日溜まりの手を握る

巳島柚希

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ブレザー・文化祭(前編)

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5.ブレザー

 自宅の前でそわそわするのは、何だか居心地が悪い。するとローファーの足音が聞こえてきて、気持ちは浮足立った。
「あ、もう待ってたのか」
 現れたのは、俺と同じ紺のブレザーを着た遠島だ。お揃い、と訳の分からないことを考えた。
 ぴったりとジャケットを着てネクタイをする姿は、まるで少女漫画に出てくるイケメン主人公。少女漫画は全く読まないが、こいつが現れたら恋に落ちるのも納得できる。
「……おはよう」
「うん。おはよう。行くか」
 なんでもない風に、俺の隣を歩く遠島。格好いいって、似合ってるって言ったら、なんと言うだろうか。どんな表情をするだろうか。
 そんなことを考えていたら、学校についてしまった。

「二人組になって下さい」
 体育の時間。皆、気まずそうに目を合わせ始める。俺は真っ先に遠島を見た。彼はジャージに着替えて、高い身長を持て余している。着替えを見たくて何度も振り返りそうになったが、結局俺は一度も振り向かずそれを終えた。
「な、哉兎」
 多田がやってくる。残念。
「組むか?」
「おう! 遠島見てたん?」
「別に。ボッチになるかなって、好奇心」
「自分で他のボッチに声掛けにいったべ」
 遠島は一人でおどおどしていた眼鏡の浜田とペアになっていた。優しい。聖人。
「お前さ、今日あいつと登校してたよな」
 動揺が顔に出ないように、目を逸らす。
「そうなんだよ。家の方向一緒で」
 号令がかかって、俺達はバスケのパス練習に入った。向かいでボールを投げた多田を観察する。悪い奴じゃないんだけど、人のテリトリーに土足で入り込むことに自覚がないのがな。
「ノーコン!」
「ごめんって」

 今日の授業が全て終了した、そんな時間。俺は昨日より馴染んだ遠島を無意識に見てしまう。彼の周りに人だかりができていた。同じ姿になって、やっと話しかけやすくなったのだろうか。一瞬、胸に焼けるような痛み。
(嫉妬深いところ治んねぇな)
 その時、他の生徒と話していた遠島と目があった。彼は断りを入れて立ち上がる。
「哉兎。そろそろ帰ろうぜ」
おっと。
「的場、遠島君と仲良かったのー?」
 女子が気安く話しかけてくる。表面上かは知らないが、今まで無関心を決め込んでいたのに。
「まあ……」
 遠島を見た。凛々しい彼は、黙って俺の答えを待っていた。
「ちょっとね」

「これでいいのか?」
 俺の膝に、遠島の頭が乗る。頷いた。
「膝枕、幼稚園以来かもしんねぇ」
「ふっ、色気な」
「だって。マジなんだもん」
 ふと、色気という言葉をナチュラルに使ってしまったと焦る。だが遠島は、別になんということなく目を瞑った。
 放課後は、俺の家でPlayに勤しむ。といっても人参を食べたり、こうやって全年齢な奉仕活動をするだけだが。
(これが本当の、健全なお付き合い、だもんな)
 プラトニックな頃なんて、幼すぎて朧げだ。こうやって離れてみて、俺達兄弟がすでに道を外れていることを、ひしひしと痛感している。
「んー……何か眠くなってきた」
「え?」
「お前の膝枕ちょうど良くて……ふぁ」
「寝てもいいぞ」
 ちらりと、薄茶の目がこちらを見る。そしてむくりと起き上がった。
「クッション貸して」
「お、おう」
「足。流石に痺れるだろ」 
 遠島の優しさに、焦れる自分がいる。もっと欲しい。
「だけど、メシ作って」
 夕寝をしながら、俺へのゆるいcommandも欠かさない。すっくり立って、台所に向かった。冷蔵庫を漁るのが、こんなにも楽しいのは初めてだった。
「マジで作ってくれたの? やった」
 遠島は、あのままぐっすり寝やがった。出来上がったチャーハンは、普段絶対入れない具や調味料が盛りだくさん。
「今日、哉兎と食べれると思わんかった。言ってみるもんだね」
「……良いように言いやがって」
「悪かった。マジで寝るつもりなかったんだよ」
「ふう……いいよ。転校疲れって怖いらしいし」
「うん。ありがと。……転校疲れ?」

 教室の端から窓の外を見る。校庭ではどこかのクラスが体育の授業をやっている。
 正直、今までの人生で一番充実している。これがこの先の未来、全ての幸福の引き換えだとしても、納得してしまう。
「じゃあ、遠島。この段落読んでくれ」
「はい」
 自然と、立ったその姿を見つめた。男子生徒の中でも目立つ、大きな背中。筋骨隆々ではないし、寧ろ細いのに、程よく形のよい手足、首筋。そこに少しかかる金色の髪。思わず見惚れる。

 九月も半ばに入って、風が少し冷たくなった。日が落ちるのが早くなるばかりだ。
「カラオケ行こうぜ」
「ん? ああ、いいよ」
 多田の提案に、何の気なしに返事をする。その誘い自体はまあまあ、あることで。
「じゃあ哉兎、遠島連れてこいよ」
 その後の言葉に、思わずスマホを弄る手が止まった。
「え……なんで?」
「え? 逆になんで?」
 胸の内に、真っ黒な液体がどぼりと溢れた。小さな危機感と、隠しきれないほど露骨な独占欲。それをなんとか飲み込んで笑顔を作る。
「いや、お前って転校生とか構うタイプじゃないと思ってたから。とりあえず誘ってみるわ」

「いやマジで行かなくいいからな」
 いつもよりさらに語気が強い俺の言葉を、遠島は小首を傾げるだけで受け流す。女子か。
「え、いや、行くよ。俺カラオケ好きだし」
「そういう問題じゃ……あいつら、絶対お前のことイジるし、あんま素行いい奴らじゃないから」
「俺の方が不良度は上だろ。金髪だし」
「……。お前って、なんで金髪なの?」
 大昔に聞きそびれたことを、最近ネットで新調したマグカップをいじりながら聞く。もう夜に近い時間帯の、白浮きした蛍光灯を浴びる遠島は違和感なく俺の部屋に居座っている。
「あー、えっと、母親が外国人で」
「ブロンドか」
「うーん。俺より濃いんだけどな。かくせ遺伝? じゃないかって言ってた。母さんの母さんがすごい金色だから」
 遠島が使うマグカップは、これの色違い。あたかもずっとあったのを引っ張りだしたかのようにさりげなく出した、俺の浮ついた心。
「はあ……雰囲気悪くなっても、俺はフォローできないからな」
「うん」

 ガヤつく放課後の駅前で、案の定多田と他二人は遠島と、自然となのか故意なのか、距離を置いた。とうの本人は珍しそうに路地裏を眺めていてどこ吹く風だが、俺の胃は油断すると穴が開きそうだ。
「秋嫌だー、喉痛くなんだよ。カラオケの予定決めた途端にさー?」
「んだよ。誘っといて」
 絡んでくる多田をあしらいつつ、隣を無言で歩く遠島の顔色を伺う。
  こんな時、肝の小さい自分が本当に嫌になる。苦しくなって、繕って、あしらって、悪循環。分かっているのにやめられない、自意識過剰な愚か者。
(何もしてないけど、もう疲れた……)
 カラオケのボックス席に座った時には、すでに疲労困憊であった。多田達は隠れ蓑にはちょうどいいが、こういう「付き合い」が、俺には荒すぎる。
(つーかなんで遠島呼んだんだよ。クソ。迷惑かけやがって)
「哉兎」
「え?」
 いつの間にか隣をしっかり陣取っていた遠島が、その綺麗な瞳で覗きこんでくる。
「やたら人相悪いぞ?……ふっ」
「わ、ら、う、な!」
 ははは、と遠島が笑うと、一瞬胸の痛みを忘れたことに気付く。つくづく、どうにもならない俺の身体である。
「ちっ、ソレとって。ラーメン食う」
「タブレットな」
 そんなあやすような声にも、拗ねた心臓がもぞりと顔を上げた。彼が長い腕で取った注文タブレットが、俺の手に握らされる。それを向かいの席から多田が見ていて、彼はようやく遠島に話しかけた。
「なあなあ、遠島くん」
「ん?」
「こっち来てどーよ。楽しんでる? いや、最初来たときはめっちゃびっくりしたけど。金髪学ランって、どこから来たの? みたいなさぁ。大分馴染んだよなー」
「そうだな。俺も引っ越し初めてで。まあ、逆に一年の始めで良かった。哉兎が話しかけてくれたし」
「ははっ、哉兎いいヤツでしょ? 俺のしんゆーと、これからも仲良くしてやってくれよ! なんてな! ぎゃはははっ!」
 俺達以外の二人も、寒いだのキモいだの叫んで笑い出す。俺もコミュニーケーションとして笑った。そんな俺を見て遠島が笑った。目的のない弁明をしたくなった。違う、違うんだよ。

「哉兎は歌わないのか?」
 ラーメンを食べ終わって、適当に話していた。そのクラスメイトが歌に入って、遠島が聞いてくる。それに声をひそめて。
「このカラオケは、歌うためのじゃねえの」
「一樹は今歌ってるけど」
 隣のクラスメイトは、気持ちよさそうに好きなバンドの歌を歌っている。他二人はスマホをいじって何か見せ合い、まるで聞いていない。
「……ちょっと、飲み物取りに行かない?」
「人が歌ってる時にそれは駄目だろ」
「ぅぅん、あー……」
「……なるほど。分かった」
「え、何が?」
 遠島はタブレットを手に取り。
「何の曲知ってる? 合唱しようぜ」
「合唱?」
「かえるの歌でいいか」
「ハ、ハァ!?」
 無慈悲にかえるの歌が次の曲に入った。そして悪乗りした事情を知らない者達が押し付けてくるマイク。
「ちょ、マジで勘弁してっ」
「歌ってくれよ」
「……そ、れは、駄目だ……ろ」
 彼は少し目を見開いた。
「これも駄目か。難しいな」
「っ……」
 お前にくれ、と言われたら、俺は与えるしかない。すでにかえるの歌のイントロが流れている。
「クソッ! 覚えてろよ!」
 俺と遠島はかえるの歌を歌い始めた。遠島は大真面目に、俺は震え声で。個室はしばし爆笑に包まれた。

「じゃ、俺らこっちだから」
 そんなさりげない一言で、俺は多田達と引き離される。繁華街を過ぎて、住宅街の路地に差し掛かっても空は真っ黒で、九月の空気はすでに冬の匂いと温度を纏う。
「つっ……かれた!! あれ何だったんだよ! かえるの、かえるの歌はない! 無いだろ!」
「だな。本当悪かった」
「くそお……」
「でも俺びっくりしたんだぜ。お前、歌上手いんだな」
「おちょくってんのか? あ?」
「違う。あー、ちょっと違うな。声、綺麗なんだよ。哉兎は」
 綺麗、という言葉に、思わずフリーズする。今、遠島は俺に対してその言葉を。しかも、声。生まれてはじめて言われた、褒められた、声。
「……そ、そんなん初めて言われたわ」
「人前で歌うって、それこそ歌が好きじゃないと
しないもんな。特に接待カラオケなんか経験したら、歌うと楽しい、なんて思う機会がない。そうだろ?」
  遠島は、本当に気付いていたらしい。俺が多田達と行くカラオケは、ただ友好関係を維持するための接待でしかない。
「はは。俺、クズなんだよ。……ごめ」
「哉兎」
 どきり、と彼から発せられた圧に、言葉が途切れる。一瞬だけとはいえ、Domの重いGlareだ。それが己の名ならば、それは強い拘束になる。俺はその場で、背筋を伸ばして立ち尽くした。遠島はそんな俺を道の端に移動させ、ブロック塀にしっかりと背中をつけさせる。
「哉兎。いくら、お前にとって「的場哉兎」が、自分自身であっても「俺のSub」を侮辱することを、俺は許さない。……少し難しいが、俺の言っていることが理解できるか?」
 肩に手を置かれ、視線が正面からぶつかっても、俺はそれを精一杯受け入れることしかできない。従順な下僕として、主人を怒らせてしまった悲しみと動揺が、小さな震えとして発露する。
「わ、かります」
「どんな風に分かった? Speak(話せ)」
「おっ、俺が、自分のこと……く、クズって言った、から……」
「そうだな。俺とお前は学生パートナーで、あり方はNormalの恋人と、たいして変わらないかもしれない。だが、確かに今、お前は俺のSubだ。お前の存在はお前のものじゃない。俺のものだ」
 叱られているのに、心は遠島への思慕で溢れかえっていく。こんなこと兄には言われたことがない。兄にとって俺は、血縁という上下関係において、最初からすでに所有物だったから。そんな言葉を貰ったことがなかった。
「ご、ごめんな、さい……」
「誰に対して謝ってる」
「えっ、と……貴方のSubの、俺自身に」
 すると、今まで真顔だった遠島が、吹き出すようにふわりと笑った。
「Good Boy……いや、Grate! なんだその回答、最高かよ」
 そのまま素早く抱きしめられ。後頭部をその大きくて温かい手で、わしわし撫でられる。俺の胸には花が咲いたように明るくなる。
「え、んや……」
「んお、おぉ、名前」
「あっ、ごめん! 感極まって……ちゃんと反省してるから……」
「うん。分かってるよ。嬉しかったの。これからは下の名前で呼んで欲しい。……俺の方こそ、急に叱って悪かった。怖かったろ」
「う、ううん。何が悪かったか、きちんと分かったし。もう、言わない」
「ああ。俺との約束だ。……というか、さ、寒いな。こんな長話、この時期の野外でやるなんて非常識すぎたな……お詫びにコンビニで、何かあったけえもの奢るよ」
「……じゃあ、あんまんで」
 その日。コンビニのイートインスペースで、炎弥と食べたあんまんは、今まで食べたどんなものより甘くて、美味しかった。


「……もしもし。朔馬だよ。ははあ。さては放課後遅くまで遊んでるな? Normalと違って、Subは男も危ない目に遭いやすいんだから、程々にしとけよ。この留守電を聞いたら、すぐ折り返すように。じゃないと心配しちゃうからな? じゃあ、また後で。
愛してるよ、哉兎」


6.文化祭 前編

 十月も中盤になり、ますます秋が深まっても、コンクリートの校舎は代わり映えしない。ただ窓の外だけが色づいていく。
 始業時刻が近い昇降口は、人が少ない。
「さっむ……上履き冷てぇ……」
「霜焼け再発しそうだ」
 炎弥の感想に、盛大に吹き出す。
「ぐっ……! しも、ふっっ……霜焼けっ、て、再発すんの!? ……ふははっ!」
「ふ……するぞ。夏の間も、霜焼けの種はずっと、小指のサイドで燻ってるんだ」
「あーッ!」
 変な引き笑いをして腹を捩っていると、何だか暖かくなってきた。炎弥は隣で、満足げにほくそ笑んでいる。

 ストーブの熱気でぼやける教室で、長い一日が過ぎていく。相変わらず俺と炎弥は教室で、一定の距離を置く。炎弥は大人しいグループの友達ができて、九月の半ば頃から茶道部に所属している。なのでたまに放課後、茶道部にお邪魔させて貰うことが、俺の日常に新しく加わった。
 そして。この季節で話題に上がるのは、多くの学生の青春の一ページを、大きく飾るであろうあの行事。
「では、何かしたい出し物がある人は、挙手をお願いします」
 文化祭実行委員の問いかけに、少しの間沈黙した教室は、次に互いを牽制し合うような囁き声で満たされる。
 いくら天下の文化祭といえど、まだ腹の探り合いが完全に終わっていない一年教室では、盛り上がらないこともあるらしい。
「じゃあ、お化け屋敷!」
 そのうち、お調子者とカテゴライズされるクラスメイトが定番の物を提案し、何となく話し合いが回っていく。
「では……スーパーボールすくいとか輪投げができる縁日、ということでいいですか?」
 結局、汎用性がある出し物に決まった。
「ふは、輪投げとかしょうもねー」
 多田が笑う。教室の奥に固まる俺達は、祭りの甘い汁だけを吸うのである。

 帰ってきて、久しぶりに一人きりの部屋。炎弥は家族と予定があるそうで、今日は寄り道なしで帰った。彼は、家族に俺のことを恋人と言っているらしい。
 玄関から部屋を見渡す。短い廊下の両サイドに、トイレと風呂場。そこから変なカウンターつきキッチン。洋間、壁際のベッド。あの夏の終わりから僅かな期間で、じわりと大きく変わっていた。
 実はこたつ付きになったローテーブル、実家から奪ったクッション座椅子、炎弥が誕生日にくれた鮫の抱き枕、乾燥台に置かれた、色違いのペアマグカップ。
 カウンターの上をふと見る。そこには最近触っていない銀紙の錠剤。Subの欲求を抑える抑制剤だった。
(炎弥のプレイは、俺にとっては完璧だ。兄貴のみたいに、何もかも命令通りのPlayじゃなくて、俺のアピールを受け入れてくれる。気付いてくれる。そして、褒めてくれる)
 そこに、性の快楽も加われば。
 下腹部と、双丘の奥が疼く。少しづつ慣らしてきたそこは、すでに彼を受け入れる準備を整えている。
(全てを見られて、嬲られて……無茶苦茶にされたい。使い潰されたい。……炎弥に)
 ジャケットを脱いだ白い腕を、スラックスの中に差し入れて尻を撫でる。男としては、滑らかな方だと思う。炎弥の舌が這って辱められても、恥ずかしくないと思いたい。
「は、ぁ……」
 立ったまま穴をなぞる。吐息が漏れた。その息にさえ、幸せが滲む。
 このまま、何もかも上手くいってはくれないだろうか。俺は炎弥のSubで、兄貴は俺の家族で、穏便に、仕合せで。
(……無理だけど。でもそう思うくらいなら、許されたい。なんて)

「文化祭の出し物ですが、縁日が正式採用されました。今から、準備の係を決めたいと思います」
 黒板には飾り付けのテーマや、準備物の一覧などが書き出されている。縁日というだけあり、それなりに小物を用意しなければいけないようだ。
「じゃあ輪投げを作ってくれる人ー」
 準備は無視して、店番の時だけ大声で最終の暇な時間を奪い取る俺達に、教室も内心、誰も期待していない。その時、見逃せない人物が手を上げたことに気がついた。
(炎弥、挙げてる……)
 目があって、微笑まれた。

 その日の帰り道。
「それ、材料?」
 ガムテープ、新聞紙、カラーテープが入った紙袋が、彼の足に当たってガサガサと鳴る。
「おう。持ち帰りオッケーで良かったよ」
「何で輪投げ作ろうと思ったの?」
「え、何となく」
「何となく」
「ちょっとやっといた方が、参加してる感あるだろ」
「……真面目だな」
「はあ? どこが?」
 呆れたように笑う姿が、周りを伺って手すら挙げられない俺には眩しい。ふと、彼が遠くを見た。そして視線を何となく外して言う。
「これ、手伝ってくれないか? ……俺ん家来て、さ」

 友達の家に遊びに行くのは約五年ぶり、恋人の家に行くのは人生初。小綺麗なオートロックのエントランスに立ち、緊張を押し殺していた。
「き、綺麗だな、このマンション」
「そ、そうだな。元々父さんの知り合いが住んでたみたいで。ちょっと安くで貸してくれてんだよ」
「な、なるほど」
 遠島家の玄関が俺を迎える。アロマ系の甘い香りがして、見ると靴箱の上に茹でるときのパスタみたいなあれが置いてあった。横に白い猫のスノードームがある。
「猫、可愛い」
「ああ。これ? 父さんが作ったんだぜ」
「え!?」
「父さん、駆け出し陶芸家なんだよ」
 情報が多い。
 白で統一された玄関を通って、リビングに。突然の訪問にも関わらず、そこも綺麗に片付いていた。
「え、ええ……めっちゃ家綺麗じゃん」
「リビングだけだ。父さんと俺は片付け得意じゃないんだけど、母さんがな。リビング汚したらマジで鉄槌食らうから」
 軽く買ってきた飲み物とお菓子を持って、炎弥の部屋に向かった。片付けが得意じゃないと言う割に、最低限の私物が綺麗に収納されている。俺の部屋みたいに、玄関から見えない位置に物が積まれていたりしない。それとあともう一つ。
(え、炎弥の匂いが、めっちゃする……!?)
 SubとDomがお互いの匂いを識別することは知っていたが、俺はそういう体質ではないのだと漠然と思い込んでいた。だが考えてみれば、今まで俺のDomは兄で、兄の匂いは即ち家の匂いだ。ほぼ二十四時間嗅いでいて、気がつかなかっただけだったのである。
(これ、炎弥にずっと抱きしめられてるみたいだ。……思ったより、ヤバい)
 Subという生き物はこういう場合、緊張や興奮ではなく、リラックスしすぎてしまう生き物だ。主人の匂いに安心して、頭のネジが緩んでくる。つまり、色々と開放的になってしまう。
「掃除機は昨日かけたからさ。安心して座ってくれよ」
 炎弥がクッションに座って、隣をポンポンと叩いた。薄茶の優しい瞳が、俺を促す。
(だ、抱いてくれ……ッハ!? 駄目だ駄目だ! 気をしっかり持て!!)
 おう、などと平常心を装い、座った。炎弥は輪投げの輪を作る係らしい。簡単な作り方を丁寧に説明してくれる。俺はそれを、火照ってくる頭をジュースで冷やしながら、必死に聞いている。
「……大丈夫?」
「えっ、何が?」
「顔、真っ赤だぞ。なんか、ね、熱っぽいし」
 しかしその言葉で、努力が無駄であるとようやく気づいた。
「あ、あっ、と。緊張かな?」
「そうかな。熱あんじゃないのか。この時期急に風邪ひくことあるし」
 ずいっと手が伸びてきて、俺の額に触れた。
「ひゃっ」
 その瞬間、予想だにしない声が自分の口から溢れ出る。しばし沈黙。
「……これ、は、その」
「Shush」
 人差し指を唇に当てられ、腰がびくんと跳ねた。
(あっ、あれ、もしかして、でちゃった?)
 下着の中の感覚で分かる。少量だが射精していた。幸い炎弥は気付いていないようだ。何も言えず、ただ開いた瞳孔で彼を見つめる。たった一言の短いCommandで漏らした羞恥心と、彼の香りの甘さと、過剰な幸福感で、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
(俺、いまから、とけちゃうんだな)
 静寂を切り裂いたのは、
 机の上のスマホから鳴った、バイブレーションだった。
「……出ていいぞ……」
「え、でも……」
 横目で見る。そこには兄貴、と出ていた。平手打ちされたように目が覚める。
「あ、ご、ごめん。やっぱ出る……」
 震えるそれをひったくって、部屋の外に出た。おかしい。今日は電話に出られないってチャットしたのに。なおも着信は続く。
「も、もしもし」
「おお、良かった! ごめんな、昨日も掛けたのに。ちょっと話したいことがあって。忙しかったのに、出てくれたのか?」
「う、うん。いや、いいよ。一応、今日は出れないってチャットしてたんだけど」
「え……あ! 見てなかった、ごめん! 後でかけ直すよ。今、どこ?」
「へ? あ、えっと……友達の家……」
「んー。そっか。ごめん、邪魔したな。友達にもよろしく。よく考えたらチャットで良かったなぁ」
「はは、急いで電話って、どうしたの」
「いやさ、今月末、文化祭だろ?」
「うん? そうだけど……」
「実はそのとき、ちょっと帰国できることになった!」
「ま、マジか」
「おう! 楽しみにしてるからな? じゃあ!」
 通話を切る。震える息を吐いた。
 卑しい人間を裁く神が、ついに動き始めていた。
「ただいま……」
 部屋に入ると、突っ伏していた炎弥がばっと顔を上げる。
「ど、どした?」
「……いや……輪投げ作ろうぜ」
 その後、俺達はすごすごと新聞紙の輪を作った。そんな雰囲気にもならなくて、寂しさとほんの少しの安心が、俺の胸をかき乱している。
「なんだ、一日で終わっちゃったな」
「しばらく黙っとけよ。別の仕事押し付けられるぜ」
「……妙案だな、それ」
 兄が来るなら、話さなければいけない。もし俺以外からそれを聞いたなら、もうパートナーであることはできないだろう。隣でお菓子を食べる炎弥を見た。
 途端に、恐怖に襲われる。言ってしまったら、この穏やかな時間は、きっと砕け散ってしまう。犯した罪が、あまりに重すぎる。
 必要性に迫られて秘密を告白するには、俺は炎弥を好きになりすぎていた。
「あ、の」
「ん?」
「……文化祭、さ。俺の兄貴が来るんだよね」
「お前、兄貴いたんだな」
「うん。その兄貴になんだけど。俺達がパートナーになってること、言わないで欲しいんだ」
 彼の顔色は、今のところ変わったようには見えない。
「ちょっと、恥ずいからさ」
「へえ、やっぱ兄弟だと恥ずいのか。いじられたりするわけね?」
「兄という生き物は、弟のプライベートは全て弟の口から語られると思ってるからな……」
「話せと」
「馴れ初めから現在までな」
「きっつ。哉兎そういうの苦手そうなのに」
 胸がざくりと痛んだ。その通りだ。俺が全てを許していると思い込んでいるのは、兄だけだ。そしてそれを分かってくれるのは、お前だけだ。
「分かった。秘密な」
「……ごめん」
 炎弥は笑った。
「いいよ。別に禁断の恋とかでも、俺あんま気にしない方だから」
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