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前篇:夢の通ひ路

第三十話 其の一

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「――して、どういうことですの? わたくしは、分かるように説明をしていただきたいのですわ」

 扇から顔半分だけ出して、それはもう冷ややかな目をじろりと向けて、小梅は言った。
 どこか有無を言わせぬ圧力がひしひしと伝わってくる。小梅は兄のことをどうのこうのと言うが、自分だってなかなかに追及にけているということを知っているのだろうか。プレッシャーがものすごい。こうなる覚悟はしていたけれど、それ以上だった。
 お説教だけではなく、本気になった小梅の事情聴取も避けなくてはいけないものだったのだ。やはり私はまだ、この小梅という女房のすべてを知らないらしい。

「何がどうなれば、姫様は宮様とご結婚なさるのです? 出家をお考えになるほどお嫌だったのではありませんか。つい昨日はお別れを申し上げる文をお書きになっていたのは何なのです? そもそも姫様は他に想い人がおられたはずではございませんでしたの? わたくし、さっぱり分かりませんわ」
「小梅、そんなに一度に聞かれても答えられないわ」
「いいえ、答えるのです! ああ、もう、姫様がご結婚なさるなんて…… 姫様が… ひめさまが……」
「落ち着いてちょうだい、私も突然のことでまだちゃんと整理できていないのよ」

 全くもってその通りだった。
 何から説明するべきか、私だって頭を悩ませているというのが現状だ。しかも小梅のことだ、適当なことを言えば絶対にそこを突かれて指摘してくるはずなので、気も抜けない。
 頭がよく優秀な女房を持つと、こういうときに辛い思いをする。細心の注意を払わないと、誤魔化しがきかないのだから。


 やはり昨夜一晩、兄の世話をしていたらしい小梅は、残りの仕事は他の女房に頼んで任せ、夜が明けた頃に私の元へやってきた。三の君付きの筆頭女房なのに、私の傍を離れているとどうにもこうにも落ち着かない、という女房の鏡のような理由だったらしい。この忠勤には頭が下がる思いだ。

 ところで、その戻ったばかりの小梅を捕まえて、「大変ですわ小梅様ーー!!」などと雛菊が例のごとく興奮気味に昨夜のできごとを話したそうだから、当然のように大騒ぎになった(私はこの時まだ睡眠中)。
 小梅は御帳台で横になっていった私を「姫様、姫様、ひーめーさーまー」と遠慮なく揺さぶって起こし、その第一声は「宮様とご結婚なさったとは真ですの!?」、第二声が「どういったお心変わりですの!?」、第三声も……まあ、似たようなものとだけ言っておこう。
 とにかく、ぼんやりした頭に、それ以上聞いても何も入りませんから、と思うくらいに次から次へと質問が投げられたというわけだ。

 もう、雛菊が悪い。小梅のことだから、私から慎重に話そうと思っていたのに、人が休んでいる間にぺろっと喋ってしまうのだから。雛菊にしたら、上司の小梅に「大事件」をありのまま報告しただけなのだろうけど、やり方を間違えると収拾がつかなくなる。

「ええと、順を追って説明するわね。……雛菊から聞いてはいると思うけれど、昨夜、宰相中将様がお見えになったの」
「はあ!? 何ですって? 何ですって!? 姫様、宰相中将様とおっしゃいましたの!?」
「え、ええ? 小梅、聞いてなかったの?」
「伺っておりませんわ!!」

 雛菊は一体小梅にどう順序立てて話したのだろう。一番のポイントがごっそり抜けているじゃないか。まさか、宮との結婚話だけしてるとか?
 いや、もしかして……小梅が怒ることが分かっていて、あえて話さなかったのではないか。そうだ、そうに違いない。だって怒った小梅は面倒くさいのだから。――ひ、雛菊め、私に大変なところを押し付けたな!

 その小梅はというと、こめかみ辺りに太い血管がうっすらと浮き上がっている。
 うわ……ものすごく怒ってる。これはもう、宰相中将からの文は、今後握りつぶすに違いない。まあ、私は読みたくもないから、そうしてくれるならありがたいのだけど。……あ、でも、私はもう宮の妻なのだから、他の公達から文は来ないようになるのか。そういうところも、宮に守られているような気がして嬉しい。

 一人ほんのりと幸せをかみしめている私とは対照的に、小梅は扇をバンと閉じた。柄を握る手がぶるぶると震えている。もちろん、彼女が持て余しているやり場のない怒りのせいだ。

「何ですの、あの色好み!! また懲りもせずに姫様に近付きましたの!? あれほど強化したというのに、警備は一体何をしておりましたの!?」
「待って、警備の者は何も悪くないのよ。宰相中将様は、お兄様をこちらへ送ったその足でいらしたとおっしゃっていたの。それで、その……ことが起こる前に宮様に助けていただいたということなのだけれど」
「……色々申し上げたいことはございますわよ、ええ。でもそちらは後でにいたしますわ、お話がすすみませんから。それで一体どうなれば、宮様とのご結婚に繋がるのでございますか?」
「端的に言うと、私には小梅のいう通り、想い人がいたわ。それが宮様だったのよ。私は、宮様だと知らずに恋をしていたみたいなの」
「お、お待ちくださいませ。前々から気にはなっていたのです。姫様はその宮様だと知る前の宮様に、いつお会いになられていたのですか? わたくしの知る限りでは、そのような機会などなかったはずです」
「えっ」

 それはもちろん、家移りの日に抜け出して、朱雀大路で一騒ぎやらかしたあの日だ。
 なんて、まさか言えるわけもない。通常営業の落ち着きを持った彼女ならいざ知らず、こんな興奮状態の血圧が上昇していそうな小梅にすべてを話すことなど、自殺行為そのものだ。下手をしたら、お説教と聴取、愚痴のトリプルコースで日が暮れるかもしれない。私にお灸を据えようと、兄に連絡する可能性も無きにしも非ず。小梅と兄のタッグ…… 無理、無理無理!
 ……となると、「その次」を最初に出逢った日にするしかない。

「ええと、鞍馬よ。鞍馬山への参詣の時にお会いしたの。雛菊達とはぐれて困っていたところを、名を伏せた公達に助けてもらって……結果的に、それが宮様だったということなのだけれど」
「そのようなこと、姫様は一言もおっしゃらなかったではございませんか」
「わ、わざわざ小梅に言うようなことでもないでしょう。もうお会いすることもないと思っていたし…… とにかく! 私は宮様にはお会いしたことがなかったから、彼が宮様だなんて知らなかったんだわ。知らずに、密かに想っていたの」
「さようでございましたの……」

 少し考えた後、なるほど!と小梅が手を合わせた。扇はいつの間にかその辺りにポイと置いている。興奮しているときの小梅は、扇をないがしろにすることが多い。

「それで姫様は、御髪を切ろうとなさったり、宮様宛にお別れのお文を書いたりしたのでございますね?」
「ええ。髪を切ろうとしたのは、少しやりすぎたけれど……他に想い人がいる状態で、宮様と文のやり取りはできないと思ったわ。失礼だもの。だけど宮様はあの文を読んで、私が思い詰めて今度こそ髪をおろすのではないかとご心配になられて、昨夜急ぎお見えになったそうなの。あとは、先ほどの通りよ。二人きりになった後、お互いの心を確かめ合って……」
「ご結婚、でございますわね?」
「え、ええ……」
「わたくしは、悔いておるのです。なぜ、大切な姫様のご結婚に不在だったのかと!」
「そんな気にしなくても……」
「いいえ、姫様」

 声のトーンが先ほどとは違った。涙声……?
 ふと小梅を見ると、彼女の目尻は濡れていた。思わずはっとする。小梅は伏せて、少し震えた声で話しはじめた。

「遅くなりましたが、わたくしからもお祝いのお言葉を申し上げたく存じます。姫様、ご結婚、おめでとうございます。乳兄弟ちきょうだいとして育った身といたしましては、畏れ多くも姫様のことを妹のように思っておりますので、姫様がこのように善き日を迎えられましたことを心より嬉しく思います」
「……小梅」
「わたくしの大切な、大切な姫様。どうかお幸せにおなりください。姫様がお幸せな日々を送れるよう、わたくしはこれからも心を込めてお仕えいたします。わたくしの主はただ一人、姫様だけでございますから」

 宮へ感じるものとは違う、胸の痛みがじわりと広がった。どこか後ろめたさが拭えず、こんな風に泣いて喜んでくれている小梅に「ありがとう」と素直に言えないことが心苦しい。

 これが本当の三の君の結婚なら、どんなに良かったのか。
 三の君の中身である「私」が消えてしまえば、その時点で結婚生活はきっと終わりを迎える。もしも、宮と三の君が離縁したり、三の君が出家したりすれば、小梅は深く深く悲しむのだろう。
 私の選択は、本当にあれでよかったのだろうか。宮と私、三の君の三人だけではない、両家に関わる人たちの運命すべてが変わってしまうことまでは考えが至らなかったのだ。

「小梅、私……」
「それにしてもなんというご縁でございましょう!! お髪をおろしてまで貫こうとした恋のお相手が、まさかまさかの宮様でいらしたなんて!! 姫様と宮様は結ばれる運命さだめだったに違いありませんわ!!」
「こ、小梅っ? ちょっと、どうしたの」
「まあまあ姫様、なんというお顔!! 辛気臭いのは終わりですわよ!! さて、今宵も宮様がお見えになるのでしょうから、わたくしにすべて、なんなりと、お任せくださいませ! 明日の準備も勿論、完璧にやってみせますわ!」

 思わず、えっと声が出た。ちょっと、切り替えが早すぎない?
 しんみりしている私は置いてけぼりに、小梅はつり目がちのその目にあの一番星のような星を宿している。きらきら、きらきら、輝きが眩しいくらい。
 ほほほ、と声高に笑う彼女は、もうこちらを見てなどいなかった。な、なんといっていいのか……。やたらと燃えているように見えるが、ほどほどにしてほしい。そう言ったところで聞く耳も持たなそうな気がしている。いや、一応は言ってみるけれど。

「そうと決まりましたら、忙しいですわ。まずは掃除ですわね、部屋の隅から隅まで磨き上げ、調度品も素晴らしいもので揃えましょう。昨夜を挽回するのです!」
「あ、あの、小梅? あまり、はりきりすぎずに」
「何をおっしゃっておいでですの!? 我らが左大臣家の三の君様がご結婚なさるのですよ? これをはりきらず、いつはりきると言うのでしょうか。わたくしがこの日をどんなに夢見ていたことか……それなのに姫様ったら、尼になるだの仰って、お髪まで切ろうとなさいますし、一度は諦めていたのでございますよ。しかし! 今宵! それが叶うのですから!!」
「……え、ええ、そうよね」
「今宵の湯浴みはいつもより念入りに、首から足の先まで残すところなくお手入れいたしましょう! お香はどれがよろしいかしら、お召し物は少し派手なくらいがよろしいですわよね。それから、あの色好み対策も練らなくては……いえ、こちらは後でいいわ」

 うわ、だめだ、私のことなんかやっぱり視界に入ってない。ぶつぶつと呟きながら、完全に自分の世界へ行ってしまっている。
 もう結婚の準備という使命感でいっぱいの小梅に、何を言っても無駄だ。邪魔をすればこちらが痛い目を見るに決まっているのだ。湯浴みなんて気を遣うだけなのだから一人でちゃちゃっと終わらせてしまいたいのに、それはおそらく絶望的だろうなと思う。小梅は、やるといったらやる女房だ。

 三の君が昔した「私、尼になってもいいわ」発言がこんなところに生きてくるとは知らなかった。彼女は、知らず小梅の夢を奪いながら、こういう時に燃える十分な燃料を与えていたのだ。出家騒ぎで私がその量を増やしたのも裏目に出た。
 それが、今爆発しているということである。……はぁ。

「大丈夫ですわ、姫様。すべて、わたくしにお任せください!」

 本日二度目、小梅の目に一番星が輝いたのを見て、私は曖昧に微笑むしかなかった。
 彼女の説教、聴取の他に、恐れるべきは暴走だということを私が知ったのはもちろんのことだ。
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