役を降りる夜

相沢蒼依

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番外編

言ってしまった

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 言ってしまった。

「構ってください」

 ――よりにもよって、あの人に。

 高瀬が遅くに帰ってきて、疲れた顔でネクタイを緩めながら目の前を通り過ぎようとした、その背中を見た瞬間だった。

(今なら……)

 そう思った自分に、まず驚いた。

 邪魔をしない。余計な感情を出さない――選ばれたあとも、それは癖みたいに体に染みついている。

 なのに、口が勝手に動いた。言った瞬間、全身が熱くなった。その場から逃げ出したくなった。でも、逃げなかった。

 ――高瀬は、勢いよく振り返った。

 そのあと何が起きたかは、正直よく覚えていない。

 ただ強く抱きしめられて、胸に顔を押しつけられて、「可愛すぎる」とか「ご褒美」とか、信じられない言葉を浴びせられて。

(……言いすぎた)

 抱きしめられながら、俺は必死に反省していた。

 忙しいってわかってる。余裕がないのも、見ていればわかる。それなのに「構ってください」なんて――傍から見たら。

(重い)
(面倒な恋人だ)
(失敗した)

 そう思っていた、はずなのに。

 高瀬の腕は、離れなかった。むしろ、さっきより近い。膝に引き寄せられて、髪を撫でられて。

 あまりにも自然に、当たり前みたいに。

(……あれ?)

 混乱しているうちに、さらに追い打ちが来た。

「ちゃんと言え」

 耳元で低い声。何を、って聞く前にわかってしまう。

(……もう、逃げ場がない)

 言葉を探して、躊躇して、それでも思いきって告げた。

「……もう少し、構ってください」

 言えた。自分でも信じられなかった。拒絶される覚悟もしていた。

 でも、返ってきたのは――深いため息と、さらに強くなる腕の力。その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

(……あ)

 俺、ちゃんと欲しがってよかったんだ。

 後になって、一人で考える。

 あれは甘えだったのか。それとも、わがままだったのか。たぶん、どっちもだ。でも、高瀬は笑っていた。嬉しそうで、少し困った顔で。

「言ってよかったです」

 そう言ったときの自分の声は、役を演じていなかった。

 夜、ベッドに入ってからも、眠れなかった。背中越しに感じる体温が、いつもより近い。

(……次も、言っていいのかな)

 そんなことを考えてしまう自分に、思わず苦笑する。

 選ばれたのに、まだ遠慮して。それでも、少しずつ踏み込んでいる。

 寝ている高瀬の腕が、無意識に俺を抱き寄せる。その動きがあまりに自然で、胸が詰まった。

(すごく忙しいのに――それでも、俺を抱いてくれた)

 静かに息を吸って、ゆっくり吐く。

(……反省はしてる)

 でも。

(嬉しかったのも、本当だ――)

 次に言うときは、もう少し上手くやろう。それと、我慢しすぎるのはやめよう。だって高瀬の行動が、どんどん過激になっていく。それじゃあ、俺が持たなくなってしまうから。

 そんなことを思いながら、俺はようやく目を閉じた。

 ――「構ってください」と言えた夜は、俺が“恋人”として一歩前に出た夜だった。
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