東京都大田区蒲田

れつだん先生

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第10話 限界

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 まったく眠れずに朝を迎えることはよくあるので、それについてはなにも思うことはない。普通の人であれば生活するために朝から晩――日によってはそれ以上の時間を金に変換する必要があるので、眠れないということにさまざまな弊害がついてまわる。ミスをして上司に叱られる、やる気がなくなって仕事がたまる、残業せざるを得なくなる、家に帰るのが遅くなる、翌朝も早いので十分な睡眠が取れなくなる。僕にはなにもない。ただ、昼寝をすると夜眠れなくなって昼夜逆転してしまうので、それだけには気をつけなければならない。それだけだ。
 僕みたいな生活をしていると、曜日感覚が狂ってしまう。だから部屋の壁に大きなカレンダーを飾って――
 カレンダーを確認した瞬間、思わず間抜けな顔で「あ」と呟いてしまった。今日は木曜日、つまり週に一度の通院日だということを忘れていた。
 仕方がないのでジャージを脱いで軽くシャワーを浴びた後歯を磨き、友人に貰った青いウルトラ・ライト・ダウンを着込んで外へ出る。イヤホンを耳に入れて音楽を流し、煙草に火をつけてぶらぶらと歩く。住宅街は静かで、その中にある小さな公園には誰もいない。車だって一台も通らない。十五分ほど歩いて大学病院に入り、人の隙間をぶつからないように歩いて受付を済ませる。看護師が「今日はかなり待つかも」と言ったので席に座って読書でもしようかと思ったが、ほとんど埋まっているので諦めて裏口から外へ出た。すぐそばにある寂れた公園は年寄りやサラリーマンの喫煙スポットになっているため、入ってベンチに座り煙草に火をつける。のんびりとした空気の中煙草を吸っていると、裏口へ向かって歩いている若い男女が目の端に入った。二人をなんとなく目に入れながら二本目の煙草に火をつける。デイ・ケアで知り合った人だろうか、だとすれば声をかけないと変に思われてしまうなと立ち上がって、そこでようやくその二人が佐和と小夜子だということに気がついた。慌てて携帯灰皿に吸いかけの煙草をねじ入れ、なぜだかわからないが二人の後を追っていた。
 二人は裏口の扉を開けたすぐ隣にあるコーヒー・ショップでコーヒーを注文していた。佐和は、ほとんど無表情で下を向いている小夜子に笑って話しかけ、コーヒーを手渡していた。小夜子に向けられていた視線がゆっくりと僕へ向く。そして目が合った。佐和は目を丸くして驚いた。おそらく僕もそういう顔をしていただろう。しかし小夜子は僕に気づいても表情を変えることなく、持っていたコーヒーをちびりと舐めた。

「まさかセンセと会うとはね」
 コーヒー・ショップは狭く、三人の座るスペースがなかったため、僕が最初に座っていた寂れた公園へ向かった。小夜子が色の剥がれたベンチに座り、僕と佐和が立って向かい合った。僕も流れでコーヒーを買い、佐和と同時に煙草に火をつけながら、佐和が苦笑いを浮かべながらつぶやいた。
「僕は週に一度通ってるからさ」と何気なく僕が返すと、また佐和が目を丸くして「えっ、センセってなにか病気持ちなの?」と言った。
 別に隠すものじゃないからと前置きした上で、二十代前半から続いている精神疾患のことを言った。すると佐和は少し考え、「ちょっと小夜子、三人分の水買ってきてくれない?」と言い小夜子をこの場から離した。
 小夜子が十分に離れてから「自傷行為が酷くてね……」と、疲れたような諦めたような表情で静かにつぶやいた。
「小夜子ちゃんも、どうすればいいかわからないんだろうね」と佐和へ呟くと、二度頷いて煙草を地面に落とし、かかとで踏みつけた。僕はできるだけ明るい声で、過去に二年通っていたデイ・ケアの話をした。そもそもデイ・ケアとはなにかというところから始めなければならなかったので、少し長くなってしまった。。
「そのデイ・ケアには、両腕に生々しい剃刀跡がびっしりと刻まれた女の子もいたよ。そりゃあまあ、こういう病気は病状だって人それぞれ違うし、原因も違う。重すぎて入ってすぐもう来なくなったりね。それでも、家に閉じこもって一人でずっと悩んで自分を傷つけるより、外に出て集まりに参加して同世代と日中過ごすと、最初は本当にもう小夜子ちゃんほどだった子が、徐々に明るくなっていく。そういうのを見ると嬉しくなる」
 なぜか僕は酔ってもいないのに饒舌になり、真剣な表情で耳を傾ける佐和に一気にまくし立てるようにして話した。そして最後に、「小夜子ちゃんのような壮絶なことがあると、回復にも時間がかかるとは思うけれど」とつけ足した。裏口を出てきた小夜子が見えたのでこの話を終えようとすると、佐和が「小夜子をそこへ通わせる方法ってあるかな?」と訊いた。「一応そこにつてはあるよ。でも、通うかどうかは僕たちが決めることじゃない。小夜子ちゃんが決めなくちゃ」と僕が返すと、「今ここで話し合おう」と佐和が決意した表情ではっきりと言った。
 そう、小夜子のことは僕たちがどうこうできる話ではない。
 小夜子自身が決める話だ。

 佐和は小夜子をまた色の剥がれたベンチに座らせ、僕が言ったことをそのまま自分に言い聞かせるようにして小夜子へ話した。しかし小夜子はうつむいたまま微動だにしない。僕も間に加わり、説得するように話した。病状がよくなる、病院内だから安全な場所だ、佐和に頼りすぎるのはよくない。この三つを繰り返した。小夜子の反応はない。少し苛立ったのだろうか、佐和が小夜子の肩を掴み「小夜子はどうしたいんだよ?」と泣きそうな声を上げた。公園にいた人々が僕たちを見た。佐和はばつの悪そうな顔で手を肩から離し、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。その瞬間、突然小夜子が立ち上がり、佐和に飛びかかった。呆気にとられた僕は、小夜子が奇声を張り上げ髪の毛を振り回しながら佐和の顔を掻きむしり、服を破き、皮膚を掻きむしり、肩から下げたショルダー・バッグを叩きつけるのをただ見つめていた。

 佐和も小夜子ももう限界だ。

 ――僕は、仕事の間は連絡を取り合わないという暗黙の了解を無視し、連鎖反応のように真里さんに電話をかけた。数回呼び出し音が鳴り「透君、どうしたの?」という真里さんの声が耳に入った瞬間、僕の頬に涙が伝っていった。真里さんは何度も「透君?」と僕を呼び続けていたが、それをただ聞くことしかできずにいた。

 僕ももう限界だった。
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