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第二部 第三章
町の外で
しおりを挟む夏の日差しが緑色を鮮やかに色づかせている。町の外側には往来もなく、静かで穏やかな環境が広がっていた。シシィは近くの垣根のあたりまで二頭の馬を連れて歩き、馬から馬装を外した。
杖を握りながら馬の正面に立った。軽く杖を振ってから、魔法で空中に水を浮かべる。子どもの頭ほどの大きさの水の球が二つ、空中でふよふよと浮かんでいた。
二頭の馬がそれに口をつけて水を飲む。
シシィは唇の間から息を吐き出した。
「ふぅ……」
この頃は色々とあって馬の相手をしていなかった。どうやら少し寂しがっていたらしい。寂しくさせてしまったことにわずかな罪悪感が芽生えた。それを拭うかのように、シシィは馬の体を順番にブラシで擦った。
ロルフとかいう男がしっかり手入れをしてくれているからか、毛並みは艶やかなままだ。念のため、尻尾やたてがみも調べてみたが汚れは見当たらない。
「もう少し首を下げて」
背が低いから高いところまで届かなかった。浮かべた水を少し地面に近づけて馬に頭を下げてもらい、耳の周りを優しく擦った。馬の瞼がとろんと下がり、鼻息がふすーっと抜けてゆく。シシィは馬が気持ち良さそうな表情を浮かべているのを眺めて微笑んだ。
「次は蹄、少し足を上げて」
馬の横に周り、馬の前肢を取る。鉄爪で蹄の間に溜まった土を掻き出した。特に異物のようなものは見当たらない。すべての肢を確認しおえてから、シシィは満足そうに息を吐き出す。
今日は二頭の馬に付き合って結構な距離を走った。馬は走ったことで満足したようだったが、付き合ったこっちは疲れてしまった。
「はい、じゃあ水で洗ってあげるから」
魔法で水を勢いよく蹄にぶつけて汚れを洗い落とす。冷たい水が心地よいのか、馬はヒヒーンと声をあげた。そうやって蹄をさっと洗った後、布で拭きとってやる。夏だからか毛並みは短いし、ロルフが丁寧に手入れをしてくれているからか布にあまり毛が付着しなかった。
水で布を洗い、それから馬の顔も拭いた。
馬は嬉しそうに嬉しそうに口を開けてもごもごと動かしている。
「ひひーん」
鳴き真似をしてみると、馬もそれに応えるようにいなないた。
「ひひーん、ぶるる。今のは我ながらそっくりだった。エクゥもそう思う?」
そう尋ねると、同意するかのように馬が大きく首を振った。一人で満足していると、突然声をかけられた。
「あんた何やってんのよ、全然似てないし」
どきっとしたが、シシィは声にその感情が表れないように冷静さを保った。
「リディア、こっそり近づくのはやめて」
「いや普通に歩いてきたわよ」
リディアは左手に何かの紙袋を抱えていた。その中に右手を突っ込んで、袋の中からリンゴをひとつ取り出す。どうやら町でリンゴを買って来たらしい。
その紙袋の中身がすべてリンゴだとすれば、結構な量になる。
リディアは手の平の上にリンゴを乗せて馬の頭の前に差し出した。二頭の馬は喜び勇んでリディアの手に顔を近づける。
「ほらほら慌てないの。まだ沢山あるんだから。食べきれないでしょ」
リディアは一度袋を地面に置いて、両手でリンゴを持った。エクゥとアトがリンゴにかじりついてむしゃむしゃと食べていく。
馬もリンゴを沢山食べて満足したのか、今はのんびりとした様子で歩いている。リディアは近くに立っていた木の下まで移動して、その木の幹に背中を預けた。
シシィも木陰に入り、リディアの反対側で木にもたれて視線を上に向けた。日差しが遮られたことでわずかな涼しさを感じる。空は青く、緑はよく萌えている。時間の流れが遅くなってしまったかのように感じられた。
田舎の夏というのは、人間の世界から切り離されているかのようだった。
リディアが前置きもなく話しかけてくる。
「ねぇシシィ、なんかあれよね、なんて言ったらいいのかわかんないけど……。まだ、あの家にいられるわけでしょ」
何を話すべきかリディアはまだはっきりと決めていないのだろう。たどたどしい言葉が耳に届く。それでも、リディアは何か言いたいことがあるのだろう。
その内容は自分にとっても重要なことになるかもしれない。シシィはリディアの言葉の続きを待った。
「あれよね、あたしもあんたもアデルにあっさり振られたわけだけど」
「……否定は出来ない」
「いやいや、現実を認めなさいよ。二人揃って思いっきり振られたじゃないの。出て行けって言われたのよ」
「それは……」
確かに、出て行くように言われた。あまりにも辛辣な提案で、思い出すだけで気持ちが沈んでしまう。あの人にとって自分はそれほど大事な存在ではないということだろう。
自分の想いに対しても、アデルは応えるがつもりがないと明言した。自分の気持ちは熱く燃え盛っていても、あの人の心は冷たいままなのだ。
リディアが長く溜息を吐いた。
「はーぁ……、ソフィがあそこで頑張ってくれなかったら、どうなってたのかしら」
「あの人は、自分の言動を曲げなかったと思う。そうなっていたら、わたしたちはあの家を去らなければいけなかったかもしれない。それを覆そうと思って、あの人が喜ぶような提案をしたとしても、受け取らなかったかもしれない」
「でしょうね。あっさりと受け入れてくれるんだったら、今頃あたしはあれよ、あの男の女になってたわけで」
「それは違う。わたしがそうなっていた」
「もしもの話で張り合ってどうすんのよ。そうやって争ってるから呆れられるんでしょ」
「それはそうかもしれないけれど、リディアにそれを言われたくはない」
「はいはい、お互い様ってことでしょ。まったく、しょうがない子ね」
リディアは特に悪びれる様子もなくそう言った。
もしソフィが自分たちのために立ち上がってくれなかったらと思うと、シシィは針で刺されたかのような痛みが胸に走った。あの人は自分の想いを受け入れてはくれない。それだけでなく、側にいることさえ許そうとはしなかった。
そうなっていたら、自分は涙の流しすぎで塵よりも乾いてしまっただろう。それを覆したのが、あの小さな女の子だった。恋敵の自分のために立ち上がり、アデルを説き伏せてくれた。正直なところを言うと、ソフィがそこまで自分のことを思ってくれていたとは気づかなかった。
そして、そこまで頑張ってくれたことを嬉しく思った。ソフィはアデルを説得するために、自分が出て行くとさえ言ったのだ。ソフィもアデルのことを好いているのだから、そんなことを言い出すのは辛かったに違いない。
こつん、と木の幹が鳴った。どうやらリディアが後頭を当てたらしい。
普段とは違ってしおらしい声でリディアが話す。
「とにかく、今はさ、ソフィが傷つかないようにしなきゃ、って考えてるんだけど」
シシィはこくりと頷いた。面と向かって話しているわけではないから、頷いたところで伝わるはずがない。シシィは唇を動かして言葉にした。
「わたしもそうするべきだと思う」
「でもそうなると、あいつとイチャイチャできないわけでね」
「リディアがする必要はない」
「あんたがそうやって独り占めしようとしたりするからややこしくなるんでしょうが」
「……でも」
「とにかく、アデルはあの家の家長で、あたしたちは居候なの。ちゃんと言うこと聞かなきゃだめでしょ」
言ってることは大きく間違ってるとは思わないが、リディアにそれを言われるのは納得がいかない。
リディアがさらに言う。
「もしあたしがアデルを独り占めしたら、ソフィもあんたも悲しいでしょ。そういうのは嫌よ」
「……わかった」
「まぁ、アデルはあんな調子で真面目な態度を取ってるわけだけど、別にあたしたちを嫌ってるわけじゃないし、わざわざ傷つけようと思ってるわけじゃないと思うの。その感情から出たものが本当にあたしたちにとって嬉しいものかどうかは別としてね」
「あの人はわたしたちのことを思って、わたしたちにあの家を出るように告げた。でも、それは受け入れがたく、悲しいことだった」
「そうね。多分、あいつの中ではあたしたちは立派な勇者さまと魔法使いなのよ。あたしたちがただの田舎の小娘だったら、ああいう言い方はしなかったと思うわ」
「かもしれない」
「そういうわけだからシシィ、もう紅の勇者も翡翠の魔法使いも廃業よ」
「わかった」
「随分あっさり承諾するのね」
「そんなものに価値を感じたことはないから」
「その言葉、騎士団の団員が聞いたら激怒しそうね」
「知ったことではない。わたしがあの騎士団に入ったのは、魔王を討伐するのに最も適していると思ったから、ただそれだけ」
「そうだったの?」
シシィが頷いて続ける。
「さすがに一人で魔王やその配下と戦うのは無理だと思っていたから」
「まぁそりゃそうでしょうけど……。あんたもあれね、仲間に内緒にしてること多すぎない?」
「それはお互い様だと思う。リディアはそういうことを尋ねてこなかった。わたしも、リディアに尋ねないようにしていた」
リディアも人に触れられたくない過去があるのだろう。人に尋ねられた時は曖昧にはぐらかしていた。
仲の良かったルイゼならばリディアについて何か知っているかもしれないが、おそらく他の人はリディアについて殆ど何も知らないだろう。
リディアはふっと短く息を吐いて苦笑した。
「あんたが尋ねなかったのは、あたしに興味が無かっただけでしょ」
「そうかもしれない」
「ま、別にいいけどね。そんなあんただから、最後の旅のお供にあんたを選んだわけだし……」
「どういうこと?」
しばらくの沈黙をおいて、リディアが小声で言った。
「あたしさ、魔王と戦って死のうと思ってたのよ」
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