東京都大田区蒲田

れつだん先生

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第7話 真里

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 十一時頃に起きて、一服しつつパソコンのメールをチェックする。ミツギから「今回分はこれでOK。ギャラはもう振り込んでおいた」との返事。僕は生活保護を受給しているので、役所に提出した口座は使えない。一円でも収入があれば、収入申告をしなければならない。数千円程度ならそのまま懐に入るが、それ以上の収入があれば一定額を返納しなければならない。なのでサブの口座をギャラ振込用に使っている。
 ギャラを下ろすのと昼飯が食べたいので、歩いて数分のファミリー・マートへ行く。ATMで残高を確認すると、いつもより多めに振り込んであった。内容がよかったからだろうか。全額下ろして、パンと牛乳を買って帰る。
 すっとスマート・フォンを触っていなかったので、布団に寝転がり確認する。小林真理さんからメッセージが一件入っていた。
 小林真理さんは、僕が以前、二年間通っていたデイ・ケアのスタッフだ。年齢は三十五歳、独身。スタッフと利用者が連絡先を交換するのはご法度だと聞いていたので、卒業するまで我慢して、卒業後に行って交換した。
「透君久しぶり。前号の君の記事読んだよ。面白かった!」
「真里さん、お久しぶりです。あ、読まれましたか、ありがとうございます。ネタバレなんですが、次回からは少し内容の違う連載になる予定です」
「へぇ、早く読みたい!」
「自分で言うのは恥ずかしいんですが(笑)ぜひお楽しみに!」
「楽しみにしておくよ(笑)」
 メールのリレーがそれだけで終わりそうだったので「今日、夜って予定空いてます?」と訊いてみた。言っておくが、真里さんとはその連絡先を交換して以来、一度も会っていない。なぜ食事に誘ったのか? いいネタがやってきて、しかもそれが即採用で、いつもより多いギャラが即入金、という嬉しいことが立て続けに起こったからだろうか? 実際に顔を合わせた時は満足に喋ることができないくせに、文字上だったらこんな風に饒舌に話せるということが、我ながらに情けない。「ごめん、空いてないよ」というメッセージであっても、実際に言われるよりダメージが小さく済むと考えているからだろうか?
 緊張の数秒間、いや、数十秒間、はたまた数分間、そしてそれ以上――どれほどの時間が過ぎたのかわからない。どれほども時間が過ぎていないのかもしれない。そして僕のスマート・フォンが軽く、一度だけ振動した。慌てて開くと、――迷惑メールだった。短く、簡単で、覚えやすいアドレスのせいだ。しかしもう何年も変えていない。いろいろと面倒くさいから。そしてまた続けて振動した。
「七時過ぎには仕事終わると思うから、それからなら空いてるよ」
 驚いた。
「マジかよ」と、思わず甲高い声を上げていた。こんなにスムースに誘えるのなら、もっと早くに誘っておけばよかった。いや、それは違うかもしれない。ずっと誘わなかったから、それが積み重なった結果、この男は軽々しい男ではない、という答えが真里さんの頭の中から導き出されたのかもしれない。僕には、三十五歳で独身の女性の気持ちはわからない。だからステレオ・タイプな憶測でしか物事を語れないけれど――やはりそれぐらいの年齢になれば、嫌でも結婚を考えるだろう。十代や二十代の時は好きな人との普通の恋愛ができたけれど、三十代半ばは、結婚できる人と恋愛をするのではないだろうか? だとしたら、結婚できる人というカテゴリに属する条件とはいったい?
 軽くない人、これは属するだろう。そしてなにより、金を持っている人。これも当たり前の話だ。しかし、僕は前述したように生活保護を受けているし、短い文章で小遣いを稼いでいるだけで、生活はかなり不安定だ。おまけに金の計算が出来ず、月末になると金欠になってしまう。貯金なんてあるわけがない。だとしたら、僕はそのカテゴリに属さない。しかし、これはあくまでも一般女性の話だ。真里さんは十分な収入を得ている。いや、デイ・ケアの収入がどれぐらいかはわからないが、安くはないだろう。ということでつまり、金を持っている、という条件はある程度消える。残ったのは、軽くない人――つまり内面だ。僕はちゃんとルールを守って連絡先を交換したし、いきなりどこかへ誘ったこともない。だから真里さんの頭の中で、僕のポジションはそんなに悪くないと思う。
 ――あくまでも、僕が勝手に思うだけだ。実際どうなのかなんて僕にわかるわけがない。しかし、僕の誘いに乗ったことは事実だ。それが、付き合ってもいいなのか、食事ぐらいはいいなのか、どちらなのかはわからない。

 思考を変えるために散歩をする。これは数か月前に気づいたことだが、散歩をしていると頭がすっきりする。様々な考えごとやものごとが、脳内に綺麗にフォルダ分けされてゆく。そこで新たな考えごとやものごとが少しずつ湧いてくる場合もあるし、いきなり文章が思い浮かぶ瞬間もある。そしてなにより、運動になる。ほとんどを引きこもって過ごしているので、散歩程度でも十分に筋肉痛になる。。

 七時ぴったりに真里さんから連絡が入った。これからバスに乗って蒲田駅に行く、とのこと。駅ビルに入り、エレベーターに乗り、食事をする予定のレストランの前で待つ。途中煙草が吸いたくなったので同じ階にある喫煙所で一服しまた戻ると、レストランの前に真里さんが立っていた。
 少し茶色がかったショート・カットで、化粧と服装はとても落ち着いている。それなりの値段がしそうな紺色のジャケットに、同じく紺色のタイトなスカート、インナーは小豆色。当時からそうだったが、たまに、どこか年下の僕をからかっているような表情をする。いや、表情だけではない。発言だってそうだ。「なに遅れて来ちゃってるの?」という声が聞こえてきそうな、からかった笑いの表情。
「いやあ、すいません、ちょっとあっちで煙草吸ってて」と言いながら、頭を下げながら、半笑いで近づく。
「喘息持ちなんだからさぁ、止めたほうがいいんじゃない?」
「まあまあ、それはいいじゃないですか。じゃ、入りましょう」
 よくわからないジャンルの落ち着いた音楽が鳴る店内には、僕たち以外の客が、数組食事をしていた。そのどれもが僕たちより年配だった。ウェイトレスが席へ案内し、木でできたテーブルに、向い合せで座る。僕の頭の中は、真里さんでいっぱいになっていた。食事なんてどうでもいい。僕が、僕みたいな人間が、真里さんと、真里さんみたいな人と、二人っきりで、小洒落たレストランで向かい合わせにして座っている。どうにもおかしな話だ。現実感がなく、常に浮遊し続けている。実際、これはすべて夢なのかもしれない。この際夢でもいいような「――」気がするけれど、それはそれで虚しい「――る?」よな。いやいや、本当に幸せ「ちょっ――」だな。この時間が永久に「ちょっと」
 訝しげに僕を見つめる真里さんの表情はとても美しい。記念に、写真撮影をしてもらおうか。それを引き伸ばして壁に貼り付けたら、毎日真里さんに会えるわけだ。いや、流石にそれはストーカーじみている。じみているレベルではなく、頭が愛で支配され完全におかしくなったストーカーだ。だとしたら、忘れないように、この景色を目に焼きるけなければ。
「ねえ、透君?」
 その瞬間、ようやく僕の意識が、妄想の世界から現実の世界へ戻った。僕は一体どのような表情で、真里さんの前に座っていたのだろう。下品な笑いを浮かべていたのかもしれない。恥ずかしい。嫌われる原因になるかもしれない。そんなことが頭の中で回りだした。僕は慌てて「はい、どうしました?」と言った。
「どうしましたじゃないわよ、なに食べるか決めた? 私は蟹のトマトソース・パスタとサラダにするわ」
「あっ、はい、そうですね……うーん、じゃあ……僕もそれで」
 真里さんがウェイトレスを呼び、注文する。「お飲み物はいかがですか?」と若いウェイトレスが訊くと、真里さんは僕に確認することなく「そうね……じゃあ、アイス・ティーをストレートで二つ」と注文した。
 ウェイトレスが頭を下げて奥へ入っていくのを見届け、「新連載、読ませてよ」と言った。僕は慌てて、使い古したビジネス・バッグからクリア・ファイルを取り出した。「連載の最初ということで、まだ冒頭の冒頭という感じですが」と言いつつ、真里さんに手渡す。
「ありがとう」と言いながら手に取り、まず冒頭に目を通し「今回も、蒲田を宣伝するような内容?」と続けた。真剣な眼差しも美しい。ほっそりとした白い鎖骨が美しい。まったく、この女性をものにできる男って、一体どれぐらいのレベルの男なのだろうか?
「透君聞いてる?」という発言にようやく我に返り、慌てて「聞いてます、聞いてます、全部聞いてます」と返した。
「スタッフの間でも、もちろんデイ・ケアの中でも、透君が話題になってるのよ。だって、自分の書いたものが記事になって、掲載されるなんて……すごいことじゃない」
「ありがとうございます」
 ウェイトレスがやってきて、テーブルに料理を並べる。真里さんはファイルを一旦料理の隣に置いて「先に食べよっか」と言った。返事をして、旨そうで高そうなスパゲティにフォークを突き刺す。名前の通り、大きな蟹の身が乗っている。オレンジ色のソースにもすりつぶした蟹の身が入っている。蟹尽くしだ。
「私は蒲田をそんなに知らないから、透君の記事は新鮮な気持ちで読めるのよ」
 真里さんはふと料理から目を外し、僕をじっと見据える。その真剣な顔つきも美しい。
「……え? 真里さんって、出身ここじゃないんですか?」
「え? 知らなかった? 私、北海道出身よ」
「あっ、そうなんですか。なんだ、僕と同じ地方出身なんですね」
 真里さんフォルダに、新たな情報が入る。
「あ……でも、今回の連載は、今までとはちょっと違うんですよね」
「そうなの?」
「受けが悪くなったみたいで、違うものを書けと言われまして」
「ふーん……読むのを楽しみにしてるね」と笑った。笑顔も素敵だ。
 僕たちはまた料理に集中した。真里さんは美味しいと言って喜んでいる。喜ぶ姿も美しい。
 と、三分の一ほど食べてから、「あ、このファイル借りていい?」と言った。
「いいですよ」
「家に帰ってからじっくり読ませて貰おうと思って」
「ありがとうございます。あ、もしかして、みんなに見せますか?」
「記事になったのを見せるよ。完成前の生原稿は、私だけの楽しみ。あ、次書けたらまた見せて貰っていい?」
 一体どういうことなのか、僕にはコントロールできない流れになっていく。次書けたらまた見せて、ということは、次書けたらまたこうやって一緒に食事ができるということか? ……そんな、そんな嬉しい話って……僕は今天国にいる。間違いなく天国だ。生きていてよかった。
「……生原稿を見せるのは恥ずかしい、とか?」と、少し残念な表情で言う。そんな表情も素敵だ。
「いやいや」と、慌てて声を出した。「全然、全然恥ずかしくないですよ。いやあもう、書き終えたら真っ先に見せますよ。ありがとうございます」
「なんだかいきなりテンションが上ったね」
「そりゃあ上がりますよぉ」
 僕が口を尖らせて文句を言うのを、真里さんは声を出して笑って見ていた。
 料理を済ませたら解散かと思っていたが、そこから色々と話し合った。お互いの近況から始まり、真里さんの仕事の話、真里さんの休みの日の話、真里さんの話、真里さんの話……。
 あまりに幸せすぎる状況のせいで、会話の内容がほとんど頭に入らなかった。駅前で別れ、一人家に帰ってからも、ずっとぼんやりし続けていた。

 昼過ぎに起きてスマート・フォンを確認すると、真里さんからメッセージが入っていた。
「記事読んだよ。透君大丈夫?」
 なにに対しての大丈夫なのかわからないので、「ありがとうございます。なんの問題もなく、大丈夫ですよ」と返信すると「なら安心した。これからまた仕事。頑張ってきます」と絵文字つきで送られてきた。「頑張ってください! ファイト」と僕も絵文字つきで返信した。
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