触れてはいけない距離

相沢蒼依

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曖昧にぬくもる背中

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 朝食のあと客間に戻った湊は、軽く荷物の整理をするふりをしながら、ふと窓際に立った。透き通ったガラス越しに広がる景色は、昔となにひとつ変わっていない。だけどそこに立つ自分は――もう戻ることができない場所にいる気がした。

(……兄貴、気づいてたな)

 気づいていた。あの沈黙、あの目線――兄はきっと、なにかに気づいた上で、あえてなにも言わなかった。

 ある意味、最も恐れていた反応だった。怒るでもない、追及するでもない。ただ静かに距離を取るような、冷たい観察者のまなざし。

(自分は一線を越えてない。だけど心までは――)

 越えていないと言い切れるのだろうか。

 綾乃の笑顔を見た瞬間の高鳴りも、目を逸らされるたびに感じた胸の痛みも全部――「兄の妻」に対して抱いてはいけないものだった。

 
 
***

 昼過ぎ、近場のスタジオへと足を運ぶ。取材を兼ねたロケハンで、顔見知りのスタッフと軽口を交わしながら、いつものように仕事に集中する。

 だが集中しているはずの脳裏に、時折あの朝の食卓の光景がフラッシュバックした。

 綾乃の皿を見た瞬間の、自分の不用意な言葉。

『朝ごはんも抜かないの、偉い』

 あれは余計な一言。兄の前で言うには、あまりにも無神経だった。だが、それでも言わずにはいられなかった。ほんの少しだけ、はにかんだような綾乃の表情が忘れられない。

(――俺のほうが、バカだ)

 

***

 日が暮れて予定より少し遅く帰宅すると、リビングには綾乃がひとりでテレビをつけていた。音はあるのに、どこか無音に近い空気がそこはかとなく漂っている。

「……ただいま」

 遠慮がちに言うと彼女はふと振り返り、控えめにほほ笑む。

「おかえりなさい。夕飯、冷蔵庫に残してあります」
「ありがとう。でも、ちょっと疲れてて。軽く済ませるよ」

 そう言って冷蔵庫から水を取り出し、キッチンカウンターにもたれる。湊は手にしたグラスの水を一口飲む。冷たいはずなのに喉を通るとき、なぜか熱を持っていた。

 綾乃はテレビのリモコンを手にして、音量を少しだけ下げる。

「崇さん、会食で遅くなるって」
「うん、聞いてた」

 他愛もない会話なのに、妙に間があく。言葉よりも互いの「間」のほうが雄弁だった。彼女に近づけば壊れる。だから踏み込めない。けれど、逃げるほどの距離もとれない。

 気づけば湊は、綾乃の背中を熱を込めて見つめた。ソファに座るその肩越しに、何度も見てきたシルエット。義姉という肩書きの奥にある、誰にも触れられていないような脆い静けさ。

「……綾乃さん」

 ふと名前を呼んでしまった。彼女が少しだけ肩を揺らす。

「なに?」

 問いかけられても言葉が出ない。出せない。

(好きだなんて――絶対に言えない……)

 沈黙がまたふたりの間を塞ぐ。テレビの音だけが、均等に時を刻み続けた。

 

***

 深夜、風呂を終えて部屋に戻っても、眠気は来なかった。天井を見上げながら、湊は独り言のように呟く。

「兄貴に、勝てるわけないのに……」

 それでも勝ちたいと思ってしまう。たった一人の、どうしようもなく惹かれる人の心に。

 届かないとわかっていても、つい見上げてしまう。

 同じ屋根の下、触れられない距離の中で――彼女の背中だけが、ほんのりとぬくもりを残している。
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