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 人類の発達は文明の発達であり、それに対して僕はただただ感謝の言葉を述べるしかない。しかし、誰に対して言えばいいのかわからないので、とりあえずありがとう、と心の中でつぶやいた。
 八月に入り、本格的な暑さが続いている。窓の外からは、必死そうな蝉の鳴き声が聞こえる。当然学校は夏休みなので、一日中涼しい部屋の中でだらだらとできるけれど、残念なことに三年生なので、受験勉強をしなければならない。しかし、そんなものにやる気が出るわけも無い。しなければならないけれど、やらないのだ。
 屋外は灼熱地獄だが、室内は過ごしやすい温度を保っている。エアコンからは冷たい風が流れ、それだけでは足りないので、扇風機もセットしている。そんな快適な部屋でアイスをかじりながら、冷蔵庫で冷やしておいたアイスコーヒーを飲む。場合によっては、父親のビールを拝借するのも悪くない。
 暑いから夏が嫌い。ただそれだけだ。海へ行ったってプールへ行ったって、水に入っていれば冷たくて気持ちいいけれど、一歩水から上がればただ単に暑いだけだ。と考えたところで、行く相手がいなかっということに気がついた。
 そこまで暑さを感じない春頃は、バイトの金で買った原付に跨って色んな所へ行ったりもしたけれど、夏に入るとさすがにそんな気力も無くなってしまい、日々がただ過ぎるのを、涼しい部屋でごろごろしながら待っていた。

 高校の夏休みが始まって一週間経ったある日のこと。僕はやはり快適な部屋で、氷が浮かぶアイスコーヒー片手にインターネットに勤しんでいた。いつもなら静かだけれど、今日は弟の誠が友人を連れてきているようで、一階から騒ぐ声が聞こえてくる。その音の中に、階段を昇ってくる足音が入ったのを感じ、僕は慌ててパソコンのモニタの電源を落とした。母親だろう。「勉強しろ」と言われる前に、パソコンの横に乱雑に置かれていた、志望大学に絶対受かる! と表紙に書かれた参考書を手に取った。そのうたい文句が本当かどうかは、読んでいないのでわからない。たぶん永久にわからないだろう。
 母親がノックもせず扉を開けた時には、既に僕は参考書を睨みながらノートを取る、受験生へと変貌していた。
「ちょっといい?」
「どうしたの?」
 今はそれどころじゃないと言った風に、参考書から顔を離さずに返事をする。母親は、机に新しいアイスコーヒーを置きながら、「勉強中のところ、ちょっと悪いんだけれど」と言った。
「どうしたの?」
 同じ言葉で答える。
「進学するつもりなの?」
「ま、一応ね」
「そう。勉強の合間に、取っておきなさいって、お父さんが」
 新しいアイスコーヒーを一口飲んだ。やっぱりブラックが一番だな。
「何を?」
「車の免許よ」
 何だそんなことか。「残念ながら進学せずに働いてもらうことになったから」みたいなことを言われるのかと、内心びくついていた。多分だけれど家計はそんなに良くない。
 僕が住む田舎の街では、親から教習へ行けと言われるのは当たり前のことだった。公共機関が使いにくく、車を持っていないとどこへも行けない、山に囲まれた田舎。就職予定のクラスメイトのほとんども、暇な夏休みの時期に免許を取りに行くようだった。しかし僕は、卒業すれば都会に進学す予定だし、そこには公共機関が十分なほどに行き届いている。自転車か原付があれば十分過ぎるだろう。駐車場もいらないし燃費も良い。
 いや、ちょっと待てよ。「原付があるからいいよ」という言葉が出そうになるのを慌てて飲み込み、もう一度アイスコーヒーを口に運んだ。母親はいつの間にか座布団を敷いて床に座っている。
 大学へ行ってから取るのもいいけれど、別に今持っていて邪魔というものではない。それに、車はエアコンという画期的で素晴らしい文明が備え付けられているじゃないか! 屋根もある。わずわしい季節を、直に感じることも無いし、変わりやすい天候にうんざりすることもない。
「でも車買うようなお金無いしね」
 心の中では、ここにいる間両親の車を借りようと考えていたが、一応そう言っておく。
「私か父さんの車使えばいいじゃない」
 僕は、しめたとばかりの満面の笑みで頷いた。

 ことは早い方がいいと、早速外出の準備をし、玄関の扉を開けた瞬間、ありえないほどの熱気が、全身を痛めつけてきた。そして次の瞬間、けたたましい蝉の鳴き声が、聴覚を壊そうと耳へ侵入してくる。風は、吹くようなそぶりを一切見せない。家の中へ右へまわれしそうになる体を、無理やり外へと追い出し、玄関から歩いて数歩の所にある、母の車の助手席へと素早く乗り込んだ。エンジンを付けたばかりなので、まだ車内はかなり暑い。太陽光は無くなったものの、熱気がすごい。久々に大量の汗を流した。
 車が走り出してすぐに窓を開け、流れ込んでくる風の気持ちよさに目をつむる。しばらくするとエアコンから冷気が漂ってきたので、僕は静かに窓を閉めた。
「原付で通える範囲がいいわよねえ」と当たり前の顔で母が言うので、一瞬何を言っているのかがわからなくなってしまった。え?
「送ってくれないの?」
 そんな僕の言葉を、母親は怪訝そうな目で返した。いくら近いといっても、たった一瞬だけでもこの暑さを感じるのが嫌だった。それに、これは一番重要なんだけれど、近場を選んだ場合、学校の知り合いに会ってしまうという可能性がある。夏休みなのにわざわざ会いたいような知り合いなんて、唯一の友人である亮太ぐらいしかいない。といってもその亮太でさえも、最近は全然連絡を取っていないんだけれど。
「何馬鹿言ってるの。こっちは、あなたと違って夏休みなんて無いんだからね」
 僕はしぶしぶそれに従った。期待していた僕が馬鹿だった。
 最終的に、家から原付で十五分の所にある教習所へ通うことになった。
 すぐにそれは見えてきた。田舎にある教習所だけあって、山に囲まれた自然を感じる場所に建っていた。できてから結構経っているのだろうか、かなり老朽化が目立つ。駐車場は狭いし、入り口のガラス扉は汚れで淀んでいる。車を駐車場へ止めて外へ出た瞬間、またあの熱気が全身を襲った。慌ててガラス扉を開け、中へと入る。外から見ただけではわからなかったけれど、かなりの人でごった返してした。そのせいなのか、元々古くて効かないのかわからないけれど、エアコンは付いているにも関わらず、全然涼しくない。人ごみをかきわけながらひび割れた床を歩いて、小汚い木でできた椅子に座る。すぐ近くにある喫煙席から、煙草の煙が漂ってきた。それを手で払いながら、母親が受付に行って書類を書いたりしているのを、ただ眺めていた。
 やっぱり夏休みとあってか、僕と同年代の男女が多い。あまりのうるささに、ポケットに入れておいたポータブル・プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳に付けて、操作し、音楽を再生させた。
 入り口から入ってすぐ右に受付があり、そこから真っ直ぐ行くと大きなガラス張りが見える。その向うには、実習のためのコースが広がっていて、何台もの車が走っている。どうやら赤い乗用車がオートマ車で、青い乗用車がミッション車のようだ。狭いS字を走る車、踏み切りで一時停止している車、坂道の途中で止まったままの車。一台の赤い車が、ガラス張りのすぐ近くに車を止め、教習生の女性と、教官の男が降りてきた。女性は僕ぐらいの年齢だろうか。今でこそ、男がオートマを取るのは、当たり前になりつつあるけれど、こうして見ると、やっぱりほとんどの男は、ミッションを取っているようだ。僕は別に乗れればいいし、オートマでいいんだけれど、母親はどうせミッションを選んでいるんだろうな。
 受付が済んだ母親が僕の隣に座り、何か喋っている。僕は慌ててイヤホンを耳から外した。教科書を数冊手渡される。
「開始は三日後の八月四日から。最初は学科を受けて、何回かしたら実際に車に乗るんだって」
 とっとと卒業したかった僕は、「高い」だの「暑い」だの文句を言う母親をそのままに、十五分後に行われる学科一のために教室へと歩いて行った。あまりにもつまらなかった。
 待たせておいた母親も僕も疲れきってしまい、帰ってすぐに寝てしまった。
 夜中の三時ごろに、暑さで目が覚めて、何気なく枕元に置いておいた予定表を眺めた。この紙によると、スムーズに行けば三週間もしないうちに卒業できるらしい。卒業してから免許センターへ行き、合格すれば、堂々と車を乗ることができる。まずはどこへ行こうか。意味も無く市外へ出てみようか。亮太を誘ってどこかへ食事でも行こうか。輝かしい未来に思いを馳せていると、いつの間にか眠ってしまっていた。

 緊張のせいだろうか、教習は昼からなのにも関わらず、朝の八時に目が覚めてしまった。重い体を引きずるようにキッチンへ行くと、朝食がテーブルの上に並んでいた。寝ぼけたままそれを腹の中へと入れていると、父が起きてきた。挨拶をし、父が椅子に座り朝食を食べながら新聞を読んでいるのを、眺めながら食事を続けた。。
「今日から一人だからね」と、椅子に座りながら、母親がわかりきったことを言う。
「まあすぐに卒業できるだろ。父さんでさえ一発で取れたんだから」
 父親は、高校を卒業してすぐに、鉄工所で働きだした。それが理由なのかはわからないけれど、自分を卑下した言い方をたまにする。僕はそれがあまり好きではなかった。僕にはまだ実感できないけれど、きちんと働いて結婚して、子供を育てるだけで、とてもすごいことなのではないだろうか? こうして何不自由しない生活をできるのは、両親のおかげだ。教習所へ通ったり、大学へ進学したり、快適な部屋で過ごしたり。感謝の気持ちは当然ある。伝えてはいないけれど。
「まあ、できるだけ早く取ろうとは思ってるけど」
 貴重な夏休みを、免許取得だけで消費してしまうのは勿体無い。半分は車の運転に費やしたい。なので早くは卒業するつもりだけれど、試験に落ちれば、その分卒業の日が伸びることになる。ある程度は、勉強したほうがいいだろう。でもやる気が起きない……。
 教習まで時間があるので、自分の部屋に戻って読みかけの小説を読んだ。かなり売れている本らしいけれど、あまり面白いとは思えない。数ページ読んで本を閉じ、ポータブル・プレイヤーで音楽を聞く。最近は古い洋楽ばかり聞いているので、今日は邦楽を聞くことにした。何だか新鮮な気分になる。庭で車のエンジンがかかる音がしたので、プレイヤーを持ったまま窓の外をのぞいた。父親の軽四が住宅街を軽快に走って行った。僕ももうすぐ乗ることができる。そんな妄想のせいで、音楽は一切頭に入ってこなかった。

 スポーツカーを巧みに操りながら、住宅街を駆け抜けていく。二人乗りの車を運転する僕の隣には、綺麗な女性が座っている。ショート・カットで、化粧は薄く、肌を強調させた、タイトなTシャツを着ている。僕の方を見て薄っすらと笑みを浮かべる女性に目をやり、少しだけスピードを上げた。信号に指しかかるが、タイミングよく青になってくれるので、ブレーキを踏む必要も無い。道路は二車線に代わり、前をゆっくりと走っている車を華麗にすり抜けた。ビルの群衆が一気に開け、目の前に海が広がった。隣を見ると、母親が座っていた。
「ちょっと今日教習じゃないの?」
 そこで目が覚めた。

 鞄に教科書と筆記用具を詰め込み、洗面所へ行き歯を磨いて、大きく欠伸をした。玄関で靴を履き、外へ出ると、立ちくらみが起きそうなほどの熱気が僕に襲いかかった。庭に置いてある原付にまたがり、エンジンをかけようとした瞬間に、鍵を部屋に忘れたことに気づいた。部屋に鍵を取りに行き、いざ発進。汗がだらだらと流れる。しかし一度原付を走らせれば、後は、心地よい風を感じるだけだ。車をすり抜けながら軽快に走る。夢とリンクしていることに笑いがこぼれた。免許を取り、車に乗るまで毎日あんな夢を見るんだろうか?

 教習所は、今日も人で溢れ返っていた。人ごみを掻き分けながら、二階にある教室へ入る。時間は十分前。ギリギリだった。教室も同じように人でいっぱいだ。空いている席を見つけながら、うろうろとしていると、一人の女性と目が合った。僕と同い年ぐらいだろうか。ショート・カットの少し脱色させた髪の毛が、光を吸いこませながら、かすかに輝いている。顔は小さく、化粧は薄っすらとしか施してしていないけれど、土台がいいのだろうか、それが逆に可愛さを引き立たせている。体にフィットしたタイトなTシャツの胸の辺りには、丁度いいぐらいの凹凸があった。僕から目を逸らし、髪の毛をかき上げた瞬間、うなじが見えた。
 夢で合った女性に出会えた、と思ってしまった僕はまだ子供なんだろうか。一撃でやられてしまった。これ以上の説明は必要ない。だってそうだろう? 惚れるのに理由なんていらないんだから。
 その女性の左隣が空いていたので、心臓の鼓動を抑えながら、さりげなく席に付き、鞄を床に置いた。そこから教科書を取り、机に並べる。そこで気づいた。筆記用具を忘れた。授業が始まったら、教官に言って借りよう。今は、そんなことは、はっきり言ってどうでもいい。僕は気にしないようにプレイヤーをポケットから取り出し、イヤホンを耳に入れた。横目でちらりと彼女を見る。彼女も僕を見て、目が合った。「なあに?」というような顔で微笑む彼女から急いで目を逸らし、プレイヤーの音量を上げる。心臓の高鳴りが止まらない。音楽が耳に入らない。もう一度彼女のほうへ目をやり、目線を下に落とす。足の付け根まで見えているショート・パンツを履いていて、生足が、僕の、目の中に。
 思わず手を伸ばしそうになった瞬間、僕の行動を止めるかのようにチャイムが鳴り、教官が入ってきた。僕は大きく深呼吸をする。イヤホンを外して、プレイヤーをポケットに入れると、右の方から鉛筆が顔を出した。なんだろうと隣を見ると、彼女が小さく笑いながら僕に鉛筆を差し出していた。
「あ、え?」
 多分間抜けな顔なんだろう。そりゃそうだ。何が何だか理解ができない。
「筆記用具忘れたんでしょ?」
「え? あ、はい。ありがとうございます」
「何で敬語なのよ」
 彼女は、悪戯を覚えた少女のように笑った。それがたまらなく可愛かった。学科を受けている間、彼女は真剣な目で教官の話を聞いていた。その真剣な眼差しが、たまらなく可愛かった。それを見ながら、僕はまた夢の中へ入っていった……。

 チャイムの音で目が覚め、急いで隣を見たが、既に彼女は教室を出て言ってしまっていた。鉛筆を返すことができなくなってしまった。というより、鉛筆を借りたくせに授業を寝て過ごす僕って一体……。
 次は僕が受ける学科では無いため、急いで教科書を鞄に入れ、教室を飛び出した。廊下にも彼女はいない。二階奥の喫茶店も、一階の受付にも、椅子がたくさん並んでいる場所にも、彼女はいな……いた。ガラス張りの向うで、赤いオートマ車の横に立って、教官と喋っていた。僕はその教官に対して、わけのわからない嫉妬を感じていた。彼女はあの可愛らしい笑い方で、教官と談笑している。そして二人して車に乗り込んだ。車に、二人っきりで! 何があるかわからない。何もあるわけないじゃないか、と自分に言い聞かせようとするけれど、不安が僕の脳裏に浮かんで、それが次第に大きくなっていくのを感じた。
 しばらく経つと、心の中も冷静になった。彼女が、実習を終えてここに帰ってくるのを待ち、鉛筆を返そうかと思ったけれど、いざ鉛筆を目の前にすると、彼女がずっと触っていた鉛筆を持っていたいという思いに囚われてしまい、大事そうに鞄に入れ、教習所を後にした。

 部屋へ戻り、意味も無くベッドではしゃいでみる。まてまて、冷静になれよ僕。いやそれは無理だ。大声で叫びたかった。でも近所迷惑なので、仕方なく心の中で大声で叫んだ。
 ――おおい! おおい! 僕は! あんな可愛い子と喋って、しかもその子に鉛筆まで借りたんだぞ! その鉛筆は、ここにある! 誰にも触らせない! 僕だけのものだ!――
 この喜びを誰かに報告しようと携帯を開いて「うぅん」と唸った。両親と亮太しか入っていない。亮太にこういうことを言ったとしても、鼻で笑われるだけだ。亮太は僕と正反対の見た目と暮らしをしている。綺麗にワックスでセットされた茶髪の髪の毛――僕は真っ黒でぺったんこの黒髪――焼けてすこし筋肉が付いた腕がタンクトップから伸びる――僕は真っ白でもやしのような腕――男友達も女友達も多く、これまで何人もの女性と付き合ってきた――僕は……悲しくなるので言わない――。だから亮太に言ったところで、「それで?」しか言われないだろう。
 可愛い子と喋れた嬉しさと、それを誰にも言えないもどかしさに、布団の中でぐねぐねと悶えていると、心配そうな顔をした母親と目が合った。
「あんた何やってるの?」
「ううう運動だよ! というかノノノックぐらいしてよ!」
 無理やり母親を廊下へ出し、荒い呼吸を深呼吸で沈め、机の上に置いてある鉛筆を手に取った。目を瞑りもう一度彼女の姿を思い浮かべる。本当に可愛い。何もかもが最高だ。悪いところなんて一つも無い。そして次の瞬間、あの教官の顔が浮かんだ。
「何でお前なんだよ!」
 下の階から母親の「うるさい!」という声が聞こえたので、慌てて口を閉じる。リセットし、もう一度彼女の顔を浮かべた。一番何が良いって、太股まで見えていたあの生足ですよね。次会う時も、あの格好なら良いのに。

 そのまま彼女のことを考えていても仕方が無いので、一階に下りてリビングのソファーに座り、意味も無くテレビを付けた。夕方とあって、面白いテレビは何もしていない。近くに置いてあるゲーム機の電源を入れ、コントローラーを握った。この夏休みが終わるまでにクリアしようと思っていたロール・プレイング・ゲーム。しかし、少し間を置いてしまったせいで、何をすればいいのか、どこへ行けばいいのかが、さっぱりわからない。うろうろとしていると、自分のレベルでは到底敵わない敵に出会い、あっさりと殺されてしまった。
 僕は彼女とどうしたいのだろうか。このゲームのキャラクターのように、意味も無くさ迷って、それで終わりになるのだろうか。考えていると、気分が下がっていくのを感じた。亮太なら声をかけて食事や遊びに出かけ、仲良くなった結果、付き合ったりもできるんだろうけれど、僕には到底できない。女の子に声をかけるというラスボスを目の前にして、僕は何もできずに終わるんだ。
 ポケットに入れたままにしていた鳴らない携帯を手に取り、亮太にメールを送った。
「女の子に声をかけるにはどうすればいいの?」と。
 すぐに返信が帰って来た。
「気合だろ(笑)失敗してもめげない心!」
 気合か。あいつの言いそうなことだ。僕には無いもの。そして失敗してもめげない心、か。僕はあいつの成功例しか見て無いし聞いて無いけれど、それ以上に失敗をしているんだろう。それでもめげず次へ行く心、か。僕にはできないこと。また携帯の着信音が鳴った。亮太だ。
「え、何、気になる女でもできたの?(笑)」
 気になりすぎて頭が壊れそうなんですが。
「教習所で出会った女の子に一目惚れした(笑)」
「へぇ。じゃあさ、二対二で遊びに行こうぜ。そっちのほうが相手の子にとっても気楽だろ」
 何という気の早さ、そして図々しさ。こんなことなら、亮太に相談なんてしなければ良かった、と後悔しても仕方が無い。
「とりあえず頑張ってみる」とメールすると、それ以上携帯が鳴ることは無かった。

 晩御飯を食べている時も、テレビを見ている時も、彼女の姿が頭から消えることは無かった。おかげで今日何を食べたのか、何を見ていたのかが思い出せないぐらいだ。
 その日は、疲れからか、すぐに眠ってしまった。明日は朝から教習だ。

 スポーツカーを巧みに操りながら、住宅街を駆け抜けていく。二人乗りの車を運転する僕の隣には、あの女性が座っている。。今日も足の付け根まで見えるショート・パンツを履いている。僕の方を見て薄っすらと笑みを浮かべる彼女に目をやり、スピードを上げた。信号に指しかかるが、タイミングよく青になってくれるので、ブレーキを踏む必要も無い。道路は二車線に代わり、前をゆっくりと走っている車を華麗にすり抜けた。ビルの群衆が一気に開け、目の前に海が広がった。隣を見ると、僕に右手を差し出している彼女が見えた。
「鉛筆返してよ」
 そこで目が覚めた。

 起きてすぐに、机の上に転がっていた彼女の鉛筆を取り出し、何となく臭いを嗅いだ。当然、鉛筆以外の臭いなんてするはずがない。そして、僕はまた夢の中へ入って……行こうとしたのを何とかとどめ、これから鳴ろうとしている、目覚まし時計のスイッチを切った。ぼさぼさの髪の毛を掻きむしりながら、パジャマを脱いで、Tシャツと短パンに着替える。時計は、朝の八時を指している。教習は九時からなので、移動時間を抜いてもまだ四十五分も残っている。
 一階のキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてペットボトルのアイスコーヒーを取り出した。それをコップに入れ、一気にあおる。眠気を吹き飛ばすような苦味が口に広がるのを感じた。今日は珍しく、家には誰もいない。がらんとしたダイニングキッチンから、窓を挟んで庭が見える。誰もいないと思ったら、庭で母が洗濯物を干していた。僕と一瞬目が合うが、特に手を止める様子は無い。もう一杯だけアイスコーヒーを飲み干し、廊下へ出てそのまま洗面所へ行く。歯と顔を洗い、リビングのソファに置いたままにしていた鞄を手に取った。携帯で時間を確認する。時計の針は八時半を指していた。鞄の中から原付の鍵を取り出し、靴を履いて玄関を開けた。時間が早いからだろうか、暑さはそれほど感じない。少しだけ風が吹いている。庭から母が顔を出した。
「今日は朝から?」
「うん。九時から。今日は学科を受けた後、初めての実技なんだ」
「ぶつけないようにね」
 ご機嫌なのだろうか、笑いながらまた庭へと歩いていく母から目を外し、原付に跨り、家を出た。住宅街を抜けて、山道を抜けて、トラックに気をつけながら走らせ、教習所に到着した。そばにある駐輪所へ原付を止めた。後ろから自転車のブレーキ音が聞こえるのを背中で感じながら、原付を降りて振り向くと、彼女がいた。彼女は髪の毛を風になびかせながら、颯爽と自転車を止め、鍵をし、籠から鞄を持って、僕と目が合った。
「あ、忘れ物した子だ」
 それが彼女の第一声だった。僕のことを覚えてくれていた。それだけで僕は後ろに倒れそうになった。
 今日もショート・パンツとTシャツを着ていた。少し汗ばんでいて、髪の毛が額に張り付いている。それをうっとうしそうに手でつまみながら、教習所の入り口を指差した。
「行こ?」
 頷くだけが精一杯だった。

 そこから先は、まるで時間が凝縮されたかのように、一瞬にして終わった。何か世間話をしながら、教習所の中へ入り、そのまま階段を上がって、同じ教室へと入り、隣同士で座り、アピールし続ける生足を一瞬だけ見て、開けたままの窓から入る風になびく髪の毛に見惚れて、微笑む彼女にどきりとして、わきから汗が流れ落ちるのを感じた。
 僕は鉛筆のことを思い出し、鞄から取り出して彼女に差し出した。
「この前はありがとう。返すタイミングが無くて、返せなかったんだ」
「そんなの別に返してくれなくてもいいのに」と彼女は笑いながら言い、鉛筆を受け取った。
「もう車は乗ったの?」
「今日からなんだ」
「私は今日で三回目。かなり怖いよ」と、いたずらを表情に浮かべながら、ハンドルを操作するような動きをしながら言う。
「ぶつけたりしたらお金取られるのかな」
「君、面白いね」と、楽しそうに笑う。
 丁度そこでチャイムが鳴った。授業は吐き気がするぐらいにつまらなかったけれど、隣に彼女がいて、その彼女と会話できただけで十分過ぎた。この後僕は次の学科まで二時間ほど暇がある。彼女はどうなんだろうか。今日運転すると言っていたけれど、この後すぐなのかな。もし時間が合えば、もっと話ができる。心の中で二人の僕が葛藤している。
「教習所に喫茶店があるだろ? そこへ行こうって誘えよ」という僕。
「僕みたいな男と喋ってもつまらないだけ。これ以上は行くな」という僕。
 いやでも、駄目もとで聞いてみてもいいんじゃないだろうか? 亮太だって、「失敗を恐れるな」と言ってた。ここで断られたとしても、話しかけたというのが、今後の自信に繋がるんじゃないか?
 チャイムが鳴ったのにも気づかないぐらい、深く深く考え込んでしまっていた。退屈な授業から開放された嬉しさを出すように、彼女が大きく背伸びをした。Tシャツの袖からわきとブラジャーの紐がちらりと見えた。僕の心にあったストッパーが外れた。
「あ、あのさ」
 気が付くと声を出していた。彼女が僕を見る。……しばしの沈黙。
「ぼ、僕、次の学科まで時間が空いてるんだけど、もし良かったらもう少し喋ら、ない?」
 言えた! 言えたぞ亮太! 見てるか亮太! 僕は生まれて初めて女性を誘った! すごいぞ自分!「やったぁ!」「わーい!」と心の中で叫んだ。断られたっていい。大丈夫だ。次がある。次こういったチャンスがあれば、ちゃんと言える自信がある! 果たして、彼女の返事は?
「私も次の実習まで時間があって、どうやって潰そうか悩んでたの」
 僕の顔はまるで石像のように固まっていた。頭の中で彼女が言った言葉を理解しようとすればするほど、混乱していく。何が? 何が起こったんだ?
「つ、つまり……どういうこと?」と僕がやっとの思いで言葉を出すと、彼女がまた笑った。
「だからぁ、つまり、喫茶店でも行きましょうってこと!」

 喫茶店は、歩いて数分の場所にあった。その間、人とすれ違うたびに、「ふふん! 僕は、こんな可愛い子と、今から二人っきりで喫茶店で、楽しい会話を交わすんですよ」と伝えたかった。亮太に電話で伝えたかった。喫茶店のガラス扉を開くと、からんという音がした。一番奥へ入り席へ座ると、ウェイトレスが、注文を聞きにやってきた。僕は、このウェイトレスと目の前に座る彼女を、知らない間に見比べていた。百対零で彼女の勝ち! やっほぅ!
 僕はアイスコーヒーを、彼女はレモンティーを注文した。左隣のガラス張りから、車のコースが見える。赤と青の車が走り回っている。
「一人で教習来たの?」
 運ばれてきたアイスティーにレモンとシロップを入れながら彼女が言った。「うん、だから暇で暇で」
 言ってすぐに、冷えたアイスコーヒーで、渇ききった喉を潤した。ありえないことが今起きている。夢じゃないのか? と、見えないように太ももをつねった。痛い。痛いということは、これは夢じゃないということだ。でも、何が夢じゃないんだっけ? あれ? どうして? ああ、そうか! 神様、どうもありがとう!
「私も一人。やっぱり友達と来るべきだよね。でも今日、友達ができたから暇しなさそう」
 レモンティーを、ストローで可愛く飲みながら彼女が言った。
 友達。友達。友達。舌で味わうように、友達という文字が頭の中を転がった。悪くない響きだ。顔見知りから友達へ、一気にランクアップした。友達の次は恋人じゃないか! まずは友達。まずは知り合わないと。
「と、いうことは、これから暇があれば、僕とこうやって喫茶店へ入ってくれるってこと?」
 彼女がまた笑った。
「そう、そう、そういうこと。君面白いね」
「ありがとう」
「褒めてないよ」
「いや、そこじゃなくて、一緒に喫茶店へ入ってくれたことに対するお礼」
「どういたしまして」と言いながら、ストローから手を離し、その手を膝に置いて頭を下げた。僕も思わずそれに習い、頭を下げる。
「そういえば名前がまだだったね。私は西村早苗。君は?」
 西村早苗。にしむらさなえ。ニシムラサナエ。早苗、早苗、早苗。あ。
「あ、僕は、小林です、小林和也と申します。歳は十八歳、高校三年生です。よろしく」
「歳は同じく十八歳。高校三年生です。こちらこそよろしく」
 二人して笑い合った。緊張が徐々に解けていくような気がした。西村早苗。小林早苗。うん、違和感は無い。
 お互い見ない顔だと思ったら、違う高校に通っていたようだ。僕が通う高校は、地元では名の知れた馬鹿高校だったので、名前を出すのを戸惑ったけれど、僕だけが言わないのもおかしいと思い切って言ってみた。特に嫌な顔はされなかった。
「そういえばさ、いつもその格好だけど、恥ずかしくないの?」
 聞いてから僕はしまったと思った。
「君……小林君だっていつもその格好じゃない」と彼女は笑った。よかった。
 僕の格好は、よれよれのTシャツによれよれのデニム、よれよれのスニーカーという、最低な格好だった。人に「恥ずかしくないの?」と聞ける格好じゃない。
「ごめん」と謝ると、また彼女が笑った。
「教官って男ばかりじゃない? こういう格好してたら、甘く見てくれるかなと思ってさ」
 僕が彼女の彼氏になったら、「こういう格好はやめなさい」とびしっと言ってやる。何の理由があって、自分の彼女に露出させるのか。
「実際甘く見てくれるの?」
「全然!」突然真剣な顔になる。「世の中そんなに甘くありません!」
 二人して笑い合った。喫茶店の壁にかかってある時計を見ると、十一時を指していた。会話をしだしてからもう一時間が経っていたとは。授業と同じ時間だとは思えない。一瞬にして過ぎたような気がする。
「そういえば、次の実習って何時からなの?」
「十二時からだから、あと一時間無いぐらい」
「僕も十二時からなんだけど、もしまだ時間があるならそれまで喋らない?」「何でそういちいち聞くのかなぁ」と、彼女は呆れたような顔で僕を見る。慌てて僕は「ごめん」と謝った。
「またそうやってすぐ謝る」
「ごめん……。あ、これはすぐ謝ったことに対する謝罪で……」
「もういいから、十一時まで喋ろう!」
 うおおおおお! と心の中で思いっきり叫んだ。拳を握り締め、心の中でもう一度叫ぶ。うおおおお!
「ちょっと待てよ」と心の中の僕がつぶやいた。「これで喋って終わりだと、次があるかわからないぞ? このタイミングで携帯のアドレス聞いちゃえよ」「いや、これだけで十分じゃないか。お前はよくやったよ」ともう一人の僕がつぶやく。「こんな可愛い女の子、お前が仲良くできるわけがないと思っていた。でも世の中ってわからないよな。お前みたいな男と喋ってくれる女の子がいたとはね」
 二人の声を心で聞きながら、僕はこれからどうするべきかを考えた。僕が無言で考えている間、彼女は、飲み終わったアイスティーの氷を、ストローで転がしていた。これ以上時間が空けば、つまらない男だと思われてしまう! 勢いで行ってしまえ!
「あ、あのさ!」
 彼女の手が止まり、僕の顔を見た。すごく可愛い。ありえないぐらいに可愛い。胸の凹凸。足はテーブルに隠れて見えないけれど、そんなことはどうでもいい。今すぐ抱きつきたい。
 大声を出したせいで、他の客やウェイトレスの目線が、僕たちに刺さった。少し肩をすくめて、小さい声で言う。
「も、もし良かったらいいんだけど」
「十一時まで喋るよ」
「じゃ、なくてさ」
「どうしたの?」言いながら、また氷を転がす。
「もう一杯飲み物注文しない?」
「オッケー。すいませーん」
 彼女が手を上げて、ウェイトレスを呼んだ。その声に反応して、お盆と紙を持ってウェイトレスが近づいてくる。
「えっと、僕はアイスコーヒーで」
「私はレモンティーで」
 注文を一度だけ繰り返し、ウェイトレスは奥へと消えていった。今日はちょっとアイスコーヒーを飲み過ぎたかな。夜寝れるか心配だ……「じゃなくて!」
 また大声を出してしまったので、客やウェイトレスの目線が刺さった。
「もし良かったらなんだけど」
「ふむふむ」
「アドレスとか交換してくれませんか?」
「構いませんよ。というかそれぐらいさっと言ってよ」と、彼女が笑いながら携帯を取り出した。
 携帯なんてほとんど触らない上に、僕はいわゆるガラケーなので、今流行りのLINEが使えない。お互いで言い合いながら、ようやく彼女の連絡先を受信することができた。登録する。本当に登録できているのか? もう一度確認する。西村早苗でちゃんと登録してあった。
「メールと電話してきて」と彼女が言ったのを、僕はしばらくの間理解できず、ぽかんとしたまま携帯を握っていた。
「君は私のアドレスと番号知ってるけど、私は君の知らないんだよ?」と説明され、ようやく理解できた。すぐにメールを送り、電話をかけた。「西村早苗 電話中」という文字が画面に写り、すぐに消えた。
「でもほんと君……小林君って面白いね。アドレス交換だけで、こんなに時間がかかる人、初めて見た」
 運ばれてきたアイスティーに、レモンとシロップを入れながら、彼女が言った。
「こういうこと、したこと無いっていうか、女性と喋ったことがあまり無くてさ」
「小林君の高校って共学でしょ? それなのに無いの?」
 首を横に振って答える。全く無い。本当に無い。三年間クラスメイトの女の子と喋った時間を合わせても、十五分も無いような気がする。男と喋ることもほとんど無いのに、女の子とすらすらとなんて喋れられるわけがない。考えていると悲しくなってきた。
「私なんて女子高だよ? 全然無いよ。バイトも禁止だしさ」
「え、西村さんの高校って女子高だったんだ?」
「進学校だから、みんな勉強勉強! 休み時間も勉強の話題しか無いよ。テストの点数がどうとか、どこの大学に進むとか。女ばっかりだとさ、ほんと疲れる」
 賢い高校に行っているのか。「お前とは釣り合わないよ」と言う心の中の僕の声をかき消すように、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「僕の高校は、勉強の話は一切無い代わりに、恋愛の話が多いな」
「コイバナってやつ? もう死語かな」と言いながら、自虐的に小さく笑った。「羨ましいなぁ。行く高校絶対間違えてるよ、私」
 じゃあ、僕と付き合えば、そのコイバナとやらができるんじゃない、という言葉が出そうになるのを、慌てて飲み込んだ。自分でもわけがわからない。彼氏がいなくても恋愛の話はできる。
「大学行くの?」
「うーん、一応そういう風に考えてるけれど、周りは大体就職するみたい」
「こっちはみんな進学。私はどうしようかな。やりたいことも無いし、就職でもいいかも」
 僕としては大学へは行って欲しく無い。よくわからないけれど、サークル活動とかそういうので、出会ったり付き合ったり別れたりするんだろう! ちくしょう!
「でも就職ってどんな感じなんだろ。毎日働きづめって、すごく大変そう」
「僕もそれが怖くて、とりあえず進学する感じ。やりたいことを見つけるって意味もあるけれど」
「でも学費、すごく高くない? 返すの大変そう」
「それもあるんだよねえ」
「だよねえ」
 沈黙をかき消すかのように、僕の携帯が鳴った。珍しく電話がかかってきている。それもわざわざこのタイミングに! 十一時まではもう三十分を切っているこのタイミングに! 誰だ? 確認する……。亮太だ!
「女の子とはどうなった?」
「今その最中」
「やるじゃん!」
 うるさいなあ。
「じゃあ遊びにでも誘えよ! 二対二でな。よろしく! じゃ」
 切れた。
「ごめんごめん、友達から電話だった」
 謝りながら携帯をポケットにしまう。
「じゃあ遊びにでも誘えよ! 二対二でな。よろしく! じゃ……って?」
 全て聞かれていたようだ。にやにやと笑っている。もう知らない。
「いやまあ、そういう奴でさ。ごめん」
「遊びに、ねえ。私、こう見えて暇じゃないんだよね。勉強しなくちゃいけないし」
 多分僕は、地獄に叩き落とされたような、完璧なまでの、絶望の顔をしていたんだろう。彼女が僕の顔を見て、声を出して笑った。
「嘘よ嘘、冗談。教習が無い日は暇だから、その日ならいいよ」
「えっ、マジですか?」
 甲高い声を上げて驚く僕を見て、また彼女が笑った。可愛い。
「はい、マジですよ」
 いやぁ亮太、お前には本当にお礼を言いたい。全てやってくれた。本当に良い友達を持ったと自慢したい。今まで僕は、お前のことを、少し勘違いしていたようだ。ありがとう、本当にありがとう。
「でも遊びに行くって、どういう所に行けばいいんだろ」と彼女は、首を傾げながら、考えるそぶりをした。
「普段どういう所へ行くの?」
「カラオケとかプールとか? 映画とかもたまに行くけれど」
「プ、プ、プールですか!」
 飲みかけていたアイスコーヒーを、思いっきり噴出しそうになったので、慌てておしぼりで口を覆う。プールといえば、水着になる所じゃないですか! 下着同然の露出した物を着て、泳いだりはしゃいだりする所じゃないですか! もし僕と行くことになれば……。うへへ。
「プールは嫌?」
 心配そうに聞く彼女に、僕は大きく首を振って答えた。
「ぜっ、全然! というか是非! 是非、プール、プールに、行きましょう!」
 言った後に後悔した。僕は自慢では無いけど、全く泳げない。カナヅチというやつだ。足がつかない所へ行くには、浮き輪があるのが必須条件になる。そんな格好悪い所を見せて大丈夫なのか? 幻滅されないか? いや、その程度で幻滅するような人じゃない。泳げなくったって、いいじゃないか。泳げないから何だ? 泳げなかったら悪いのか?
「じゃあ、日程はメールで決めよ。私も友達連れてくるよ」
「う、うん!」
 十一時の十分前になったので、僕たちは席を立ち、レジでお金を払い、喫茶店を後にした。僕は学科、彼女は実習なので、階段で別れた。
「じゃあ今日メールしてね」と言って歩いて行く彼女を、ずっと見つめていた。
 夢の中にいるようだ。本当にこれは夢じゃないのか? 人の目も気にせず、頬をつねる。痛い。夢じゃない。携帯を見る。西村早苗という文字を確認する。ある。夢じゃない。プールへ行く。夢じゃない!
 つまらない学科が、すごく楽しく思えた。常に浮ついているような、なんだか変な気持ちになっている。にやけそうな顔を、必死で押さえるのに苦労した。当然、教官の話は一切耳に入らない。入るわけがない。頭の中は、西村早苗で一杯になっている。プールか。ふふふ。水着。どんな水着を着てくるんだろう。さすがにビキニはないよなあ。刺激が強すぎるよなあ。ワンピースみたいな水着だろうか?
 学科が終わると、一階のベンチで、母から貰った弁当を食べた。何を食べたのか覚えていない。その後すぐに実習があったけれど、ずっと彼女のことばかり考えていたせいで、初めてなのに全然緊張しなかった。その代わり隣に座る教官にはずっと怒られ続けていたけれど、腹は立たなかった。
 二時に全てが終わると、僕は急いでその場を後にして、店へと原付を飛ばした。プールなんてプライベートで入ったことが無い僕に、学校で使っている以外の水着を持っているわけがなかった。カップルの波を掻き分けながら、男性水着売り場へと行く。様々な種類のものが、大量に壁にかけられている。ふと隣の女性水着売り場へ目を移すと、一人の若い女性が試着を終えて、彼氏に見せていた。来ている水着は……ビキニだった。じろじろ見たら殺されると思い、もう一度棚を見た。普通の短パンでいいだろう、と思い値札を見ると、ありえない値段が付いていた。ブランドか何かなのだろうか。三千円しか持ってきていない僕に、万単位の水着は買う気が起きない、という以前に買えない。ただの水着が、何で何万もするのかわからない。棚の端に、安い水着が無造作に置かれていた。その中から無難なものを選び、レジへと持って行き、支払いを済ませ店を出ようとすると、四十代ぐらいの主婦と目が合った。
「あら、小林さんとこの和也君じゃない?」
 多分母親の知り合いか近所の人なんだろうけど、僕には誰だかわからなかった。四十代ぐらいだろうか。
「こんにちわ」
「海かプールでも行くの? いいわねえ、若い子は」という主婦も、この店の袋を持っていた。水着を家で着る馬鹿が、一体どこにいるって言うんだ? 海かプールに行くに決まってるだろ! それもとんでもなく可愛い子とな! へん! と自慢しそうになるのを、必死で堪える。
「そんなところです、では」と言い、店を出ようとする僕を、「私もねえ」という言葉で遮る主婦。うーん。
「これでも昔はガンガン遊んでたのよ」
「そうなんですか」
「でもプールとか海なんて、もう何年も行ってないわ。今日は、娘の水着を選びに来たの」
 娘が何歳ぐらいかわからないけれど、こういうのは自分で選ぶものじゃないのだろうか。大体母親というものは、自分の趣味で服を選んでしまうので、「買ってきたよ」と手渡されても、困ることが多い。それから僕は、お金だけを貰い、自分で選ぶようになった。主婦は、店の中なのにも関わらず、袋から水着を取り出した。大人用のワンピースタイプの水着だった。ピンクの水玉模様の水着。悪くない。
「これなんだけれど、どうかなあ」
「いいんじゃないですか。水玉模様も可愛いですし」
 ああ、早く帰りたい。帰って彼女にメールしたい。
「よかったあ。どうも男の子と行くらしくてね、選ぶのに時間かけたのよ」
「そうなんですか」
「高校生で男の子とプールなんて、早いような気がするけどね」
「まあそんなもんじゃないですかね」
 会話はそれ以上盛り上がることもなく、「ではまた」と言い、店を後にした。面倒くさい主婦に捕まったものだ。出るタイミングがもう少し違っていれば、会うことも無かっただろうに、と後悔しても仕方が無い。原付のメットインに水着を押し込み、暑い中、原付を飛ばし家へ帰った。

 家に帰り、急いで冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して、部屋に入り鍵をかけた。本当は汗ばんでいたのでシャワーを浴びたかったけれど、早くメールを送らなきゃならないような気がした。鞄を置いてカーペットの上に座り、携帯を取り出す。メール送信画面を表示させ、西村早苗を選ぶ。どういうメールがいいだろうか。「今日は楽しかったです。プールの日程は――」キャンセルし、亮太にメールを送る。「プール行くことになったんだけど、いつがいい?」と。すぐに返信が返ってきた。「やるじゃん! いつでもオーケー!」「相手の方に聞いてみる」
 週末より平日のほうが、人が少なそうな気がする。平日料金と祝日料金で、値段も違うだろうし。カレンダーを見ると、今日は水曜日だった。本当は木曜日に、と言いたかったけれど、ぐっと堪えて、「今日はありがとう。金曜日にプールはどうかな?」と彼女にメールを送った。返事は返ってこない。何、すぐに返ってくるわけが無いじゃないか。忙しい時は携帯なんて見ないし、僕だって、部屋に忘れたまま出かけることもある。我慢して待とう。
 壁にかけられた時計の秒針が、カチカチと音を立てて鳴り続けている。僕は、携帯をテーブルの上に置き、その前にじっと座っていた。何かをやる気になれない。まだ携帯は鳴らない。じっと待つ。まだ鳴らない。時計を見ると、送信してからまだ五分と経っていないことに気づいた。あぐらをかいて座っているのに疲れ、カーペットの上に仰向けになって寝転んだ。少し埃で汚れかかった天井が見える。僕は今日、可愛い子に話しかけて喫茶店へ入り、二時間ほど喋って、アドレスを交換し、プールへ遊びに行く約束を取り付けた。普段の僕なら、何年かけてもできなさそうなことが、数時間で終わってしまったということに驚いた。こうして電話帳に彼女の名前が入っていることが、未だに信じられない。もしかして架空のアドレスなんじゃないのか? いや、もしそうだとしたら、届きませんでしたというメールが返ってくるはずだ。無事に送信できているということは、本物のアドレスなんだろう。もしかして他人のアドレスなんじゃないのか? もしそうだとしたら、相手も返信しようにもできないな。この時間の空きにも納得できる。
 その時、メールの受信音が鳴った。僕の頭の中で回り続けていた不安が一気に消し飛び、まるではねるかのようにして携帯を掴み、思い切り開いた。亮太だった。「日程いつになった?」
 こいつは……。待つということを知らないのだろうか、と自分のことを棚に上げて、心の中で亮太を非難した。僕だって待たずに延々考えていたのに。
「まだ、メール待ち」
「オッケー。でもお前すごいな、俺でさえ、バイト先の女の子を誘えずにいるってのに」
 俺でさえ、というところに少しひっかかるけれど、そこは無視して、「亮太だったら絶対断られないだろ」と送っておいた。亮太にも狙ってる女の子がいるのか。
 時計の針は、メールを送ってから十五分が過ぎた。その間も僕は、ずっと携帯を見つめたまま待ち続けていた。それから五分して、受信鳴った。また亮太か、と面倒くさそうに携帯を開くと、なんと彼女からだった。
「こっちこそ楽しかった(笑)金曜日? 全然大丈夫だよ。もう一人も大丈夫だって」
 こんなにもあっさり、物事がとんとん拍子で進み過ぎると、後が怖くなってくる。実は全部どっきりでした、とかは無いよね? 携帯を机に置いて、部屋にカメラが無いか探してみる。パソコンの裏、エアコンの内部、ベッドの下、本棚の隅……。大丈夫、無い。どっきりではなさそうだ。
「了解、じゃあまた金曜連絡するね」と彼女に送り、すぐに亮太に、「金曜日に決まったから」と送った。
 安心すると、どっと疲れが体にのしかかってきた。と同時に空腹感もやってきたので、キッチンへ降りて行き、棚に置いてあった菓子パンをかじった。夕焼けの日差しが窓から差し込み、テレビに反射して眩しい。庭に干したままの洗濯物が気持ちよさそうに風に揺られている。菓子パンをかじりながらソファに座り、テレビの電源を付けた。夕方時はニュースばかり。政治のことはよくわからないし、殺人事件が起きても、自分には関係無いし。一度だけ大きく背伸びをし、ソファに寝そべった。エアコンが付いていないので暑い。ソファの隣に立っている扇風機のスイッチを押すと、生ぬるい風が全身を覆った。遠くの方から虫の鳴き声が聞こえてくる。
 ぼんやりと考えてみると、教習って実はかなり良い暇つぶしなんじゃないだろうか。彼女にだって会えるかもしれないし、車の運転は楽しい。ポケットから教習所の予定表を取り出し、明日の学科を確認する。明日は午後から学科八と学科十一がある。どちらも僕がまだ受けていない学科だ。どうせ暇だし、教習所へ行くのも悪くないような感じがする。そりゃ外は暑いのは嫌だけれど、それに見合うものがあるし……。
 しばらく悩んだ後、明日教習所へ行くということで決まった。携帯で彼女に、「明日も教習?」とメールを送る。実物を目の前にすると上手く喋れないくせに、メールだとこうも親しげに話しかけることができてしまうのか、と、携帯という文明と自分の性格に驚いた。しばらくして返事が返ってきた。
「明日は休みだよー。女友達とカラオケ行ってくる!」
 その返事に少しだけショックを受けた。やっぱり明日行くのやめようかな? いやでも、早く取って彼女と一緒にドライブへ行きたいし。どうしよう。携帯を持ったままキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてアイスコーヒーを取り出した。氷をいくつかコップに入れ、アイスコーヒーを注ぎ込む。食べ終わった菓子パンの袋をゴミ箱へ投げ、またソファに座った。あともう少しで母親が仕事から帰ってくるので、それまでには部屋に避難しておかなくてはならない。どんな小言を言われるか。今は幸せを感じ続けていたいんだ。
 しばらく経ってから、アイスコーヒーと携帯を手に持って、自分の部屋へと戻った。エアコンを入れ、ノートパソコンのハードディスク内に入った音楽を適当に再生させ、ヘッドフォンを耳にかけた。鞄から取り出したプレイヤーをパソコンに繋ぎ、音楽を入れ替える。買ったまま聞かずに閉まっていたCDをラックから取り出し、パソコンに取り込んだ。何となくライナーノーツを見ながら、インターネットを開いた。「女性 水着」と入力し、画像検索をする。大量の画像が画面に表示された。若くスタイルの良いモデルが、様々な水着を着ている画像や、完全にプレイベートな画像まであった。適当に見ながら、顔を彼女に脳内で変換させる。どれもいい、どれもいい。ビキニでも似合うしワンピースタイプでも似合う。彼女は水着に着られているんじゃない、水着を着ているんだ!
 我ながら意味のわからないことを言ったなと反省しながら、アイスコーヒーを飲んだ。ふと自分が買った水着が気になったので、ベッドの上に置いたままにしてあった袋を手に取り、水着を取り出した。黒地に青い模様が入っている。ちょっと地味過ぎただろうか? うーん……と考えていると、一番重要なことを忘れているのに気づき、「あああ!」と大声を上げてしまった。
 もしプールが僕の身長より深かったらどうしよう? 浮き輪を持っていった方がいいのだろうか? でもそれだと彼女に軽蔑される。いや、でも待てよ。せいぜい行くとしても市民プールだろう。そこが深いわけがない。
 だらだらとしながら考えていると、亮太から「金曜日か。俺も大丈夫。昼からにするか?」というメールが入ってきた。それを見て、忘れていたことを思い出した。そう、時間の連絡をしていなかった。待ち合わせなんてしたことの無い僕に、そこまで気が回るわけがないじゃないか。時間はどうしよう。考えていると、また亮太からメールが入ってきた。
「昼飯みんなで食ってからプールって感じにするか。十一時ぐらいに集まろうぜ。駅の近くに市民プールあるから、駅で待ち合わせにしよう」
 手馴れすぎているのが逆に怖く感じた。僕はただ、「それでいこう」とだけ打って返信した。すぐに彼女に「十一時ぐらいに駅で待ち合わせにしない?」とメールを送る。当然返って来ない。返って来ないのが当たり前なんだと自分に言い聞かせ、パソコンに取り込んだ音楽を聞いていると、いつの間にか眠ってしまっていた……。

 プールで溺れるという最悪な夢を見た。自分があげた小さな悲鳴で目を覚まし、よだれと汗だらけになった顔をそばにあったティッシュで拭いた。それにしてもかなり現実味を感じる夢だった。溺れている僕を上から心配そうに見つめている彼女と、腹を抱えて笑う亮太の姿だけははっきりと覚えている。
 市民プールの深さを亮太に聞いておけば良かった、と後悔した。壁時計を見ると、夜の七時を指している。あれだけアイスコーヒーを飲んでおきながら、すぐに眠れる自分に驚いた。全て夢だったのではないか、と怖くなり、携帯を開いて受信メールボックスを開いた。彼女と亮太のメールが入っている。夢ではない。どうだ! この野郎!
 ご飯よ、という母の声に返事をし、キッチンへ降りて行き、父以外の三人で夕飯を食べた。今日は焼き魚と卵と玉ねぎを炒めたものだった。食べ終わり、ソファでくつろぎながらテレビを見ていると、九時頃に父が帰ってきた。リビングへは入らずそのまま風呂へ入り、上がるなり冷蔵庫からビールを取り出して、全裸のまま一本飲み干した。夕飯を肴にビールを飲んでいる父をじっと見ていると、父と目が合ってしまった。気まずいのでとっさに目を逸らし、テレビを見る。
 父の後に母が、その後に誠が、最後に僕が風呂に入った。最後に入った人が風呂を掃除するというしきたりがこの家にはある。僕はシャワーだけで終わるので、最初に風呂桶の栓を抜き、風呂を洗ってからシャワーを浴びた。風呂から上がり、パジャマに着替え、氷を浮かべたアイスコーヒーを一気に飲み干し、部屋に戻る。
 今までは一週間触らなくても平気だった携帯を、一日に何度も触るようになってしまった。開くと、彼女から「十一時ね、友達にも言っておくよ」というメールが入っていた。思わず返信したくなる気持ちを抑えながら、携帯を閉じた。こんな時間にメールを送るのは非常識だ。何かあれば明日送ればいいし、それ以前に、僕はメールで世間話をするのが苦手だった。何かに集中している時に携帯が鳴ると、壊したくなるぐらいに苛々してしまう。「あれだけメール待ってた奴が言う台詞か」と怒られそうなのでもう言わない。
 アイスコーヒーを飲みまくった上、夕方に寝てしまったので、睡魔は全く無かった。何もせず過ごすのも何だと、ベッドに寝転がり、読みかけの文庫本を手に取ってそれを読む。最近映画化された有名な作家の小説だ。面白いけれど集中力が続かない。枕元に文庫本を置き、パソコンデスクに置いたままにしていたプレイヤーを取り、またベッドへ。仰向けになって天井を見上げたまま、音楽を聞く。洋楽ばかりで、邦楽はあまり聞かない。聞いても八十年代ぐらいで、そのせいでクラスメイトとは話題が合わない。亮太とも音楽の話に関しては全く合わない。というか、亮太と合う部分なんてないんじゃないだろうか。
 保育園からの幼馴染というだけで、今まで一緒に過ごしてきたけれど、はっきり言ってその繋がりしかなかった。趣味も合わないし、性格も正反対。中学生の頃から、一緒に遊ぶこともほとんど無くなって、今じゃ数ヶ月に一度会って喋るぐらいだった。高校でもほとんど一緒にならない。僕は一人で読書か音楽を聞いて過ごしているし、亮太は男女に囲まれながら楽しく過ごしている。上手くやれば、亮太からおこぼれを貰えるんだろうけれど、そういうことをした覚えもない。でも、そういう乾いたような関係が、僕には心地よく感じていた。べったりしていても、自分の時間が取れなくなってしまうし、人に気を使うのが自分の中で、一番ストレスになるということも、自分自身が一番よく知っている。他人からはどう見られているのかはわからないけれど、僕にとっても多分亮太にとっても、この感じが一番良いんだろうな。
 控えめのノックの音が聞こえ、誠が入ってきた。誠は来年中学に上がる年齢で、僕とは六歳離れていた。特に兄誠の仲が悪いというわけではないけれど、遊んだ記憶はあまりない。少し大きめのパジャマを着て、髪の毛は短く切ってある。肌は僕とは正反対に、真っ黒に焼けている。
「どうした?」と僕はヘッドホンを外し、寝転んだまま言った。
「私立の中学を受験するつもりなんだけれど、中学の教科書とか残ってないかな」と誠。
 僕は自分の耳を疑った。まだ小学六年生の誠が、受験だって? 今はそれが当たり前の時代になったのだろうか? 僕の頃にもあったのだろうか。僕が小学六年生の頃なんて、毎日遊んでいた記憶しかない。
 僕は中へ入るように促し、カーペットの上に座らせた。僕自身も置きあがり、ベッドに座る。
「受験って、誠が言い出したの?」
「いや、父さんが受けろって」
 それを聞いて、大きなため息がこぼれた。僕は以前、高校進学について父と意見が食い違い、大喧嘩をしたことがあった。どこでもいいという僕と、進学校へ通えという父。母は当然のように、父の意見に従って、二対一という不利な状況だった。中学時代の僕の成績では、とてもじゃないけれど進学校へなんて通えるはずがなかった。それは父も母も知っているはずなのに、まるでそれから目を逸らすかのように、頑として聞いてはくれなかった。最終的にどっちも受験を受けて、受かった方へ通うということになった。結果は言わずもがな。
 父いわく、「俺と同じような人生は歩んでほしくない」そうだけれど、それを決めるのは、親じゃなくて子供だと思う。僕は、前に言ったように、両親をそれなりに尊敬しているし、同じようになっても全然構わない。確かに、勉強をしていい学校へ通えば、就職も有利になるだろう。それは理解できるけれど、自分の人生なのに他人に動かされているような気がして、反対した。それが誠の身にも起きていたとは。しかも僕よりも数年早い。
「誠が行きたいところへ行けよ。誠の人生なんだから。今のままでいいなら公立の中学へ行けばいいし、勉強を頑張りたいなら私立へ行けばいい」
 小学六年生に難しいことを言ってしまった。
「まだよくわからないんだよね」
「僕の場合は高校の時だったな。いい学校へ行けって言われて、喧嘩になった。僕は僕のやりたいようにやったし、誠は誠のやりたいようにやればいいんじゃない?」
「うーん。じゃあ、とりあえず勉強してみるよ」と誠が言うので、押入れにしまっておいた中学の頃の教科書を何冊か取り出し、それを手渡した。
 誠は、「ありがとう」とだけ言って、部屋から出ていった。余計なことを言ったのかもしれない、と不安になるけれど、多分大丈夫だろう。多分。
 もやもやとした変な感情を取り払うように、ヘッドホンをかけ音楽を聞いた。それでもまだ晴れない。僕はヘッドホンを外し、部屋を飛び出して階段を降り、リビングへと急いだ。ほろ酔いの父が、ソファに座って気分良さそうにテレビを見ている。母はキッチンで食器を洗っている。僕は母に近づき、父に聞こえないような声で「誠、中学の受験受けるの?」と聞いた。母はまだ途中だというのに手を止め、僕の耳へ顔を近づけた。
「誠から聞いたの?」
 僕は小さく頷いた。
「あんたの時と同じ。自分と同じようになって欲しくないんだって」
「でも誠はまだ小学生だよ。判別も全然付かないのに。自分が進みたいって言ったなら別として、誰かが決める問題じゃないでしょ」
 つい声を荒げてしまい、父が一瞬だけ僕たちを見て、またすぐにテレビを見た。酔っていてよかった。
「それはそうなんだけどさあ、これに関しては父さん、聞く耳持たないのよね」
 母親は困った顔をして、父を見た。父は楽しそうに笑いながらテレビを見ている。
「別に、勉強するのは中学や高校からでもいいじゃない。その頃なら誠だって、自分で判別付くようになってるだろうし」
「和也から言ってよ」と母が言い出したので、慌てて自分の部屋へと戻った。面倒くさいことはごめんです。
 部屋へ戻り携帯を開くと、彼女からメールが入っていた。「ばんばん泳いじゃおう!」と。あら、泳げるんですか。僕が実は泳げないと知ったら、どんな顔をするんだろうか。重い不安がのしかかる。あれだけ嬉しがっていたプールが、直前になると怖く感じてきた。泳げないということ以外にも、上手く喋られるだろうか、盛り上がるだろうか、彼女の友達とも上手くやれるだろうか。沢山の不安が一つに重なって、僕の心に重くのしかかってくる。でも、今更になって、「やっぱり行かない」と言った方が、マイナス要因になるのは確実だ。さすがの僕にでもわかる。
 まずは駅へ行って、亮太と合流し、その次に彼女とその友達と合流する。いや待てよ。先に二人と合流する可能性もある。亮太がいればある程度まかせることができるけれど、僕一人で二人を相手しなきゃならない可能性だってある。その場合どうしようか。まず、「こんにちわ」と挨拶して、「今日も暑いね」という世間話から入って、「初めまして」と彼女の友達に言って、亮太を見つけて紹介して、後は亮太に任せればいいか。亮太という心強い相棒がいることに、少しだけ不安が消え去ったような気がした。
 思考を変えるために音楽を聞いた。徐々に眠気がやってくるのを感じて、僕は布団に潜り込んで目を閉じた。少し暑くて汗ばむ。そして、やがて、夢の中へ……。

 早起きしたのはいいけれど、今日は何も予定がない。寝る前は、学科を受けようだなんて意気込んだのに、もう面倒臭くなって、どうでもよくなっている。
 彼女は、カラオケに行っているんだろうか。メールがしたいという気持ちをぐっと堪える。いや、ちょっと待ってくれ。なぜメールを我慢しなければならないんだ? そりゃあ確かに、僕はメールで世間話をするのは嫌いだよ? でも、彼女相手なら世間話だろうがなんだろうができる自信がある。しかし、さすがに朝の七時に送るのはまずいが……。
「おはよう。明日が楽しみだわぁ。もう水着買ったの?」
 気づくとメールを送っていた。メールだと饒舌になれる自分が嫌になる。と、受信ボックスを見ると、亮太からメールが入っていた。時間は昨日の夜中。
「俺、まだ水着買ってないんだよね。明日何時でもいいから、買いにいかね?」
「僕はもう買ったけれど、付き合うぐらいならいいよ」と送る。すぐに返ってきた。この男はいつ寝ているのだろうか。
「じゃあ今日の昼ぐらいに行こうぜ」
「今何してんの?」と返信すると、またすぐ返ってきた。「歌ってる(笑)」カラオケだろうか。例のバイト先の女のこと行ったのかな? うらやましいな。
「なるほど」と返し、適当に時間を潰していると、あっという間に昼になった。用意してあった昼飯をキッチンで食べ、歯を磨き、外へ出る。今日は曇り空なのでそんなに暑くはない。少し蒸しているけれど、気持ち悪くは感じない。僕が原付へ跨ると同時に、けたたましいマフラーの音が聞こえてきた。こんな音を出すのは、亮太のバイクぐらいだろう。バイクが僕の家の前にある道路の脇に止まり、亮太がやってきた。
「うぃす」
 綺麗な褐色肌と筋肉質なのを見せびらかすかのように、真っ白のタンクトップを着ている。髪の毛は短くカットされ、ほとんど金色に近い茶色に脱色されている。短パンにサンダルというラフな格好だけれど、よれよれのTシャツによれよれのジーンズの僕より格好良く見えた。それは当たり前か。
「後ろ乗ってけよ」と亮太が言うのでバイクを見ると、今日は原付ではなく大型に乗ってきていた。ヘルメットだけ被り、後ろのシートへ座る。アクセルを何度かふかす度に、けたたましいマフラー音が耳を刺激する。耳をふさぎたくても、手を離すことはできない。あっと言うまもなく、バイクが発進した。風を切り裂くように、バイクは住宅街を駆けていく。僕はただ、亮太のわき腹を掴むのに必死になっていた。そしてすぐに服屋についた。僕の原付なら倍以上の時間がかかっただろう。
 ヘルメットを脱いで二人して店へ入る。やる気のなさそうな店員が、「しゃあせ」というのを聞き流し、水着コーナーへと歩いて行った。
「なあ亮太」と僕。
「ん?」
「わかってると思うけどさ、亮太は今日来る女の子の友達の方を狙えよ? それが友情ってもんだろ?」
 僕の真剣な表情に、少し引きながら笑った。
「言われなくてもわぁってるって。メインはお前ら二人なんだから。俺は、お前らを二人っきりにさせるために頑張るぜ。俺はバイト先に、狙ってる子がいるって言ったろ?」
 安心した。水着を選びながら、亮太が僕に話しかけた。
「でさ、その子ってどんな感じなんだ?」
「亮太ほんとにわかってるの?」
「違うよ! 待ち合わせの時、スムーズに会えるようにさ」
「どんな、って言われてもなあ。とにかくびっくりするぐらい可愛いよ」
 亮太が手に取った水着は、これ以上ないぐらいに派手だ。
「ふうん。まあ期待しておくか。でもその友達が、ブスだったらどうしよう。よくあるじゃん、美人とブスのコンビ。きついなあ。まあいいけどさぁ」
 ぶつぶつと何かを呟きながら、派手な水着と派手な水着をしばらく見比べた。ようやく決まったのだろうか、一着をレジに持っていこうとすると振り返り、また別の派手な水着を手に取り、見比べる。それを何度か繰り返し、ようやく決まった。レジへ持って行き、支払いを済ませ、外へ出る。店の外にある自販機で缶コーヒーを買い、同じく店の外にあるベンチに腰かけた。隣では亮太が、缶コーヒー片手に煙草を吸っている。煙が僕の方へ向いて漂ってきたのを手で払いながら、店の前の道路を見た。平日のせいか、車はあまり通っていない。この店の駐車場にも、数台しか止まっていない。
「あれ、亮太、禁煙したんじゃなかったっけ?」
 確か一月前ぐらいに「禁煙する」というメールが来ていたような。
「一日だけ禁煙したよ」
 楽しそうに笑う亮太に、僕は何も言えなかった。それから少し喋り、家へ送ってもらった。
「明日も迎えに来るから、俺のバイクで行こうぜ」
 別れ際に言われた亮太の言葉を、すこし頭の中で整理し考える。彼女がこのバイクを見て、「あら格好いいわ!」とか言って、亮太のポイントが上がることはないだろうか? しかし僕が原付で行った所で、僕のポイントが上がるわけがない。送ってもらったほうが楽だし。
「ありがと。お願いするよ。じゃあまた明日な」
「うぃす」
 けたたましい音を出しながら、亮太の後ろ姿は一気に小さくなり、消えていった。
 亮太は最高の相棒になるけれど、一つ間違えれば最悪になる。彼女が亮太に対してどう思うか。確実に、僕なんかよりもよく思うだろう。奪われやしないだろうか。いくら亮太自身がわかっていたとしても、何があるかわからない。ああ怖い。思考がループしているような気がする。
 部屋に戻り、ベッドに座って教習の予定表を見た。五時から僕が受けていない学科が入っている。行こうか迷う。ふと携帯を見ると、メールを受信したらしく、緑色の光が点滅している。彼女からだ。
「今日、カラオケのついでに水着買いに行ってきたよ。小林君みかけたよ(笑)」 
 なんという運命の悪戯! おお神よ! 見かけたなら、話しかけてくれればよかったのに。まあでも、お互い友達といたら仕方がないか。その友達がプールへ行くかどうかは、お互いわからないんだし。
「あの服屋へ行ったの? 全然気づかなかったよ(笑)」
「私も、最後の最後まで気づかなかった(笑)友達といたから、話かけられなかったよ」
 やっぱりそうか。彼女も暇なんだろうか、メールのレスポンスがやけに早い。
「そいつが、明日一緒にプール行く奴なんだよ。僕とは、全てにおいて正反対です(笑)」
「そうなんだ。私の方は今日の子じゃないよ。まあ楽しみにしておいて(笑)」
 楽しみにしておいて? 君の友達なんて、全然楽しみじゃないよ。君と会えるのが楽しみなんだ、と打って全て消した「楽しみにしておく(笑)」
 そこでメールは終わった。その時、玄関から誰かが入ってくる音がした。まだ、昼の三時を周った所だ。こんな時間に誰だろう。誠か母だろうか。それにしてはやけにうるさい。うるさい音を立てて家に入ってきた。何度か壁に当たっているらしく、音は鳴り止まない。泥棒だろうか? いや、泥棒ならもっと静かに入ってくるはずだ。僕は足音を立てないように気を付けながら、階段を降りていった。少しだけ顔を出して、玄関を確認した。顔を真っ赤にしてふらふらになりながら、廊下でふらついている父がいた。泥酔しているようで、目線が定まっていない。父は酒が弱い方ではなかったので、ここまでになるには相当呑んだようだ。僕は父に近づき、肩を貸してリビングのソファに寝かせた。母はあと一時間ほどで帰ってくる。放っておいてもいいだろうか。
「よぉおぉ、和也ちゃぁん」
 突然、父が僕に抱きついてきた。凄まじい酒の臭いが、僕の鼻に入ってきた。顔をしかめながら父を離そうとするけれど、現場で鍛えぬかれたた体に敵うはずもなく、なすがままにされていた。
「ちょ、ちょっと!」
 父の力が弱まった瞬間、僕は父の胸を掌で大きく突き飛ばした。父はソファに倒れこみ、僕は肩で息を切らせている。今日は平日だし、父が帰ってくるには早すぎる時間だ。昼ぐらいから呑んでいたのだろうか? 今日は休みなのだろうか? 色々聞きたいことはあったけれど、いびきをかいて寝始めた父に聞けるはずもなく、ため息をついて自分の部屋へと戻った。
 しばらく部屋で時間を潰していると、帰宅した母の、「何やってんの!」という叫び声が聞こえたので、一階へ降りてみる。泥酔した父に、母がコップに入った水を手渡している。父は水を少し飲むと、真っ赤になった顔に手を当てながらずっと何かを呟いている。
「こんな時間にお酒呑んで、一体何やってるの」
 母は厳しい口調で父に問いただすが、泥酔している父の耳にそんな声が入るはずもなく、「水もう一杯くれぇぇぇ」と叫んだ。母は、「ったく」と文句を言いつつもコップに水を入れ、父に差し出した。
「仕事無くなった」と水を飲みながら父はぼそりと言った。母はそれに何も答えず、この世の終わりのような顔をして、父を見つめている。
「今月一杯でリストラだ」
 父の頬が夕日に照らされて光っている。それが涙なのか、飲んでいる水なのか、この距離ではわからない。
「……何十年も働いてきたのに?」
「まあな。……とりあえず次の仕事探すけれど、この歳だ。見つかるかはわからん。俺は高卒だしな」
 僕は、それ以上その光景を見続けることができず、自分の部屋へ戻った。その日の夕食は、いつも以上に静かだった。父は最期まで姿を表さなかった。

 布団の中で音楽を聞きながら、父のことを考えていた。子供である僕が考えることじゃないのかもしれないけれど、どうしても頭の中をよぎってしまう。明日は待ちに待ったプールなのに、楽しく思えない。
 僕たちはどうなるんだろう。今までどおりの暮らしができるのだろうか。わからない。父は次の仕事が見つかるのだろうか。わからない。誠は私立の中学へ進学できるのだろうか、僕は大学へ進学できるのだろうか。
 以前、亮太がここへ遊びに来た時に置いたままにしていた煙草に火をつけて、ゆっくりと煙を吸ってみた。凄まじい苦味と辛味が口の中へ広がり、煙と一緒に消えていった。

 プール当日になっても、僕の気は晴れることが無かった。僕がいくら悩んだって、どうにもならないし、仕方のないことだというのはわかっている。窓から外を見ると、父の車は無くなっていた。仕事へ行ったか、新しい仕事を探しに行ったのか、それ以外なのか、僕にはわからない。一階からは、誠とその友人の笑い声が聞こえる。誠は何も知らない。僕だって知らないほうがよかった。誠と友人が外へ出かけるのを見届けてから、水着の入った鞄と携帯を手に持って、一階へと降りた。時計は九時を指している。待ち合わせまであと二時間。
 そのまま何もしないのもあれだと思い、冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して、ソファに座りつまらないテレビを見ていた。しばらくするとけたたましいバイク音が聞こえ、家の前で止まった。チャイムが鳴る。飲みかけのアイスコーヒーをテーブルに置き、玄関へ行って扉を開いた。
「うぃす。ちょっと早いけど来た。楽しみでさ」
「あがってよ」
 楽しそうにはしゃぐ亮太を見ていると、余計に気持ちが落ち込んでいくのを感じた。行かないほうがいいのだろうか。なぜか、自分だけが楽しんでいるのが悪いような気がした。亮太の言葉に適当に返事をしていると、突然真剣な顔になって「どうした」と言った。
「いやぁ、いざ当日になったら緊張してきちゃって」ははは、と笑いを付ける。
「まだ最初じゃないか。これからもっと色々あるんだぜ? テンション上げていこうぜ!」
 それもそうだな。「おう!」

 十時半頃まで適当に喋り、僕たちはバイクに乗って駅へと向かった。駐輪場にバイクを止め、人ごみをかきわけながら、駅の構内へと入って行くと、彼女と友達が立っているのが見えた。それを見た瞬間、全ての悩みが消し飛んだ。
「もしかしてあの子?」と亮太。
「そうだよ」と僕。
「マジかよ……」と驚いた表情で言われた。悪い気はしない。というか、少し得意げになっている自分がいる。彼女が僕に気づき、大きく手を振った。通りすがりの男たちの目線が、僕と亮太に突き刺さる。ふふん、あの子たちが待っているのは僕なんですよ。僕みたいな冴えない男を、あんなに美人な女の子が、手を振りながら待っているんですよ!
 彼女は、今日も、ふとももまで見えるほどのショートパンツと、体にぴったりとフィットしたTシャツを着ていた。数日振りに会ったはずなのに、もう何年も会っていないような気がして、思わず抱きつきそうになった体を必死で止めた。簡単に自己紹介をして、駅を後にする。歩いているとたまに彼女の腕が僕の腕にくっついた。その度に僕の心臓は大きく高鳴って、顔が熱くなるのを感じた。何を喋っていたのかは全然思い出せないけれど、すごく楽しかったことだけは覚えている。でも亮太と彼女が「一日ぶり」と言ったのは、はっきりと覚えていた。そして、これから起こることもわかっていた。

 あっという間に市民プールについて、入り口でお金を払い、二手に別れて更衣室へと入った。脱ごうとTシャツに手をかけた亮太に、「もしかして西村さんと知り合い?」と言った。亮太は、申し訳無さそうな顔で僕を見た。やめてくれ、そんな顔で僕を見るな。
「俺と同じバイトなんだ」
 冷静を装って、「世の中って狭いね」と言う。頼む亮太、それ以上は言わないでくれ……。
「で、一緒にカラオケ行った」
「……そうなんだ」
「俺が狙ってる子なんだ」
 まるで、脳みそを直接ハンマーで殴られたような衝撃が頭に響いて、僕の手から、水着の入った鞄がするりと床に落ちた。
「ここに来るまで、友情と恋愛どっちを取るか悩んでて……」
 それ以上言うな。
「和也には悪いんだけど……」
 僕は水着をそのままに、更衣室を後にした。僕のことを、格好悪いだとか、いくじなしだとか罵るなら罵ればいい。亮太に敵うはずがないだろう? 僕みたいな男が。少しメールができて、一緒に話せただけでいいじゃないか。亮太は恋愛を取ったけど、僕はどちらも選ばない。
 僕はただのいくじなしだ。これまでも、そしてこれからも。こういうことを経験して、大人になっていくんだろうな、だなんてことを考えれば考えるほど、涙は次々と頬をつたっていった。我慢の限界がきた僕は裏路地へ入って、青いゴミ箱にもたれかかり、しばらくの間大いに泣いた。

 その日の夕食は、やけに豪華だった。僕の気持ちも知らないで、と言いそうになったのを堪えた。ほろ酔いの父の笑顔を見ていると、そんな気持ちも消えうせていった。母から後で聞いたんだけれど、無事に次の仕事が見つかったらしい。
 僕は、「大学へ行ってから免許を取ることにするよ。勉強に時間をかけたいから、教習所は辞める」と母に告げた。母は怒っていたけれど、もうあそこへ行く気にはなれない。そして部屋に戻り、携帯を開いて、亮太と西村早苗の連絡先を、何度か悩んだ後に削除した。本当にこれでよかったのだろうか? いや、よかったに決まっている。たぶん、わからないけれど。
 気づけば夏が終わり、秋が近づいていた。昼間はさすがにまだ暑いけれど、朝と夜はやけに寒く感じる。これなら、原付で出かけても大丈夫そうだな。風の噂で、亮太と西村早苗が付き合ったことを知った。でも今更どうでもいいや。

 さて、原付にまたがってどこへ行こうか?
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