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1.その店主、人を読む
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アルベルに連れられてやって来たのは、ルチアナが普段絶対に来ない様な洒落た店だった。木を店のテーマにでもしているのか、建物自体が木造であるのは勿論、テーブルや椅子、スプーンなどと言った細かいものまでもが木製だった。また、店の中は陽の光があまり入らない構造になっているのか、店内は蝋燭の淡い光で照らされており、どこか幻想的な印象を受ける。
そんな一人では気後れしてしまいそうな店内の雰囲気に、ルチアナはどうしたものかと所在なさげにキョロキョロとしていた。するとそれを見て苦笑したアルベルが慣れた様子でルチアナを店の奥へと誘導する。
店の一番奥の角、四人掛けのテーブルへと誘導されたルチアナは、角の椅子に腰を落とす。その対面に座ったアルベルは、小さく息を吐くとテーブルに置かれていたメニューをルチアナに手渡した。
「好きなものを頼むと良い。これも詫びの一つだ」
「そうですか。じゃあメニューの上から下まで全部を」
「ちょっと待て。そんなに食べるというのか?」
顔を強張らせたアルベルだが、ルチアナは一歩も遠慮する気は無く、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「これからいっぱい動くんですよ? その分の栄養はちゃんと摂取しておかないといけません」
「あまり食べ過ぎると太ってしまわないだろうか」
「アルベルさんには、私が太っているように見えるんですか?」
「まさか! あなたはとてもお美しい!」
「ありがとうございます。ですが、世辞は結構です。それと私はルチアナ・ホーキンスと言います。二度と教えてあげないので覚えて下さい」
「なんだか言葉の端々に棘を感じるのは気のせいだろうか……」
困った様に渇いた笑いを漏らすアルベルは、近くに居たウェイトレスに注文を言い渡す。アルベルが頼むのはサンドウィッチとコーヒーだけだが、ルチアナの為に料理を上から下まで注文した。その際、ウェイトレスは目を丸くしていたが、アルベルは構うことなく料理が無くなり次第次を持ってきて欲しいとだけ告げ、注文を終える。
「本当に奢ってくれるんですね。全品」
「ああ、これでも高給取りだからね」
「警邏の給料はそんなに良いのですか?」
「これでも命を張っているんだよ? 最近は不法入国者なんかが多くてね、そういった連中は大抵血の気が多くて困る」
「戦争をしている国が近くにありますからね、そういう人が来ても仕方がないです」
「だからこその私達だ。と、威張りたい所だが、最近は人手不足で手が回らなくて困っているよ」
おどけた調子のアルベルが目を伏せる。ルチアナはそこにある感情を窺おうとするも、料理を運んできたウェイトレスによってその意識が逸れてしまう。
それから二人は、食事を摂りながら他愛のない話を続ける。
「そういえば、また新しい人間牧場が発見されたんでしたっけ」
世辞は嫌いだが世事には敏感なルチアナが、新聞で見た記事をネタに会話を広げる。警邏の人間だからこそ知っている何かがあるのでは、という期待をしていたルチアナだが、その期待は軽く裏切られてしまう。
「らしいね。独裁国家と言えど、あんなものが実在するなんて信じたくないものだよ」
「きっと、この国に居ては想像もできない現実があるんでしょうね」
「それはそれ、これはこれ、ということなのだろうね。私だってあんなものが実際に稼働している場面を見たいとは思わないさ」
当たり障りのないことしか言わなかったアルベルがポロっと零した言葉に、ルチアナは敏感に反応し即座に切り返す。
「人間牧場がどのようなものかご存じなんですか?」
「ん……まぁ、ね。実際に見たわけじゃなくて、人伝に聞いたという程度で、だがね」
「牧場と言うぐらいですから、人を家畜同然に扱っているんですか?」
額縁通りの推測を敢えて口走り、アルベルの訂正を誘うルチアナ。するとアルベルは曖昧な表情をした後、あっさりとルチアナの知りたがっていたことを語り出した。
「家畜同然、という意味で言えば間違いはないらしい。収容されていた人間はその大半が男で、強制的な労働に従事させられていたという話だ。その労働というのもきな臭いことこの上ないものなのだが……いや、止めよう」
けれどアッサリと口を閉ざすアルベルに、ルチアナはそれ以上の追及をすることはしなかった。本音を言えばアルベルの知っていることをなんとか白状させたい所だった。しかしルチアナはそんなことをする必要がないのを知っていたから、無駄なことはせず素直に引き下がったのである。
「それにしても、ここの料理はとてもおいしいですね」
「だろう? メニューを全部頼めば高いかもしれないが、そうでなければ値段もお手頃だ」
「店の雰囲気はとても素敵で……機会がありましたら、また足を運んでみますね」
そうして恙無く昼食が終わるかと思ったら、生憎とそういうわけにはいかなかった。
「――く、食い逃げよ!」
ウェイトレスの慌てた声音が聞こえ、アルベルが咄嗟に席を立つ。ルチアナは視線だけを投げ、面倒臭そうな騒動の現場を見遣る。そこには巻き込まれたくないと言う、偽れぬ本音が混じっていた。
「き、貴様はっ!」
けれど視線がそこへ向かった途端、ルチアナはアルベルに遅れを取る形になりながらも、席から跳び起きるように立ち上がり驚嘆を口にする。
「あ、貴方は!」
そこには、今まさに店から飛び出そうとしている食い逃げ犯がいて、その食い逃げ犯が昨日ルチアナの店に押し入った強盗犯であったことに、ルチアナとアルベルは大層驚いた。
「ルチアナさん、すみません」
アルベルは財布をテーブルの上に叩きつけると、
「お代はこれで払って! 私は奴を追い掛ける!」
とだけ言い残し、慌ただしく店から飛び出していった。
店に残されたルチアナは、小さく嘆息しながらアルベルの財布を手に取り、その中の金を使い既に出された分の飲食代を支払った。無論、まだ来ていない分はウェイトレスに言伝しキャンセルした。メニューを制覇するには遠かったが、アルベルが居ない状態で飲み食いする気にもなれず、大人しく帰ることにしたのであった。
◆◇◆
店に戻ったルチアナは、店内の惨状を再び目にして、肩から力が抜けるのを感じた。しかし午前中に進められるだけの事をしていた為、今朝よりは状況が好転しており、必要以上の悲観はしなかった。
「よーし、頑張りましょう!」
元気良く声を出して己を鼓舞すると、エプロンと三角巾を装備し、さっそく片付けに取り掛かった。
片付けは驚くほど順調に進んだ。客が一人として来ない為、それしかすることがないせいだが、その事実を今更に自覚し、ルチアナは力の抜けた肩を更にがっくりと落とす。
倒れた本棚を全て元に戻し、ついでに掃除もする。はたきで埃を落とし、箒と塵取りでそれを回収、最後に雑巾で水拭きをして終了。全ての本棚に対してその作業を行い、店の空きスペースやカウンター裏、そして二階の空き部屋に放り込んでいた本を棚に収めていく。
一連の作業が終わる頃には、陽がぐっと傾き空は黄昏に染まっていた。
窓から差し込む茜色の光に暖かな何かを感じたルチアナは、最後の一冊を本棚に収めホッと一息……はつかなかった。
「……やっぱり一冊足りない」
最後の一冊を収めた棚とは別の棚へと移動し、本棚の隙間を確認する。その棚には分厚い装丁の本が幾つか収められており、その内の一冊が抜けており、何やら締りの悪い状態になっていた。そこをつーっと指でなぞりながら、ルチアナはそこに収まるべき本のタイトルを思い返す。
店内にある全ての本の名前と数を記憶している――否、あらゆることを完璧に記憶しているルチアナにとって、それを思い出すことは造作もなかった。
「そっか、ここにあったのは……『写本人生譚‐ユリウス・アルシャ‐』……でも何で?」
そこでようやくルチアナは一つの結論に至る。
「……あ! ひょっとして……」
その邪推にも似た仮定に、どうしたものかと頭を捻っていると、店の扉が開く音がした。
その音に思考を瞬時に打つ切ったルチアナは、素早く振り向いた。
「やあ、随分と早く片付いたみたいだね」
店内にずかずかと足を踏み入れて来たのは、昼食を共にしたアルベルだった。彼は疲れた顔でルチアナへと近付く。
「あの強盗犯兼食い逃げ犯、結局逃げられてしまったよ」
「そうですか。それは残念です」
僅かに上擦った声で言うと、アルベルは苦い表情を浮かべる。
「元々期待していなかった、という意味合いが含まれている気がするのは考え過ぎかな?」
「ええ、考え過ぎです。それと強盗犯とか食い逃げ犯って言っていますけど、名前はなんて言うんですか? 確か指名手配されていたんでしたよね?」
今更なことが気になり、ルチアナが問うとアルベルは破顔し近くの本棚に収まった本を指でなぞる。
「そういえば教えていなかったね。強盗犯兼食い逃げ犯の名前は、ザック・リッジスと言うんだ」
「それは偽名ですよ」
「……え?」
間髪いれずに放たれたルチアナの言葉に、アルベルが固まる。だがすぐに調子を取り戻し、曖昧な笑顔で聞き返す。
「偽名とは……それはいったいどういうことなんだ?」
「知りたいですか?」
今までの雰囲気と一変し、ミステリアスな調子のルチアナは、口元をそっと歪める。
まるで別人と対峙している様な錯覚に陥るアルベルは、絶句し言葉を待つ。
けれど、
「教えてあげません」
と満面の笑みを浮かべ、ルチアナは回答を拒否した。
その返事に残念がると同時に、何故か安堵するアルベルは、己の抱いた感情に戸惑いを覚えて本をなぞる指を離す。
「ひょ、ひょっとして、今のは私をからかったのかな?」
取り繕うような、それでいて縋る様な言葉を絞り出すと、アルベルはそれを否定しないで欲しいと願った。そしてルチアナはアルベルの不安を読みとったかのように笑みを浮かべて頷くと、踵を返しカウンターの奥へと向かった。
「そ、そうか……ははっ、まったく驚かせてくれるな。いや、参ったね! あはははっ!」
どこか乾いた笑みが店内に響き、アルベルはルチアナに続きカウンターへ向かい、近くの椅子に腰を落とした。既にカウンターの向こうの大きな椅子に座っていたルチアナと対峙する形となる。
「さて、お互い冗談はこれぐらいにして、本題と行こうか」
ニコニコと笑うルチアナを敢えて思考の外に置いて、アルベルは話を進める。
「実はザックは食い逃げだけではなく窃盗もあの店で働いてい――」
「――今、不思議に思ったんですけど」
速攻で言葉を遮られ、アルベルは気まずそうに眉を顰めた。しかしルチアナはそんなことは歯牙にも掛けず、テーブルをトントンと指先で叩きながら問うた。
「そういう捜査情報というのは、一般市民の私に話してしまって大丈夫なんですか?」
「ああ、それなら大丈夫だ。誰に知られても大丈夫、というよりも明日の新聞を見れば嫌でも分かる事実しか話さないからね」
「そうですか。それじゃあ、続けて下さい」
「うむ。実は食い逃げをしたザックだが、あの店の奥に在る金庫の金を盗んでいたことが後で分かったんだ。といってもこれは、指名手配されているザックが店に居たという状況下で、店の金が消えていたという状況証拠からの推測でしかないのだけれど、それでも強盗を頻繁に行っているザックなら可能性は高いと考えている。これには温厚で滅多に怒らない店主のマリウスも激怒していたよ。食い逃げならまだしも、窃盗までしていたなんて、と顔を真っ赤にしてね」
「トマトのように真っ赤でしたか?」
「ん? そうだな……トマトというよりは……いや、トマトのように真っ赤だったよ」
「そうですか」
「まぁ、そんなこんなで結局今回も取り逃がしてしまったという、そういう話だ」
「なんというか、あの強盗犯――ザックさんでしたっけ、あの方も随分と挑戦的な生き方をしているようですね」
「行動力だけは認めてやりたいが、行動した結果が結果なだけに許せるものじゃないな。人を不幸にしてしまう行動力なんぞ、私の剣の錆にしてくれよう」
そう言うと、腰に吊っている剣を自慢げに見せるアルベル。
「剣に自信があるんですか?」
顎に手を添えながら小首を傾げるルチアナは、見慣れぬ武器に視線を奪われる。本の中であれば何度も目にしてきたその存在をいざ目の当たりにして、その重量感に想像と現実の差を思い知る。
剣を見下ろすルチアナの目には、好奇の色が輝いていた。
そしてアルベルは、待っていましたと言わんばかりの勢いで立ち上がると、腰に吊った剣をカウンターに置いた。その話題を振って貰えて嬉しかったのか、顔がだらしなく緩んでいたが、ルチアナは何も言わなかった。
「自信は当然あるとも。なんたって私はこの街にいるどの警邏の人間よりも剣が立つ。そうだな、一般人にならば何人に囲まれようと負ける気はしないさ!」
さっきまでルチアナの一挙手一同に戸惑っていたとは思えぬ程、その態度は豪胆だった。戸惑い揺れていた態度をそこで大胆に変えてしまう程、アルベルにとって剣は重たい存在なのだろう。
カウンターに置かれた剣を眺めながら、ルチアナはそう結論付け、恐る恐る手を伸ばす。
「剣は私の魂と言っても過言ではない。本来なら誰にも触られたくは無いのだが、ルチアナさん、あなたには特別に接触を許可しよう!」
「あ、ありがとうございます」
調子の良いアルベルに苦笑しながら、ルチアナは剣を手にして片手でそれを持ち上げた。
両手ではなく片手で、しかもすんなりと持ち上げられたことに、アルベルは目を丸くする。
「驚いた。普通は持ち上げるのも一苦労すると言うのに……あまつさえそれを片手で……! 普段から重たい本を運んでいるルチアナさんだからこそ、ということだろうね。ふははははは!」
「でも、やっぱり重たいです。とてもじゃないですが、これを振り回したりはできません」
「片手でそれなら、両手で持てばきっと大丈夫だとは思う。とはいえ心得のない者が振るえば、最悪自分を傷付けることになるだろうね。それにこれを振り回すのはあなたではなく私の役目だ。ルチアナさんはドンと構えて店番をして居ると良い。もっとも、店に人が来るとは限りませんがな! あっはっは!」
「……怒りますよ?」
「……すまない」
結局アルベルは、夕日が落ちて空が夜色になるまでルチアナと談笑した。そしてアルベルが店を後にする直前、ルチアナは一通の手紙をアルベルに差し出す。
「これは?」
「見ての通り手紙です。これを出しておいて貰えませんか?」
「構わないよ」
アルベルは手紙を受け取り、ポケットにそっとしまう。
「それじゃ、確かに預かった。これは私が責任を持って出しておこう。それでは、失礼するよ」
「はい、また」
小さく手を振りそれを見送ったルチアナは、店内に戻るとカウンター裏に回り、椅子に腰を深く据えて座る。そして緩んだ頬に手を添え、小さく吐息を漏らす。
「やっぱり彼は……」
とても小さなその呟きは、閑古鳥の鳴く店内に溶けて消えた。
そんな一人では気後れしてしまいそうな店内の雰囲気に、ルチアナはどうしたものかと所在なさげにキョロキョロとしていた。するとそれを見て苦笑したアルベルが慣れた様子でルチアナを店の奥へと誘導する。
店の一番奥の角、四人掛けのテーブルへと誘導されたルチアナは、角の椅子に腰を落とす。その対面に座ったアルベルは、小さく息を吐くとテーブルに置かれていたメニューをルチアナに手渡した。
「好きなものを頼むと良い。これも詫びの一つだ」
「そうですか。じゃあメニューの上から下まで全部を」
「ちょっと待て。そんなに食べるというのか?」
顔を強張らせたアルベルだが、ルチアナは一歩も遠慮する気は無く、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「これからいっぱい動くんですよ? その分の栄養はちゃんと摂取しておかないといけません」
「あまり食べ過ぎると太ってしまわないだろうか」
「アルベルさんには、私が太っているように見えるんですか?」
「まさか! あなたはとてもお美しい!」
「ありがとうございます。ですが、世辞は結構です。それと私はルチアナ・ホーキンスと言います。二度と教えてあげないので覚えて下さい」
「なんだか言葉の端々に棘を感じるのは気のせいだろうか……」
困った様に渇いた笑いを漏らすアルベルは、近くに居たウェイトレスに注文を言い渡す。アルベルが頼むのはサンドウィッチとコーヒーだけだが、ルチアナの為に料理を上から下まで注文した。その際、ウェイトレスは目を丸くしていたが、アルベルは構うことなく料理が無くなり次第次を持ってきて欲しいとだけ告げ、注文を終える。
「本当に奢ってくれるんですね。全品」
「ああ、これでも高給取りだからね」
「警邏の給料はそんなに良いのですか?」
「これでも命を張っているんだよ? 最近は不法入国者なんかが多くてね、そういった連中は大抵血の気が多くて困る」
「戦争をしている国が近くにありますからね、そういう人が来ても仕方がないです」
「だからこその私達だ。と、威張りたい所だが、最近は人手不足で手が回らなくて困っているよ」
おどけた調子のアルベルが目を伏せる。ルチアナはそこにある感情を窺おうとするも、料理を運んできたウェイトレスによってその意識が逸れてしまう。
それから二人は、食事を摂りながら他愛のない話を続ける。
「そういえば、また新しい人間牧場が発見されたんでしたっけ」
世辞は嫌いだが世事には敏感なルチアナが、新聞で見た記事をネタに会話を広げる。警邏の人間だからこそ知っている何かがあるのでは、という期待をしていたルチアナだが、その期待は軽く裏切られてしまう。
「らしいね。独裁国家と言えど、あんなものが実在するなんて信じたくないものだよ」
「きっと、この国に居ては想像もできない現実があるんでしょうね」
「それはそれ、これはこれ、ということなのだろうね。私だってあんなものが実際に稼働している場面を見たいとは思わないさ」
当たり障りのないことしか言わなかったアルベルがポロっと零した言葉に、ルチアナは敏感に反応し即座に切り返す。
「人間牧場がどのようなものかご存じなんですか?」
「ん……まぁ、ね。実際に見たわけじゃなくて、人伝に聞いたという程度で、だがね」
「牧場と言うぐらいですから、人を家畜同然に扱っているんですか?」
額縁通りの推測を敢えて口走り、アルベルの訂正を誘うルチアナ。するとアルベルは曖昧な表情をした後、あっさりとルチアナの知りたがっていたことを語り出した。
「家畜同然、という意味で言えば間違いはないらしい。収容されていた人間はその大半が男で、強制的な労働に従事させられていたという話だ。その労働というのもきな臭いことこの上ないものなのだが……いや、止めよう」
けれどアッサリと口を閉ざすアルベルに、ルチアナはそれ以上の追及をすることはしなかった。本音を言えばアルベルの知っていることをなんとか白状させたい所だった。しかしルチアナはそんなことをする必要がないのを知っていたから、無駄なことはせず素直に引き下がったのである。
「それにしても、ここの料理はとてもおいしいですね」
「だろう? メニューを全部頼めば高いかもしれないが、そうでなければ値段もお手頃だ」
「店の雰囲気はとても素敵で……機会がありましたら、また足を運んでみますね」
そうして恙無く昼食が終わるかと思ったら、生憎とそういうわけにはいかなかった。
「――く、食い逃げよ!」
ウェイトレスの慌てた声音が聞こえ、アルベルが咄嗟に席を立つ。ルチアナは視線だけを投げ、面倒臭そうな騒動の現場を見遣る。そこには巻き込まれたくないと言う、偽れぬ本音が混じっていた。
「き、貴様はっ!」
けれど視線がそこへ向かった途端、ルチアナはアルベルに遅れを取る形になりながらも、席から跳び起きるように立ち上がり驚嘆を口にする。
「あ、貴方は!」
そこには、今まさに店から飛び出そうとしている食い逃げ犯がいて、その食い逃げ犯が昨日ルチアナの店に押し入った強盗犯であったことに、ルチアナとアルベルは大層驚いた。
「ルチアナさん、すみません」
アルベルは財布をテーブルの上に叩きつけると、
「お代はこれで払って! 私は奴を追い掛ける!」
とだけ言い残し、慌ただしく店から飛び出していった。
店に残されたルチアナは、小さく嘆息しながらアルベルの財布を手に取り、その中の金を使い既に出された分の飲食代を支払った。無論、まだ来ていない分はウェイトレスに言伝しキャンセルした。メニューを制覇するには遠かったが、アルベルが居ない状態で飲み食いする気にもなれず、大人しく帰ることにしたのであった。
◆◇◆
店に戻ったルチアナは、店内の惨状を再び目にして、肩から力が抜けるのを感じた。しかし午前中に進められるだけの事をしていた為、今朝よりは状況が好転しており、必要以上の悲観はしなかった。
「よーし、頑張りましょう!」
元気良く声を出して己を鼓舞すると、エプロンと三角巾を装備し、さっそく片付けに取り掛かった。
片付けは驚くほど順調に進んだ。客が一人として来ない為、それしかすることがないせいだが、その事実を今更に自覚し、ルチアナは力の抜けた肩を更にがっくりと落とす。
倒れた本棚を全て元に戻し、ついでに掃除もする。はたきで埃を落とし、箒と塵取りでそれを回収、最後に雑巾で水拭きをして終了。全ての本棚に対してその作業を行い、店の空きスペースやカウンター裏、そして二階の空き部屋に放り込んでいた本を棚に収めていく。
一連の作業が終わる頃には、陽がぐっと傾き空は黄昏に染まっていた。
窓から差し込む茜色の光に暖かな何かを感じたルチアナは、最後の一冊を本棚に収めホッと一息……はつかなかった。
「……やっぱり一冊足りない」
最後の一冊を収めた棚とは別の棚へと移動し、本棚の隙間を確認する。その棚には分厚い装丁の本が幾つか収められており、その内の一冊が抜けており、何やら締りの悪い状態になっていた。そこをつーっと指でなぞりながら、ルチアナはそこに収まるべき本のタイトルを思い返す。
店内にある全ての本の名前と数を記憶している――否、あらゆることを完璧に記憶しているルチアナにとって、それを思い出すことは造作もなかった。
「そっか、ここにあったのは……『写本人生譚‐ユリウス・アルシャ‐』……でも何で?」
そこでようやくルチアナは一つの結論に至る。
「……あ! ひょっとして……」
その邪推にも似た仮定に、どうしたものかと頭を捻っていると、店の扉が開く音がした。
その音に思考を瞬時に打つ切ったルチアナは、素早く振り向いた。
「やあ、随分と早く片付いたみたいだね」
店内にずかずかと足を踏み入れて来たのは、昼食を共にしたアルベルだった。彼は疲れた顔でルチアナへと近付く。
「あの強盗犯兼食い逃げ犯、結局逃げられてしまったよ」
「そうですか。それは残念です」
僅かに上擦った声で言うと、アルベルは苦い表情を浮かべる。
「元々期待していなかった、という意味合いが含まれている気がするのは考え過ぎかな?」
「ええ、考え過ぎです。それと強盗犯とか食い逃げ犯って言っていますけど、名前はなんて言うんですか? 確か指名手配されていたんでしたよね?」
今更なことが気になり、ルチアナが問うとアルベルは破顔し近くの本棚に収まった本を指でなぞる。
「そういえば教えていなかったね。強盗犯兼食い逃げ犯の名前は、ザック・リッジスと言うんだ」
「それは偽名ですよ」
「……え?」
間髪いれずに放たれたルチアナの言葉に、アルベルが固まる。だがすぐに調子を取り戻し、曖昧な笑顔で聞き返す。
「偽名とは……それはいったいどういうことなんだ?」
「知りたいですか?」
今までの雰囲気と一変し、ミステリアスな調子のルチアナは、口元をそっと歪める。
まるで別人と対峙している様な錯覚に陥るアルベルは、絶句し言葉を待つ。
けれど、
「教えてあげません」
と満面の笑みを浮かべ、ルチアナは回答を拒否した。
その返事に残念がると同時に、何故か安堵するアルベルは、己の抱いた感情に戸惑いを覚えて本をなぞる指を離す。
「ひょ、ひょっとして、今のは私をからかったのかな?」
取り繕うような、それでいて縋る様な言葉を絞り出すと、アルベルはそれを否定しないで欲しいと願った。そしてルチアナはアルベルの不安を読みとったかのように笑みを浮かべて頷くと、踵を返しカウンターの奥へと向かった。
「そ、そうか……ははっ、まったく驚かせてくれるな。いや、参ったね! あはははっ!」
どこか乾いた笑みが店内に響き、アルベルはルチアナに続きカウンターへ向かい、近くの椅子に腰を落とした。既にカウンターの向こうの大きな椅子に座っていたルチアナと対峙する形となる。
「さて、お互い冗談はこれぐらいにして、本題と行こうか」
ニコニコと笑うルチアナを敢えて思考の外に置いて、アルベルは話を進める。
「実はザックは食い逃げだけではなく窃盗もあの店で働いてい――」
「――今、不思議に思ったんですけど」
速攻で言葉を遮られ、アルベルは気まずそうに眉を顰めた。しかしルチアナはそんなことは歯牙にも掛けず、テーブルをトントンと指先で叩きながら問うた。
「そういう捜査情報というのは、一般市民の私に話してしまって大丈夫なんですか?」
「ああ、それなら大丈夫だ。誰に知られても大丈夫、というよりも明日の新聞を見れば嫌でも分かる事実しか話さないからね」
「そうですか。それじゃあ、続けて下さい」
「うむ。実は食い逃げをしたザックだが、あの店の奥に在る金庫の金を盗んでいたことが後で分かったんだ。といってもこれは、指名手配されているザックが店に居たという状況下で、店の金が消えていたという状況証拠からの推測でしかないのだけれど、それでも強盗を頻繁に行っているザックなら可能性は高いと考えている。これには温厚で滅多に怒らない店主のマリウスも激怒していたよ。食い逃げならまだしも、窃盗までしていたなんて、と顔を真っ赤にしてね」
「トマトのように真っ赤でしたか?」
「ん? そうだな……トマトというよりは……いや、トマトのように真っ赤だったよ」
「そうですか」
「まぁ、そんなこんなで結局今回も取り逃がしてしまったという、そういう話だ」
「なんというか、あの強盗犯――ザックさんでしたっけ、あの方も随分と挑戦的な生き方をしているようですね」
「行動力だけは認めてやりたいが、行動した結果が結果なだけに許せるものじゃないな。人を不幸にしてしまう行動力なんぞ、私の剣の錆にしてくれよう」
そう言うと、腰に吊っている剣を自慢げに見せるアルベル。
「剣に自信があるんですか?」
顎に手を添えながら小首を傾げるルチアナは、見慣れぬ武器に視線を奪われる。本の中であれば何度も目にしてきたその存在をいざ目の当たりにして、その重量感に想像と現実の差を思い知る。
剣を見下ろすルチアナの目には、好奇の色が輝いていた。
そしてアルベルは、待っていましたと言わんばかりの勢いで立ち上がると、腰に吊った剣をカウンターに置いた。その話題を振って貰えて嬉しかったのか、顔がだらしなく緩んでいたが、ルチアナは何も言わなかった。
「自信は当然あるとも。なんたって私はこの街にいるどの警邏の人間よりも剣が立つ。そうだな、一般人にならば何人に囲まれようと負ける気はしないさ!」
さっきまでルチアナの一挙手一同に戸惑っていたとは思えぬ程、その態度は豪胆だった。戸惑い揺れていた態度をそこで大胆に変えてしまう程、アルベルにとって剣は重たい存在なのだろう。
カウンターに置かれた剣を眺めながら、ルチアナはそう結論付け、恐る恐る手を伸ばす。
「剣は私の魂と言っても過言ではない。本来なら誰にも触られたくは無いのだが、ルチアナさん、あなたには特別に接触を許可しよう!」
「あ、ありがとうございます」
調子の良いアルベルに苦笑しながら、ルチアナは剣を手にして片手でそれを持ち上げた。
両手ではなく片手で、しかもすんなりと持ち上げられたことに、アルベルは目を丸くする。
「驚いた。普通は持ち上げるのも一苦労すると言うのに……あまつさえそれを片手で……! 普段から重たい本を運んでいるルチアナさんだからこそ、ということだろうね。ふははははは!」
「でも、やっぱり重たいです。とてもじゃないですが、これを振り回したりはできません」
「片手でそれなら、両手で持てばきっと大丈夫だとは思う。とはいえ心得のない者が振るえば、最悪自分を傷付けることになるだろうね。それにこれを振り回すのはあなたではなく私の役目だ。ルチアナさんはドンと構えて店番をして居ると良い。もっとも、店に人が来るとは限りませんがな! あっはっは!」
「……怒りますよ?」
「……すまない」
結局アルベルは、夕日が落ちて空が夜色になるまでルチアナと談笑した。そしてアルベルが店を後にする直前、ルチアナは一通の手紙をアルベルに差し出す。
「これは?」
「見ての通り手紙です。これを出しておいて貰えませんか?」
「構わないよ」
アルベルは手紙を受け取り、ポケットにそっとしまう。
「それじゃ、確かに預かった。これは私が責任を持って出しておこう。それでは、失礼するよ」
「はい、また」
小さく手を振りそれを見送ったルチアナは、店内に戻るとカウンター裏に回り、椅子に腰を深く据えて座る。そして緩んだ頬に手を添え、小さく吐息を漏らす。
「やっぱり彼は……」
とても小さなその呟きは、閑古鳥の鳴く店内に溶けて消えた。
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