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第二部 第二章
指を舐める
しおりを挟む日は少しずつ傾き、夕方の涼しい空気がじわりじわりと這い寄ってきていた。蔵の中も少しずつ暗くなり、今では何かしらの明かりを用意したくなる。蔵の奥にはアデルが蔵に仕舞っていた道具たちが乱雑に積まれていて、シシィとリディアのために肩を寄せ合っていた。カビっぽい匂いが鼻をつく。
アデルは眼前に突き出されたシシィの手を見ながら、目の前の少女が一体何を考えているのかを推察しようとした。シシィは未だに帽子のつばで顔を隠している。そのため、表情から何を考えているのかを察するのは不可能だった。
シシィの右手がアデルの眼前に突き出されている。その中指は瓶の中に入っていた何かしらの液体で濡れて艶を放っていた。あまり匂いがしないため、その液体が何なのかはわからない。
細く白い指先にまとわりついたその液体を舐めろとシシィが言った。この屈辱的な行為を受け入れれば自分のことを許してくれるのだという。
許してもらえるのであればそれくらいのことをするのに躊躇いはない。だが、目の前の小柄な少女が一体何を考えているのかがわからない。
見も知らぬ他人から、例えば中年の男から指を舐めろなどと言われれば確かに屈辱的かもしれないし、受け入れがたいだろう。しかし、シシィは美しい少女でありそれとは違っている。むしろ、指を舐めさせてやると言えば金を取れるのではないかとさえ思えた。
アデルは自分がシシィの指を舐める姿を想像した。確かに屈辱的な行為に見えるかもしれないが、そこまで嫌な行為だとは思えなかった。それはもちろん、相手がシシィという可憐な少女であるというのが大きな理由だった。
シシィはこの行為がアデルにとって屈辱的な行為になると思っているようだった。だとすれば、随分と自己評価が低いのだろうか。
このまま何も言わずにシシィの指を舐めればシシィは自分を許してくれるかもしれないし、自分はさほど屈辱を感じずに済むだろう。だが、相手に屈辱を感じさせたいというシシィの意図は達成されないかもしれない。
目の前の少女の顔が見えないせいで、その内心を推し量るのは不可能に近かった。元々無表情であるし、感情が素直に出てくるような娘でもない。
アデルはどうするべきか少し悩んだ後、一応告げておくことにした。
「シシィ、ひとつ言わせてほしい」
「なに?」
「確かに他人の指を舐めるというのは屈辱的な行為かもしれん。しかし、それは相手によるであろうと思う。その上で言うのならば、わしはシシィの指を舐めたところでたいした屈辱感を味わうような気がせん。もしわしに酷い思いをしてほしいというのであれば、これは少しばかり的外れではないかと思う」
アデルは地面に両膝をついたまま、わずかに上にあるシシィの顔を覗きこもうとした。だがシシィは帽子のつばを大きく傾けてしまっていて、その表情は殆ど伺えない。
こうやって語ってみたが、シシィは何か考えているようですぐに返事はしなかった。アデルはさらに続ける。
「そもそも、わしのような大の男に指を舐められるシシィのほうが屈辱を覚えるのではないのかと思うが」
少なくとも、自分が女だったらわけのわからない農夫に指を舐められるのは嫌だ。何故そんな辱めを受けなければいけないのかと思ってしまうだろう。
シシィの判断基準は少しばかり奇妙で的外れなように思えて仕方ない。
これ以上何か言うべきかどうかわずかに迷っているとシシィがわずかに息を吐き出した。
「もう遅い、別に構わないから早く」
「いいのか?」
「……舐めて」
そう言ってシシィが手をさらにアデルへと近づけた。アデルは鼻から小さく息を吸い込んで、シシィの中指にまとわりついている液体の正体を探ろうとした。匂いだけで判断するならば、おそらく蜂蜜だろうと思えた。
アデルは一度ごくりと唾を飲み込み、見えもしないシシィの顔をわずかに見上げた。
「わかった、それでシシィがわしを許してくれるのならその行為を受け入れよう」
「……舐めて」
シシィは手の平を上にして自分の眼前に指を差し出した。アデルは左手でシシィの細い手首を柔らかく握る。骨の硬さが指先に感じられた。
少女の小さな手の平を見ながら、アデルが舌を伸ばす。シシィが小さく身じろぎをしたがアデルは無視してその指先に舌先を触れさせた。舌の先にシシィの指についていた液体がじわりと広がる。
甘い。
やはり蜂蜜だった。自分を苦しめたいのであれば、何か苦いものを用意するのではないかと思えたが、シシィはそれをしなかったらしい。アデルは掴んだシシィの手首をわずかに引き寄せて、舌の腹でシシィの指を根元から舐め上げた。
その瞬間にシシィが声を押し殺したような呻きを漏らした。
「っ……」
気になってしまい、アデルはシシィの指先を舐めながら視線だけでちらりとシシィの顔を見上げた。シシィは左手で帽子を掴み、それで自分の顔を隠していた。帽子のつばで隠すどころか、完全に見られないようにしている。この娘が一体どのような表情をしているのか気になって仕方ない。
シシィは帽子をぎゅっと自分の顔に押し付けて声を漏らした。
「見ないで……」
そう言われてアデルは視線を落とした。見ないでと言われたところで、シシィの顔は帽子のせいでまったく見えない。しかし、シシィはこちらが見ていることにすぐ気づいた。おそらく、あの帽子の繊維の網目越しであればこちらが見えるのだろう。
一方的に見られているというのは気分が悪いが、わずかな間だけだとアデルは無視することにした。
シシィの指先を舐めるたびに蜂蜜の甘い香りが鼻腔に広がった。わずかな酸味と、それをかき消すような強烈な甘みが舌を満たす。粘り気のある液体を舐め取るために、酸味のおかげで口内に多く湧いてきた唾液を自分の舌の上に乗せた。その唾液と指に絡まる蜂蜜を混ぜ合わせて、粘り気のある液体を舐め取っていく。
この調子ならばすぐに終わるだろうと思えた。
シシィの指は細く、表面積は男の手の平にも及ばない。蜂蜜の甘さが脳を軋ませる。甘いものが嫌いなわけではないが、甘いものだけを口にするとさすがに気分が悪くなってしまう。
アデルはシシィの手首を掴んだまま少し角度を変え、シシィの指の根元に舌の先を這わせた。
その途端にシシィが妙な吐息を漏らす。
「あっ……」
後わずかでこの行為も終わるだろう。そう思った時だった、シシィがその指先を自分の口の中へとずっぽりと突っ込んでくる。突然のことにアデルは驚いて少し仰け反ってしまった。
なんのつもりなのかと思わずにはいられなかった。こんなことをしなくても蜂蜜を舐め取ることは可能だっただろう。おそらく、自分に対して屈辱を与えたいという意図に沿ったものだと思うが、これもまた的外れな気がして仕方が無い。
それがシシィの望みならばと、アデルは口の中にシシィの指を含んだまま舌を這わせた。唾液をまぶすように舌を動かして、シシィの指先に付着した蜂蜜を落としてゆく。
付着していた蜂蜜はもう残り少なかったし、口内にその指先を含んだことで今では蜂蜜の味を殆ど感じなくなっていた。もういいのではないかと思った瞬間に、アデルは硬口蓋を指先でなぞられて体を跳ねさせた。
「んん?!」
シシィの指先が自分の口の上の硬い場所を無遠慮になぞってくる。上の前歯の裏側あたりをシシィの指先に刺激され、アデルは喉から呻き声を漏らした。
耐え難いほどにくすぐったくて、アデルは両手でシシィの手首を掴んで指を一気に引き抜いた。
一度息を吐いてから、自分の舌先でさきほどなぞられた場所をなぞる。そうしないと奇妙な違和感が残りそうだった。
アデルは唇の端からこぼれた唾液を手首で拭ってから言った。
「シシィ、これでよかろう。言われた通り、すべて舐め取ったぞ」
「……わかった」
「これでわしのことを許してくれるか?」
「許す」
「そうか、それはよかった」
アデルは安心して顔を綻ばせた。
「ではシシィ、手を洗って夕食にしよう」
「いらない」
「な、何故じゃ?」
「今は空腹ではないから」
「なんぞ食べたのか? それともやはりまだ何かわしに思うところがあるのか?」
「違う」
シシィは帽子で顔を隠したまま小さな声だけを返してくる。まだ怒っているのだろうか。
アデルは膝立ちから立ち上がって、膝を軽く叩いて土を落とした。
「シシィ、やはり夕食は食べたほうがよい。わしと食べるのが嫌ならば、ここに運ぶ。置いておくから好きな時に食べてくれんか」
「……わかった」
「そうか、ではとにかく手を洗って」
「後で洗う。今は一人にして」
「う、うむ……」
まだ怒りは収まっていないのだろうか。シシィは顔を見せてくれないし、一緒に夕食を食べるという提案も拒否してきた。こうやって嫌われたままでいるのは辛い。
「シシィ、まだ怒っておるのか?」
「怒ってないから」
「本当か?」
シシィがこくりと頷く。せめてその顔を見せてくれればと思ったが、今それを言うことは出来なかった。言ったとしてもシシィは拒否するだろう。
アデルは目頭を軽く揉んでから言った。
「シシィを傷つけてしまったことをわしは深く悔いておる。どうかそれだけは知っていてほしい。そして、こうやって怒りをぶつけてくれたことを嬉しく思う」
そう言ってみたものの、シシィは棒立ちのまま何も言わなかった。
アデルは小さく息を吐き、それから蔵を出た。
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