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第二部 第三章
落着
しおりを挟むソフィの細い指先はまっすぐアデルの顔を指していた。アデルが突然言葉にうろたえ、がたっと椅子を鳴らす。それを見て、ソフィは自分が放った言葉がこの男に対してどれほど効果があったのかを思い知った。
アデルはシシィとリディアに向かって、この村から出てゆくように告げた。この二人はアデルのことを好いているが、アデルはその気持ちに応えるつもりが無いのだという。
この男にとって、この二人の気持ちよりも自分のような女の子のほうが大事なのだという。それはそれで嬉しいことだが、それを理由にしてこの二人を追い出そうというのは見過ごせなかった。
アデルは狼狽を隠すように大きな喉仏を一度持ち上げて唾を飲み込み、落ち着いた声で諭してくる。
「ソフィ、落ち着け。何を言っておるんじゃ」
「妾は落ち着いておる。その上で考えれば自ずと答えが出るであろう。妾にも優れた力があるのじゃ。世の為人の為に使うべきではないのか」
「それは違う、ソフィはまだ子どもで」
「ならばこの二人に教わって成長すればよいだけの話じゃ」
「そんな危ない真似を、させるわけにはいかん」
「この二人の側ほど安全な場所などあるわけなかろう。例え熊が何頭も出たところで問題になどならんわ、妾も、この二人も、アデルよりも強いのじゃ」
「それは、そうかもしれんがそういうことではない」
アデルが渋い顔で首を振る。自分がいなくなることを受け入れがたいと思っているのだろう。
この寂しがり屋は、自分が去っていくことに耐えられないのだ。ソフィは立ったままさらに言葉を続けた。
「優れた力は世の為に使うべきなのであろう? おぬしは女にそんな危険なことを押し付ける男なのであろう、ならば妾もそうする」
「違う、それは間違っておる」
「間違ったことを言ったのはおぬしじゃ。この二人には優れた力がある、しかしそれを世の為に使う義理など無い。自分にも出来ないことを人に、女に押し付けるでない!」
「ぬ……」
アデルは言葉に詰まったのか視線を落とし、目頭のあたりを皺で一杯にした。ソフィはそんなアデルに追い討ちをかけるように言う。
「大体じゃな、もはや魔物も魔王もおらん。そうなればこの二人が相手にせねばならんのは悪しき人間ということになる。そんなものの相手はそこらの君主に任せておけばよい。この二人の仕事はもう終わった。後は妾の教師としてしばらく頑張ればよい」
「……しかし」
「しかしもお菓子もないのじゃ。アデルよ、おぬしの言い分は間違っておる。この二人は出てゆく必要などない」
高らかにそう言って、ソフィは小さな胸を張った。
アデルが渋面のまま首を振る。こちらの言い分に対してまだ反論があるのだろうか。
やがてアデルは喉の奥から長く太く息を吐き出した。それから顔をこちらに向けると、疲れた声で言う。
「わかった、ソフィの言い分はよくわかった……」
「うむ」
アデルは二人に視線を向けて尋ねた。
「二人はどうなんじゃ。まだこんな田舎にいるつもりでおるのか? こんな場所にいても、何にもならんかもしれんぞ」
尋ねられた二人は、その言葉の意味を飲み込むのに少々時間がかかったらしい。リディアはぼんやりとしているように見えたが、はっと目を見開いた。
「あたしは、ここに残るわよ」
その声に続いてシシィも同じことを言う。
「わたしも、ここに残る」
二人の言葉を聞いてソフィは縦に大きく頷いた。
「うむ、これにて一件落着なのじゃ。二人には今後とも妾の師として存分に頑張ってもらうのじゃ」
教わる側でありながら偉そうな態度ではあったが、ソフィは目の前の男を説き伏せたことで気が大きくなっていたため気づかなかった。この男が自分に対して抱いてる感情を利用し、目の前から去ると脅したことで得た勝利ではあったが、ソフィは確かな手応えを感じた。
主張に誤りが無ければ、自分より遥かに勝ると思っていた男を相手であっても説き伏せることが出来る。
もちろん、相手がアデルだったというのも大きいだろう。自分が出て行くと言っても、この男は今まで世話してやった恩がどうだとか小さなことは言わなかった。自分と生活するに当たって少なくない出費があっただろうに、それを言うこともなかった。
自分のような小さな子どもに偉そうなことを言われて腹を立てることもなかった。アデルが相手だから今の説得は上手くいったのだろう。
一人で満足していると、ソフィは背中にふわりとした暖かい感触が伝わってくるのを感じた。
「のわっ?」
ソフィの首筋に柔らかく大きな何かが押し付けられている。何かと思えば、シシィの体だった。シシィはいつの間にかソフィの後ろに周りこんでいて、ソフィの体をぎゅっと抱きしめていた。女の体の柔らかさが伝わってきて、同じ女でありながら少しうろたえてしまう。
シシィはソフィの耳元で呟いた。
「ありがとうソフィ、あなたのおかげ」
「いや、別に妾は」
照れくさくてなんとなく言葉が濁ってしまう。どぎまぎしていると、今度はリディアが正面からがばっと抱きついてきた。
「ソフィ! あんたって子はもう本当に、なんていい子なのかしら。あたしたちのために、あんなに頑張ってくれるなんて」
「もがっ、く、苦しいのじゃ、これ、リディア」
正面から抱きつかれたものだから、リディアの豊かな胸の間に自分の顔が埋まってしまう。後ろからはシシィの柔らかな胸が押し付けられ、顔面にはリディアの乳房が当たっている。さらにリディアはソフィの側頭部に頬ずりまでするものだから、熱くて仕方ない。
「こりゃ! 熱いのじゃ、ええい、やめんか」
「もー、照れなくてもいいのよソフィ。ほんと、可愛いったらありゃしないわ」
後ろから抱き着いているシシィも、ソフィの耳元で可憐な囁き声を漏らす。
「ソフィ、あなたがわたしのために頑張ってくれたから、わたしはあなたに沢山のものを与えてあげる」
鼓膜を打つ声は名状しがたいほどに甘く、神経を溶かすかのようだった。こんな声を耳元で聞いたものだから、ソフィは耳がくすぐったくて仕方が無い。こんな声で囁かれたら、理性の壁はあっさり崩れて思わず言いなりになってしまいそうになる。
正面のリディアがさらにぎゅっとソフィを抱き寄せる。
「何言ってるのよ、ソフィはあたしのために頑張ったのよ」
「違う、わたしのため」
自分を挟んで喧嘩しないで欲しい。しかも、シシィのほうもぎゅっと強く抱きしめてきたものだから暑苦しくて仕方が無い。
ソフィはリディアの胸元からなんとか顔を上げ、大きな声で言った。
「これ! 二人とも離さんか! 喧嘩するでない! 熱いのじゃ! 離すのじゃ!」
「いいじゃないの、もうちょっと抱かせなさいよ。んもー、可愛いんだからー」
そう言ってリディアはさらに頬をすりすりとソフィの頭に擦り付ける。背中にはシシィの大きな胸が押し付けられているし、これはきっと男にとっては天国のような状況なのかもしれない。
シシィの甘い囁きが再び耳をくすぐる。
「もう少し、こうさせて。それから、わたしのことはもう姉も同然だと思ってくれていいから」
「ちょっとシシィ! ずるいわよ! ソフィはあたしの妹分なんだからね!」
「独り占めしないで」
この二人に挟まれながら、ソフィは今更ながらアデルに対して敬意を抱いてしまう。
二人から想いを告げられて、よくそれを断ることができたものだと心の底から感嘆した。もし自分が男だったら、これはもう無理だと思えた。理性はあっさりと崩壊し、この二人に対して溺れてしまうだろう。
目の前に甘い果実を置かれるようなものだ。
柔らかな感触に包まれながら、ソフィは溜息を吐いた。
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