東京都大田区蒲田

れつだん先生

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第1話 原稿

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 東京都大田区の蒲田駅付近は、二十三区の中でもかなり治安の悪い場所だといわれている。しかし実際その辺りに住んでみると、いわれているほど酷いとは思えない。ヤクザも外人もジャンキーもバイヤーも見かけないし、そういったものを期待していると肩透かしを食らう。東京なら歌舞伎町が一番危ないと思う。僕はそこで、酔った勢いで黒人からマルボロ・メンソールの空き箱に入った煙草の形にまとめた大麻を買ったことがある。
 酔った勢いといえば、蒲田駅西口の二十四時間営業の居酒屋で深夜友人と呑んでいたら、後ろのテーブルに座っている若い男の集団があまりにもうるさくて切れてしまい喧嘩になりそうになったことがある。僕は酔ったら性格が豹変する性質で、これまでにも色々と困ったことや危なかったことがたくさんあったが、喧嘩は一度もしたことがないし、そういうことを求めてもいない。背も低く力もないので負けることは確定しているし。ただアルコールが入ると豹変するだけだ。
 深夜一人で蒲田駅周辺をぶらついても、一度も危険な目に遭った試しはない。若い女性が一人でいるのもよく見かける。ではなぜ治安の悪い場所だといわれるのだろうか。元々そこに住んでいた何人かの人間に話を聞いたことがある。決まってこう言った。
「昔は酷かった」
「昔に比べると、今はマシだ」
 僕は元々の住人ではないので、昔のことはわからない。
 そこで僕は考えた。蒲田地区の今の現状をまとめれば、偏見がなくなり、そうやっていわれることはなくなるのではないだろうか、と。

「どうでしょうか?」
 蒲田駅東口前にあるドトールの二階奥で、僕たちは見合うようにして座っていた。僕の原稿を読み終え、それをテーブルの端に置き、生クリームの乗ったミルク・ティーをストローで飲む。僕もそれに習い、ブラックのアイス・コーヒーをストローを使わずに直に飲む。
「今回は自信があります」という僕の言葉を遮るように、「駄目駄目、駄目すぎるわよ」と言った。少し声が大きかったせいで、まばらに座っていた客が一斉にこちらをちらりと見た。
「私が連載しているコラムの読者は、こういうのは求めてないのよ」
 手入れが届いておらず、尚且つ脱色のし過ぎで傷みきったぼさぼさの髪型、その肩にちらばる白いふけ、ファッション・センス皆無の服装、ちゃんと栄養を摂取しているのか疑いたくなるごぼうのような腕、そしてなりより、なんのお世辞も浮かばない面構え。高橋美月という本名が、かなりの皮肉になっている。
 僕自身、述べる必要もないほどイケメンでもお洒落でもない。クロックスに短パン、Tシャツ、髪型は自宅でバリカンで刈っただけの丸坊主、ピアスは数年前に二個開けた。唯一この女と違う点は、自分には魅力が一つもないと自覚しているところだ。
「でも、蒲田で出している雑誌だから蒲田を舞台にしろ、と前言ってたじゃないですか」
「あんた、脳みそ入ってんの?」
 喋るたびに唾が飛んでくる。
「どういうことですか?」
 脳がニコチンを求めはじめたのを感じる。
「どういうこともクソもないわよ。蒲田は、いわれているほど治安は悪くないですよ、だなんて書いて、いったい誰が喜ぶわけ?」
 言いながらばさばさの髪の毛をかき上げた。ふけが飛び散った。そのふけが木のテーブルにぱらぱらと落ちていくのをぼんやりと眺めていた。何割かはミルク・ティーの生クリームに消えていった。
「蒲田のイメージがよくなるじゃないですか」と、ついつい口調を強くして反論してしまった。この女になにを言おうと無駄だとわかっているのに。
「そんなのはいいの」と、顔を真赤にしてつばを飛ばして叫ぶ。ふけを飛ばしつばを飛ばし、次はなにを飛ばすのだろう。
「私の読者は十代と二十代の男がメインなの。その世代が喜ぶものを書かなくて、なにを書くっていうわけ?」
「わかりました、書き直します」
 素直に従うと、僕に向かって思い切りため息をついた。嗅いだことのない臭いが鼻を突き抜けた。ふけ、つば、そして臭い。
「まったく……。前の助手は、言わなくてもわかっていたのに」
 なにが助手だ。他人名義でコラムを書かせて、それをすべて自分名義の仕事にし、入ってくるギャラはほとんど自分のものにしているくせに。つまり、僕の名前をペン・ネームとして使っている。僕の本名なのに、僕が書いているのに。もう一つ僕は知っている。コラムやライターだけでなく、風俗でも働いているということを。そこまで働く理由はただひとつ。ホストに貢いでいるから。頭の悪い女の見本のような女だ。
「危ない系でいきましょうか」と、考えていることを顔に出さないように注意しながら言葉を出した。
「そうね、それなら食いつきよさそう」
「で、取材費とかは……?」
「はぁ? 出すわけないでしょ、ライターの端くれにもなってないゴミみたいな人間が、はぁ? 取材費だって? あんた社会舐めてんの?」
 もう一つ僕は知っている。この貢ぎ女――ミツギは、僕が自腹で調べたことを自分で調べたことにして、取材費をもらっている。そしてそれをホストに貢ぐという流れ。
 ここが喫煙席だったことを思い出し、ポケットから煙草を取り出したところで、ミツギがより顔を真っ赤にさせ、「ちょっとぉ」と大声を出した。同時に唾も飛んでくる。周りの客の視線が痛い。
「私の前では煙草は吸わないでと、何度言えばわかるわけ? 臭いがついちゃうのが嫌なのよ。ったく……」
 僕がポケットに煙草をしまうと同時に、ミツギの携帯が鳴った。ガラケーと呼ばれる機種。電話だろう、着信が長い。着信のメロディは某男性ダンス・グループの有名な曲。着信の名前を確認した瞬間、顔つきが変わった。
「もしもしぃ、マコト? うん、今日暇だよ。え? 店? 行く行くぅ。給料入ったから、今日はちょっと高いの入れちゃおうかな。うん、うん、じゃあ八時にね」
 声色まで変わっている。女の怖いところだ。すこしぼうっとした後に電話を切り、慌てて原稿を鞄にしまいこみ、そして立ち上がった。
「じゃ、頑張って仕上げて」とだけ言い、小走りで出ていった。僕はそれを見届けた後、思い出したように煙草を取り出して、それをゆっくりと味わった。

 よしと気合を入れてパソコンの前に座り込んで二時間が過ぎた。時計の針は夜の七時を指している。煙草ばかりを消費して、原稿はまったく進んでいない。吸い殻が山になった灰皿に吸い終えた煙草をねじ入れると、数本が灰をまき散らせながらカーペットの上へと落ちていった。十代と二十代の男の読者をターゲットにしたもの。その世代が好きなものと言えば、普通に考えてエロかバイオレンスしかないだろう。しかし、そういう世界の住人たちが無料で取材に応じてくれるわけがない。それになにより、そういう世界のコネは一つもない。
 だとしたら、ミツギに誰か紹介してもらうか? ……いや、それをすれば紹介料やらなにやらと取られるに決まっている。それ以前に、ミツギはほとんど役に立たない。これまでもそうだった。
 そして一つの結論に至った。やはり、そういう世界に精通している人を自分で見つけるしかない……。
 明日は金曜日だ。夜に蒲田駅周辺を歩いてみようと決めて、精神安定剤と睡眠薬を飲んで寝た。
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