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前篇:夢の通ひ路
第三十八話 其の二
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姫宮がつん、と私の肩をつついた。
そ、そうだった。ここは姫宮の居室だ。一人でもんもんと「美しい」の定義について考察している場合ではない。そうだ、私は明確な目的があってここにいるのだから。
……とはいっても、ここで突然話題を変えるのも不自然である。冒頭の発言も若干気になってはいた。だって、あんなの初耳だ。
「失礼いたしました、姫宮様。ところで、あの…… 姫宮様、お美しいものがお好きなのでございますか?」
「そなたはおかしなことを聞くの。美しいものを嫌いな者がおるのか?」
「……いえ、おりませんわね」
「そうであろ」
至極当然のように言われて、曖昧に笑うしかできなかった。姫宮の言う「美しい」は、おそらく常人のそれとはかけ離れている気がする。
ここで忘れてはならないのが、姫宮が日本人形のように可愛らしい美少女だということ、そしてあの別格な宮を兄に持つということだ。性別は違うが、兄妹だけあってよく見れば似ているし、二人揃った時の眩しさと言ったらないだろう。なんかもう、想像するだけで後光が射しそうな組み合わせである。
そんな姫宮なので、美に関しては、おそらく他人よりも目が肥えているに違いない。そう気づいた後に部屋をちらりと見ると、なるほど確かに一流の美しい調度品が揃っていた。
その一つ一つが薄暗闇の中にひっそりとあるのは、多少なりとも魅力が損なわれ、とても勿体ないような気がした。もっと明るい場所にあれば、どれほど素晴らしく輝くだろうか。
しかしそれを姫宮に伝えるには、まだ早すぎる。なぜ彼女が光を嫌うのかを私はまだ知らない。迂闊なことを言って、彼女を傷つけるようなことはしてはならない。母宮のことが関わっているのだとすれば、非常に繊細な問題であるからだ。
その整った横顔を見つめていると、姫宮は突然ぶすっと頬を膨らませた。彼女が少しだけ不機嫌になるときの合図だ。
「しかしそなた、何故今まで黙っておったのじゃ! 兄上とそのような仲なのであれば、我にも一言教えてくれてもよいだろうに」
これは怒っているのではなく、拗ねている。苦笑いしながら「申し訳ありません」と謝り、私は彼女にこの結婚が随分と急であったこと、宮とは前々から文のやり取りはしていたことなどを順序だてて説明していった。下手に誤魔化すようなことをすれば、後々面倒なことになるのは分かっている。ここは、姫宮には丁寧に話しておくべきだろう。
私が現代から来た存在であることと、それに関わる諸々はもちろん伏せたが、それ以外は隠すようなことでもない。彼女は義理の妹になるし、これまで以上に仲良くしたいというのも私の気持ちとしてはあった。
一通り話を聞き終えた姫宮は満足そうに頷き、けれど、今度は突然しょんぼりとした様子で言った。
「そなた……この先も我のところへ来るのか」
「? はい、もちろんです。姫宮様さえよろしければ」
「しかし、新婚であろ。そのような時間があるのか」
「宮様がいらっしゃるのは夜でございますし、昼間はこれまで通り姫宮様の元へ参りますわ」
「兄上は、そなたの邸へは住まぬのか?」
「私はそのようなお話は聞いておりませんので、しばらくはお通いになられるのではないでしょうか」
平安時代の婚姻後の生活スタイルは、大きく分けて三つ。
一つ目が妻側の邸に同居、二つ目が新たに邸を建てて暮らす、そして最後が訪婚、つまり今までと同じ、通い婚である。
妻になる女性側の財力がなかったり、家が落ちぶれていたりすると、夫側の邸に妻を引き取って同居というケースもあるが、これはかなりレアだ。左大臣家の姫という超級お嬢様である三の君には当てはまらない。宮と私が暮らす邸を建てるという話も皆無なので、こちらも却下。
――となると、残りは左大臣家で同居か訪婚だが、姫宮にも言った通り、宮がこちらで一緒に暮らすという話は現状出ていない。……これから多少は、お泊りも増えるだろうけど。
兄なんかは既に左大臣家を出て妻側の邸で暮らしているようだが、宮には五条院という立派な住まいがあるし、なにも訪婚はこの時代珍しいものではない。
訪婚から同居へと段階的にスタイルを変えていくことも多いが、私達はとりあえず宮に通ってもらうパターンだろう。その先のことは分からないけれど……
……いいえ、私達には先なんてなかった。
ふと思って、暗い気持ちを振り払うように首を振った。考え出したらきりがないし、負の気持ちはどんどん連鎖していく。姫宮の前で、私が凹んでどうする。
「ですから、今後も出仕させていただきたく存じます」
にっこりと微笑んで言うと、姫宮は、ぷい、と顔を背けた。
「別に。三の君が来たいのならば好きにしたらよい」
あ、久しぶりのツンがきた。つい少し前までは私の訪問が無くなると思って肩を落としていたのに、可愛い。そんな顔を見せられたら一層放ってなんかおけなくなるし、絶対に通い続けなくてはという気にさせられる。
姫宮の女房達も、彼女のこの可愛い部分にすっかり魅了されているのではないかと思えてくる。だから、この暗い対から逃げ出さないのだろう。姫宮のお人形のような外見と鈴のなるような少女の声で、まさかのツンデレは反則だろう、と未だに思う。
「ところでそなた、兄上のどこを好いたのじゃ?」
「えっ」
「なんじゃ」
「いえ、そのようなことをお聞きになるとは思わず。……ええと」
宮のどこを好きになったか。
どこ、と言われても…… もう全てです、としか言いようがない。
外見も中身も何もかもが完璧、私の好みのど真ん中だ。私の、というか、大半の女性は宮に迫られたら、断れないと思うけど……
加えて曰くつきの私を受け入れてくれた包容力のあるところや、私に触れる手がとても優しいところ、なのに二人きりになると途端にグイグイ来る感じも嫌じゃない、というか好きだし……
だめ、だめだめだめ。こんな恥ずかしいこと、大切な宮の妹相手に語れるか! ただの惚気じゃないか。
「その…… 恥ずかしながら申し上げますと、宮様の全てをお慕いしております」
「ふぅん、そういうものなのか」
「は、はぁ。あくまで私は、ですが…… あの、少々暑く感じられるのですが、風を通してもよろしいでしょうか」
「構わぬ」
姫宮が素直に頷いたことに驚いた。風を通すとは、御簾や格子を開けるという意味だ。姫宮がそれを、こうもあっさりと許すとは思わなかったのだ。
「ただ、すべては上げぬようにして。……外の光は好まぬ」
「かしこまりました。姫宮様の仰せのままに」
私達の会話を聞いていた姫宮の女房が、御簾や格子を半分ほど遠慮がちに上げた。彼女たちの手つきは思いの外、慣れているようで、時々こうして風通しくらいはしているのだろうかと思う。外気に触れることも、空気の入れ替えもとても大切なことだ。特に姫宮のような、病弱な体質であればなおさら。
思いがけず触れかけた核心に迫るかどうかを一考して、私はそのまま会話を続けることにした。こんな機会はもうないかもしれない。次にまた同じことを聞いても、姫宮が否といえばそこで終わってしまう。
リスクもある。それに今日はここまで踏み込むつもりはなかった。まだ早いとは思うけれど――「私には時間がない」、それが付いて回る。その焦りも多分にあるけれど、どうにか私が消える前にこの子を助けてあげたい。私に、それができるのなら。
「姫宮様は、日差しがお嫌いなのでございますね。私も、暑い日は少し苦手です」
「そうじゃの。雨の方が好きじゃ」
「ええ、雨もまた趣がございますね。雨上り、木の葉についた雫は玉のように美しいですもの」
「……うん」
「けれど私は、よく晴れた日の小川も美しいと思います。せせらぎは耳に優しく、反射した光はきらきらと輝きますでしょう」
「昔、母上と見たことがある」
「さようでございましたか」
「随分と前のことじゃ。もう、どのようだったか覚えてはおらぬが、母上は我の手を引いて下さった。庭を、歩いた。ゆっくりと、この手を引いて……」
姫宮が、何かを思い出すように右手を見つめて、やがて弱々しく握った。ひどく悲しんでいるような瞳が揺れている。涙はないけれど、泣いているかのような表情だった。
そっと彼女の手を包むように、私は自分の手を重ねた。姫宮がびくりと身体を震わせる。
「宮様から、中宮様のことを伺いました。お辛いことでございましたね」
「……そなたに何が分かる。いい加減なことをいうでない」
「私も、兄を亡くしておりますので」
「え? ……そ、そなたには有明中将がいるではないか」
「私には兄が二人おります。一番上の兄は、私の幼少期に病で亡くなりました」
姫宮の苦しみが少しだけ分かるのは、三の君の夢のおかげとも言える。
彼女の夢に私が落ちたときにこの脳裏に流れ込んできたのは、兄への恋心だけではなかった。亡くなった長兄への深い悲しみと思慕もまたあったのだ。彼女は、心の奥底の深い部分で、その思い出を大切にしまっていた。誰に口にすることはなくとも、悲しみは未だに消えていない。極楽浄土へ行きたいと願う根底に、長兄にもう一度会いたいという希望も混じっていた。そこでなら、もう一人のお兄様に必ず会えるから、と。
三の君の記憶の中で、彼等はとても仲の良い兄妹だった。長兄が亡くなるまでは、いつだって一緒に遊んでいた思い出がいくつもあった。
彼女が庭に咲く白い花を好きになったきっかけも、次兄の有明中将ではなく一番上の兄――まだ元服もしていない、「太郎君」と呼ばれていた男の子。あの花は、太郎君との思い出でもあり、次兄への秘めた恋の象徴でもあった。
だから目に入る度に、三の君は二重の苦しみに胸を痛ませたのである。それは、同調している私の心にも当然伝わり、同じように胸を締め付けた。
私は兄がくれるという行為自体に意味があったのだと思っていたが、そうではなかった。三の君にとっては、あの草花そのものが大切だったのだ。
「記憶を失っても、心の奥では覚えているのでしょう。亡くなった兄とのことは今も夢に見ます。目覚めた時に涙することもございました。きっと私は、兄のことが好きで好きでたまらなかったのですね。記憶のない私でさえそうなのですから、姫宮様はもっともっとお辛く、苦しい日々であると存じます」
「……我も、母上の夢を見る。我の方が辛いということはない。失う苦しみに、誰かの方がということはないだろう」
「姫宮様はお優しいのですね」
「……優しい? 優しくなど……我がいなければ、母上はまだ生きておった。母上が身罷られたのは、我のせいじゃ。だから父上も兄上も、我を、憎んで……」
姫宮の大きな瞳にみるみる涙が溜まり、ぽろりと零れた。溢れだした涙は次々に顎を伝って落ちていった。
そういう、ことだったの……だから姫宮は――
この小さな身体でどれほどの思いを背負って生きてきたのだろう。胸の潰れる思いだ。少しだけ繋がって見えた彼女の鎖の重さに、思わず手を伸ばした。がんじがらめになってしまったこの鎖を、私に解くことができるのだろうか。
「姫宮様、ご無礼をお許しください」
姫宮の小さな身体が、一層小さく見える。いてもたってもいられなくて、あの雨の日のように抱きしめると、彼女がしがみついてくる。声を上げずに泣き続ける彼女を、ただ抱きしめてあげることしかできなかった。
三の君と同じ、姫宮もまたひどく傷つき、ずっと悲しんでいる。姫宮を慰めることはできないけれど、受け止めることはできる。彼女の心を少しでも軽くしてあげることが先決だった。泣いて吐き出せるならまだいい。心が麻痺すると、きっと泣くこともできなくなる。
「母上に、会いたい」
「はい」
「母上に会いたいっ……」
私だって…… 私だって、もしかしたらもう二度と家族には会えないかもしれないのだ。直接的ではなくとも、三の君や姫宮の心に近いものはある。
それが姫宮の叫びに重なって、私の目からも涙が一筋落ちた。
こんな遠くにきてしまったけれど、私はここにいる。ここで生きている。それだけでも伝えたい。
会いたい。家族に、大切な人達に。
「……会いたいですわね、とても……」
「母上…… 母上っ……」
ただ泣きながら繰り返す姫宮に、「はい」と何度も頷いた。それしかできなかった。
空は夕闇色に染まり始め、予定していた退出の時間は迫っていたけれど、私は姫宮を残して帰る気にはなれなかった。
そ、そうだった。ここは姫宮の居室だ。一人でもんもんと「美しい」の定義について考察している場合ではない。そうだ、私は明確な目的があってここにいるのだから。
……とはいっても、ここで突然話題を変えるのも不自然である。冒頭の発言も若干気になってはいた。だって、あんなの初耳だ。
「失礼いたしました、姫宮様。ところで、あの…… 姫宮様、お美しいものがお好きなのでございますか?」
「そなたはおかしなことを聞くの。美しいものを嫌いな者がおるのか?」
「……いえ、おりませんわね」
「そうであろ」
至極当然のように言われて、曖昧に笑うしかできなかった。姫宮の言う「美しい」は、おそらく常人のそれとはかけ離れている気がする。
ここで忘れてはならないのが、姫宮が日本人形のように可愛らしい美少女だということ、そしてあの別格な宮を兄に持つということだ。性別は違うが、兄妹だけあってよく見れば似ているし、二人揃った時の眩しさと言ったらないだろう。なんかもう、想像するだけで後光が射しそうな組み合わせである。
そんな姫宮なので、美に関しては、おそらく他人よりも目が肥えているに違いない。そう気づいた後に部屋をちらりと見ると、なるほど確かに一流の美しい調度品が揃っていた。
その一つ一つが薄暗闇の中にひっそりとあるのは、多少なりとも魅力が損なわれ、とても勿体ないような気がした。もっと明るい場所にあれば、どれほど素晴らしく輝くだろうか。
しかしそれを姫宮に伝えるには、まだ早すぎる。なぜ彼女が光を嫌うのかを私はまだ知らない。迂闊なことを言って、彼女を傷つけるようなことはしてはならない。母宮のことが関わっているのだとすれば、非常に繊細な問題であるからだ。
その整った横顔を見つめていると、姫宮は突然ぶすっと頬を膨らませた。彼女が少しだけ不機嫌になるときの合図だ。
「しかしそなた、何故今まで黙っておったのじゃ! 兄上とそのような仲なのであれば、我にも一言教えてくれてもよいだろうに」
これは怒っているのではなく、拗ねている。苦笑いしながら「申し訳ありません」と謝り、私は彼女にこの結婚が随分と急であったこと、宮とは前々から文のやり取りはしていたことなどを順序だてて説明していった。下手に誤魔化すようなことをすれば、後々面倒なことになるのは分かっている。ここは、姫宮には丁寧に話しておくべきだろう。
私が現代から来た存在であることと、それに関わる諸々はもちろん伏せたが、それ以外は隠すようなことでもない。彼女は義理の妹になるし、これまで以上に仲良くしたいというのも私の気持ちとしてはあった。
一通り話を聞き終えた姫宮は満足そうに頷き、けれど、今度は突然しょんぼりとした様子で言った。
「そなた……この先も我のところへ来るのか」
「? はい、もちろんです。姫宮様さえよろしければ」
「しかし、新婚であろ。そのような時間があるのか」
「宮様がいらっしゃるのは夜でございますし、昼間はこれまで通り姫宮様の元へ参りますわ」
「兄上は、そなたの邸へは住まぬのか?」
「私はそのようなお話は聞いておりませんので、しばらくはお通いになられるのではないでしょうか」
平安時代の婚姻後の生活スタイルは、大きく分けて三つ。
一つ目が妻側の邸に同居、二つ目が新たに邸を建てて暮らす、そして最後が訪婚、つまり今までと同じ、通い婚である。
妻になる女性側の財力がなかったり、家が落ちぶれていたりすると、夫側の邸に妻を引き取って同居というケースもあるが、これはかなりレアだ。左大臣家の姫という超級お嬢様である三の君には当てはまらない。宮と私が暮らす邸を建てるという話も皆無なので、こちらも却下。
――となると、残りは左大臣家で同居か訪婚だが、姫宮にも言った通り、宮がこちらで一緒に暮らすという話は現状出ていない。……これから多少は、お泊りも増えるだろうけど。
兄なんかは既に左大臣家を出て妻側の邸で暮らしているようだが、宮には五条院という立派な住まいがあるし、なにも訪婚はこの時代珍しいものではない。
訪婚から同居へと段階的にスタイルを変えていくことも多いが、私達はとりあえず宮に通ってもらうパターンだろう。その先のことは分からないけれど……
……いいえ、私達には先なんてなかった。
ふと思って、暗い気持ちを振り払うように首を振った。考え出したらきりがないし、負の気持ちはどんどん連鎖していく。姫宮の前で、私が凹んでどうする。
「ですから、今後も出仕させていただきたく存じます」
にっこりと微笑んで言うと、姫宮は、ぷい、と顔を背けた。
「別に。三の君が来たいのならば好きにしたらよい」
あ、久しぶりのツンがきた。つい少し前までは私の訪問が無くなると思って肩を落としていたのに、可愛い。そんな顔を見せられたら一層放ってなんかおけなくなるし、絶対に通い続けなくてはという気にさせられる。
姫宮の女房達も、彼女のこの可愛い部分にすっかり魅了されているのではないかと思えてくる。だから、この暗い対から逃げ出さないのだろう。姫宮のお人形のような外見と鈴のなるような少女の声で、まさかのツンデレは反則だろう、と未だに思う。
「ところでそなた、兄上のどこを好いたのじゃ?」
「えっ」
「なんじゃ」
「いえ、そのようなことをお聞きになるとは思わず。……ええと」
宮のどこを好きになったか。
どこ、と言われても…… もう全てです、としか言いようがない。
外見も中身も何もかもが完璧、私の好みのど真ん中だ。私の、というか、大半の女性は宮に迫られたら、断れないと思うけど……
加えて曰くつきの私を受け入れてくれた包容力のあるところや、私に触れる手がとても優しいところ、なのに二人きりになると途端にグイグイ来る感じも嫌じゃない、というか好きだし……
だめ、だめだめだめ。こんな恥ずかしいこと、大切な宮の妹相手に語れるか! ただの惚気じゃないか。
「その…… 恥ずかしながら申し上げますと、宮様の全てをお慕いしております」
「ふぅん、そういうものなのか」
「は、はぁ。あくまで私は、ですが…… あの、少々暑く感じられるのですが、風を通してもよろしいでしょうか」
「構わぬ」
姫宮が素直に頷いたことに驚いた。風を通すとは、御簾や格子を開けるという意味だ。姫宮がそれを、こうもあっさりと許すとは思わなかったのだ。
「ただ、すべては上げぬようにして。……外の光は好まぬ」
「かしこまりました。姫宮様の仰せのままに」
私達の会話を聞いていた姫宮の女房が、御簾や格子を半分ほど遠慮がちに上げた。彼女たちの手つきは思いの外、慣れているようで、時々こうして風通しくらいはしているのだろうかと思う。外気に触れることも、空気の入れ替えもとても大切なことだ。特に姫宮のような、病弱な体質であればなおさら。
思いがけず触れかけた核心に迫るかどうかを一考して、私はそのまま会話を続けることにした。こんな機会はもうないかもしれない。次にまた同じことを聞いても、姫宮が否といえばそこで終わってしまう。
リスクもある。それに今日はここまで踏み込むつもりはなかった。まだ早いとは思うけれど――「私には時間がない」、それが付いて回る。その焦りも多分にあるけれど、どうにか私が消える前にこの子を助けてあげたい。私に、それができるのなら。
「姫宮様は、日差しがお嫌いなのでございますね。私も、暑い日は少し苦手です」
「そうじゃの。雨の方が好きじゃ」
「ええ、雨もまた趣がございますね。雨上り、木の葉についた雫は玉のように美しいですもの」
「……うん」
「けれど私は、よく晴れた日の小川も美しいと思います。せせらぎは耳に優しく、反射した光はきらきらと輝きますでしょう」
「昔、母上と見たことがある」
「さようでございましたか」
「随分と前のことじゃ。もう、どのようだったか覚えてはおらぬが、母上は我の手を引いて下さった。庭を、歩いた。ゆっくりと、この手を引いて……」
姫宮が、何かを思い出すように右手を見つめて、やがて弱々しく握った。ひどく悲しんでいるような瞳が揺れている。涙はないけれど、泣いているかのような表情だった。
そっと彼女の手を包むように、私は自分の手を重ねた。姫宮がびくりと身体を震わせる。
「宮様から、中宮様のことを伺いました。お辛いことでございましたね」
「……そなたに何が分かる。いい加減なことをいうでない」
「私も、兄を亡くしておりますので」
「え? ……そ、そなたには有明中将がいるではないか」
「私には兄が二人おります。一番上の兄は、私の幼少期に病で亡くなりました」
姫宮の苦しみが少しだけ分かるのは、三の君の夢のおかげとも言える。
彼女の夢に私が落ちたときにこの脳裏に流れ込んできたのは、兄への恋心だけではなかった。亡くなった長兄への深い悲しみと思慕もまたあったのだ。彼女は、心の奥底の深い部分で、その思い出を大切にしまっていた。誰に口にすることはなくとも、悲しみは未だに消えていない。極楽浄土へ行きたいと願う根底に、長兄にもう一度会いたいという希望も混じっていた。そこでなら、もう一人のお兄様に必ず会えるから、と。
三の君の記憶の中で、彼等はとても仲の良い兄妹だった。長兄が亡くなるまでは、いつだって一緒に遊んでいた思い出がいくつもあった。
彼女が庭に咲く白い花を好きになったきっかけも、次兄の有明中将ではなく一番上の兄――まだ元服もしていない、「太郎君」と呼ばれていた男の子。あの花は、太郎君との思い出でもあり、次兄への秘めた恋の象徴でもあった。
だから目に入る度に、三の君は二重の苦しみに胸を痛ませたのである。それは、同調している私の心にも当然伝わり、同じように胸を締め付けた。
私は兄がくれるという行為自体に意味があったのだと思っていたが、そうではなかった。三の君にとっては、あの草花そのものが大切だったのだ。
「記憶を失っても、心の奥では覚えているのでしょう。亡くなった兄とのことは今も夢に見ます。目覚めた時に涙することもございました。きっと私は、兄のことが好きで好きでたまらなかったのですね。記憶のない私でさえそうなのですから、姫宮様はもっともっとお辛く、苦しい日々であると存じます」
「……我も、母上の夢を見る。我の方が辛いということはない。失う苦しみに、誰かの方がということはないだろう」
「姫宮様はお優しいのですね」
「……優しい? 優しくなど……我がいなければ、母上はまだ生きておった。母上が身罷られたのは、我のせいじゃ。だから父上も兄上も、我を、憎んで……」
姫宮の大きな瞳にみるみる涙が溜まり、ぽろりと零れた。溢れだした涙は次々に顎を伝って落ちていった。
そういう、ことだったの……だから姫宮は――
この小さな身体でどれほどの思いを背負って生きてきたのだろう。胸の潰れる思いだ。少しだけ繋がって見えた彼女の鎖の重さに、思わず手を伸ばした。がんじがらめになってしまったこの鎖を、私に解くことができるのだろうか。
「姫宮様、ご無礼をお許しください」
姫宮の小さな身体が、一層小さく見える。いてもたってもいられなくて、あの雨の日のように抱きしめると、彼女がしがみついてくる。声を上げずに泣き続ける彼女を、ただ抱きしめてあげることしかできなかった。
三の君と同じ、姫宮もまたひどく傷つき、ずっと悲しんでいる。姫宮を慰めることはできないけれど、受け止めることはできる。彼女の心を少しでも軽くしてあげることが先決だった。泣いて吐き出せるならまだいい。心が麻痺すると、きっと泣くこともできなくなる。
「母上に、会いたい」
「はい」
「母上に会いたいっ……」
私だって…… 私だって、もしかしたらもう二度と家族には会えないかもしれないのだ。直接的ではなくとも、三の君や姫宮の心に近いものはある。
それが姫宮の叫びに重なって、私の目からも涙が一筋落ちた。
こんな遠くにきてしまったけれど、私はここにいる。ここで生きている。それだけでも伝えたい。
会いたい。家族に、大切な人達に。
「……会いたいですわね、とても……」
「母上…… 母上っ……」
ただ泣きながら繰り返す姫宮に、「はい」と何度も頷いた。それしかできなかった。
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