春、かすみ咲く空の下

緑野 和寿

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#10  名前のない曲

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 新幹線がトンネルを走る。真っ暗になる。春仁は? どこ? 地の底に取り残されたみたい。何も見えない。怖い、怖いよ。必死に叫ぶ。私を一人にしないで。
 やがてトンネルの奥から光が射してくる。
「ハルっ!」


 雨の音。現実に戻される。ベッドから起き、現実を知った自分に落胆する。

 5日目、今日こそは、しっかりしないと取り返しのつかないくらいダメになりそう。雨は止む様子を見せない。起きなきゃ、のそのそと重い体を動かす。熱いシャワーを思い切り頭から浴び、まとわりついたものを流す。
 パチンッ!
「しっかりしろ、私」
 顔を手で挟み、気を込める。
 お風呂から出ると奏澄は雨の降りしきる町へと歩を進める。特別どこかを目指しているわけではない。部屋にいたら狂ってしまいそうだから外に出たかった、それだけ。海とは反対の小高い丘へ上がっていく。何という名前だろうか、白い花がその葉に雨粒を不安定に乗せて雨が止むのを待っている。
 名前……名のない花ってあるのだろうか。もし、自分が名を持たない存在だったなら社会とはどう結ばれる? 一生一人? 名前を付けてほしいと懇願するのかな? 自分は名を持っているという自覚とそれに対して周りが認識してくれればいいのか。

 坂道の両側には土産物屋や喫茶店がいくつか並んでいる。客足は少ない。それぞれの店先を見るともなしに見る。雨なんて嫌、いつもはそう思う。ただ、今は落ち着く。内情を代弁してくれているみたい。
 雨の匂い。アスファルトの匂いが微かに混じったような。嫌いじゃない。夏の匂いっていう感じがする。旅愁をかきたてる。
 いつかは晴れるよね。丘を上りきると本来ならば海も見渡せる見晴らしがいいであろう広場があった。さほどの広さではないが、ちょうどいい広さ。今は靄がかかり、海はほとんど拝めない。何とか目にすることのできる部分を見つけたかと思えば、その海はまるで青く輝くのを忘れて……いや、放棄してしまったかのように色を失っている。波は荒れ、岩にぶつかり、千々に砕けている。
 色を取り戻すには何が必要か。新しい色を借りて上から塗りつぶす? それじゃあ、下に隠された色がいつか這い上がってきて新しい色を呑みこんでしまう。雨がもっと降って黒い部分が薄まっていくのを待つ? 流された黒い部分はどこに行くの? 消えることはないよね。
「やっぱり、光」

 どうやって手に入れよう。あの厚い灰色雲を除けばいいんだろうけれど。風にお願いして飛ばしてもらっても、一方でその風は次から次へと新しい荒れる雲を連れてくる。
「太陽、見えないね」
 空を見つめ続ける。
 この雨は、いつまで続くの? もしかして私だけに降っている? 私の心が晴れないとダメなのかな。だとしたら……
「んっ?」
 何か爪先に重さを感じる。
 そこには茶と白の毛並みのいい猫がくっついていた。
 一度視線を外し、再度見てみる。

 やっぱり、いる。傍から見ると猫と相合傘をしているよう。しかも左前足でちゃっかり私の爪先を踏んでくれている。

「雨宿り?」
 聞いてみるが反応はない。
「どこから来たの? この辺に住んでるの?」
「……」
「まさか、誰かと待ち合わせじゃないよね」
「……」
「そうよね。う~ん、どうしよう」
「いくつ?」
 答えるはずもないか。何を見ているんだろう、この子。そう考えている中、少し体が冷えてきた。温まろう。すぐ下の喫茶店にでも行って。
「猫ちゃん、元気でね」
「……」
「濡れちゃうから場所変えた方がいいよ」
 丘を下ろうと向きを変える。
「おっ?」
 猫がついてくる。雨に濡れないよう傘の下に入って。
「ふふっ、かわいい」
 歩幅を縮め、傘を猫の方に寄せる。
「きれいな毛並みだね」
「……」
 水溜まりもさらりとかわす。
「名前は何だろう」
 雨の一粒が猫の額に落ちる。ビクッとすぐに反応して止まり、奏澄を見上げる。
「いや、私じゃないよ」
 問い詰めるような表情。毛が逆立っている。
「あはは、雨止まないねぇ」
 猫相手に話を逸らす。
「あっ、そうそう猫ちゃん。お名前は?」
 視線を戻し、再び何も聞かなかったかのように歩く猫。
「もぉ」
 奏澄を置いて先へ行き、五、六歩進んで、はたと止まる。そして、振り返ってつぶらな瞳でじっと訴えてくる。
「えっ? あ~傘ね、はいはい」
 クールな猫ちゃん。でも愛嬌のある猫ちゃん。もしかして……
「ハル?」
「……」
「違うよね。ごめん、ごめん」
 喫茶店の前に着く。
「じゃあね、猫ちゃん。ここで待っててもいいよ」

 からんころん。
 甘い香りが広がる店内。温かいコーヒーとサンドイッチを頼む。
 冷えた指先にカップの温もり。口をすぼめて冷ましながら飲む。サンドイッチも優しい味がする。愛情を注がれている昔からありそうな店。店内にはクラシックが流れている。そんなに大きくはないがグランドピアノもある。濃い茶色で塗られたピアノ。ピアノは黒、そんなイメージがあるが、そういえば何でだろう。黒以外もあることはある。しかし、珍しい。学校でも演奏会でも普通は黒。
「大学で習ったっけ?」
「よろしければどうぞ」
 ピアノを見つめていた奏澄に店主が声をかける。長く白いあごひげをたくわえたおじいさん。
「いいんですか?」
「ええ、ぜひ。聴衆は私だけで物足りないかもしれませんが」
「いえ、そんなことは」
「にゃー」
「おっ、来たな」
 カウンターから人肌くらいに温めていたミルクを皿に注ぎ、扉の外へ出る。店主を確認した猫は尻尾を立たせ、顔を彼のくるぶし辺りに何度も擦りつける。
「はいよ。そんなに慌てないで」
 甘えた声を出しながらぺろぺろとおいしそうに飲む。
「すみません。お待たせしました」
「あの猫ちゃんはこちらの?」
「違うんですよ。どこかの家庭で飼われているのかどうかは分かりませんが、気の向いた時だけ来るんです」
「いつもミルクを飲むんですか?」
「ええ、いつ来てもいいように用意してるんです。お得意さんみたいですな」
「いいお客さんですね」
「とても。そうそう、ピアノ」
「はい。手がもう少し温まったらお借りします」
「いつでも、お好きな頃合いに」
 親しみに満ちた手のひらをそっとピアノへ促す。

 久しぶりに弾いてみたくなった。
 椅子に座り、鍵盤へ静かに手を置く。
 店内のクラシックが止まる。
 店主が笑顔で頷く。
 目をつむる。
 真っ白な世界が広がる。
 最初の一音を奏す。
 大事な曲。
 音符が現れ、小さな葉に変わる。
 音を足していく。
 小さな葉が幾重にも連なり、大草原になる。
 木も成長し、実をつける。
 やがて、そこに赤・黄などの花が咲き、水が湧く。
 清らかな水は小川を育む。
 さらには青い空が開け、雲が浮かび、風が流れ始める。

 これが自分の演奏? 感じたことも見たこともない世界。こんな演奏ができるなんて。私の一音一音が本当に? でも、おかしい。この曲って明るい曲じゃないのに、悲しい曲のはずなのに。
「音を楽しめれば気持ちに余裕も生まれるよ」
 春仁の言葉がよぎる。
 こういうこと? 私に理解力があればもう少しで春仁の言った意味が分かりそうなのに。焦らずに自分の演奏をしないと。
 右手と左手がいつも以上に鍵盤上を繊細に走る。
 このピアノ、何だか弾きやすい。初めて出会ったのに私の良さを惹き出そうと頑張ってくれているのかな。期待に応えたい。私もこのピアノの持ち味を出せるようにしたい。

 虫が惜しみなく羽を広げ、動物が活発に走り回る。
 街が現れ、季節が変わる。
 いつの間にか、感情も芽生えている。
 自然に溶けこんで弾けているのかな、私。
 音はよく聞こえる。それは気のせいなの?
 表面上でしか音を創れていないのではないか。
 戸惑いながらも曲は進行し、終盤にさしかかる。
 彩られた世界は一つ二つと次第に姿を消し始める。
 そして、また真っ白な世界へ。

 目を開ける。
 拍手が聞こえる。
「いい曲ですな。心が満たされましたよ」
「本当ですか?」
「ええ、本当に。何という曲ですかな?」
「名前はないんです」
「おや、それはもったいない。あなたの曲で?」
「違うんです。私の大切な人が書いたんです。はぁ、もう少しだったんだけどな」
「うん? どうかなさったのかな」
「私、初めて音楽を楽しめたというか、いえ、楽しめるきっかけがつかめたような感じがして。ただ、あと一歩で分かりそうだったのに」
「なるほど、そうでしたか」
「喜んでいいんですかね?」
「ええ、自分の納得のいく演奏をしたいというのは誰しも思うことだと思います。そこへ客観的に自分を見つめられる要素が入ればもっと良くなるかもしれませんな」
「客観的に?」
「いやいや、これは失礼。素人の爺の言うことなんてどうかお気になさらずに」
「自分を見つめる、ですか」
「まぁ、そうですな」
 あごひげをさすりながら申し訳なさそうに答える。
「"見る"ではなく"見つめる"」
「見るというのはいつでも誰でもできます。しかし、見つめるというのは意味が違うわけで。自分のことはもちろん、聴いている人々の気持ちにも音を伝えなければいけない。独りよがりでは音楽は成立しないんですな」

 考えこむ奏澄。
 音楽は聴いてくれる人と一緒に作り上げるもの?
「私も時間が空いた時に見つめることがあるんです」
「そうなんですか?」
「と言っても音楽ではなく、自分の人生のことですがね。先日は、何といったかな……あの~西の方の海で……白鷹、ん、白鳥?」
「白鶴浜……ですか?」
「あぁ、そうですな。そこです」
「いいところですよね」
「本当に」
 言葉では言い尽くせない感情が込められている。
「あそこで海を眺めていて、自分の気持ちを理解し直すことができました」
 独りよがりでは成立しない、か。
「ありがとうございます、おじいさん。気持ちが切り替えられそう」
「私は何も」
 照れた表情を隠す。再びクラシックが流れ始める。
「おじいさんもピアノ弾くんですか?」
「ええ時々、趣味程度ですが。まぁ、どちらかというと亡くなった妻が好きでしてね。よく弾いていましたよ」
「伺ってもいいですか、奥様のこと」
「構いませんとも」
「出会ったのは、いつですか?」
「幼馴染なんですな。小さい頃から一緒に泥まみれになって遊んでいましたよ。この辺りは遊ぶところがないもので自然の中で育ちました。いやぁ、お恥ずかしい限りで」
「そんなことありません。天草、素敵です」
「ありがとう。昔は、海も山ももっときれいでね」
 昔の天草、生で見ることができたらいいのにな。
「今でも十分きれいじゃないですか」
「そうかい? 魚釣りしてそのまま浜辺で焼いて食べたこともあってね。ポケットに忍ばせておいた塩を振って。あぁ、懐かしい。おいしかったよ。あの時の味は忘れられない。体は老いぼれていき、昨日のことも忘れてしまうくらいなのに、はるか昔のことは覚えているんですな。おっと、それから6月の……上旬あたりだったかなぁ」
「何ですか?」
「川沿いにホタルがね」
「来るんですか?」
 私、一度も見たことないな。
「ホタルも天草の良さが分かってるんですね」
「そうかもしれないですな」
「ご一緒になられたのは?」
「高校卒業してすぐですな。私は家の近くの車の部品工場に勤め、妻は保母さんをしていました。妻は歌うことが好きで、保育園の子達に教えていましたよ」
「あのピアノは、どうなさったんですか?」

 余韻の残るピアノを眺める店主。亡き妻を投影しているのかもしれない。
「あぁ、あれは元々、小学校の音楽教室にありましてね。その学校がいつだったか子供の数が減少した影響で他の学校に統合されて閉校することになりましてな。そこで、もし使わないなら保育園に譲ってもらえないかと妻が頼みこんで頂いたものなんです」
「特徴のある色ですね」
「珍しいでしょ。妻もあの色に惚れていましてね。私よりもピアノの方が好きなんじゃないかと心配するくらいでしたよ。ははは、なんてね」
「私も好きです。あの色。惹きこまれるようで」
「その保育園もだいぶ前に閉園しました。学びの庭がなくなる、寂しいものですな」
「昔に戻ってみたいって思いますか? すみません、失礼なこと」
「いやいや。ん~確かにそれはあるかな。妻と一緒にまた泥まみれになって遊びたい、手をつなぎたい、走り回りたい。贅沢かな」
「お気持ち分かります。一番の思い出って何ですか?」
「……特に一緒に旅行したとかよりも、いつも私のそばにいてくれたことですかな。私に笑顔を見せてくれたこと」
 思いやりの溢れている人生。
 そんな大切な存在を失ってしまうのってどんなにつらいことだろう。
 耐えられない。
 耐えられなかった、私も。

「いやぁ、妻には感謝していますよ。いつも一緒にいてくれてありがとうって。きっと今もここにいてくれて。久々にピアノの音を聴いてさぞかし喜んでいることでしょうな。あなたが来てくれて良かった」
 支え合って生きていくってこういうことなのかな。信頼して、信頼されてもいる。

 随分長いこと世話になってしまった。
「おじいさん、そろそろ私、行きますね。ごちそうさまでした。コーヒーとサンドイッチ、おいしかったです。それにお話聞かせて頂けて良かったです」
「また、いつでもいらっしゃいな」

 扉を開け、店を出る。雨は止んでいる。猫の姿は見当たらない。
「さすがに待っててくれないか。雨も止んだしね」
 結局、猫ちゃんの名前は何だったんだろう。どこか男の子っぽい気を感じたけれど、違うのかな。そう考えながら丘をさらに下っていく奏澄の背景には虹がかかっている。進むべき道の後押しをしてくれているのか?
 おじいさんに出会えて良かった。気持ちがかなり楽になった。
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