役を降りる夜

相沢蒼依

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第三章 条件を守るための嘘

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 三好が嘘をついたのは、その三日後だった。それが条件を守るための嘘だと知るのは、もっと後のことになる。

 夜勤明けで、外はまだ薄暗い。俺は有給消化日で、珍しく直人の帰りを自宅で待っていた。

 合鍵で入ってくる音。制服姿のままの疲れた顔。それは、いつもと変わらない。

「おかえり」
「……ただいま」

 三好は靴を脱ぎながら、少しだけ視線を逸らした。その仕草が、これから聞く言葉の予告みたいになぜか思えた。

「シャワー、先に使いますね」
「ああ」

 バスルームのドアが閉まる。水音を聞きながら、胸の奥の違和感を整理しようとした。

 ――彼女と会ったあの日、なぜ自分は合鍵で直人の家に行ったのか。なぜ、直人は何も言わなかったのか。

 シャワーが止み、三好が出てくる。髪はまだ湿った状態で、部屋着に着替えている。

「……恒一」
「ん?」

 少しだけよそよそしい呼び方が、俺の耳に落ちる。

「この前のことなんですけど」
「……ああ」

 三好は、きちんと向き直った。警備の報告書を書くときみたいに、姿勢が整っている。

「考えてみたんです」
「何を」
「合鍵の使い方」

 合鍵という言葉に、胸がざわついた。三好の前髪から水滴が落ち、こめかみから頬を滑っていく。まるで、涙のように。

「不便、だったか?」
「いえ。むしろ、助かってます」

 即答だった。それから、ほんの一瞬だけ間を置く。

「でも……」
「……」
「勘違いしないように、しておこうと思って」

 なぜだかわからないが、嫌な予感がした。

「正直に言いますね」

 まぶたを伏せた三好は頬を濡らす水滴を無造作に拭い、静かに言った。

「恒一が彼女と会った夜、俺の家に来たのが……」

 ここで一度、息を吸う。その妙な間が、さらに俺を不安に陥らせた。

「少し、都合がよかったです」

 その言い方は、わざと感情を削いだみたいに平坦だった。しかも告げられた言葉が、すぐに意味を結ばない。

「それ……どういう意味だ」
「夜勤明けで、頭が回ってなかったんです」
「……」
「誰かがいる部屋に帰るの、すごく楽で」

 淡々と説明する三好の声を、俺は凝視しながら聞き入る。目に映る三好の面持ちから、彼の感情を読み取ろうと必死だった。

「恒一、俺にとっては」

 俺からの視線を避けるように、三好は顔を俯かせる。

「恋人として恒一に選ばれたとか、そういうことじゃなくて」
「……」
「たまたま近くにあった都合のいい場所、みたいな」

 大学からの長い付き合いだからこそ、イヤでもわかってしまう。三好の嘘は、必ず自分を低く見積もる形を取る。相手を傷つけないためじゃない。自分が傷つく方を進んで選んでしまう。

(これ以上直人を傷つけないためにも、俺がやらなきゃならないのは――)

「直人」
「条件、守りましょう」

 先に、線を引かれてしまった。

「本命ができるまでの関係。期待しない、深入りしない」

 三好は一つずつ口にする。まるで、自分に言い聞かせるように。

「だから」

 ようやく俺を見た三好の顔は明らかに作り笑いで、どこか悲しげだった。

「合鍵を使うのも、用事があるときだけにしませんか」
「……用事、って」
「生活上、必要なときです」

 俺は、何も言えなかった。

 正しい。
 合理的。
 契約通り――なのに、胸の奥が次第に冷えていく。

「俺は、それで大丈夫です。役ですから」

 三好は、最後に笑いながら言った。ぎこちない笑みに、目が釘付けになる。"役”――それは俺たちの関係を始めたときの言葉で、そして今、終わらせるために使われた言葉だった。

「……わかった」

 そう答えた瞬間、三好の瞳がほんのわずかに揺れた。でも、すぐに戻る。

「ありがとうございます」

 礼を言われる筋合いじゃない。そう思ったのに、言葉にできなかった。

 その日の夜、三好は自分の家に帰った。

 ――三好直人は、条件を守るために嘘をついた。そして俺は、その嘘を受け入れてしまった。

 それが、どれほど取り返しのつかない選択か。条件を守った代わりに、何を失ったのか。この時点では、まだ理解していなかった。
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