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第三章「世界の秘密」
第18話「走れ凛奈」
しおりを挟むアンジェラは夜9時の祈りの儀式をするために大広間に向かった。すると、入り口の扉の前に陽真がいた。
「アーサー…」
「アンジェラ…そうか、もう時間か」
もはや何も言われずとも陽真は大広間に来るようになっていた。アンジェラの代わりに祈りの儀式を行うために。
「今日は私、ちゃんとやるわ。この頃ずっとアーサーに任せっぱなしだったから」
「いや、今日は俺がやる。色々あったし、お前疲れてるだろ」
「そうだけど…」
アーサーだって疲れているはず、たくさんのギャングを相手にしたのだから、そう言おうとする気持ちを引っ込めたアンジェラ。ここでそれを言うのはアーサーの恩を踏みにじるようで気が引けた。
「俺がやっておくって。今日はゆっくり休め」
「ありがとう。じゃあ、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
アンジェラは自室に向かう。陽真が大部屋に入る前に、背中を向けたまま訴える。
「アーサー、よく考えてね。自分が本当に守るべきなのは何なのかを。選ぶのはアナタなんだから…」
「え?」
アンジェラは歩き出した。陽真にはアンジェラの伝えたいことが何なのかはわからなかった。陽真は大部屋に入り、奥に大きくそびえ立つ全能神アデスの姿が描かれた壁画を見上げる。
「…」
陽真は自分の曖昧な記憶、そして凛奈のことを思い浮かべた。陽真は悩んでいた。
* * * * * * *
「んん…」
私は目を覚ました。側に哀香ちゃんと蓮君、花音ちゃんがいた。心配そうに私を見つめてくる。私は力を振り絞って起き上がる。ギャングにつけられた傷がひどく痛む。
「凛奈…」
「起きたわね」
ここはプチクラ山の時計広場だった。私はベンチに寝かされていた。辺りは真っ暗だ。もうすっかり日が沈み、あれからだいぶ時間が経っているようだ。
…え?自分がプチクラ山にいるということは、戻ってきたの?
「…あっ!」
私は林の奥へと消えていく霧を発見する。まずい、霧がないと向こうの世界に行けなくなる。
「ダメ…!」
私はボロボロの体を無理やり動かして霧に手を伸ばす。しかし突き刺すような痛みが全身を襲い、再び倒れる。
「ダメだよ凛奈、その体じゃ…」
「でも、陽真君がまだ!」
「凛奈!」
哀香ちゃんが私の体を押さえつける。
「離して!陽真君!陽真君…!」
霧は跡形もなく林の奥へと消えていった。霧が消えてしまっては、もうフォーディルナイトに戻ることはできない。私の伸ばした手は陽真君に届かなかった。
「そんな…待ってよ…陽真君が…まだ…うっう…」
陽真君、どうして?どうして私を突き放すの?いくら覚えていないからって…こんなの酷すぎるよ…。あの頃の優しかった陽真君はもういないの?あんなに私のこと、たくさん助けてくれたのに…。あの日々は全部幻だったの?
陽真君、覚えてる?9月にあった文化祭。私のクラスのメイド喫茶に来てくれたよね。心に距離を感じ始めてた時期だから、メイド服姿で陽真君の接客するのすごく緊張したよ。でも、陽真君が「可愛いぜ」って言ってくれたの、すごく嬉しかった。同時に恥ずかしかったけど、その言葉は陽真君の口から一番聞きたかったんだ。その後に「オムライスうまかった」とも言ってくれたよね。やっぱり陽真君はうまいよ、私を照れさせるのが。
陽真君、文化祭の後は体育大会だよ。もうすぐ始まるよ。みんな陽真君がリレーで走るのを待ってるんだよ。私にもう一度カッコいいところを見せてよ。そうだ、今年から二人三脚は男女ペアでやることになったんだよ。私と陽真君はクラスが違うから今年は一緒にペア組めないけど、来年はきっと一緒のクラスになると信じてるよ。そしたら一緒にペア組んで、一緒に走ろうね。陽真君と一緒に走れるなんて、夢みたいだよね。
まだあなたとやりたいことがある。まだ足りない。こんなものじゃ足りない。もっともっと、陽真君と同じ時間を共有したい。もっともっと、いろんなことを一緒にしたい。
でも、それはもう叶わない。あなたはもう遠くに行ってしまったから。あなたは私を捨てた。私と陽真君の関係は、今完全に崩壊した。
陽真君…そんなの…嫌だよ…
私はその場に崩れ落ちる。嗚咽がこぼれる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
そして思い切り泣いた。時計広場の地面に私の涙が溶けていく。もちろん涙の跡はすぐに消えてしまった。どの大地も私の悲しみを受けとることなく、跡形もなく消し去ろうとする。融通の聞かない子どものよう泣き叫ぶ私を、蓮君と花音ちゃんは何も言えずに見つめる。
「…あんなやつ陽真じゃない」
哀香は下を向いたまま呟く。私の泣き叫ぶ声は唐突に止められる。
「凛奈にあんな酷いことするやつは陽真じゃない!いくら覚えてないからって、あれはやり過ぎよ!」
最初に陽真君と再会した時のことを言っているのか。それとも今の私のこの傷が陽真君が付けたものだと勘違いしているのか。
「凛奈、もう諦めましょう…」
今までで一番弱気に見える哀香ちゃんの情けない表情。哀香ちゃんは行方不明者を元の世界へ連れ戻すことを完全に諦めるようだった。どうして?ユタさんは豊さんだって気づいたのだから、彼だけでも連れ戻せたはず。それに、哀香ちゃんが一番連れ戻したいはずの優衣ちゃんを、なんでそんな簡単に諦められるの?
「そうだね。たとえこっちに連れ戻せたとしても、向こうはこっちのことは何も覚えていないものね」
「そのまま一緒に生きていくなんてできないよね…。そんなの辛過ぎるよ…」
蓮君、花音ちゃんまで…。
「アンタだって無理でしょ。自分のことを何も覚えていない空っぽの陽真と一緒に生きていくなんて…」
私は何も答えられない。そんなの絶対に間違っている。心の中ではそう思っていても、哀香ちゃん達の言っていることがどこか真っ当なようでちぐはぐな気分だ。
「もう諦めましょ。アンタの知る陽真はもういないわ」
「ううん。ここにいるよ」
しかし、痛め付けられた私の闘争心に突然火が点いた。ゆっくりと起き上がり、涙を拭い、胸に手を当てる。
「ここで諦められるほど、私の気持ちは半端じゃないよ」
危なかった。もう少しで私も忘れてしまうところだった。絶対に捨ててはならない大切なものを。
「凛奈…」
「私ね、陽真君にこれ以上ないってくらいに救われたの。そこから私の人生は本当に幸せなものだった。陽真君はずっと私のそばにいてくれた。退屈な時は楽しませて、辛い時は励ましてくれた…」
大切なもの、それは思い出だ。私は陽真君と数えきれない程の時間を共にした。それら全部がかけがえのない大切なものなんだ。それら全部が今の私を形作っているんだ。今ここで陽真君を連れ戻すことを諦めるのは、陽真君との思い出をすべて無かったことにしてしまうのと同じだ。私ったら…陽真君に突き放されたからって、自分から陽真君との思い出を全部無かったことにしてしまうなんて。馬鹿だ、本当に馬鹿だ。そんなことしていいわけないじゃないか。私は決心した。もう絶対に無かったことにはしない。絶対に忘れない。
「今の私にとって陽真君の存在は必要不可欠なものなの。そんなに簡単に諦められるものじゃない。かつて陽真君が私を助けてくれたように、今度は私が陽真君を助けたい。本当の彼を取り戻したい。これからもずっと一緒にいたい」
私は沸き上がる熱に身を任せて訴える。陽真君と別れるなんて、その宝物を踏みにじるに等しい行為だ。そんなことは絶対にしない。今度こそ陽真君を取り戻すんだ。
「だって、陽真君のことが好きだから…」
最後の最後て私を突き動かすのは、やっぱり彼からもらった愛だ。哀香ちゃんは真っ直ぐに私を見つめる。
「…ったく。そういう図々しいところ、ほんとに素敵なんだから…」
哀香ちゃんが笑った。
「好きになっちゃったら、そりゃ引き返せないか…」
蓮君も…。
「好きな人には一途…っと」
花音ちゃんはあの手帳の私のページに、新しい項目を書き加えた。花音ちゃん、みんな…。
「私もまだ妹を連れ戻せてないしね。もういっちょ転移してやりますか…」
「みんな…ありがt…」
みんなの熱い眼差しが私の強ばった足を軟らかくした。私はその場に倒れ込む。
「凛奈!」
「大丈夫、それより向こうに行く準備をしなくちゃ」
「でも、準備って言ったって、そもそもどうやって向こうまで戻るんだよ。あの霧がないと…」
そうだ。あの霧が私達の世界とフォーディルナイトを繋ぐ架け橋の役割を果たしている。でも、それが一体どういう条件で発生するのかがわからない。私は考える。思い出せ。あの理の書に書いてあったことを。あそこに何かヒントがあるはず…。
“二つの地に隔たれた者が心を一つとして祈りを捧げた時、神が願いを絡み取り、純白の道を開いて彼らを導くだろう”
“大いなる頂きを携える大地に人々の祈りは集結し、神の力をこの上なき偉大なものへと目覚めさせ、純白の道は神の力の終着点において姿を表す”
考えろ…考えろ!陽真君のところに行くため、彼を助けるためだ。
考えろ…考えろ…考えろ!!!
霧…プチクラ山…ホーリーウッドの森…かみさまへの祈り…アンジェラ…
祈りの儀式…
「…!」
わかった…あの霧が発生する条件が。そうか、全ては偶然から始まったことだったんだ。
「凛奈?」
「哀香ちゃん!今何時!?」
私は哀香ちゃんに現在時刻を聞いた。唐突に時刻を聞かれて戸惑う哀香ちゃん。時計台を見て呟く。
「8時37分…」
今は午後8時37分…。
「まだ…間に合う!」
ザッ
私はもう一度立ち上がる。
「凛奈?」
「哀香ちゃん!哀香ちゃんの家ってプチクラ山の近くだったよね!?」
「え?ええ…」
「今すぐ武器とか防具になりそうなもの持ってきて!20分以内に!」
それだけ哀香ちゃんに叫び、私は時計広場の出口の階段まで駆け出した。全身の痛みを気合いで振り払って。
「ちょっと凛奈!どこ行くのよ!?」
哀香ちゃんの叫び声に答えず、私は走って山を下り、そのまま自宅へと駆けていった。
「はぁ…はぁ…着いた…」
汗だくの頭を腕で拭い、私は自宅の前に立った。約一週間振りの帰宅だ。私は玄関のドアを開けた。居間には明かりが点いていた。
キー
居間の扉が開き、中からパパとママが顔を出した。
「え?」
「凛奈…?」
パパとママは泣きながらこちらに歩み寄ってくる。やっぱり、こっちの世界では私は陽真君達と同じように行方不明という扱いになっているらしい。パパとママの反応もわかる。一週間行方のわからなかった大切な娘が、今やっと家に帰ってきたのだから。
「今までどこに行ってたんだ…」
「すごく心配したのよ…」
パパ、ママ、ごめん。帰ってきたばかりだけど、また行かないといけない。陽真君の元へ。
ダッ
私はパパとママに抱き寄せられる前に階段で二階へと駆け上がった。
「待ちなさい!」
「凛奈!」
私は二階に着くとすぐに自分の部屋に飛び込む。
ガチャッ
豪快にドアを開け、机の上に置いてある箱を手に取る。陽真君に告白した時に渡し損ねたプレゼントのペンダントだ。陽真君にもう一度会い、これを渡す。陽真君との強い繋がりを感じられるようなものを見せれば、モシカシタラ記憶が戻るかもしれない。私はロングスカートのポケットにペンダントをしまい、部屋を出る…。
「…」
ふと立ち止まり、もう一度机を振り返る。空になったプレゼントの箱の横にポツンと置かれた“宝物”が気になった。考えてみれば、これも陽真君との絆の証のようなものだ。これも何かの役に立つかもしれない。私はそれもポケットにしまい、階段を下りた。
「凛奈!」
パパとママが行く手を塞ぐ。私は二人の間をすり抜けて玄関のドアノブに手を掛ける。
「凛奈、待って!!!」
ママが叫ぶ。私はゆっくりと振り向く。
「凛奈、どこに行くの?せっかく戻ってきたのに、もうどこにも行かないでちょうだい…」
「そうだ。凛奈、お前にもしものことがあったら…パパは…」
泣きじゃくるパパとママ。私がいなくなったことが相当に悲しいようだ。私は申し訳ない気分になる。家族にここまで心配をかけたのか。でも…
「ごめんパパ、ママ。私、どうしても会わなきゃ行けない人がいるの。このままじゃ二度と会えなくなるかもしれないから。だから…行かなきゃ。私を助けてくれた人の元へ。今度は…私が助けなきゃ」
「凛奈…」
「だからお願い、行かせて…。絶対に戻ってくるから!」
ガチャッ
私は玄関のドアを思い切り押して外に飛び出す。そのままプチクラ山へと向かう。
「凛奈~!」
パパとママの呼び声が遠ざかる。本当にごめんなさい。でも、どれだけ家族に迷惑をかけても、今の私には何が何でも成し遂げなければならないことがある。私は出会ってしまったのだ、この世で一番にいたいと思う人と。
私の姿は住宅街の暗闇の中に吸い込まれていった。私はプチクラ山へ、陽真君の元へ全力で走った。
“陽真君…陽真君…”
私は心で陽真君に問いかける。違うよね?あの日々は幻なんかじゃないよね?私、信じてるから…。あなたは絶対に私との思い出を捨てたりしないって。
思い返せば、始まりは唐突なものだった。
“なぁ、一緒に帰らね?家同じ方向なんだからさ”
彼がいつも一人でいた私に、一緒に帰ろうと声をかけてくれた。戸惑いながらも私はうんと返事した。これが私と陽真君の最初のやり取り。全ての始まりだったんだ。
“俺は浅野陽真。よろしくな”
彼の名前を知った時、まるで世界の秘密を解き明かすパスワードを見つけたみたいで、不思議な気持ちだった。あんなに堂々と自分の名前を誇らしく言えるのも。自信に満ち溢れたあの姿、私は憧れていたんだ。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
私は夜道を汗だくになりながら走る。走る度に汗が道端にパラパラと撒き散らされる。黄色く長い髪がファサファサと踊る。うっとうしくなんかない。この髪だって、この色だって、陽真君は褒めてくれたんだから。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
私は走る。ふと横に目を向けると、小さな公園が見えた。ここは、私と陽真君の絆が生まれた場所だ。
“いい景色…”
“だろ♪”
陽真君と一緒に登ったジャングルジム。あの頃の私にはまるでエベレストのように高くそびえる巨峰だった。陽真君に支えてもらいながら頂上に登り、隣同士で眺めたあの景色。たった4メートル程度の高さから、私は世界の素晴らしさを見渡したんだ。
それも、陽真君がいなかったら知れなかったことだ。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
私は走る。プチクラ山を目指して。家からそこまで往復するのに、最低でも1時間はかかる。いつものペースではタイムリミットまでは確実に間に合わない。私は陽真君からもらった愛と、勇気で駆け抜ける。絶対に間に合わせてみせる。
私は走る。陽真君と一緒に歩いた帰り道を。陽真君と旅をするように、私はたくさんの思い出をつくってきたんだ。でも、その中で一番印象に残っているのは…
“一人で何でも抱え込む必要なんてねぇよ。お前にはもういるだろ?友達が。俺でよければお前のことはいくらでも助けてやる”
いじめっ子から私を守ってくれたこと。
“迷惑だとか、そんなこと考えなくていい。迷惑かけて、迷惑をかけられてこその友達だろ?そんなのいくらでも許してやるよ”
友達なんて一人もいなくて、いつもいじめられてた。その度に情けなく泣きわめいていた弱い私を、見てみぬふりをせずに手を差し伸べてくれた。傷付いた心と体を、温かい言葉と手で包み込んでくれた。
だから私は陽真君が好きになったんだ。
ガッ
「わっ!」
道端の石ころにつまづいて、私は倒れる。ただでさえボロボロになった体を強く地面に打ち付けてしまう。
「うぅぅ…」
何度目の涙だろうか。小さい頃の私なら、きっと泣き叫んで自力で起き上がることなんてできないだろう。
「負け…ない!」
ダッ
私は自力で起き上がる。こんな痛み、大したことない。こんなのへっちゃらだ。大丈夫、私は大丈夫。何度も助けられる度に、陽真君に力をもらったのだ。陽真君に出会えたから、私は強くなった。陽真君に比べたらまだまだ全然だけど、小さい頃よりかは確実に強くなった。これも全て陽真君のおかげ…。
“俺、決めたんだ。お前のことは俺が守るって。お前が悲しむのは嫌だから、これからも凛奈が悲しまないように俺が助けてやる”
ありがとう陽真君…私を助けてくれて。おかげで私はものすごく成長できた。遅くなってごめんね。今、恩返しに行くから…。
“だから凛奈、約束してくれ”
うん…わかってる。
“俺達は、ずーっと一緒だ”
うん…一緒にいよう。ずっと…ずっと…。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
私は走る。あの時の約束を守るために。私は忘れてないよ、ずっと一緒にいるという約束。今のあなたは覚えていないだろうけど。でも、きっとあなたは思い出してくれると信じてる。あなたは約束を破ったり、人を傷付けるような酷い人なんかじゃない。どの世界の誰よりも、私が一番知っている。
私はプチクラ山の入り口までたどり着く。時計広場まで続く階段を一気に上る。
“陽真君…陽真君”
哀香ちゃん達は、記憶の無くなった人と一緒に生きていくなんて耐えられないと言う。私だってそんなの辛過ぎる。ならどうするか。
答えは簡単だ。思い出させればいい。陽真君は私を突き放しながらも、苦しい顔をしていた。少しためらっていたのかもしれない。そこからわずかな希望が見えた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
私は走る。体中を激痛が襲う。それでも、耐えて耐えて耐え抜いた。何度転んでも立ち上がった。血だらけになってでも、這いつくばってでも、陽真君のところへ向かう。
“陽真君…陽真君…”
私はやる。絶対にやってみせる。絶対に陽真君の記憶を取り戻してみせる。
“陽真君…!”
そしてもう一度、あの幸せな日々を実現してみせる!
* * * * * * *
ザッザッザ
哀香がリュックを背負いながら階段を登ってきた。自宅から戻ってきたようだった。
「哀香…」
「言われた通り色々持ってきた」
哀香はリュックを地面に置き、ぽんぽんと叩く。
「凛奈はまだ来ていないようね」
「あぁ…ん?」
哀香はリュックから救急箱を取り出した。箱を開け、中から包帯や消毒液を出す。
「蓮、腕出しなさい。怪我してんでしょ」
蓮太郎は城でギャング達の襲撃に遭った時、剣で右腕を斬りつけられていた。暗くても確認できるほど血が溢れ出ている。攻撃されそうになった哀香を庇ってできたものだ。蓮太郎は左手で傷口を押さえる。
「こんなのかすり傷だよ。大したことないって」
蓮太郎は苦笑いで答え、右腕を遠ざける。
「馬鹿!!!」
哀香の怒鳴り声が時計広場に響き渡る。蓮太郎は萎縮する。近くにいた花音も思わず震え上がる。
「アンタ昔から臆病者のくせに、私のことになるとすぐそうやって無茶するんだから!心配するこっちの身にもなりなさいよ…」
「…ごめん」
「ほら、さっさと見せなさいよ」
蓮太郎は無言で傷口を見せる。哀香はティッシュで血を拭き取り始める。こびりついた泥や砂利を落とし、水で綺麗に洗い流した後に消毒液を塗り、包帯で包んで終了。哀香の手慣れた治療はたった3分で済んだ。
「ありがとう…哀香」
「もう無茶なんてするんじゃないわよ」
「あぁ…」
笑い合う哀香と蓮太郎。凛奈と陽真だけではない。この二人も中学校からの幼なじみなのだ。目には見えない特別な絆で繋がっている。何やら良さげな雰囲気に花音も思わず笑みがこぼれる。
ザッザッザ
「…!」
三人は階段に目を向ける。凛奈が這いずりながら登ってきた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
「凛奈!」
驚いた。プチクラ山の時計広場から清水家の自宅まで最低でも一時間はかかる程の距離を、約20分で往復したのだ。陽真を思う愛が凛奈の凄まじい力を呼び覚ました。
「アンタどこに行ってたのよ!?」
哀香達は凛奈に駆け寄り、地面に這いつくばる凛奈を抱き起こす。凛奈は荒れた息遣いで答える。
「自分の…家…」
「どうして…走って行く必要なんてないのに…」
「ダメ…間に合わない…から」
「え?」
「哀香ちゃん…今…何時?」
再び現在時刻を尋ねる凛奈。哀香は時計台を確認して呟く。
「8時58分…」
「間に合った…」
凛奈は脅威の力で一瞬で息を整え、自力で立って歩いた。先程霧が消えていった柵の奥に続く森を見つめる。
「9時に何かあるの?」
「うん。哀香ちゃんはもうわかった?どうやって二つの世界を行き来するか。どうやってあの霧を発生するのか」
凛奈は後ろを振り返らずに哀香に聞く。
「えぇ…。理の書に書いてあったあの暗号みたいな文が答えでしょ」
「そういうこと」
「お互いの世界にいる二人の人間が同時に神様に祈りを捧げる。そうすれば近くの山で二つの世界を繋ぐ霧が出てくる」
哀香は淡々と説明する。異なる世界に隔てられた二人が同じタイミングで神様に祈りを捧げた時、お互いの一番近くにある山に二つの世界を繋ぐゲートとして霧が現れ、異世界へ行くことができる。理の書に書かれていたことはそういう意味だったのだ。哀香は密かに気づいていたようだ。
「これで向こうの世界に行く方法はばっちりだね」
「でも、向こうで誰かが祈ってないといけないんでしょ?しかもこっちと同時に。向こうの世界で誰かが祈ってるかどうかなんてわからn……あっ!」
哀香は途中で何かを思い出したかのように時計台を再び見る。時計の針はちょうど午後9時ジャストを指し示していた。
「そっか!午後9時になれば!」
「そう、アンジェラが祈りの儀式を始める」
アンジェラが毎晩9時に行うという祈りの儀式。凛奈はそれを見越して午後9時に間に合うように時計広場に戻ってきたのだ。最近はサボり気味で、他の騎士にやらせているとアルバートは言っていた。しかし、この際誰でもいい。フォーディルナイトで誰かが祈ってさえいれば、後は自分達も祈りを捧げて霧が発生するはず。
また一つ謎が解けた。今まで行方不明になった人達はみんな午後9時に何かしら神様に祈りを捧げ、それが偶然にもアンジェラの祈りとタイミングが重なって霧が発生し、フォーディルナイトに転移していたのだ。陽真も、優衣も、豊も、花音も、もちろん凛奈達も…。まさに神様が起こした奇跡のような偶然だ。
「確かに!転移した時、向こうの世界は夜だった!こっちの世界と同じように…」
「つまり、二つの世界は並行して時間が流れている。向こうの時刻も午後9時。それなら今頃アンジェラが祈りを捧げてるはずだ」
花音と蓮太郎も理解する。
「それじゃあ…みんな、いくよ!」
凛奈は手を組み、目を閉じて祈る。
“かみさま…お願いします。もう一度陽真君に会わせてください…”
「…」
大広間でアデスが描かれた壁画を眺める陽真。陽真はこの世界で記憶を無くしてから、毎晩祈りを捧げる度に心に引っ掛かったものがあった。何か大切なものを忘れている棘のような感覚が。
「凛奈…」
もし、その謎の感覚の秘密を、あの少女が握っているのだとしたら。
“アーサー、よく考えてね。自分が本当に守るべきなのは何なのかを。選ぶのはアナタなんだから…”
アンジェラの先程の言葉が心に響く。まるで自分が本当の自分でないような、そんな感覚にも襲われる。自分が一体何を失ってしまったのかはまだわからない。しかし、全能神であれば知っているのだろうか。この世に生きる全ての人間のことを。自分のことも…。
時刻はちょうど午後9時を迎えた。儀式の時間だ。
「よし…」
陽真は儀式を行うと同時に神様に問うことにした。あの時、凛奈が自分を呼ぶ声が必死に思えた。あそこまで必死になるということは、やはり自分と彼女には何か特別な関係があるのか。果たしてそれは何か?それはこの世界に来る前の記憶の中にある。陽真はもどかしさを感じていた。陽真は心に引っ掛かる感覚の正体を神様に尋ねた。
“教えてください。俺は一体誰なんですか?俺はどこから来たのですか?俺はここにいるべき人間なのですか?どうか、俺の正体を、本当の居場所を教えてください…”
祈りが重なった。
シュー
霧は見事に発生した。四人は歓喜の声をあげる。
「すごい!」
「やったわね凛奈!」
「うん!さぁ、行こう!」
凛奈は霧に向かって歩き出す。蓮太郎は立ち上がろうとする。
「待って、蓮はここに残りなさい」
「え?」
哀香が蓮太郎を言い留めた。
「アンタ怪我してんでしょ。無理しないでここで待ってなさい」
「で、でも…」
「こっちに帰ってくる時に誰か祈る人が残ってないといけないじゃない。ここで待ってなさい。そしてずっと祈ってなさい。私達がまた戻ってこられるように。これはアンタにしか頼めないことよ」
「…わかった」
蓮太郎は悔しそうにその場に座り込む。哀香は背を向け、霧の中へと歩き出す。
「待って!」
哀香が進もうとすると、蓮太郎が哀香の袖を掴む。
「すべて終わらせたら、話すことがある。だから…絶対に戻ってきてほしい」
哀香は蓮太郎の覚悟に満ちた瞳を見つめる。
「…わかったわ。絶対に連れ戻してくる」
哀香は凛奈、花音と共に霧の中へ飛び込んだ。蓮太郎はその後ろ姿を眺めながら手を合わせて祈る。
「行くわよ!二人共!」
「うん!」
「えぇ!」
三人の姿は霧の奥へと進んでいった。絶対に陽真達を連れ戻す、その覚悟を胸に抱きながら。
エリーはバーの入口から暗闇の中にたたずむ城を眺める。新聞記事のこともどうしても頭に引っ掛かる。果たしてあれは一体…。
「…」
余計なことを考えるのは止め、扉に「CLOSE」の看板を立て掛ける。
ザッザッザ
ふと暗闇の奥から足音が聞こえた。ギャングか?エリーは足音のする方向に警戒する。
「…また会ったわね」
「哀香!?」
暗闇の中から哀香、花音、凛奈が出てきた。凛奈は花音に体を支えてもらいながら、よろよろとした動きでエリーに近づく。
「エリーちゃん…いや、優衣ちゃん。お願いがあるの」
目を覚ましたアンジェラはベッドから起き上がった。目覚めはあまりよくなかった。昨晩の凛奈と陽真の別れを思い返すだけで、底知れぬ罪悪感が首を絞めてくる。自分のせいであの二人の関係は崩壊した。しかし、自分は為すべきことを為さなければならない。でも、苦しい…。
キー
「起きたかい?アンジェラ」
部屋のドアが開き、隙間からアルバートが顔を覗かせる。
「おはよう、パパ。どうしたの?」
「来なさい」
速やかに青のドレスに着替え、アンジェラはアルバートの部屋に向かう。そこにはカローナもいた。カローナは一枚の手紙を握っていた。涙目になりながらアンジェラに手渡す。
「これは?」
「今朝届いたの…」
アンジェラは開いて読んだ。
“本日10:00に城の襲撃を開始する。狙うは女王の命である。我々は自らの力で真の王を立てる。血を流して戦おうではないか。騎士団を使っても、能力を使っても構わない。負の歴史を繰り返すだけだがな。真の平和を実現したいのであれば、卑怯な手を用いず、正々堂々と決着を着けてみよ ガメロ”
「…」
アンジェラは黙り込む。
「奴らはアンジェラの命を狙っている。この国を滅ぼすつもりだ」
アルバートが呟く。アンジェラの額からは冷や汗が溢れ出す。
「アンジェラ、今日一日どこか安全なところに隠れてなさい!絶対に外に出ちゃダメ!」
カローナはアンジェラの肩に手を置いて訴える。
「もし身の危険を感じたら、能力を使うのよ!」
「でも、そうしたらせっかく築き上げた民との関係が…」
「今はそんなことを言っている場合ではない。国と王家の存亡の危機だぞ」
アルバートもカローナも叱りつけるように言う。アンジェラはうつ向いて答える。
「…はい」
ザッザッザ
その頃、城へと続く森の道を列を成してギャング達が行進していた。先頭でガメロが率いている。
「待っていろ…女王…」
ガメロはアンジェラ達のいる城を遠くから睨み付ける。過去に類を見ない激しい戦争が幕を開けようとしていた、
0
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愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
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