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六道編
8.千影
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鬼の青年を見た時、六道は遠い昔に守護することを止めた鬼の里のことを思い出していた。
六道は神と呼ばれる存在だった。
気の遠くなるほど長い間この世にあり続けている。
長い歴史の中で六道は、数ある禁のうちの一つ、人の世の理を曲げてはならぬという禁を二つほど犯した。
一つ目は鬼の里でのことだ。
初めて同じ神以外の友を得た。鬼の男とその幼馴染の娘だった。
男の方は駿河と名乗るあの男に少しだけ面差しは似ていたかもしれない。
不思議と意気投合した男に招かれ、しばらくの間その里で世話になることになった。
やがて鬼の男と娘は夫婦となる。
だがある時、怪我が元で鬼の男は命を落とした。
生けるものには等しく死が訪れる。友を失ったことは悲しかったが、仕方のないことだと割り切った。
だが、男の妻に「どうかあの人の命を助けてください」と泣いて縋りつかれた。
自分の命と引き換えにしても構わないという娘の言葉に、まだ神として若かった六道は哀れだと思い、絆されてしまったのだ。
娘に『反魂の術』を授けた。
それは自分の魂を分け合って、相手を蘇らせることのできる術だ。もちろんこれは禁忌の術である。
娘は迷わずその術を使って夫である男を蘇らせた。
美しく尊い魂だと思った。
六道は彼らが寿命を迎え、やがてこの世を去った後もしばらくの間その子孫を見守り続けていた。
あの事件が起こるまでは。
やがて鬼の里に戦という嵐が吹き荒れた。
由比と奧生の間で戦いが始まったのである。鬼の里の者達も戦いに巻き込まれていく。六道は人の世の争いに干渉はできない。ただ里が攻め込まれないように目くらましの術をかけて守るぐらいだった。
そんな中、里の者達が反魂の術を戦に用いていることが分かった。
生まれたばかりの赤子の命を媒介に才のある鬼の戦士を蘇らせ戦に参加させていたのである。
幼い命を道具のように使うその醜い考えに怒り、絶望し、その里を守護することを止めて離れた。
それから長い間、六道はたった一人で旅をしていた。
世の中の色んなものを見、触れ、そして少々疲れてもいた。
人は争いばかり起こし、醜く、己のことばかり考える。ほとほと嫌気が差していたのだ。
そんな最中、ある子供と出会う。
六道がもう一つ禁を犯すことになる原因。
その子供の名前は『千影』と言った。
「うわーっ。あんた、すごい綺麗だな!」
清浄な空気の流れる滝つぼの側で休んでいる六道に、弾んだ声が掛かった。
気だるげに視線だけ向けると、年の頃は九つほどの童が黒い瞳をきらきらと輝かせて六道を見ていた。まるで宝物を見つけた時のような、眼差しで。
溌剌とした、威勢の良さそうな子である。
「俺、この前白い蓮の花を見たことがあるんだ。それに似てる!」
六道の白く美しい髪に目を止めて、そう例えたようだ。
「それから、隣の家で世話している犬の雪丸にも似てる。いつもはきったないんだけど、洗うと真っ白な毛になるんだ」
「童。私をそのようなものと一緒にするでない」
よりにもよって気高いこの身を犬に例えられるとは。実に不愉快だ。肩越しにじろりと睨みつける。眼光の鋭さに、童は少しだけたじろいだ。
「何だよう、そんなに怒るなよ。すごく綺麗だと思ったのは本当なのに」
「さっさと去れ。これ以上私に話しかけるな」
手を振って童を追い払う。
未練がましそうにこちらを見ていた童だったが、六道が頑なに振り向こうとしないので、諦めて帰ったようだ。
次の日、再び現れた童は犬を抱えていた。
「見てくれよ、ほら、雪丸だよ。洗ってきたんだ。綺麗だろ」
肩越しに視線を向けた六道は、苛立ちを隠しもしない深いため息を吐いた。
だから何だというのだろう。
「私に話しかけるなと言ったのを忘れたか。愚かな童は好かない」
冷たく言い放つと、童は犬を抱えたまましょんぼりと肩を落として帰って行った。
とぼとぼ歩くその姿に、何だか酷く悪いことをしてしまったような気がするのは、気のせいだ。
「おーい、おーい!」
そのまた次の日、懲りもせず再び童が走ってきた。
その姿は泥まみれだった。あまりに汚すぎて、ぎょっとしてまじまじと見る。ようやく振り返った六道に、嬉しくなったのか屈託なく笑う子供。
「へへへ、ようやくこっち見た。なあ、これあんたにあげるよ。前に言ってた白い蓮の花だ」
泥だらけの手には、蓮の花が握られていた。
わざわざ池の中に入り、泥を掻き分け取ってきたというのだろうか。白い花弁には泥一つついていない。
凛と咲く様子は真っ白で美しかった。
「いらん。手が汚れるだろう」
六道は綺麗好きだ。自分の手に泥が付くなど耐えられない。
「ええーっ。これでも駄目なのかよ。本当にすごく綺麗なのにな」
「体を洗え。まずはそれからだ」
「本当か!?」
六道の言葉に顔を輝かせる。
子は岸に一旦蓮の花を置き、ざぶんと滝つぼに飛び込み体や着物に付いた泥を落とす。それから丁寧な手つきで茎についている泥を洗った。
すっかり綺麗になると、改めてこちらに蓮の花を差し出してくる。
ここで断ったら明日は何をしでかすか。六道が根負けするまでどこまでもやりそうな気がする。ため息を一つ吐いて、受け取ることにした。
風に吹かれて白い花びらがゆらゆら揺れる。
白は自分にとっての至上の色だ。嫌いではない。
「へへ、良かった。あんた何だか元気なさそうだったからさ」
楽天的で何も考えていないように見えて、人の心の機微が読めるのかもしれない。案外聡い童なのだろう。
少し、目の前の子供に興味が沸く。
「童。名は何という?」
「降矢千影だ」
姓を持っているということは、良い家柄の生まれなのだろう。偉そうな言葉遣いにも説明がつく。
だが、行動はまるで犬のようだ。構って欲しいとじゃれついてくる。
六道が少し興味を示しただけで耳を後ろに倒し、尾を千切らんばかりに振っているのが見えるようだ。
髪の毛もふわふわしているし、雪丸という犬よりもよほど犬らしい。
「あんたのことは何て呼べばいい?」
あんた、とは随分な口の利き方だ。見過ごせない。
六道は無言のまま千影の頬を掴むと、横に引っ張った。
「あなた様、だ。口の利き方に気をつけよ」
「いひゃいいひゃいぃ!!」
「私の名は六道。六道様、とでも呼ぶがよい」
「六道、六道!!」
従うつもりは少しもないようだ。生意気な餓鬼だと思う。
よくよく見れば、千影の頬にはたくさんの擦り傷があった。とん、と指で傷をなぞる。
「その傷はどうした」
「ああ、これは修行でついたやつ。俺は忍者の頭領の家に生まれたんだ。本当は余所者に言っちゃいけないんだけど…あんたは人じゃないだろうし、まあ、いっか」
からりと笑う。
人ではないと見抜かれて六道は驚き、わずかに片眉を上げた。
「分かるか」
「何となく。川の流れみたいな綺麗な気配がする」
幼子には常世のものを見たり、感じたりする力があるという。多くのものは大抵成長と共にその力を失っていくのだが。千影にもそういった能力があるのかもしれない。
千影の奥には秘められし術の才も感じる。
まだ発現はしていないが、いずれは稀代の忍びとなるだろう。今は屈託なく笑うこの子供も、術の才が発現されれば戦の道具となるのだ。
戦いに身を置けばその性格すらも様変わりしていくのだ。これまで見た者達のように、人を殺めることに躊躇いを無くしていく。
何とも言えぬ空しい気持ちを覚え、六道は瞳を伏せた。
また別の日。
千影は飽きもせず六道の下を訪れた。
おや、と目を瞠る。千影の背に隠れるようにして、小さな童の姿があったからだ。よく似た気配に弟だろうと予想がついた。
「俺の弟の夜斗だ。六道のことが見たいって言うから連れてきた」
「私は見世物ではない」
勝手に見世物にされたことに腹立たしく思い辛辣に言い放つ。
千影はどこ吹く風といったところだったが、背に隠れていた弟の方はびくりと肩を震わせた。
兄弟でありながらその性格は随分と違うようだ。
兄に良く似た黒い眼で、しかしおずおずと見上げてくる。
「初めまして…」
ふいと視線を逸らす。あまりのしつこさに千影とは仕方なく関わることになってしまったが、これ以上他の者と深く関わるつもりは無い。
「何だよ、もー。意地悪だな。性格はちょっと悪いけど、綺麗だろ。川の中で見つけた石みたいにぴかぴかしてて、すごいだろ」
何だ、その語彙力は。
呆れ果てる六道をよそに千影が興奮したように言い、夜斗はそれを受けてこくりと頷いた。それから兄の着物にかけていた手を離した。
「あの、それじゃあ…僕、行くね。まだ修行が残っているんだ」
「また後でな」
夜斗は一度だけ心配そうに千影の方を振り向き、何かを言いたげに見つめていたが諦めて再び背を向けて帰って行った。
「良いのか、修行は」
「今日の分は終わった。夜斗は…あんまり体術とか得意じゃないからどうしても居残りで修行することが多くて。あいつ、向いてないんだよそういうの」
確かに動きが機敏で体を動かすことが得意そうな千影に比べ、夜斗は大人しそうでそういうことに向いていないのは一目瞭然だった。
どうしても体の動かし方には元々の資質というものがあるのだ。
「里の奴らもさ、修行が嫌だって泣く奴がいっぱいいる。でもいずれは術が発現したら戦いとかそういうのに行かされるんだろうな。里の外に行かされた大人は帰ってこないことも多いんだ…」
六道の隣に腰かけた千影は膝を抱えて、つぶやいた。
珍しく肩を落とし落ち込んだ様子で、黒い瞳はどこか遠くを見つめていた。
その後千影はしばらく姿を見せなかった。
ここを訪れることに飽いたのだろうと位置づけた。子供の心はとにかく移ろいやすいのだ。別の新たなものに興味を抱いた、ただそれだけのこと。
元気でおしゃべりな千影の姿が無い。
心なしか胸に冷たい風が吹き抜けたような心地がした。
しばらく姿を現さなかった千影が次に現れた時、その瞳には傷ついた色を浮かべていた。
小さな頬には似つかわしくない大きな痣の跡も。
千影は六道の側へ寄ると、静かに腰を下ろした。いつもはあれこれと聞かずとも喋りだすのに、一向に口を開く気配が無い。
普段賑やかな者が静かだと調子が狂う。
ふう、とひとつため息を吐く。
「…どうした?」
これまで六道の方から語りだすことはなかったから、驚いたように千影が顔を上げる。瞳がさざ波のようにゆらめき、それからわずかの逡巡の後口を開く。
「俺の友達で、この間術が発現した奴がいるんだ。苦しみだしたと思ったら、急に…」
千影の話すところに寄ると、家から代々継がれてきた力は生まれつき使えるわけではなく、成長する過程で力が噴出するように発現するのだという。
個人差はあるが、十を迎える頃までには必ず発現する。
「そいつ、毒の力を持ってて。術の発現の後大人達に連れて行かれたから、こっそり後を追ったんだ。そしたら、暗殺に使うって話しているのを聞いた。助け出そうとしたんだけど…駄目だった」
頬の痣はその時殴られたのだろう。紫から黄色へ変わりかけている。
「そいつ、あれから戻って来ない。大人はまた次の子を作ればいいって言ってた。この里はおかしいよ。絶対にこんなのおかしい」
千影の顔に悔しさが浮かび、目に涙が溜まる。
友を助けられなかったことが、この幼い者の心に大きな影を落としている。
「子を争いの道具に使うか。醜いな…本当に、人は」
六道は忌々しそうに吐き捨てる。遠い昔に感じた、苦々しい思いが蘇ってくるのを感じた。
「六道、怒ってる? それに悲しそうだ。初めて会った時みたい」
「そうだ。私は…人が、嫌いだ。私利私欲ばかりで吐き気がする」
「そっか。六道は長い間旅してたって言ってたから…嫌な奴にたくさん会って疲れたんだな」
六道よりも何百年も幼い、一寸前に生まれたばかりの子に心の内を悟られ、たじろぐ。
千影の黒い瞳に、穏やかな温かい色が灯る。
「そういう時はやさしかった奴のこと思い出すといいよ。俺は辛い時、母上や夜斗や友達のこと、それから六道のこと思い出してるよ。父上は、ちょっと苦手だから…あんまりだけど。そうして大切な人のことを思い出したら、頑張れるんだ」
千影はいつの間にか笑顔になっていた。
どういうわけか先程まで落ち込んでいたはずの者が、六道を励ます側になっている。
かつての鬼の友の顔を思い出す。それからその妻の顔。
長い時を過ごすうちに、心の奥底へ行っていたあの者達の顔を思い出した時、わずかに胸に温かく、切ないものが宿るのを感じた。
「もし六道に誰もそういう奴がいなかったら、俺がなってやるよ。六道にたくさんやさしくしてやる」
長い旅の中で、やさしく美しい魂を持つものは確かにあった。
久しく、忘れていたもの。
こんな子供に気付かされるとは。
「俺、もう少し大きくなって力をつけたらこの里をぶっ潰してやる。それから夜斗と友達を連れて、外の世界へ行くんだ。その時は六道も行こう。綺麗なものをたくさん見よう」
きっとすごく楽しいと思うんだ、と千影は笑った。瞬きすることも息をすることすら忘れ、じっと六道はその太陽のような笑顔を見つめた。
六道は神と呼ばれる存在だった。
気の遠くなるほど長い間この世にあり続けている。
長い歴史の中で六道は、数ある禁のうちの一つ、人の世の理を曲げてはならぬという禁を二つほど犯した。
一つ目は鬼の里でのことだ。
初めて同じ神以外の友を得た。鬼の男とその幼馴染の娘だった。
男の方は駿河と名乗るあの男に少しだけ面差しは似ていたかもしれない。
不思議と意気投合した男に招かれ、しばらくの間その里で世話になることになった。
やがて鬼の男と娘は夫婦となる。
だがある時、怪我が元で鬼の男は命を落とした。
生けるものには等しく死が訪れる。友を失ったことは悲しかったが、仕方のないことだと割り切った。
だが、男の妻に「どうかあの人の命を助けてください」と泣いて縋りつかれた。
自分の命と引き換えにしても構わないという娘の言葉に、まだ神として若かった六道は哀れだと思い、絆されてしまったのだ。
娘に『反魂の術』を授けた。
それは自分の魂を分け合って、相手を蘇らせることのできる術だ。もちろんこれは禁忌の術である。
娘は迷わずその術を使って夫である男を蘇らせた。
美しく尊い魂だと思った。
六道は彼らが寿命を迎え、やがてこの世を去った後もしばらくの間その子孫を見守り続けていた。
あの事件が起こるまでは。
やがて鬼の里に戦という嵐が吹き荒れた。
由比と奧生の間で戦いが始まったのである。鬼の里の者達も戦いに巻き込まれていく。六道は人の世の争いに干渉はできない。ただ里が攻め込まれないように目くらましの術をかけて守るぐらいだった。
そんな中、里の者達が反魂の術を戦に用いていることが分かった。
生まれたばかりの赤子の命を媒介に才のある鬼の戦士を蘇らせ戦に参加させていたのである。
幼い命を道具のように使うその醜い考えに怒り、絶望し、その里を守護することを止めて離れた。
それから長い間、六道はたった一人で旅をしていた。
世の中の色んなものを見、触れ、そして少々疲れてもいた。
人は争いばかり起こし、醜く、己のことばかり考える。ほとほと嫌気が差していたのだ。
そんな最中、ある子供と出会う。
六道がもう一つ禁を犯すことになる原因。
その子供の名前は『千影』と言った。
「うわーっ。あんた、すごい綺麗だな!」
清浄な空気の流れる滝つぼの側で休んでいる六道に、弾んだ声が掛かった。
気だるげに視線だけ向けると、年の頃は九つほどの童が黒い瞳をきらきらと輝かせて六道を見ていた。まるで宝物を見つけた時のような、眼差しで。
溌剌とした、威勢の良さそうな子である。
「俺、この前白い蓮の花を見たことがあるんだ。それに似てる!」
六道の白く美しい髪に目を止めて、そう例えたようだ。
「それから、隣の家で世話している犬の雪丸にも似てる。いつもはきったないんだけど、洗うと真っ白な毛になるんだ」
「童。私をそのようなものと一緒にするでない」
よりにもよって気高いこの身を犬に例えられるとは。実に不愉快だ。肩越しにじろりと睨みつける。眼光の鋭さに、童は少しだけたじろいだ。
「何だよう、そんなに怒るなよ。すごく綺麗だと思ったのは本当なのに」
「さっさと去れ。これ以上私に話しかけるな」
手を振って童を追い払う。
未練がましそうにこちらを見ていた童だったが、六道が頑なに振り向こうとしないので、諦めて帰ったようだ。
次の日、再び現れた童は犬を抱えていた。
「見てくれよ、ほら、雪丸だよ。洗ってきたんだ。綺麗だろ」
肩越しに視線を向けた六道は、苛立ちを隠しもしない深いため息を吐いた。
だから何だというのだろう。
「私に話しかけるなと言ったのを忘れたか。愚かな童は好かない」
冷たく言い放つと、童は犬を抱えたまましょんぼりと肩を落として帰って行った。
とぼとぼ歩くその姿に、何だか酷く悪いことをしてしまったような気がするのは、気のせいだ。
「おーい、おーい!」
そのまた次の日、懲りもせず再び童が走ってきた。
その姿は泥まみれだった。あまりに汚すぎて、ぎょっとしてまじまじと見る。ようやく振り返った六道に、嬉しくなったのか屈託なく笑う子供。
「へへへ、ようやくこっち見た。なあ、これあんたにあげるよ。前に言ってた白い蓮の花だ」
泥だらけの手には、蓮の花が握られていた。
わざわざ池の中に入り、泥を掻き分け取ってきたというのだろうか。白い花弁には泥一つついていない。
凛と咲く様子は真っ白で美しかった。
「いらん。手が汚れるだろう」
六道は綺麗好きだ。自分の手に泥が付くなど耐えられない。
「ええーっ。これでも駄目なのかよ。本当にすごく綺麗なのにな」
「体を洗え。まずはそれからだ」
「本当か!?」
六道の言葉に顔を輝かせる。
子は岸に一旦蓮の花を置き、ざぶんと滝つぼに飛び込み体や着物に付いた泥を落とす。それから丁寧な手つきで茎についている泥を洗った。
すっかり綺麗になると、改めてこちらに蓮の花を差し出してくる。
ここで断ったら明日は何をしでかすか。六道が根負けするまでどこまでもやりそうな気がする。ため息を一つ吐いて、受け取ることにした。
風に吹かれて白い花びらがゆらゆら揺れる。
白は自分にとっての至上の色だ。嫌いではない。
「へへ、良かった。あんた何だか元気なさそうだったからさ」
楽天的で何も考えていないように見えて、人の心の機微が読めるのかもしれない。案外聡い童なのだろう。
少し、目の前の子供に興味が沸く。
「童。名は何という?」
「降矢千影だ」
姓を持っているということは、良い家柄の生まれなのだろう。偉そうな言葉遣いにも説明がつく。
だが、行動はまるで犬のようだ。構って欲しいとじゃれついてくる。
六道が少し興味を示しただけで耳を後ろに倒し、尾を千切らんばかりに振っているのが見えるようだ。
髪の毛もふわふわしているし、雪丸という犬よりもよほど犬らしい。
「あんたのことは何て呼べばいい?」
あんた、とは随分な口の利き方だ。見過ごせない。
六道は無言のまま千影の頬を掴むと、横に引っ張った。
「あなた様、だ。口の利き方に気をつけよ」
「いひゃいいひゃいぃ!!」
「私の名は六道。六道様、とでも呼ぶがよい」
「六道、六道!!」
従うつもりは少しもないようだ。生意気な餓鬼だと思う。
よくよく見れば、千影の頬にはたくさんの擦り傷があった。とん、と指で傷をなぞる。
「その傷はどうした」
「ああ、これは修行でついたやつ。俺は忍者の頭領の家に生まれたんだ。本当は余所者に言っちゃいけないんだけど…あんたは人じゃないだろうし、まあ、いっか」
からりと笑う。
人ではないと見抜かれて六道は驚き、わずかに片眉を上げた。
「分かるか」
「何となく。川の流れみたいな綺麗な気配がする」
幼子には常世のものを見たり、感じたりする力があるという。多くのものは大抵成長と共にその力を失っていくのだが。千影にもそういった能力があるのかもしれない。
千影の奥には秘められし術の才も感じる。
まだ発現はしていないが、いずれは稀代の忍びとなるだろう。今は屈託なく笑うこの子供も、術の才が発現されれば戦の道具となるのだ。
戦いに身を置けばその性格すらも様変わりしていくのだ。これまで見た者達のように、人を殺めることに躊躇いを無くしていく。
何とも言えぬ空しい気持ちを覚え、六道は瞳を伏せた。
また別の日。
千影は飽きもせず六道の下を訪れた。
おや、と目を瞠る。千影の背に隠れるようにして、小さな童の姿があったからだ。よく似た気配に弟だろうと予想がついた。
「俺の弟の夜斗だ。六道のことが見たいって言うから連れてきた」
「私は見世物ではない」
勝手に見世物にされたことに腹立たしく思い辛辣に言い放つ。
千影はどこ吹く風といったところだったが、背に隠れていた弟の方はびくりと肩を震わせた。
兄弟でありながらその性格は随分と違うようだ。
兄に良く似た黒い眼で、しかしおずおずと見上げてくる。
「初めまして…」
ふいと視線を逸らす。あまりのしつこさに千影とは仕方なく関わることになってしまったが、これ以上他の者と深く関わるつもりは無い。
「何だよ、もー。意地悪だな。性格はちょっと悪いけど、綺麗だろ。川の中で見つけた石みたいにぴかぴかしてて、すごいだろ」
何だ、その語彙力は。
呆れ果てる六道をよそに千影が興奮したように言い、夜斗はそれを受けてこくりと頷いた。それから兄の着物にかけていた手を離した。
「あの、それじゃあ…僕、行くね。まだ修行が残っているんだ」
「また後でな」
夜斗は一度だけ心配そうに千影の方を振り向き、何かを言いたげに見つめていたが諦めて再び背を向けて帰って行った。
「良いのか、修行は」
「今日の分は終わった。夜斗は…あんまり体術とか得意じゃないからどうしても居残りで修行することが多くて。あいつ、向いてないんだよそういうの」
確かに動きが機敏で体を動かすことが得意そうな千影に比べ、夜斗は大人しそうでそういうことに向いていないのは一目瞭然だった。
どうしても体の動かし方には元々の資質というものがあるのだ。
「里の奴らもさ、修行が嫌だって泣く奴がいっぱいいる。でもいずれは術が発現したら戦いとかそういうのに行かされるんだろうな。里の外に行かされた大人は帰ってこないことも多いんだ…」
六道の隣に腰かけた千影は膝を抱えて、つぶやいた。
珍しく肩を落とし落ち込んだ様子で、黒い瞳はどこか遠くを見つめていた。
その後千影はしばらく姿を見せなかった。
ここを訪れることに飽いたのだろうと位置づけた。子供の心はとにかく移ろいやすいのだ。別の新たなものに興味を抱いた、ただそれだけのこと。
元気でおしゃべりな千影の姿が無い。
心なしか胸に冷たい風が吹き抜けたような心地がした。
しばらく姿を現さなかった千影が次に現れた時、その瞳には傷ついた色を浮かべていた。
小さな頬には似つかわしくない大きな痣の跡も。
千影は六道の側へ寄ると、静かに腰を下ろした。いつもはあれこれと聞かずとも喋りだすのに、一向に口を開く気配が無い。
普段賑やかな者が静かだと調子が狂う。
ふう、とひとつため息を吐く。
「…どうした?」
これまで六道の方から語りだすことはなかったから、驚いたように千影が顔を上げる。瞳がさざ波のようにゆらめき、それからわずかの逡巡の後口を開く。
「俺の友達で、この間術が発現した奴がいるんだ。苦しみだしたと思ったら、急に…」
千影の話すところに寄ると、家から代々継がれてきた力は生まれつき使えるわけではなく、成長する過程で力が噴出するように発現するのだという。
個人差はあるが、十を迎える頃までには必ず発現する。
「そいつ、毒の力を持ってて。術の発現の後大人達に連れて行かれたから、こっそり後を追ったんだ。そしたら、暗殺に使うって話しているのを聞いた。助け出そうとしたんだけど…駄目だった」
頬の痣はその時殴られたのだろう。紫から黄色へ変わりかけている。
「そいつ、あれから戻って来ない。大人はまた次の子を作ればいいって言ってた。この里はおかしいよ。絶対にこんなのおかしい」
千影の顔に悔しさが浮かび、目に涙が溜まる。
友を助けられなかったことが、この幼い者の心に大きな影を落としている。
「子を争いの道具に使うか。醜いな…本当に、人は」
六道は忌々しそうに吐き捨てる。遠い昔に感じた、苦々しい思いが蘇ってくるのを感じた。
「六道、怒ってる? それに悲しそうだ。初めて会った時みたい」
「そうだ。私は…人が、嫌いだ。私利私欲ばかりで吐き気がする」
「そっか。六道は長い間旅してたって言ってたから…嫌な奴にたくさん会って疲れたんだな」
六道よりも何百年も幼い、一寸前に生まれたばかりの子に心の内を悟られ、たじろぐ。
千影の黒い瞳に、穏やかな温かい色が灯る。
「そういう時はやさしかった奴のこと思い出すといいよ。俺は辛い時、母上や夜斗や友達のこと、それから六道のこと思い出してるよ。父上は、ちょっと苦手だから…あんまりだけど。そうして大切な人のことを思い出したら、頑張れるんだ」
千影はいつの間にか笑顔になっていた。
どういうわけか先程まで落ち込んでいたはずの者が、六道を励ます側になっている。
かつての鬼の友の顔を思い出す。それからその妻の顔。
長い時を過ごすうちに、心の奥底へ行っていたあの者達の顔を思い出した時、わずかに胸に温かく、切ないものが宿るのを感じた。
「もし六道に誰もそういう奴がいなかったら、俺がなってやるよ。六道にたくさんやさしくしてやる」
長い旅の中で、やさしく美しい魂を持つものは確かにあった。
久しく、忘れていたもの。
こんな子供に気付かされるとは。
「俺、もう少し大きくなって力をつけたらこの里をぶっ潰してやる。それから夜斗と友達を連れて、外の世界へ行くんだ。その時は六道も行こう。綺麗なものをたくさん見よう」
きっとすごく楽しいと思うんだ、と千影は笑った。瞬きすることも息をすることすら忘れ、じっと六道はその太陽のような笑顔を見つめた。
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