触れてはいけない距離

相沢蒼依

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見つめた先に

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 その夜、綾乃は眠れなかった。

 毛布を何度も巻き直しても、ひとりきりの大きいベッドはひどく冷たく感じた。窓の外では小雨が降っている。やわらかい雨音が規則的に響いて、逆に心のざわめきだけが際立っていった。

(――どうして、こんなに苦しいんだろう)

 答えはもう、自分の中にある。

 綾乃はそれを、見ないふりでやり過ごしてきた。義理の弟への感情など、あってはならない。理性できっちり蓋をして、何度も押し込めた。けれど湊の言葉や視線は、あまりにも自然に心の隙間に染みこんでくる。

 ――朝ごはん抜かないの、偉い。

 そんな何気ない一言で、どうしてここまで心が乱れてしまうのだろう。夫からは聞いたことのない種類の言葉だから?

「綺麗だね」「よくできてる」――そのどれも、どこか“役割”に対する賛辞でしかなかった。だけど湊の言葉だけが、“わたし”という一人の人間に向けられていた。

 そう気づいたとき、涙が込み上げそうになるのを綾乃は歯を食いしばって堪える。

(でも……踏み出してしまったら、もう戻れない)

 理性が最後のラインを守ろうとする。この家が崩れる。兄弟が壊れる。自分が背負っている名前も信頼も、すべてを失うかもしれない。

 ――なのに、なぜ。なぜ、心の奥では「会いたい」と願ってしまうのか。

 綾乃は立ち上がり、寝室を出てリビングに向かう。そしてそのまま窓辺に近づいた。ガラス越しに外を見る。濡れた街灯の光がぼんやりと揺れている。

 そのとき不意に、背後から小さな気配を感じた。

 振り返ると、リビングの扉が僅かに開いていた。そこには誰の姿もない。けれど、ほんの少し前まで誰かがいた――そんな空気の名残だけが残されているのを、綾乃は感じ取る。

(……湊?)

 確証はなかった。けれど、綾乃の胸は高鳴っていた。見に来たのかもしれない。声をかけようとして、やめたのかもしれない。

 それは偶然かもしれないし――あるいは……。

 窓辺で立ち尽くす彼女の胸に、ゆっくりとひとつの思いが立ち上がっていく。

「このままでいい」と言い続けて、誰もしあわせじゃないのだとしたら。

(わたしは――どうしたいの?)

 その問いに、まだ答えは出ない。けれど綾乃は、生まれて初めて自分の感情を“選ぶ”という可能性に触れた。

 背徳ではなく、逃避でもなく。自分自身の意志で、人生の舵を取るという選択。

 その一歩を、まだ踏み出せずにいる。けれど、確かにその足元に“境界線”は描かれ始めていた。

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