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前篇:夢の通ひ路

第四十一話 其の二

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 はっと目が覚めた。
 涙に濡れる両側のこめかみを拭おうとしたけれど、うまくいかなかった。宮が、私を抱きしめたまま眠っていたからだ。
 身体に絡みつく腕を外せば、宮を起こしてしまうかもしれない。彼が人の気配に敏感なところがあるのは、結婚してから分かったことだ。私はそのままの態勢でもう一度瞼を閉じた。

 やはり眠れるはずもなく、浮かんでくることは先ほどの夢――三の君のことだ。

 こんな夜に、一人きりじゃなくてよかった。宮の香りに包まれ安堵しながら、静かに息を吐いた。
 一方で、彼女の不幸や報われない恋を思えば、私はこんなにも幸せでいいのだろうかと思ってしまう。たとえ魂が同じだとしても、私は私、彼女は彼女、別の人間でそれぞれ別の人生があり、遠慮したり比べたりすること自体が間違っているのだと頭では分かっているが、そんなことを考えられなくなるほど、あまりにも辛すぎる別れの夢だった。


 ――兄、有明中将の結婚を機に疎遠になった二人。
 原因は三の君から距離を持ったことだと聞いてはいたが、まさかあのようなやり取りがあったとは…… 私は、三の君が拗ねて兄を遠ざけたのだと軽々しく考えていたのだけれど、そんなはずはなかったのだ。
 あれは、彼女が苦しんで苦しんで、ようやく出した一つの答えだったのだろう。

 しかし、彼女はどこまでも正直で不器用な人だと思う。適当に何もかもうやむやにしてしまえば、あそこまで自分を追い詰め、苦しむこともなかっただろうに。

 あの時点ですでに兄は彼の妻の家で暮らし、物理的な距離は確かにあった。その兄と更に離別する方法は、探せば他にいくらでも見つかったはずだ。それなのに、彼女は自分にとって一番辛いものを選び続けているような気がしてならないのは、私が三の君側の目線で見ているからだろうか。
 三の君という女性は、どこまでも純粋で、だからこそ思いつめてしまう真面目な性格だったのだろう。

 夢は三の君が兄を呼ぶところで途切れたが、これは確かに過去にあった出来事だ。まだ私は夢で見ていないけれど、続きはもちろんある。これまでの私が見聞きしたことを考慮しても、おそらくは、あのまま三の君と兄は疎遠になるはずだけれど……それにしては、少し、違和感が残る。

 小梅のことだ。
 三の君と兄が離別したあの場には、小梅も同席していた。なのに、なぜ小梅は、私にあのやり取りの一部始終を伏せたのだろう。いや、彼女は今も口を閉ざしている。

 私がこの世界で目覚めたばかりの頃、小梅は様々なことを私に話し、教えてくれた。姫としての作法や振る舞い、三の君を取り巻く環境、左大臣家や人間関係のこと、多岐にわたるが――その中には、もちろん兄の説明もあった。彼女が私にいった内容はこうだった。

『姫様の兄上様である有明中将様は、中将様のご結婚を機に、お会いする機会が減り、疎遠になられているのです』

 しかし今思えば、なぜその中に、三の君自身が兄に放った言葉は一つもなかったのだろう。
 たとえば、「姫様は、有明の中将様の過保護に嫌気が差して距離を置いていらっしゃった」とでも言えば良かったのではないか。だって、小梅の目から見た真実はそうなのだから。

 どういうこと……?

 三の君が兄に冷たく当たったことを隠していても、小梅には何のメリットもない。
 確かに彼女は殊更に兄を気に入っていて、まるで憧れのアイドルのような目で見てはいたけれど、でもそれだけ。小梅の三の君への忠誠心や家族同様の愛情は、兄へのそれとは比べ物にならない。兄に遠慮をする必要もないし、私にありのままを話して、彼女が困るようなことはないはずなのだ。
 では、なぜ?

 小梅の性格では、あの日の後、三の君を諫めたに違いない。他の女房では到底言えないこと、父母では立ち入れぬことも、彼女は口にすることができる。三の君と小梅の関係性はそれほど特別だし、心の距離も近い。三の君のことを思ってのことなら、たとえ嫌な役目でも進んで引き受けるのが彼女だ。
 そこで、三の君と言い合いや喧嘩にでもなった? 小梅にとっても思い出したくない過去となってしまったから、濁したということだろうか。

 ……だめだ、どれほど考えても想像の域を出ない。
 やはり本人に聞くのが一番確かな方法だ。小梅もそうだが、兄とももう一度話しをしなくてはいけない。兄にしても、どこかおかしい。

『本当に何も思い出していないのか? あの日のことも――』

 先日の、あの言葉が離れない。明らかに兄は動揺した様子だった。あれで何でもないというにはさすがに無理があるし、それを馬鹿正直に信じられるほど私は素直ではない。
 もしかして、あの日のことというのは、別れが決定的になった先ほどの夢の日のことを指しているのだろうか。そうであれば、兄があそこまで焦った様子だったことも頷ける。兄を嫌っていたということと、その理由を思い出されたくなかった、ということならば。

 そう仮定すると、兄が小梅に何らかの働きかけをしていた、ということも考えられる。例えば、小梅は兄に口止めをされていたとか。
 しかし、小梅は私が目覚めてからはずっと私の傍にいたし、兄と会い、口裏を合わせるような暇があったとは思えない。
 いや、文ならば別だ。ほんの少し、文を開けて読むだけの時間さえあればいいのだ。兄は、文で小梅に指示をしていたとしたら? 可能性は無きにしも非ず、といったところか。


 それにしても、小梅にしたって兄にしたって、話を聞き出すのはなかなかに骨が折れる。兄の方は、特に。
 何か揺さぶりをかけなければ、本当のことは話してくれないだろう。果たして、私にそれができるのか。味方ならば心強い二人も、こうなってくるとなかなかに頭の痛い事案だ。とはいえ、三の君の過去を知ることは、私が現代へ戻る上で最重要事項であるので避けられない。
 できるだけ早く、そう、明朝にでも、あの夢の続きのことや真意を聞いてみなければいけない。まずは小梅、そして兄に会う約束を取り付けなければ。
 そこまでを考えて、私はふうと息をついた。


 考えなくてはいけないことが多すぎる。
 なんだって私がこんな目に、と思うけれど、泣き言を並べている場合ではない。その時間さえも惜しまなくてはいけないのが、今の私の現状なのだから。

 天狗の言う「魂の業」――あれだって何なのかも分かっていない。

 「業」と言われても、真っ先に浮かぶのは仏教の教えだったっけ、という曖昧な認識だとか、「自業自得」の四字熟語だとか……正直、見当外れで大して役に立たなそうな連想ばかり。
 どうでもいいが、「自業自得」も元は仏教由来の言葉であったと何かで読んだような気がするが、定かではない。あの時にもっと興味を持ち、そもそも「業とは何か」を調べるなりなんなりしていれば、今頃はこうして苦労もしなかったのか。いや、しかし私の頭は、中古文学に関する知識ならばホイホイと好んで詰め込むくせに、それ以外は右から左へと通り抜けていってしまう都合のいい記憶倉庫である。重要度が低いと判断したものは自動的にデリートされてしまうのだ。そもそも、できなかったであろうことを今更嘆いても無駄ではないか。

 とにかく、天狗との会話の前後から考えても、「業」がいい意味ではないということだけは確実だろう。

 魂の業――私か、三の君か。

 私のこれまでの人生といったら、古典文学一直線だった。
 細かいことはキリがないのでこの際無視するが、故意に他人を傷つけたり、迷惑をかけるような生き方はしてこなかったはずだ。もちろん前科だってないし、まして、「業」というよくないものを引き受けるほどの罪があったとは、我ながら全く思えないし、心当たりも一切ない。

 では、三の君はどうかといえば、やはり彼女も、これといってそうだと言えるものがない。
 ただ一つ挙げられるとしたら、許されない恋をしたということだろうか。けれど、彼女の場合は兄と恋仲になるような結果にはこの先ならないであろうし、そもそもあの兄が三の君を妹以上に見ることはないはずだ。つまり、絶対に近親相姦ということにはならない。

 夢の内容では、三の君は兄に心の内を悟られた様子もないし、当時新婚だった兄の家庭を壊したということもない。むしろ、兄は仕事も家庭も順調そのものという感じだった。

 ……やはり違う、彼女の恋が「業」であるはずがない。
 いけないと分かっていても密かに誰かに恋する、誰かを愛するという話ならば、世の中にいくらでもある。それをいちいち「業」と呼ぶには抵抗があるし、三の君に至っては自分が傷つく道を選んでいた。誰にも言わず一人で抱え込んでいたあの辛い恋が理由で、魂の業がなんだのと言われるのは、あまりにも彼女が不憫だ。
 別に彼女の肩を持つわけではないが、彼女は彼女なりに、いつも苦しみながら最善と思える道を探し、選んでいた。彼女の心を見たからこそ、そう思える。

 彼女が兄を遠ざけた本当の理由は、自分の心を知られることが怖かっただけではない。それを知って兄を困らせ、自分と同じように兄を苦しめることが嫌だったのだ。
 吐き出してしまった方は楽になれる。けれど、それを受け止めた側が同じとは限らない。兄のあの真面目な性格では、三の君の想いを知れば苦悩したことだろう。三の君は、大切な人であり家族でもある兄に、そのような思いをさせたくなかったのだ。だから、自分一人だけが背負う道を進んだ。慕っていると告げるより、多少傷つけたとしても、仲違いのように思わせる方が兄にとってはずっといいと思ったから。

 しかし、私の仮説が正しいとするならば、肝心の「業」については依然何の手掛かりもないまま。
 現状私が見ている三の君の夢は、彼女が兄に別れを告げるところまでだ。その後に何か事件があった、と考えるのが自然だ。答えはすべて夢の中にあるのだと天狗は言ったが、おそらく、この先にその「業」が生じる瞬間を私は見るのだろう。

 そこまで考えて、そういえば、と思った。
 私が見ている三の君の夢は、彼女の幼少期から数年前のものだけだ。共通しているのは、私がこの世界へくる以前の三の君の姿ということ。
 気付いてしまったことの大きさに、思わず息をするのも忘れた。

 なぜ私は、

 天狗の言うように、三の君の生まれ変わりが私であり、あの夢は私の前世の記憶なのだとしたら――

 ああ、なんだってまた大切なことをまた見落としていたんだろう。
 そうだ、私は三の君が歳を重ねていく様を、夢で見ていない。

 じわりと汗が浮かんだ。鼓動が速まる。落ち着こうにも頭の中ではぐるぐるとそのことばかりが回っていく。

 私は今、自分の前世にいる。「私」として生まれ変わる前の、「三の君」が生きていた世界にいる。彼女の転生した姿が私ならば、もちろん、三の君の死後に私が存在したということだ。
 つまり私の魂は、前世である三の君が死ぬ間際までの記憶を持っているということになる。

 それなのに、なぜ?
 夢で見る前世の記憶では、三の君の姿は十八歳より前のものばかり。それ以降、例えば尼になって生涯過ごすでも、他の男と結婚しているでも、何でもいい。とにかく、三の君が、二十代、三十代と歳を重ねていくさまを見ていない。
 おかしい。だって私が生まれ変わりならば、前世の生涯を見てもいいはずなのに。

 可能性は二つ。
 どちらも選択肢としては重要で捨てられないし、どちらか一方だけの場合も、あるいは両方当てはまる場合もある。

 一つは、私がこの世界へ来てしまったことで、未来が変わってしまっているから。
 実際、三の君がこの身体にいたならば、宮や姫宮との縁だってなかっただろう。確かに、彼女ではつながるはずのない未来を手繰り寄せてしまっている。

 そしてもう一つは、三の君は――おそらくは、若くして亡くなってしまったから。
 今でこそ、私が彼女の身体にいることでこうして健康にはしているが、そもそも三の君は食事も細く病弱な姫だった。

『自分の身のことは自分でよく分かる……私はもう永くないわ』 

 いつか見た夢で彼女はそう言った。確かに、自分の死期を悟っていた口ぶりだった。
 もし、あの言葉通りに、彼女がその後まもなく命を落としていたとしたら、夢に今よりも歳を重ねた三の君が出てこないことには説明がつく。

 いえ、待って。
 私が……私が目覚めた時、彼女は生死の境を彷徨っていたはずだ。もしかして、あの死期を口にした夢は、あの直前のことだったのではないだろうか?
 そうだとしたら、私が見ている夢の時系列は、かなり滅茶苦茶だ。私が見てきた夢の順で時間が進んでいるのではなく、ランダムに切り取られた過去を見ているということになる。

 これはもう一つの可能性とも重なるけれど……
 三の君は、本当はあの瞬間に亡くなる運命だったのではないだろうか。それが、私が来たことで狂ってしまったとしたら? 

 あくまで仮説なのに、もうそうとしか思えない。
 私は、彼女が生きることはなかった未来を生きている……?


 天狗は、互いに互いを呼んだから私がここにきたと言ったけれど、もしも彼女が「死」を望んでいたなら、私を呼ばずにそのまま亡くなったはずだ。では、三の君は死にたくなかったということになる。
 だけど、そう考えるには矛盾が多すぎる。夢の中で彼女はさんざん「死」を願っていた。小梅が差し出した薬を拒否し、極楽浄土で長兄に会いたいと思ってさえいたのだ。
 では、なぜ?

「私を呼ばなくてはいけない理由が……あった?」
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