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19.伝説の歌巫女
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セラフィナに呼び出され、建国記念日の式典で着るドレスの打ち合わせを済ませたアイリスは、自室の扉の前でしばらく立ち尽くしていた。
だが、意を決したようにそっと扉を開け、すでに室内にアレクシスがいない事に安堵する。
幼少期にエリアテールがアレクシスの最有力婚約者候補だったという話を聞いてしまってから、アイリスは正直これから先アレクシスに対して、どう接していいか分からなくなっていたのだ。
一応リデルシアからあった助言を参考に直接アレクシスにその真相を軽く確認もしてみたのだが……。案の定、アレクシスには、返答を上手くはぐらかされてしまった。もちろん、半分は自分に対しての嫌味も入った言葉だったので、冗談で返して来た返答である事は理解している。
だが、何分アレクシスは嘘を付くのが天才的に上手い……。
ましてや自分の本音を知られたくない時や、都合の悪い事をはぐらかしたい時には、徹底して隠蔽する。
そんな性格のアレクシスなので、もし本当にエリアテールに想いを寄せていたとしても本人の口から、その事実を聞き出せる機会は、この先絶対にないだろう……。
だからこそ、アイリスは困ってしまっている。
もしそれが本当ならば、アイリスはアレクシスに罪悪感を抱かずにはいられない。ならばいっそ、自分の所為でエリアテールへの想いを諦めざるを得なかったと責められ、嫌味や悪態を付いて貰った方がまだマシだった。
そんな考えが止まらなくなってしまったアイリスは、なるべくその事を考えない様にアレクシスとの夜会参加に集中した。その方が、余計な事を考えないで済むからだ。
その間アレクシスは、周囲に見せびらかす為のアイリスに対する過剰な愛情表現を相変わらず続けていた。
そんなアレクシスの行動に以前は一挙一動で目くじらを立てていたアイリスだが、現在は文句も言わずアレクシスの好き勝手にさせている。
その間、アレクシスはアイリスに眩いばかりの優しい笑みを向け、一等大切な物でも扱う様に触れてくる。
徹底して自分の役割を演じ切っているアレクシスに対して、以前はその事にずっと文句ばかりを言っていた自分……。ある意味、今のアレクシスのその徹底ぶりには、アイリスは尊敬の念さえ抱きそうになっていた。
そんなアレクシスに対して、まるで不思議なモノでも見る様な目線を向けてしまうアイリス。
そのアイリスの視線に対して、アレクシスは余裕からなのか極上の甘い笑みを返してくる。
だからアイリスの方もその笑みに張り合うように極上の笑みを返した。
すると、急に協力的になったアイリスに対して調子に乗り出したアレクシスは、演技による過剰な愛情表現をどんどんエスカレートさせて行く。
そんな二人は、建国記念日前に参加予定の最後の夜会に参加していた。
そして今日もアレクシスの溺愛演技はいつも以上に冴えわたっており、アイリスの方もその溺愛行動に合わせる様に隣で幸せそうな笑みを張り付ける。しかし実際のアイリスの心境は、そんな状態での夜会参加が続き過ぎた為、流石に精神的に疲弊気味になっていた。
「アレク……。申し訳ないのだけれど、ここ最近夜会参加が続き過ぎていて少々疲れてしまったから、今から30分だけゲストルームの方で休ませて貰ってもいいかしら?」
「確かに今週は最後だからと言って、かなり無理をさせてしまっていたね……。それではしばらく裏に下がろうか」
そう言って一緒にゲストルームに向おうとするアレクシス。
「あなたは、まだ情報収集や人脈作りが残っているでしょう? 私は一人で平気だから、あなたはここに残って」
「でも……一人で裏に下がらせる訳には……」
「ならば裏までエスコートして貰えばいいわ。そこからは一人でゲストルームまで行けるから」
断固として一人になりたいというオーラを出してくるアイリスにアレクシスが、やっと折れる。
「分かった。でも裏までは、しっかりとエスコートをさせてね?」
「ええ」
そう言ってアイリスを伴い、ダンス会場を一時的に後にする二人。
「じゃあ、これが部屋の鍵だから。場所は分かるかい?」
「扉に番号が振ってあるのだから、分かるに決まっているでしょう?」
バカにしないでと言わんばかりのアイリスの反応にアレクシスが苦笑する。
「それじゃあ、30分後ぐらいに迎えに行くね」
「ええ。お願い」
そうしてアイリスは自分達に割り当てられたゲストルームに向かい、アレクシスはダンス会場へと戻って行く。
ゲストルームまでは豪華でフカフカな絨毯が敷いてある長い廊下をひたすら歩かなければならない為、アイリスはやや早足で部屋へと向かった。ここ最近、常に一緒にいるアレクシスが隣にいない時間を少しでも多く得る為に……。
しかし、そんな早歩きで部屋に向っていると、いきなり後方でドサリという音がする。
驚きから振り返ると、なんとそこには20代半ばくらいの男性貴族が真っ青な顔で座り込んでいた。
「どうか……されましたか?」
アイリスがそっと近づき声を掛けると、その男性は血の気が引いた今にも倒れそうな顔色でうずくまったまま、情けなさそうな表情を浮かべてアイリスに目線を合わせて来た。
「申し訳ございません……。どうやら人混みに酔ってしまった様で……」
「まぁ……。では今すぐ人を……」
「いえ、それには及びません。私のゲストルームはすぐそこなので……。そちらにまで行けさえすれば、横になれるので大丈夫なのですが……」
そう言って男性の示した部屋は、アイリス達がいる場所から5つ程先のすぐ目の前だった。
「それではわたくしが、肩をお貸します。歩く事は出来ますか?」
「ええ……。本当に申し訳ござません……」
そう言ってアイリスは男性の腕を自分の肩にかけ、軽く腰を支える様に部屋の前まで誘導する。
そしてグッタリしているその男性から鍵を受け取り、扉を開けてやった。
「さぁ。どうぞ中へ」
「申し訳ございません……。もう少し部屋の中までご案内頂けますか……?」
冷や汗をかいて青白い顔をしたその男性の状態を見て、ソファーくらいまでは誘導した方がいいと判断したアイリスは、そのまま男性と一緒に部屋に入る。
すると薄暗い部屋の中に一歩踏み入れた途端、扉がバタンと閉まった。
その扉の閉まる音で何故かアイリスの中に不安な気持ちが膨らみ始める。
「あの、とりあえずソファーに……」
「ありがとうございます……。雨巫女アイリス様」
その瞬間、アイリスの顔から血の気がサァーっと引いた。
初対面のこの男は、何故かアイリスが誰なのかを知っていたのだ。
それを理解した瞬間、アイリスは反射的にその男を慌てて振り払おうとする。
しかし男は、そのままアイリスを後ろから羽交い絞めにし始める。
「ああ! 光栄です……。伝説の歌巫女であるアイリス様をこんな間近で堪能出来るなんて……」
まるで熱にでも浮かされる様にアイリスの首筋を髪ごと堪能しながら、鼻を這わせるその男の行動にアイリスが感じた事のない嫌悪感を抱き、鳥肌を立たせる。そのあまりにも不快で気持ち悪い感触を振り払おうと、アイリスは以前アレクシスの足を踏んだ時の何倍もの勢いで、その男の足をヒールの先端で踏みつけた。
「…………っ!!」
男がその痛みに怯んだ隙にサッとその羽交い絞めから逃れ、部屋の奥に逃げる。
すると、男がガッチャリと自分の後ろの扉に鍵を掛けた。
その行動にアイリスが更に恐怖を覚え、ゾッとする。
「あなた……一体、何者なのっ!? 私、あなたの事なんて全く知らないわっ!!」
「あなた様はご存知なくとも私は、ずっとお慕いしておりました……」
「だから! いつ、あなたと接点があったと言うのよっ!」
「10年前……まだ幼かったあなた様が、雨乞いの儀を野外劇場で披露して下さった頃からです……。あの時のあなた様は幼いながらもとても神々しく、まるで女神の様でございました……」
その男の言葉にアイリスは、顔面蒼白になる。
10年前と言ったら、自分はまだ6歳の幼女だ……。
それを当時10代半ばくらいだったこの男は、ずっとアイリスにこの様な感情を抱き続けていたというのか?
だがそれは、この男の表情を見れば普通ではないという事は容易に想像出来た。
どうやらこの男、元からあの血色の悪い顔色が通常状態の様だ。
そしてその表情は、もう誰が見ても完全に心を病んでいる人間の顔にしか見えない……。
その状態で、病的なまでに自分を求めてくる男に恐怖したアイリスの首筋にヒヤリとした汗が伝う。
そんなアイリスは男との一定の距離を保ちながら、何とかして扉の方まで逃げられないかと必死に考えた。
しかしその男は、何かに憑りつかれた様な恍惚とした表情を浮かべ、ジリジリとアイリスの方へと歩み寄ってくる。その恐怖にアイリスは、近くにあった花瓶を男に投げつける。
しかし男はそれを避け、花瓶は盛大な音を立てて床を水浸しにした。
「ああ! 怖がらないで! 私だけの女神!」
そう叫びながら狂った様に距離を詰め、自分の方に向かってくる男にアイリスは悲鳴を上げて必死で逃げ惑おうとした。
しかし――――。
次の瞬間、物凄い爆発音が部屋中に響き渡り、何かが勢いよく部屋の中に吹っ飛んできた。
同時にアイリスの行く手を阻むように迫っていた男が、驚きながらそちらに振り返る。
アイリスも男を警戒しながら、何かが飛んできた方向に目を向けた。
すると、何故か部屋の入口の扉が吹っ飛んでおり、そこには護衛のエレンが険しい表情を浮かべて両手をこちらにかざしている。アイリスがその姿を確認すると同時にエレンは、更に両手を地面に振り下ろした。
すると、驚いた表情で固まっている男の頭上目掛けてガコンっという鈍い音と共に大きめな岩の塊が数個降り注ぐ。
「ガッ……ハッ……!!」
その一つが見事に男の意識を刈り取る箇所に命中したようで、男は呻く様な奇声と共にアイリスの方に向かって倒れ始める。それをアイリスは、慌てて躱した。
すると護衛のエレンが、息を切らしながらアイリスの無事を確認してきた。
「アイリス様っ!! ご無事ですかっ!?」
「エレン……。ありがとう……」
アイリスは安堵して一度瞳を閉じて一呼吸するが、一気に力が抜けてしまう。
そのまま床にへたりこもうとすると、温かい何かが優しくアイリスを掬い上げた。
「アイリスっ!! 大丈夫っ!?」
顔を上げるとエレンと同じように息を切らし、何故か悲痛な表情浮かべたアレクシスの顔があった。
「アレク……。来るのが遅いわよ……」
「ごめん……。でもエレンが間に合っただろう?」
何故か悲しそうな雰囲気をまといながら苦笑するアレクシスだが……エレンの地属性魔法で失神している男を見るなり、その男を忌々しげに睨みつけた。
「アレクシス殿下っ!! アイリス様はご無事でございますかっ!?」
するとエレンの後ろから、この屋敷の主と思われる中年の男性貴族と護衛の騎士達がバタバタと部屋の中に入って来る。
「ああ。無事だ。それよりもサーレント卿、この男は正式な招待客かい?」
「そ、それが……現ロレンツェ伯爵ご夫妻は、確かにご招待したのですが……。どうやらこの方は、次男であらせられるご子息様の方でして……。ご夫妻からは欠席のご連絡を受けていたのですが、受付の者が無効の招待状と気付かず受理してしまった様で……大変、申し訳ございませんでした!」
「あなたが謝罪する事ではないよ。非があるのは、どう見てもこのボンクラ令息だ。彼の事は何か知っているかな?」
「それが……以前ロレンツェ卿から伺った話では、10代の頃から精神的に病んでいらして、ずっと部屋に引きこもっていらした様なのですが……。10年前、アイリス様の雨乞いの儀を拝見してから、急に回復の兆しが見え始め、今では軽く外出も出来る様になったと聞き及んでおります」
すると、その話を聞いたアレクシスが、苦虫を噛み潰す様な表情をしながら盛大に息を吐く。
そしてその倒れている男に対して、アレクシスにしては珍しく舌打ちをした。
「10年も経ったというのに……。まだこういう輩が存在するのか……」
忌々し気に小さく呟いたアレクシスの言葉にアイリスが大きく目を見開く。
「アレク……? それ、どういう意味……?」
アイリスが声を掛ると、一瞬だけアレクシスの動きが止まった。
しかし、すぐにお馴染みのニッコリとした笑みを取り繕う様に浮かべる。
「アイリス、ごめんね。僕はこれからこのボンクラ令息が起こした騒動の処理で、ここでやる事があるからエレンと一緒に先に帰っててもらえるかな? なのでエレン、悪いのだけれど君は自分の馬をここに置いて、アイリスと一緒に馬車に乗り込んでくれ。僕は君の馬に乗ってその後、城に戻るから」
するとエレンが慌ててアレクシスに訴える。
「それでは馬車の外の護衛が疎かになってしまわれます!」
「ヒースがいるのだから大丈夫だろう?」
「ヒースが我々と一緒に戻れば、アレクシス様が戻られる際の護衛がっ!」
「エレン、僕は自分の身ぐらい自分で守れる程度には鍛錬はしているよ?」
「ですが――――っ!」
「これは命令だ。エレン、今すぐにアイリスを連れて城に戻って」
最後の方はアレクシスらしくもない、やや冷ややで命令的な口調の言い方だ。
そんな珍しくピリピリしているアレクシスの様子にエレンは盛大にため息をつく。
「かしこまりました……」
そう返事をしたエレンは、早々にアイリスを促して部屋から出ようとした。
「待って! アレク! さっき言ってた意味って……」
「本当にごめんね? 帰ったらちゃんとアイリスにも説明するから」
そう言ってアレクシスはm全く目が笑っていない笑顔をアイリスに向けてくる。
そのアレクシスの態度にアイリスは、今回のこの騒動の真相は絶対に説明はして貰えないと本能的に確信した。
「分かったわ……。絶対よ?」
「うん。約束するよ」
しかし、アレクシスがまた平然とした顔で嘘を付いている事に気付いたアイリスは、その事に対しての怒りが顔に出ない様に必死に抑え込みながら、エレンに付き添われるように部屋を後にした。
だが、意を決したようにそっと扉を開け、すでに室内にアレクシスがいない事に安堵する。
幼少期にエリアテールがアレクシスの最有力婚約者候補だったという話を聞いてしまってから、アイリスは正直これから先アレクシスに対して、どう接していいか分からなくなっていたのだ。
一応リデルシアからあった助言を参考に直接アレクシスにその真相を軽く確認もしてみたのだが……。案の定、アレクシスには、返答を上手くはぐらかされてしまった。もちろん、半分は自分に対しての嫌味も入った言葉だったので、冗談で返して来た返答である事は理解している。
だが、何分アレクシスは嘘を付くのが天才的に上手い……。
ましてや自分の本音を知られたくない時や、都合の悪い事をはぐらかしたい時には、徹底して隠蔽する。
そんな性格のアレクシスなので、もし本当にエリアテールに想いを寄せていたとしても本人の口から、その事実を聞き出せる機会は、この先絶対にないだろう……。
だからこそ、アイリスは困ってしまっている。
もしそれが本当ならば、アイリスはアレクシスに罪悪感を抱かずにはいられない。ならばいっそ、自分の所為でエリアテールへの想いを諦めざるを得なかったと責められ、嫌味や悪態を付いて貰った方がまだマシだった。
そんな考えが止まらなくなってしまったアイリスは、なるべくその事を考えない様にアレクシスとの夜会参加に集中した。その方が、余計な事を考えないで済むからだ。
その間アレクシスは、周囲に見せびらかす為のアイリスに対する過剰な愛情表現を相変わらず続けていた。
そんなアレクシスの行動に以前は一挙一動で目くじらを立てていたアイリスだが、現在は文句も言わずアレクシスの好き勝手にさせている。
その間、アレクシスはアイリスに眩いばかりの優しい笑みを向け、一等大切な物でも扱う様に触れてくる。
徹底して自分の役割を演じ切っているアレクシスに対して、以前はその事にずっと文句ばかりを言っていた自分……。ある意味、今のアレクシスのその徹底ぶりには、アイリスは尊敬の念さえ抱きそうになっていた。
そんなアレクシスに対して、まるで不思議なモノでも見る様な目線を向けてしまうアイリス。
そのアイリスの視線に対して、アレクシスは余裕からなのか極上の甘い笑みを返してくる。
だからアイリスの方もその笑みに張り合うように極上の笑みを返した。
すると、急に協力的になったアイリスに対して調子に乗り出したアレクシスは、演技による過剰な愛情表現をどんどんエスカレートさせて行く。
そんな二人は、建国記念日前に参加予定の最後の夜会に参加していた。
そして今日もアレクシスの溺愛演技はいつも以上に冴えわたっており、アイリスの方もその溺愛行動に合わせる様に隣で幸せそうな笑みを張り付ける。しかし実際のアイリスの心境は、そんな状態での夜会参加が続き過ぎた為、流石に精神的に疲弊気味になっていた。
「アレク……。申し訳ないのだけれど、ここ最近夜会参加が続き過ぎていて少々疲れてしまったから、今から30分だけゲストルームの方で休ませて貰ってもいいかしら?」
「確かに今週は最後だからと言って、かなり無理をさせてしまっていたね……。それではしばらく裏に下がろうか」
そう言って一緒にゲストルームに向おうとするアレクシス。
「あなたは、まだ情報収集や人脈作りが残っているでしょう? 私は一人で平気だから、あなたはここに残って」
「でも……一人で裏に下がらせる訳には……」
「ならば裏までエスコートして貰えばいいわ。そこからは一人でゲストルームまで行けるから」
断固として一人になりたいというオーラを出してくるアイリスにアレクシスが、やっと折れる。
「分かった。でも裏までは、しっかりとエスコートをさせてね?」
「ええ」
そう言ってアイリスを伴い、ダンス会場を一時的に後にする二人。
「じゃあ、これが部屋の鍵だから。場所は分かるかい?」
「扉に番号が振ってあるのだから、分かるに決まっているでしょう?」
バカにしないでと言わんばかりのアイリスの反応にアレクシスが苦笑する。
「それじゃあ、30分後ぐらいに迎えに行くね」
「ええ。お願い」
そうしてアイリスは自分達に割り当てられたゲストルームに向かい、アレクシスはダンス会場へと戻って行く。
ゲストルームまでは豪華でフカフカな絨毯が敷いてある長い廊下をひたすら歩かなければならない為、アイリスはやや早足で部屋へと向かった。ここ最近、常に一緒にいるアレクシスが隣にいない時間を少しでも多く得る為に……。
しかし、そんな早歩きで部屋に向っていると、いきなり後方でドサリという音がする。
驚きから振り返ると、なんとそこには20代半ばくらいの男性貴族が真っ青な顔で座り込んでいた。
「どうか……されましたか?」
アイリスがそっと近づき声を掛けると、その男性は血の気が引いた今にも倒れそうな顔色でうずくまったまま、情けなさそうな表情を浮かべてアイリスに目線を合わせて来た。
「申し訳ございません……。どうやら人混みに酔ってしまった様で……」
「まぁ……。では今すぐ人を……」
「いえ、それには及びません。私のゲストルームはすぐそこなので……。そちらにまで行けさえすれば、横になれるので大丈夫なのですが……」
そう言って男性の示した部屋は、アイリス達がいる場所から5つ程先のすぐ目の前だった。
「それではわたくしが、肩をお貸します。歩く事は出来ますか?」
「ええ……。本当に申し訳ござません……」
そう言ってアイリスは男性の腕を自分の肩にかけ、軽く腰を支える様に部屋の前まで誘導する。
そしてグッタリしているその男性から鍵を受け取り、扉を開けてやった。
「さぁ。どうぞ中へ」
「申し訳ございません……。もう少し部屋の中までご案内頂けますか……?」
冷や汗をかいて青白い顔をしたその男性の状態を見て、ソファーくらいまでは誘導した方がいいと判断したアイリスは、そのまま男性と一緒に部屋に入る。
すると薄暗い部屋の中に一歩踏み入れた途端、扉がバタンと閉まった。
その扉の閉まる音で何故かアイリスの中に不安な気持ちが膨らみ始める。
「あの、とりあえずソファーに……」
「ありがとうございます……。雨巫女アイリス様」
その瞬間、アイリスの顔から血の気がサァーっと引いた。
初対面のこの男は、何故かアイリスが誰なのかを知っていたのだ。
それを理解した瞬間、アイリスは反射的にその男を慌てて振り払おうとする。
しかし男は、そのままアイリスを後ろから羽交い絞めにし始める。
「ああ! 光栄です……。伝説の歌巫女であるアイリス様をこんな間近で堪能出来るなんて……」
まるで熱にでも浮かされる様にアイリスの首筋を髪ごと堪能しながら、鼻を這わせるその男の行動にアイリスが感じた事のない嫌悪感を抱き、鳥肌を立たせる。そのあまりにも不快で気持ち悪い感触を振り払おうと、アイリスは以前アレクシスの足を踏んだ時の何倍もの勢いで、その男の足をヒールの先端で踏みつけた。
「…………っ!!」
男がその痛みに怯んだ隙にサッとその羽交い絞めから逃れ、部屋の奥に逃げる。
すると、男がガッチャリと自分の後ろの扉に鍵を掛けた。
その行動にアイリスが更に恐怖を覚え、ゾッとする。
「あなた……一体、何者なのっ!? 私、あなたの事なんて全く知らないわっ!!」
「あなた様はご存知なくとも私は、ずっとお慕いしておりました……」
「だから! いつ、あなたと接点があったと言うのよっ!」
「10年前……まだ幼かったあなた様が、雨乞いの儀を野外劇場で披露して下さった頃からです……。あの時のあなた様は幼いながらもとても神々しく、まるで女神の様でございました……」
その男の言葉にアイリスは、顔面蒼白になる。
10年前と言ったら、自分はまだ6歳の幼女だ……。
それを当時10代半ばくらいだったこの男は、ずっとアイリスにこの様な感情を抱き続けていたというのか?
だがそれは、この男の表情を見れば普通ではないという事は容易に想像出来た。
どうやらこの男、元からあの血色の悪い顔色が通常状態の様だ。
そしてその表情は、もう誰が見ても完全に心を病んでいる人間の顔にしか見えない……。
その状態で、病的なまでに自分を求めてくる男に恐怖したアイリスの首筋にヒヤリとした汗が伝う。
そんなアイリスは男との一定の距離を保ちながら、何とかして扉の方まで逃げられないかと必死に考えた。
しかしその男は、何かに憑りつかれた様な恍惚とした表情を浮かべ、ジリジリとアイリスの方へと歩み寄ってくる。その恐怖にアイリスは、近くにあった花瓶を男に投げつける。
しかし男はそれを避け、花瓶は盛大な音を立てて床を水浸しにした。
「ああ! 怖がらないで! 私だけの女神!」
そう叫びながら狂った様に距離を詰め、自分の方に向かってくる男にアイリスは悲鳴を上げて必死で逃げ惑おうとした。
しかし――――。
次の瞬間、物凄い爆発音が部屋中に響き渡り、何かが勢いよく部屋の中に吹っ飛んできた。
同時にアイリスの行く手を阻むように迫っていた男が、驚きながらそちらに振り返る。
アイリスも男を警戒しながら、何かが飛んできた方向に目を向けた。
すると、何故か部屋の入口の扉が吹っ飛んでおり、そこには護衛のエレンが険しい表情を浮かべて両手をこちらにかざしている。アイリスがその姿を確認すると同時にエレンは、更に両手を地面に振り下ろした。
すると、驚いた表情で固まっている男の頭上目掛けてガコンっという鈍い音と共に大きめな岩の塊が数個降り注ぐ。
「ガッ……ハッ……!!」
その一つが見事に男の意識を刈り取る箇所に命中したようで、男は呻く様な奇声と共にアイリスの方に向かって倒れ始める。それをアイリスは、慌てて躱した。
すると護衛のエレンが、息を切らしながらアイリスの無事を確認してきた。
「アイリス様っ!! ご無事ですかっ!?」
「エレン……。ありがとう……」
アイリスは安堵して一度瞳を閉じて一呼吸するが、一気に力が抜けてしまう。
そのまま床にへたりこもうとすると、温かい何かが優しくアイリスを掬い上げた。
「アイリスっ!! 大丈夫っ!?」
顔を上げるとエレンと同じように息を切らし、何故か悲痛な表情浮かべたアレクシスの顔があった。
「アレク……。来るのが遅いわよ……」
「ごめん……。でもエレンが間に合っただろう?」
何故か悲しそうな雰囲気をまといながら苦笑するアレクシスだが……エレンの地属性魔法で失神している男を見るなり、その男を忌々しげに睨みつけた。
「アレクシス殿下っ!! アイリス様はご無事でございますかっ!?」
するとエレンの後ろから、この屋敷の主と思われる中年の男性貴族と護衛の騎士達がバタバタと部屋の中に入って来る。
「ああ。無事だ。それよりもサーレント卿、この男は正式な招待客かい?」
「そ、それが……現ロレンツェ伯爵ご夫妻は、確かにご招待したのですが……。どうやらこの方は、次男であらせられるご子息様の方でして……。ご夫妻からは欠席のご連絡を受けていたのですが、受付の者が無効の招待状と気付かず受理してしまった様で……大変、申し訳ございませんでした!」
「あなたが謝罪する事ではないよ。非があるのは、どう見てもこのボンクラ令息だ。彼の事は何か知っているかな?」
「それが……以前ロレンツェ卿から伺った話では、10代の頃から精神的に病んでいらして、ずっと部屋に引きこもっていらした様なのですが……。10年前、アイリス様の雨乞いの儀を拝見してから、急に回復の兆しが見え始め、今では軽く外出も出来る様になったと聞き及んでおります」
すると、その話を聞いたアレクシスが、苦虫を噛み潰す様な表情をしながら盛大に息を吐く。
そしてその倒れている男に対して、アレクシスにしては珍しく舌打ちをした。
「10年も経ったというのに……。まだこういう輩が存在するのか……」
忌々し気に小さく呟いたアレクシスの言葉にアイリスが大きく目を見開く。
「アレク……? それ、どういう意味……?」
アイリスが声を掛ると、一瞬だけアレクシスの動きが止まった。
しかし、すぐにお馴染みのニッコリとした笑みを取り繕う様に浮かべる。
「アイリス、ごめんね。僕はこれからこのボンクラ令息が起こした騒動の処理で、ここでやる事があるからエレンと一緒に先に帰っててもらえるかな? なのでエレン、悪いのだけれど君は自分の馬をここに置いて、アイリスと一緒に馬車に乗り込んでくれ。僕は君の馬に乗ってその後、城に戻るから」
するとエレンが慌ててアレクシスに訴える。
「それでは馬車の外の護衛が疎かになってしまわれます!」
「ヒースがいるのだから大丈夫だろう?」
「ヒースが我々と一緒に戻れば、アレクシス様が戻られる際の護衛がっ!」
「エレン、僕は自分の身ぐらい自分で守れる程度には鍛錬はしているよ?」
「ですが――――っ!」
「これは命令だ。エレン、今すぐにアイリスを連れて城に戻って」
最後の方はアレクシスらしくもない、やや冷ややで命令的な口調の言い方だ。
そんな珍しくピリピリしているアレクシスの様子にエレンは盛大にため息をつく。
「かしこまりました……」
そう返事をしたエレンは、早々にアイリスを促して部屋から出ようとした。
「待って! アレク! さっき言ってた意味って……」
「本当にごめんね? 帰ったらちゃんとアイリスにも説明するから」
そう言ってアレクシスはm全く目が笑っていない笑顔をアイリスに向けてくる。
そのアレクシスの態度にアイリスは、今回のこの騒動の真相は絶対に説明はして貰えないと本能的に確信した。
「分かったわ……。絶対よ?」
「うん。約束するよ」
しかし、アレクシスがまた平然とした顔で嘘を付いている事に気付いたアイリスは、その事に対しての怒りが顔に出ない様に必死に抑え込みながら、エレンに付き添われるように部屋を後にした。
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