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↑の続きのいつかの話
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「わたし、わたし、は」
テンコは髪をぐしゃぐしゃにして、かき回すように髪をひっぱって、半狂乱になって泣きじゃくった。
「きみに、好きだって、言いたかっただけなんだ」
「そうだね、テンコちゃん」
王司がテンコを囲うように手を回す。ぎりぎりで、テンコに触れないのは、きっと、テンコの言う「きみ」が自分ではないのだと知っているからだ。
「わたしは、ばかだ。愚かで、まぬけで――」
「テンコちゃんはばかでも愚かでもまぬけでもないよ」
――だって。テンコは叫んだ。
「だって、きみの名前がわからない、わたしは、きみの名前を思い出せない!」
テンコが慟哭するのを、王司は苦しそうでもなく、うれしそうでもなく、ただ静かに凪いだ目で見つめている。
突き放せばいいのだ。「きみ」が結婚して、子供を授かって、その子供も独り立ちして――妻を看取った後、ひとりぼっちになった「きみ」が、ひとりでないのだと勝手に思って、皺だらけの手で、きっともう何も見えていない目で、すがるようにテンコに触れて、泣きそうにテンコを見つめて、そうして、最期に口にした「僕はテンコのことが好きだった」を聞いて、それでまだ気付かなかった、ばかな「わたし」を、突き放して、ののしってくれたら、どんなにいいだろう。
力のなくなった、どんどん冷えていく温度に触れて、はじめて「きみ」を好きだと思った、高慢な「わたし」を、蔑んでほしい。もう好きだなんて言えなかった。届かない声に絶望して、死んでしまいたいと思ったから、テンコはきみを忘れたのだ。そうしないと生きてなんていけなかった。
けれど、そうしてまでぐしゃぐしゃに這いずるように生きて、どうしてよかったなんて思えるのだろう。感情なんていらない、ポーカーフェイスを気取って、なんにも感じないように、無感動に生きて――その先にあるのが今なら、なんてひどい結果だろうか。
「忘れるようになっていたんだよ」
王司は言う。無責任で、ひどいやつだ。
ドン、ドン。鈍い音を立てて、テンコのにぎった拳が王司の胸に吸い込まれる。
「僕は、テンコちゃんの「わたし」も、テンコちゃんのことも、好きだから、勝手に、無責任に言う」
僕の気持ちはきれいなものなんかじゃないんだ。王司は笑った。乾いた笑顔だった。
「僕がテンコちゃんに告白したのは、テンコちゃんを傷付けるためだ。傷付けて、泣かせて、そうやって最後に僕のほうを見てほしかったから」
「きみは――」
「「きみ」じゃない。僕はオージだ。テンコちゃんのオージだ」
王司は、あんなにかたくなに触れなかったテンコの体を、ぎゅう、と抱きしめた。テンコは一瞬、「きみ」のすがった手を思い出して、そして、真逆の手つきにぼたぼたと涙をこぼした。
「呼んでよ、テンコちゃん。僕はオージだ。君が僕のことをオージって読んだ時から、僕は如月王司でも、司・エルタニア・ヴァイスデールでもなくて、君の「オージ」なんだ」
王司の声は、硬かった。テンコなんかの言葉じゃあ。とうてい折れたり砕けたりしないと思った。
「きみ」の目の色も、髪の色も、名前も、声も覚えていない。「好きだった」という言葉と、手のつめたさが、テンコの思い出だ。
たったそれしかない、少ない思い出が、どんどん王司に上書きされていく。
本当に忘れてしまう。この人は、テンコの中から「きみ」を追い出す気なのだ。
なんて醜悪で、卑劣なのだろう。
なんて冷たくて――悲しくて――やわらかいんだろう。
テンコは泣きながら、「きみ」のことを忘れていった。氷みたいな手は、かぜっぴきのような高温にとかされて、「きみ」の好きが、「オージ」の好き、にとってかわる。
この人は――王司は、必死なのだ。テンコのことを好きだから。汚泥のような気持ちで、欲すらはらんだ執着でもって、テンコに好意を寄せている。だから、「きみ」のことを許せないのだろう。テンコの心を持って行ってしまった「きみ」から、テンコを取り返そうとやっきになっている。
ああ――なんて。
「……オージ……」
テンコの涙腺は、枯れないのだろうか。この目は飴玉ならとっくに溶けていた。
つぶやいた名前を聞いて、王司――オージは微笑んだ。どこか満足げで、どこか悔しげで、そんな二面性をもつ表情は、きっとオージにしかできないだろう。
「テンコは、オージが、好き」
「うん」
「テンコは、オージが好きだから……ごめん、ごめん」
「テンコちゃんなら、いいんだよ」
もう、何に対して謝っているのかわからないまま謝っていた。たしかに謝りたいことがあったのに、塗りつぶされて消えてしまった。すがりつくように、子供のように泣きじゃくるテンコを、オージはずっと抱きしめていた。
テンコは髪をぐしゃぐしゃにして、かき回すように髪をひっぱって、半狂乱になって泣きじゃくった。
「きみに、好きだって、言いたかっただけなんだ」
「そうだね、テンコちゃん」
王司がテンコを囲うように手を回す。ぎりぎりで、テンコに触れないのは、きっと、テンコの言う「きみ」が自分ではないのだと知っているからだ。
「わたしは、ばかだ。愚かで、まぬけで――」
「テンコちゃんはばかでも愚かでもまぬけでもないよ」
――だって。テンコは叫んだ。
「だって、きみの名前がわからない、わたしは、きみの名前を思い出せない!」
テンコが慟哭するのを、王司は苦しそうでもなく、うれしそうでもなく、ただ静かに凪いだ目で見つめている。
突き放せばいいのだ。「きみ」が結婚して、子供を授かって、その子供も独り立ちして――妻を看取った後、ひとりぼっちになった「きみ」が、ひとりでないのだと勝手に思って、皺だらけの手で、きっともう何も見えていない目で、すがるようにテンコに触れて、泣きそうにテンコを見つめて、そうして、最期に口にした「僕はテンコのことが好きだった」を聞いて、それでまだ気付かなかった、ばかな「わたし」を、突き放して、ののしってくれたら、どんなにいいだろう。
力のなくなった、どんどん冷えていく温度に触れて、はじめて「きみ」を好きだと思った、高慢な「わたし」を、蔑んでほしい。もう好きだなんて言えなかった。届かない声に絶望して、死んでしまいたいと思ったから、テンコはきみを忘れたのだ。そうしないと生きてなんていけなかった。
けれど、そうしてまでぐしゃぐしゃに這いずるように生きて、どうしてよかったなんて思えるのだろう。感情なんていらない、ポーカーフェイスを気取って、なんにも感じないように、無感動に生きて――その先にあるのが今なら、なんてひどい結果だろうか。
「忘れるようになっていたんだよ」
王司は言う。無責任で、ひどいやつだ。
ドン、ドン。鈍い音を立てて、テンコのにぎった拳が王司の胸に吸い込まれる。
「僕は、テンコちゃんの「わたし」も、テンコちゃんのことも、好きだから、勝手に、無責任に言う」
僕の気持ちはきれいなものなんかじゃないんだ。王司は笑った。乾いた笑顔だった。
「僕がテンコちゃんに告白したのは、テンコちゃんを傷付けるためだ。傷付けて、泣かせて、そうやって最後に僕のほうを見てほしかったから」
「きみは――」
「「きみ」じゃない。僕はオージだ。テンコちゃんのオージだ」
王司は、あんなにかたくなに触れなかったテンコの体を、ぎゅう、と抱きしめた。テンコは一瞬、「きみ」のすがった手を思い出して、そして、真逆の手つきにぼたぼたと涙をこぼした。
「呼んでよ、テンコちゃん。僕はオージだ。君が僕のことをオージって読んだ時から、僕は如月王司でも、司・エルタニア・ヴァイスデールでもなくて、君の「オージ」なんだ」
王司の声は、硬かった。テンコなんかの言葉じゃあ。とうてい折れたり砕けたりしないと思った。
「きみ」の目の色も、髪の色も、名前も、声も覚えていない。「好きだった」という言葉と、手のつめたさが、テンコの思い出だ。
たったそれしかない、少ない思い出が、どんどん王司に上書きされていく。
本当に忘れてしまう。この人は、テンコの中から「きみ」を追い出す気なのだ。
なんて醜悪で、卑劣なのだろう。
なんて冷たくて――悲しくて――やわらかいんだろう。
テンコは泣きながら、「きみ」のことを忘れていった。氷みたいな手は、かぜっぴきのような高温にとかされて、「きみ」の好きが、「オージ」の好き、にとってかわる。
この人は――王司は、必死なのだ。テンコのことを好きだから。汚泥のような気持ちで、欲すらはらんだ執着でもって、テンコに好意を寄せている。だから、「きみ」のことを許せないのだろう。テンコの心を持って行ってしまった「きみ」から、テンコを取り返そうとやっきになっている。
ああ――なんて。
「……オージ……」
テンコの涙腺は、枯れないのだろうか。この目は飴玉ならとっくに溶けていた。
つぶやいた名前を聞いて、王司――オージは微笑んだ。どこか満足げで、どこか悔しげで、そんな二面性をもつ表情は、きっとオージにしかできないだろう。
「テンコは、オージが、好き」
「うん」
「テンコは、オージが好きだから……ごめん、ごめん」
「テンコちゃんなら、いいんだよ」
もう、何に対して謝っているのかわからないまま謝っていた。たしかに謝りたいことがあったのに、塗りつぶされて消えてしまった。すがりつくように、子供のように泣きじゃくるテンコを、オージはずっと抱きしめていた。
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