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3.血酒の果て
④
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部屋に戻ったヨハンは、すぐさま本に手を伸ばした。
そして『魔女の涙』を、今一度読み直す。今度は流し読みのように、必要な情報だけを素早く汲み取っていく。行を上から下に向って読んでいくのではなく、行の中央に視点を合わせ、開いた本の端から端へと視線を流し、今必要として居る情報だけを検索する。
羅列する文字を素早く処理しながら、ヨハンはじっくり読んだ時の記憶と突き合わせ、再確認していく。
「どうしたの? ヨハン」
その様子を心配そうに見つめるハンナは、ただならぬ雰囲気に困惑する。
するとヨハンは、本を目で追いながらこう言った。
「何かが、おかしいと思うんだ」
「何かって?」
「いろいろ、かな。でも、あえて言うならルチアナさんの態度」
「ルチアナの態度?」
思い当たる節の無いハンナは、尚も小首を傾げる。
そこで必要なだけの情報を抜き終わったヨハンは、本を閉じベッドの上に抛る。そしてソファーに腰掛けると、ハンナに隣へ座るよう促した。それに従いハンナがヨハンにピッタリとくっつくように座ると、ヨハンは苦笑する。
「近いよ」
「いいの。近い方がちゃんと聞こえるんだから」
「あはは……。それじゃ、本題に入るけど、ルチアナさんはさっきヴォルフラムさんと『魔女の涙』について話していたでしょ?」
「うん。お酒だよね?」
「そう。お酒。あの本に登場した、呪いのお酒」
呪いという縁起の悪い言葉に、ハンナは顔を顰めるも、ヨハンは構わずに続ける。
「そのお酒が本の通りなら、あのお酒は他人に呪いを掛けることのできるお酒なんだ。で、その呪いが実在するなら、それはとても危険なお酒になる。もっとも、ある手順さえ踏まなければ、極上の美酒というだけで何の害もないらしいけどね。でもルチアナさんはそういったことを一切口にせず、眉唾な噂であると切って捨てていた。わざわざ遠出して手に入れた本に書かれていた内容を、信じなかったんだ」
「それは単に、その本の内容が信用できない、本当に眉唾な話だからかもしれないよ?」
「だとしたら、尚更話のタネになるじゃないか。あそこで隠す意味が分からない。細かいことを言い出してしまえば、ヴォルフラムさんが持っている『魔女の涙』が本物であるという保証もないんだけど……なんだか凄く気になるんだ」
そしてヨハンは、ずっと感じていた違和感をぽつぽつと吐き出していく。ハンナ口を噤み、そんなヨハンの独白に耳を傾ける。
「それだけじゃない。あの時ドゥの連中に襲われてから、なんだか言葉に出来ないような気持ち悪さを感じるんだ。ドゥの連中が何かを言おうとしていたこととか、ルチアナの態度、タイミングの良過ぎるヴォルフラムさん。ねぇ、ハンナ……これは僕が疑心暗鬼に捕らわれているだけなのかな」
ハンナの方へと寄り添い肩に頭を載せる。するとハンナはそんなヨハンの髪をそっと撫でる。
「ごめん。わたしは鈍感で馬鹿だから、ヨハンが満足するようなことは言えないよ。でもね、これだけはハッキリと言えるの。ヨハンが信じたことを、わたしは信じる。ヨハンが怪しいと思ったら、わたしもそれを怪しいと思うよ。だから、もっとわたしに相談して。一緒に考えよう。わたしじゃ力不足かもしれないけど、それでもわたしはちゃんと考えるから」
「ハンナ……?」
今度はハンナの番だった。
「わたしはね、不安っていう不安はないけど……でもとっても悔しいの」
ヨハンはハンナが直情的に物事を捉えていると考えていたが、その実、ハンナも悩んでいた。誰だって悩みぐらいあるのだから、それは当然だった。けれどヨハンはそのことに気付けなかった。自分のことでいっぱいいっぱいだから、気付くことができなかった。けれどそれは決して悪いことではなく、だからこそこうして言葉を交わすことに意義があるのだ。
「わたしはきっと、何も知らないんだと思う。ルチアナのことも、ヨハンのことも、アルベルさんのことだって、わたしは何一つ知らない。みんなわたしに良くしてくれるのに、わたしは優しくしてくれる人達のことを何も知らない。そのことがすっごく、悔しいの」
「それは僕も同じだよ」
「同じじゃないよ。だって、ヨハンはわたしよりも知っているもの」
「え?」
断言する様な力強い言葉に、ヨハンは硬直する。
「だって、ヨハンはわたしの知らないルチアナを知っているよね?」
ピッタリとくっつくハンナは、ずずいと顔を近づけるとヨハンの瞳を間近で覗き込む。
「そんなこと……」
その距離に戸惑うヨハンが言葉を濁すも、ハンナは構わずに唇を滑らせる。そしてその距離はドンドンと近付いて行く。
「ヨハンとルチアナの間に何があったかなんて知らないし、正直どうでも良いの。でもね、それが原因でルチアナとの距離が少しでも近付いたのなら、わたしはそれを羨ましいって思っちゃうよ」
「やっぱり、同じだよ」
「どうして?」
「それを言うなら、ハンナは僕の知らないルチアナさんを知っているじゃないか」
ハンナがヨハンの事を知らない様に、ヨハンだってハンナの事を知らない。当然の事実だが、語る意見が主観的であればある程、その事実をハンナは失念していた。
「そんなことない。わたしとルチアナが出会ったのは、つい最近のことだよ?」
「そうなんだ。でも僕はそれを知らなかった。だからハンナとルチアナさんはもっと古くからの付き合いだと思ってた。そう思うぐらいに、二人は仲良しだから」
だからこそヨハンは吐息の感じられる距離に居るハンナをぎゅっと抱き締め、そっと頭を撫でた。どこか怯えたような、おずおずとしたその動作によって抱きとめられたハンナは、戸惑いながらも目を閉じてヨハン首筋に顔を埋める。
「たぶんだけど、僕の感じている不安みたいなものと、ハンナの感じている悔しさみたいなのは、似たようなものだと思うんだ。その想いの向いている方向がちょっと違うだけで、その根っこの部分にあるのは、相手のことを知らないから知りたくて、知らないから不安になって、知らないから知らない部分を知っている人がいるのに耐えられないんだ。そんなふうに……そうまでして、相手のことを考えてしまうほどに――僕達はルチアナさんのことが好きで、ルチアナさんのことをもっと知りたいんだと思う」
「……うん。そう、かも」
思う所があるのか、ハンナは何かを噛み締めるように小さく言葉を漏らす。全ての本心を吐露したわけではない。けれど、もう充分だった。
「大丈夫。僕はずっとハンナの傍に居るから、一緒に知っていこう」
「うん……うん……うん。ルチアナのこと、もっともっと知ろうね」
何度も頷きながら、ハンナはこう付け加える。
「それに、ヨハンのことも知りたいな」
「僕もハンナのことを知りたいよ」
即答するヨハンは苦笑しながらハンナの頭から手を離し、距離を置こうとして――ハンナを思い切り突き飛ばした。
「――きゃっ!」
悲鳴を上げてソファーに倒れ込むハンナを尻目に、ヨハンは飛び起きるように上体を起こすと、部屋の隅に立て掛けてある槍を掴み、その切っ先を部屋の出入り口である扉に向って突き出す。
「ぐあっ!」
木製の扉を軽々と貫いた槍の刺突音と同時に、悲鳴が上がった。
そしてヨハンは踵を返しソファーに倒れ込んでいるハンナの手を引いて起こすと、そのまま部屋の隅に移動させた。それからベッドの上にあった布団をハンナに被せ、短くこう告げる。
「黙っていて」
ほんの数秒の間に起きた出来事にキョトンとするハンナは、ただただ頷くしかなかった。唯々諾々としてしまっている現状に文句を言うよりも、今は大人しくしているべきだと直感的に感じ取ったのである。
するとすぐさま扉が開け放たれ、中に剣呑な雰囲気の男達がなだれ込んで来た。数は四。そしてその男達が昼間にヨハン達を襲ってきた男達だと気付くのに、そう時間が掛からなかった。
しかしあの時とは違い、様子見することなく男達はその手に握った剣をヨハンに向け、有無を言わさず襲い掛かる。
「しょうがないよね」
自分に言い聞かせるように呟くヨハンは、男達と対話することを諦めた。
あの時に何か言おうとしていたことも気になったが、あの時のように男達が様子見をしていない現状では、平和的解決など望めるものではない。であるならば、残る手段は戦争だ。
すぐさま腹を括ったヨハンは、むしろこうなってくれて有難いと言わんばかりの調子で槍を構える。
室内で振るうには些か以上に長いその得物を、威嚇するように巧みに振り回し、流れ込んで来た四人の男達に向かって穂先を向ける。――と同時に、凡そ人の目で捉え切れる限界に近い速度の突きを放つ。
その数、正味四度。
突き出し、引き戻す、という単調な動作の行動を神速で行ったヨハンの槍は、目論見通り男達の心臓を貫いていた。男達は苦悶の声を漏らしながら床に膝を突く。
男達が弱かったわけではない。むしろ男達は相応の訓練を受けた者達であることはその行動から十二分に窺えた。しかし、あくまでそれは一般的な水準の話である。事、戦うことに特化した存在であるヨハン・ケンプファーにしてみれば、男達の実力など取るに足らなかった。
襲い掛かるまでもなく、行動される前に相手の心の臓を抉ったヨハンは、息の根を止める為に四者の喉元を再度突いた。すると溢れていた苦悶の声が消え去り、一瞬だけ室内が静まり返った。
けれど耳を澄ませば、遠くから激しい物音が聞こえ、この事態がこの部屋だけを狙ったものでないことが窺えた。そのことに警戒を強めながらも、ヨハンはとりあえず一息吐く。
「……ふぅ」
扉越しに突き殺した男を含めれば、計五名の命を奪ったヨハンは、そんなこと歯牙にも掛けぬ様子で槍を床に置くと、すぐさま部屋の隅に居るハンナへと向かう。
そして布団を剥ぎ取るとハンナに向って手を差し出す。
「ハンナ、行こう」
布団の下に隠れていたハンナは、上から降り注ぐ声に安堵する。
ヨハンに布団を被されてから然程の時間も立っていない、ものの数秒のような時間だったが、それでもハンナにとっては酷く長い時間に感じられた。
「ん……ありがと――っ!」
差し出された手を掴んで引き上げて貰うと、視界に飛び込んできた光景にハンナは思わず顔を顰める。
なにせそこには、血塗れの死体が転がっていたのだから。
「ヨハン……これって」
「うん。僕が殺した」
蚊でも殺したみたいにアッサリと言うヨハンにハンナは戸惑う。
「殺したって……どうして」
「殺さなきゃ殺されるから」
だからといって、それで納得できるほどハンナは擦れていなかった。人が死ぬのが珍しくないことぐらいは理解していても、その死を身近で体験したことのないハンナにとって、この状況は今までの価値観がひっくり返るほどの大事だ。
「殺すしか、なかったの……?」
「話し合いの余地があったなら、僕だって無駄な殺生なんてしたくないよ」
「……そっか……そう、だよね」
ハンナは驚いた。その事実をすんなりと受け入れてしまった自分自身に。
けれど考えてみれば思い当たる節がないわけではない。そもそも護衛という名目で同行している以上、その役割は降り掛かる危険から対象を護るというものだ。そしてその危険に人の死が関わることは、なんら不思議なことではない。
そう、頭では分かっても、心の奥底では何かが引っ掛かり納得できずにいた。
そんなハンナの様子を見たヨハンは、感情の読めない硬い声で問う。
「簡単に人を殺す僕のこと、嫌いになる?」
「え?」
その質問に再び戸惑うハンナは、既に飛び込んでくる感情を処理しきれずにいた。故に反論することなく、流される。
「ハンナは知らないだろうけど、僕は元々こういう人間だよ?」
「こう、って……?」
「人を殺すのが特技の人間ってこと」
淡々とするヨハンだが、実際はその言葉を吐くことに苦痛を覚えていた。
もしその言葉がハンナによって否定されてしまえば、きっとヨハンは深い傷を負うだろう。けれどそのリスクを負ってでも、ヨハンはハンナに知って欲しかった。過去は変えられない。ならば自分の過去を語ることは、相手のことを知る為の第一歩であると考えた。
故の行動。
そしてそれに答えるハンナは、
「それは――」
けれど、答えを聞くことはできなかった。
「――くそっ!」
答えを言う間もなく、ヨハンの悪態を遠い出来事のように認識しながら、再び身体が揺さ振られる。それがヨハンの手によって押しのけられたものだと気付くのは、尻餅をついてからだった。
「ヨ、ヨハ……!?」
言葉は続かない。
どこかで血飛沫が舞ったから。
頬に紅い血がこびり付いて、ハンナは思わず頬に手を当てる。
ぬるりとした感触があった。
顔を上げる。
そこには槍を握り見知らぬ男の喉元を突いているヨハンが居た。
ギラギラとした槍の切っ先が、喉元にめり込んでいる。肉が抉れているようにも見えるが、溢れる血潮で全てが覆い隠されている。その赤いカーテンの奥に隠れる肉を考えた瞬間、ハンナの全身に怖気が走る。
「ああっ……ああ、ああ……」
一度は受け入れた――つもりだった。
けれど、やはりダメだった。
受け入れるには、重過ぎる。
人一人を殺すことを軽んじるなんて、ハンナにはできなかった。例えそれが、自分に危害を加える可能性のある人間だとしても、ハンナの価値観では到底許容できるものではなかった。
「……ああっ」
槍を引き抜いて死体を床に転がすヨハンは、そっとハンナの傍にしゃがみ込む。そして腰を抜かし、目を見開いて瞳を震わすハンナを見て、曖昧な笑みを浮かべた。
「僕のことを怖いと思っているかもしれないけど、今は我慢して。ちゃんと……必ずっ、傷一つ付けずにスパイルへ送り届けるから」
何かを諦めたような、そんな悲しい笑みを浮かべるヨハンは、血の付いたハンナの頬をそっと拭い、泣きそうな声で宣言する。
「――誓うよ。僕はハンナを傷付けさせたりしないって」
そして『魔女の涙』を、今一度読み直す。今度は流し読みのように、必要な情報だけを素早く汲み取っていく。行を上から下に向って読んでいくのではなく、行の中央に視点を合わせ、開いた本の端から端へと視線を流し、今必要として居る情報だけを検索する。
羅列する文字を素早く処理しながら、ヨハンはじっくり読んだ時の記憶と突き合わせ、再確認していく。
「どうしたの? ヨハン」
その様子を心配そうに見つめるハンナは、ただならぬ雰囲気に困惑する。
するとヨハンは、本を目で追いながらこう言った。
「何かが、おかしいと思うんだ」
「何かって?」
「いろいろ、かな。でも、あえて言うならルチアナさんの態度」
「ルチアナの態度?」
思い当たる節の無いハンナは、尚も小首を傾げる。
そこで必要なだけの情報を抜き終わったヨハンは、本を閉じベッドの上に抛る。そしてソファーに腰掛けると、ハンナに隣へ座るよう促した。それに従いハンナがヨハンにピッタリとくっつくように座ると、ヨハンは苦笑する。
「近いよ」
「いいの。近い方がちゃんと聞こえるんだから」
「あはは……。それじゃ、本題に入るけど、ルチアナさんはさっきヴォルフラムさんと『魔女の涙』について話していたでしょ?」
「うん。お酒だよね?」
「そう。お酒。あの本に登場した、呪いのお酒」
呪いという縁起の悪い言葉に、ハンナは顔を顰めるも、ヨハンは構わずに続ける。
「そのお酒が本の通りなら、あのお酒は他人に呪いを掛けることのできるお酒なんだ。で、その呪いが実在するなら、それはとても危険なお酒になる。もっとも、ある手順さえ踏まなければ、極上の美酒というだけで何の害もないらしいけどね。でもルチアナさんはそういったことを一切口にせず、眉唾な噂であると切って捨てていた。わざわざ遠出して手に入れた本に書かれていた内容を、信じなかったんだ」
「それは単に、その本の内容が信用できない、本当に眉唾な話だからかもしれないよ?」
「だとしたら、尚更話のタネになるじゃないか。あそこで隠す意味が分からない。細かいことを言い出してしまえば、ヴォルフラムさんが持っている『魔女の涙』が本物であるという保証もないんだけど……なんだか凄く気になるんだ」
そしてヨハンは、ずっと感じていた違和感をぽつぽつと吐き出していく。ハンナ口を噤み、そんなヨハンの独白に耳を傾ける。
「それだけじゃない。あの時ドゥの連中に襲われてから、なんだか言葉に出来ないような気持ち悪さを感じるんだ。ドゥの連中が何かを言おうとしていたこととか、ルチアナの態度、タイミングの良過ぎるヴォルフラムさん。ねぇ、ハンナ……これは僕が疑心暗鬼に捕らわれているだけなのかな」
ハンナの方へと寄り添い肩に頭を載せる。するとハンナはそんなヨハンの髪をそっと撫でる。
「ごめん。わたしは鈍感で馬鹿だから、ヨハンが満足するようなことは言えないよ。でもね、これだけはハッキリと言えるの。ヨハンが信じたことを、わたしは信じる。ヨハンが怪しいと思ったら、わたしもそれを怪しいと思うよ。だから、もっとわたしに相談して。一緒に考えよう。わたしじゃ力不足かもしれないけど、それでもわたしはちゃんと考えるから」
「ハンナ……?」
今度はハンナの番だった。
「わたしはね、不安っていう不安はないけど……でもとっても悔しいの」
ヨハンはハンナが直情的に物事を捉えていると考えていたが、その実、ハンナも悩んでいた。誰だって悩みぐらいあるのだから、それは当然だった。けれどヨハンはそのことに気付けなかった。自分のことでいっぱいいっぱいだから、気付くことができなかった。けれどそれは決して悪いことではなく、だからこそこうして言葉を交わすことに意義があるのだ。
「わたしはきっと、何も知らないんだと思う。ルチアナのことも、ヨハンのことも、アルベルさんのことだって、わたしは何一つ知らない。みんなわたしに良くしてくれるのに、わたしは優しくしてくれる人達のことを何も知らない。そのことがすっごく、悔しいの」
「それは僕も同じだよ」
「同じじゃないよ。だって、ヨハンはわたしよりも知っているもの」
「え?」
断言する様な力強い言葉に、ヨハンは硬直する。
「だって、ヨハンはわたしの知らないルチアナを知っているよね?」
ピッタリとくっつくハンナは、ずずいと顔を近づけるとヨハンの瞳を間近で覗き込む。
「そんなこと……」
その距離に戸惑うヨハンが言葉を濁すも、ハンナは構わずに唇を滑らせる。そしてその距離はドンドンと近付いて行く。
「ヨハンとルチアナの間に何があったかなんて知らないし、正直どうでも良いの。でもね、それが原因でルチアナとの距離が少しでも近付いたのなら、わたしはそれを羨ましいって思っちゃうよ」
「やっぱり、同じだよ」
「どうして?」
「それを言うなら、ハンナは僕の知らないルチアナさんを知っているじゃないか」
ハンナがヨハンの事を知らない様に、ヨハンだってハンナの事を知らない。当然の事実だが、語る意見が主観的であればある程、その事実をハンナは失念していた。
「そんなことない。わたしとルチアナが出会ったのは、つい最近のことだよ?」
「そうなんだ。でも僕はそれを知らなかった。だからハンナとルチアナさんはもっと古くからの付き合いだと思ってた。そう思うぐらいに、二人は仲良しだから」
だからこそヨハンは吐息の感じられる距離に居るハンナをぎゅっと抱き締め、そっと頭を撫でた。どこか怯えたような、おずおずとしたその動作によって抱きとめられたハンナは、戸惑いながらも目を閉じてヨハン首筋に顔を埋める。
「たぶんだけど、僕の感じている不安みたいなものと、ハンナの感じている悔しさみたいなのは、似たようなものだと思うんだ。その想いの向いている方向がちょっと違うだけで、その根っこの部分にあるのは、相手のことを知らないから知りたくて、知らないから不安になって、知らないから知らない部分を知っている人がいるのに耐えられないんだ。そんなふうに……そうまでして、相手のことを考えてしまうほどに――僕達はルチアナさんのことが好きで、ルチアナさんのことをもっと知りたいんだと思う」
「……うん。そう、かも」
思う所があるのか、ハンナは何かを噛み締めるように小さく言葉を漏らす。全ての本心を吐露したわけではない。けれど、もう充分だった。
「大丈夫。僕はずっとハンナの傍に居るから、一緒に知っていこう」
「うん……うん……うん。ルチアナのこと、もっともっと知ろうね」
何度も頷きながら、ハンナはこう付け加える。
「それに、ヨハンのことも知りたいな」
「僕もハンナのことを知りたいよ」
即答するヨハンは苦笑しながらハンナの頭から手を離し、距離を置こうとして――ハンナを思い切り突き飛ばした。
「――きゃっ!」
悲鳴を上げてソファーに倒れ込むハンナを尻目に、ヨハンは飛び起きるように上体を起こすと、部屋の隅に立て掛けてある槍を掴み、その切っ先を部屋の出入り口である扉に向って突き出す。
「ぐあっ!」
木製の扉を軽々と貫いた槍の刺突音と同時に、悲鳴が上がった。
そしてヨハンは踵を返しソファーに倒れ込んでいるハンナの手を引いて起こすと、そのまま部屋の隅に移動させた。それからベッドの上にあった布団をハンナに被せ、短くこう告げる。
「黙っていて」
ほんの数秒の間に起きた出来事にキョトンとするハンナは、ただただ頷くしかなかった。唯々諾々としてしまっている現状に文句を言うよりも、今は大人しくしているべきだと直感的に感じ取ったのである。
するとすぐさま扉が開け放たれ、中に剣呑な雰囲気の男達がなだれ込んで来た。数は四。そしてその男達が昼間にヨハン達を襲ってきた男達だと気付くのに、そう時間が掛からなかった。
しかしあの時とは違い、様子見することなく男達はその手に握った剣をヨハンに向け、有無を言わさず襲い掛かる。
「しょうがないよね」
自分に言い聞かせるように呟くヨハンは、男達と対話することを諦めた。
あの時に何か言おうとしていたことも気になったが、あの時のように男達が様子見をしていない現状では、平和的解決など望めるものではない。であるならば、残る手段は戦争だ。
すぐさま腹を括ったヨハンは、むしろこうなってくれて有難いと言わんばかりの調子で槍を構える。
室内で振るうには些か以上に長いその得物を、威嚇するように巧みに振り回し、流れ込んで来た四人の男達に向かって穂先を向ける。――と同時に、凡そ人の目で捉え切れる限界に近い速度の突きを放つ。
その数、正味四度。
突き出し、引き戻す、という単調な動作の行動を神速で行ったヨハンの槍は、目論見通り男達の心臓を貫いていた。男達は苦悶の声を漏らしながら床に膝を突く。
男達が弱かったわけではない。むしろ男達は相応の訓練を受けた者達であることはその行動から十二分に窺えた。しかし、あくまでそれは一般的な水準の話である。事、戦うことに特化した存在であるヨハン・ケンプファーにしてみれば、男達の実力など取るに足らなかった。
襲い掛かるまでもなく、行動される前に相手の心の臓を抉ったヨハンは、息の根を止める為に四者の喉元を再度突いた。すると溢れていた苦悶の声が消え去り、一瞬だけ室内が静まり返った。
けれど耳を澄ませば、遠くから激しい物音が聞こえ、この事態がこの部屋だけを狙ったものでないことが窺えた。そのことに警戒を強めながらも、ヨハンはとりあえず一息吐く。
「……ふぅ」
扉越しに突き殺した男を含めれば、計五名の命を奪ったヨハンは、そんなこと歯牙にも掛けぬ様子で槍を床に置くと、すぐさま部屋の隅に居るハンナへと向かう。
そして布団を剥ぎ取るとハンナに向って手を差し出す。
「ハンナ、行こう」
布団の下に隠れていたハンナは、上から降り注ぐ声に安堵する。
ヨハンに布団を被されてから然程の時間も立っていない、ものの数秒のような時間だったが、それでもハンナにとっては酷く長い時間に感じられた。
「ん……ありがと――っ!」
差し出された手を掴んで引き上げて貰うと、視界に飛び込んできた光景にハンナは思わず顔を顰める。
なにせそこには、血塗れの死体が転がっていたのだから。
「ヨハン……これって」
「うん。僕が殺した」
蚊でも殺したみたいにアッサリと言うヨハンにハンナは戸惑う。
「殺したって……どうして」
「殺さなきゃ殺されるから」
だからといって、それで納得できるほどハンナは擦れていなかった。人が死ぬのが珍しくないことぐらいは理解していても、その死を身近で体験したことのないハンナにとって、この状況は今までの価値観がひっくり返るほどの大事だ。
「殺すしか、なかったの……?」
「話し合いの余地があったなら、僕だって無駄な殺生なんてしたくないよ」
「……そっか……そう、だよね」
ハンナは驚いた。その事実をすんなりと受け入れてしまった自分自身に。
けれど考えてみれば思い当たる節がないわけではない。そもそも護衛という名目で同行している以上、その役割は降り掛かる危険から対象を護るというものだ。そしてその危険に人の死が関わることは、なんら不思議なことではない。
そう、頭では分かっても、心の奥底では何かが引っ掛かり納得できずにいた。
そんなハンナの様子を見たヨハンは、感情の読めない硬い声で問う。
「簡単に人を殺す僕のこと、嫌いになる?」
「え?」
その質問に再び戸惑うハンナは、既に飛び込んでくる感情を処理しきれずにいた。故に反論することなく、流される。
「ハンナは知らないだろうけど、僕は元々こういう人間だよ?」
「こう、って……?」
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もしその言葉がハンナによって否定されてしまえば、きっとヨハンは深い傷を負うだろう。けれどそのリスクを負ってでも、ヨハンはハンナに知って欲しかった。過去は変えられない。ならば自分の過去を語ることは、相手のことを知る為の第一歩であると考えた。
故の行動。
そしてそれに答えるハンナは、
「それは――」
けれど、答えを聞くことはできなかった。
「――くそっ!」
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「ヨ、ヨハ……!?」
言葉は続かない。
どこかで血飛沫が舞ったから。
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ぬるりとした感触があった。
顔を上げる。
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一度は受け入れた――つもりだった。
けれど、やはりダメだった。
受け入れるには、重過ぎる。
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「……ああっ」
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「僕のことを怖いと思っているかもしれないけど、今は我慢して。ちゃんと……必ずっ、傷一つ付けずにスパイルへ送り届けるから」
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この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
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