるような痛みを伴ったが、それでも彼女は王子といられて幸せだった。
しかし、王子の心は難破した時に助けてくれた女性にあり、声を失った人魚姫にはそれが自分であると伝える術がなかった。その後、王子は隣りの国の姫君が、自分の命の恩人であると誤解をし、彼女との結婚を決めてしまう。
彼らの結婚式の日。死を覚悟した人魚姫の前に、彼女の姉の人魚たちが現れた。久しく見る彼女たちからは美しい髪が消えていて、人魚姫がそれはなぜかと問うと、彼女たちは自分の美髪と引き換えに、魔女から短剣を貰ったといった。そして次の朝日が昇る前に、人魚姫がこれで王子の心臓を刺せば、彼女は人魚に戻れ、生き永らえることができるという。
その日の晩。人魚姫は短剣を持って、王子の寝室に行った。しかし、彼女は刺さなかった。寝ている王子に口付けてから海に飛び込み、海の泡になっていったのだ——
* * *
長い、夢を見た。
夢は、見ている間はあんなに鮮明なのに、起きるとふっと消えてしまうのはなぜなのだろう。
まあ、特にこんなに熱が出ているときは、仕方がないよね……
次の日。
蛍は熱が39度近くまで出てしまって、ゼミはおろか大学にも行かれず、ベッドに固定して眠っていた。
苦しいけど風邪を引いて良かったと思っている–––築島先生と顔を合わせずにすむから。わたしは、ポーカーフェイスなんてできないから、きっと隠し通すことなんてできない。
昨日は、一人でショックを受けていたけれど……考えてみれば、そう。先生に好きだなんて言われたことは、一度もないのだ。交際しようと言われたこともない。ただこの肉体関係を続けたいかと聞かれて、頷いただけ。わたしが勝手に好かれていると解釈していただけだ。
先生はわたしを別人と重ねている——先生からもらう不自然な形の愛情も、これで説明がつく。
ウトウトしていると、階段から複数の足音が聞こえて来た。
今日は仕事でいつもいないお母さんが、会社を休んで看病してくれている。だけどもう一人は誰のものだろう。
”それにしても、あの子の先生がこんなに格好良かったなんて、”
なんかぼそぼそ会話が聞こえてくるけれど、一体……
「お母さん……?」
ノックの後、ドアが開いた。
「蛍ー? ゼミの先生がお見舞いに来てくださったわよ」
その言葉を聞いた瞬間、布団を頭まで被った。
「あら、どうしたのかしらこの子……あ、先生、ソファにかけてくださいね。いまお茶をお持ちしますから」
「お構いなく」
お母さんは、下に降りて行ってしまった。どうしよう。
「いつまでそうしている気だ」
そう指摘されて、そろそろと布団から顔を出した。
「具合はどうなんだ」
先生はいつもと変わらない様子だった。
「大丈夫、です」
「病状は正しく風邪なんだな」
「はい……湿疹や嘔吐はないし、生肉や生鮮魚介類も食べてないから……」
「そうか」
先生は、ちょっとほっとしたように見えた。
「熱は出し切ったほうがいい。今朝から38度以上あるなら、夜にはほとんどのウイルスが死滅するだろう。そうしたら熱は勝手に引く——あと水だな。時間をかけていいから二リットルは飲んでおけ」
「はい」
「そしてこの解熱剤は——」
先生は、わたしの机の上にあった薬の箱を取った。
「ああ、やっぱり毒だから飲むな」
裏に書いてある成分表を見て、ゴミ箱にポイと捨てた。
「大体、なんでこんなものがこの家にあるんだ。きみの父親は薬剤師だろう」
「……お父さんはいま、単身赴任中なの……お父さんがいないと、お母さんは宣伝されてる薬を買っちゃうの、なんか効く気がするって言って……」
先生からみたら、お母さんは無知で哀れな消費者のうちのひとりなんだろうか。
「そうか。ならこれからは、きみがお母さんを守ってあげなきゃな」
ズキっとする。
「ゼミはいくら休んでもいいから、回復したら出席してくれ」
そうだね……
先生は、実は優しい人だ。
いまも、心配そうにわたしを見てくれている。
でも先生は、わたしを見てはいない–––
また階段から足音が聞こえてきて、先生は鞄を持った。
まだだ。
「あら、先生。もうお帰りですか?」
「ええ、お邪魔しました」
「いまお茶を入れましたのに、」
「白井くんも、僕がいるとくつろげないでしょう。様子を見に来ただけですから」
まだだめだ。
「また大学で。お大事に」
そういって、先生は部屋を出て行った。お母さんは見送りに行った。
ドアがパタリと閉められて。階段を降りる足音も、聞こえる声も小さくなっていった。
もう、いいかな……
わああああああん。
わたしの涙腺は崩壊した。目から滝のように涙が溢れてくる。
ずるいよ。ひどいよ。なんでこんなに好きにさせたの。
でも……わたしが馬鹿だったんだ。
愛の告白から始まったわけでもないのに。なんで先生が自分のことを好きでいてくれているなんて思えたんだろう……
わたしは泣き疲れてまどろみながら、もしここに白雪姫の毒リンゴがあるなら、かじりたいと思った。眠れる森のお姫様のように、ずっとずっと眠ってしまいたいと思った。そして人魚姫のように……
ああ、そうか。
そういうことか——
わたしには、小さい時から不思議だったことがある。
おとぎ話の人魚姫は、なんで王子様を短剣で刺さなかったのか——
足を裂いて人間界にやってきたのに。声をなくして代償を払ったのに。命を助けてあげたのに。なのに他の女性を選んだ男性なんて、もう彼女にとって王子様じゃないはずだ。
だから、せっかくお姉さんたちが作ってくれたチャンスをみすみす捨てるなんてと、彼女が泡になることを選んだ理由がわからなかった。
でも、いま、やっとその答えがわかった。
王子様に愛されてなくても、自分が愛しているからだ。
相手が他の女性を好きでも、まだどうしようもなく彼が好きだからだ。
そんな相手を、殺せるわけがなかったんだ。
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