役を降りる夜

相沢蒼依

文字の大きさ
7 / 25
エピローグ

しおりを挟む
 高瀬と一緒に暮らし始めて、まだ一ヶ月も経っていない。

 正確には「一緒に暮らす」と決めたわけじゃない。自然にそうなった。ふたりで頭を悩ませて契約した家で朝飯を食べて、そのまま眠って、起きたら彼がコーヒーを淹れていて。

 ひとりきりだった日常が気づけば、ふたり暮らしが当たり前になっていた。

「直人、よそいきのネクタイどこだっけ」
「左の引き出しです」
「助かる」

 朝の慌ただしい時間。高瀬は相変わらず要領がいいようで、どこか抜けている。ネクタイを締めながら鏡の前で少し苦戦している背中を見て、思わず口元が緩んだ。

 ――こんなふうに思うのは、まだ慣れない。

 以前なら、ここで一歩引いていた。役として、条件として、適切な距離を測っていた。でも今は、その必要がない。

 代わりに、別の緊張がある。

 選ばれたという事実が、まだ体に馴染んでいない。

「……直人?」
「はい」
「ぼーっとしてる」

 ネクタイを締め終えた高瀬が、こちらを見る。心配そうでも、急かすでもない、いつもの目だ。

「ここのところ、夜勤続きで」
「無理すんなよ」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 無理をしないという選択肢を、自分が持っていいなんて思っていなかった。

「恒一……今日は、定時で帰ってきますか」
「ん。残業がなければ」
「夕飯、どうします」
「直人が食べたいものでいい」

 その一言が、何度聞いても嬉しい。自分の希望が、生活の前提に組み込まれている感覚。条件でも役でもなく、「一緒に暮らす人」として扱われている。

「じゃあ、魚にします」
「渋いな」
「警備員なので」
「それ、関係ある?」

 屈託なく笑い合う。こんなやり取りも、以前は想像できなかった。

 玄関まで見送り、高瀬が靴を履く。

「直人」
「はい」
「……行ってきます」

 一瞬、言葉に迷ったあとで、彼はそう言った。

 ――行ってきます。

 それが「戻ってくる」という意味を含んでいることを、今はもう疑わない。

「……いってらっしゃい」

 扉が閉まる音を聞いて、静かな部屋に戻る。さっきまであった体温が、まだ空気に残っている気がした。

 テーブルの上には、ふたり分のマグカップ。洗い忘れたわけじゃない。あえて、残してある。

 ひとりになって、ようやく気づく。

 自分はまだ、少し怖い。また選ばれなくなるんじゃないか、じゃなくて。この穏やかさを、失う覚悟ができていない。

 それでも――。

 高瀬は言った。「君を選ぶ」と。

 条件を壊して、合理性を捨てて、それでもなお――だから俺も逃げない。

 完璧な恋人にはなれないし、期待に応えられる保証もない。それでも、一緒にいる努力は続ける。

 窓から差し込む朝の光が、床に伸びている。

 夜はもう終わった。役を降りたのは、あの日。これからは、恋人として生きる。

 俺はエプロンをつけて、夕飯の献立を考え始めた。帰ってくる場所を、ちゃんと守るために。

おしまい

★このあと、その後のふたりを番外編で連載します。お楽しみください!
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

攻められない攻めと、受けたい受けの話

雨宮里玖
BL
恋人になったばかりの高月とのデート中に、高月の高校時代の友人である唯香に遭遇する。唯香は遠慮なく二人のデートを邪魔して高月にやたらと甘えるので、宮咲はヤキモキして——。 高月(19)大学一年生。宮咲の恋人。 宮咲(18)大学一年生。高月の恋人。 唯香(19)高月の友人。性格悪。 智江(18)高月、唯香の友人。

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

逃げるが勝ち

うりぼう
BL
美形強面×眼鏡地味 ひょんなことがきっかけで知り合った二人。 全力で追いかける強面春日と全力で逃げる地味眼鏡秋吉の攻防。

【完結】恋した君は別の誰かが好きだから

海月 ぴけ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。 青春BLカップ31位。 BETありがとうございました。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 二つの視点から見た、片思い恋愛模様。 じれきゅん ギャップ攻め

キミと2回目の恋をしよう

なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。 彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。 彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。 「どこかに旅行だったの?」 傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。 彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。 彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが… 彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?

ある新緑の日に。

立樹
BL
高校からの友人の瑛に彼女ができてから、晴臣は彼のことが好きなのだと認識した。 けれど、会えば辛くなる。でも、会いたい。 そんなジレンマを抱えていたが、ある日、瑛から 「肉が食べたい」と、メールが入り、久しぶりに彼に会うことになった。

「出来損ない」オメガと幼馴染の王弟アルファの、発情初夜

鳥羽ミワ
BL
ウィリアムは王族の傍系に当たる貴族の長男で、オメガ。発情期が二十歳を過ぎても来ないことから、家族からは「欠陥品」の烙印を押されている。 そんなウィリアムは、政略結婚の駒として国内の有力貴族へ嫁ぐことが決まっていた。しかしその予定が一転し、幼馴染で王弟であるセドリックとの結婚が決まる。 あれよあれよと結婚式当日になり、戸惑いながらも結婚を誓うウィリアムに、セドリックは優しいキスをして……。 そして迎えた初夜。わけもわからず悲しくなって泣くウィリアムを、セドリックはたくましい力で抱きしめる。 「お前がずっと、好きだ」 甘い言葉に、これまで熱を知らなかったウィリアムの身体が潤み、火照りはじめる。 ※ムーンライトノベルズ、アルファポリス、pixivへ掲載しています

情けない男を知っている

makase
BL
一見接点のない同僚二人は週末に飲みに行く仲である。

処理中です...