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前篇:夢の通ひ路

第十話 其の二

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「えっ」
「なんじゃ」
「いやだって、あんまりにもあっさりなので」
「帰りとうないのか」
「ごめんなさい帰りたいです、帰りたくてたまらないです」

 慌てて首を振る。

 拍子抜けした。天狗は願いを叶える代わりに対価を支払わせるとか、そういう話ではなかったっけ?
 こちらもそれなりに色々と考えて覚悟を決めて、ここまでなら差し出せるっていうボーダーライン(命はだめとか)があった訳なのだけど、目の前の彼は一切私に何かを求める発言はしていない。
 それに、物の怪退治や祓じゃないし、なんというか、ジャンルが違う気がするのだが……
 というか、こんなあっさりしちゃってていいの? 千人に一人会えると超ラッキー!とか、そんなんじゃなかった? 呼んだだけで目の前に姿を現してくれて、しかも対価も払わずに願いを叶えてくれるとか、聞いていた話と違いすぎる。

「私はそなたが気に入ったからの。対価は今回はいらぬ」
「あ、そうなんですか、ありがとうございます……って、心を読むの、やめてくれませんか!」

 いつもは貰っているのか……
 それが何かを聞くのは怖かったし、聞こうとも思わなかった。
 また心を覗いているのか、カカカ!と笑い声を上げている。天狗というよりは、どうにも食えぬおじいちゃんだ。

「ではまず、うつわの魂を呼び戻さねばなるまいの」
「器の……ええと、三の君の魂ということですか」
「そうじゃ。しばし待たれよ」

 一瞬で、すべての音が消えた。何もかもが止まっているかのようだった。
 天狗が空中の一点を見つめる。そこに、三の君の魂があるのだろうか。私には、ただ森が延々と広がっているようにしか見えない。
 と、上空で鳥の羽音がした、風が吹く。時間が動き出す。天狗のおじいちゃんの目にも光が戻った。
 そうして、信じられないことをぽんと言ったのだ。

「姫君は、戻らぬそうじゃ」
「は?」
現世うつしよには未練がない。このまま極楽浄土へ行きたいとな」
「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってください! そしたら私はどうしたら?」
「器の魂が戻らぬ以上、そなたの望みを叶えることは出来ぬの」
「そんなのおかしい! 三の君は? 三の君の魂に会わせて下さい、説得しますから!」

 冗談じゃない!
 そっちはいいかもしれないけど、こっちにはこっちの事情っていうものがあるんだ。
 私は現代へ帰る! その条件の一つが三の君の魂がこの身体に戻ることだというなら、どこをほっつき歩いているのか知らないけど、無理やり引っ張ってでも戻ってもらわないと!

「ふむ。そうか。しばし待たれよ」

 先ほどと同じように一点をぼうっと見つめ、天狗のおじいちゃんはやがて首を振った。

「そなたと話すことは何もないそうじゃ」
「こっちはあるんです!」
言伝ことづてじゃ。身体は好きにしろと」

 何言ってんの……
 え、ちょっと待って本当に理解できない。現世に未練がないって、死んでもいいってそういうこと?

 極楽浄土が云々って、そんな世界へ行くよりももっと、きっと生きていたらいいことが沢山あるはず。
 だって彼女はまだ十代後半だ。いくら平均寿命が短い平安時代とはいえ、まだ人生の半分も生きてない。どうしてここで、命を諦められるのか。

 確かに兄を亡くしたり病弱だったり、小さいころから辛いことの連続だったかもしれないけれど、優しい両親も、もう一人の兄も小梅もいる。彼女は周りに愛されていて(美人だし)、とても不幸だけの身の上とは思えない。
 しかも、身体は好きにしろってなんだ、本当になんなんだ。三の君からしたら、未来から来た私なんか得体のしれないものだと思うのだが、それに身体を預けるってどういう意味だ。

 天狗のおじいちゃんは本気で私の意志を伝えてくれているんだろうか。ちゃんと三の君と会話しているの?
 私の目には、さっきから空中をぼんやりと見つめているようにしか見えないのだけど。

「魂と直接会話する時は声など必要ないのじゃよ」
「そういうものなのですか? いえ、そんなことより、どうにかならないんですか? こんなの納得できません、私は元の世界へ帰りたいんです」
「しかしのう、そなたがここへ来た時と同じ条件が揃わねば、私とて何もできぬのじゃ」
「その条件の一つが、三の君の魂がこの身体に戻るということですか?」
「そうじゃ。姫君と話をしてみたがの、このまま極楽浄土へ行かせてほしいとそればかりじゃ。自ずから戻る意思がなければ、魂を器に戻せぬ」
「そんな……」

 がっくりと膝が折れた。もう立っていられなかった。
 ひどい、ひどすぎる。はるばる鞍馬まで山を登ってきたというのに、この仕打ちはなんだ。私は、永遠に元の世界へ戻れないのか。

 ここまでこんなにするすると上手くいくなんて、おかしいと思っていたのだ。
 平安文学に限らず、物語や小説というものは何かしらの困難が主人公に降りかかり、それを解決してハッピーエンドというものが多い。私も然り、やっぱり無理難題が残されていたのだ。しかも、生きたくないという三の君の固い意志をどうにか変えなければいけないという、とびきりの難題が。

「私の魂だけ戻すことはできないのですか?」
「違う時、違う器に飛ばされてしまう可能性の方が高いの。それに、魂の消えた器は死人しびとと同じ。そなたの魂が仮にそなたの望む器へたどり着けたとしても、今度は姫君の器が滅びる」

 三の君は、この世に未練はないと言っていた。それなら、私だけ元の世界へ戻ってもいいのではないのだろうか。
 でも、変わり果てた姫の姿を見て、父母や兄、小梅達はどう思うだろうか。多分、きっと……悲しむ。
 生死の境を彷徨っていた三の君が私として目覚めたときだって泣いて喜んでいた。あんな思いを二度もあの人達にさせてはいけない。

 それに、天狗のおじいちゃんの言葉も気になる。
 「違う時、違う器に飛ばされてしまう」……つまり、いつの時代の誰かとも分からない、もしかしたら人間でもないものに、私の心が宿るかもしれないということだろう。無理してお願いして、失敗したら最悪だ。
 虫とかだったら終わってる。しかも可能性が高い。安全牌じゃないなら絶対に取るべきじゃない。やだよ私、鳥に食べられて死ぬ人生とか。
 あともう一つ何か気になるような……なんだろう、何か違和感を感じる。喉にささった魚の小骨のようにすっきりとしない。それが何か分からないのだ。

 とにかく、総合して考えると、今回は諦めるという判断が一番いいもののように思えた。
 ただし、あくまで「今回は」である。なんとしてでも三の君を説得して、彼女に生きてもらわなくては。現代へ戻ることを諦めたわけでは決してない。

「天狗さん、今は無理でも、いつか直接三の君と私が話すことはできますか?」
「いくつか条件が揃えば可能じゃ。この先一度のみあるようじゃの」
「一度……?」
「その時は必ず来る、忘れるな。そして、そなたは大きな選択を迫られるじゃろう」

 言い終わったと同時に、ざあっと強い風が吹いた。木々のざわめきのような音。落ち葉が足元から舞い上がる、目を開けていられない。
 嫌な予感がした。彼が目の前に現れたときと同じような風だ。

「待って!!」
「また会おう」

 やはり一瞬だった。
 舞い上がった木の葉がはらはらと地面に落ちたときには、彼の姿は忽然と消えていたのだ。

「条件って、何よ……」

 聞きたいことは沢山あった。
 いくつかの条件って何? 一度のみって、いつなの? 大きな選択ってなんなのよ……
 言い逃げなんてずるいじゃないか。

 でも、そう、いつか三の君と直接話せたら、伝えよう。彼女が左大臣家にとって、どれだけ必要で大事にされている人間かをしっかり理解してもらわなきゃいけない。天狗のおじいちゃんは、その時は必ず来ると言っていたのだから、今はそれを信じて待つしかない。


 どうやら、私の平安生活はまだまだ続くらしい。
 それでもいい。前進した。大前進したのだ。何の手がかりも掴めていなかった数十分前に比べたら、今の私の手の中には希望が残っている。
 詳しいことは全く分からないけれど、天狗がいた。天狗が私を元の世界へ帰す方法を知っていた。そして、条件が合えば戻れるのだ。もうこれが分かっただけでもよしとしなくてはいけない。

 一筋の光というものが見えた気がした。
 でもその光は、いつの間にか広がった雲に遮られて私には届かない。あんなに明るかった森は顔を変え、今は薄暗く、まるでどこか異世界のような場所に見えた。

 ふと思い出したのだ。

 私の身体は今、どうなっているのだろう。
 三の君がそこにいるとは考えにくい。だって彼女は極楽浄土へ行きたいとばかり話して、現代のことは何も口にしていないのだから。もし彼女の魂が私の身体にいたならば、もっと違うことを口にしていたはずだ。

 天狗の言葉がもう一度、ゆっくりと頭の中で蘇る。

『魂の消えた器は死人と同然じゃ。そなたの魂が仮にそなたの望む器へたどり着けたとしても、今度は姫君の器が滅びる』

 ああ、そうか。
 そういうことだったのか。

 ずっとすっきりしなかったのは、このせいだったんだ。喉の小骨は取れるどころか、今度はぐさりと深く突き刺さる。

 私……どうして、気が付かなかった?

 意味が分かったと同時に、涙が溢れた。それを止める手段もなかった。ただ、言葉に代えがたい感情となって、とめどなく溢れてくる。
 嫌だ、信じたくない。それでも、私は一つの仮説を立てなくてはいけなかった。限りなく、事実に近いであろう仮説を。

 三の君の魂が私の身体にない。もしそうならば、魂のない私の現代に残してきた「身体」は死人同然。
 「私の器」はないのだ。
 つまり。

「……私は死んでいるんだ……」
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