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第1章 春
6.夢見
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翌日、木曜日。いよいよ明日が追試だ。復習も終盤に差し掛かっていた。
「じゃあ、今日は1次関数から最後の確率までな。なかなか重い単元だけど、覚えることは意外と少ないから、一つずつ押さえていこう。その前に、昨日の確認のミニテストをまた作ってきたから、やってみよう」
「うん……」
いつにも増して元気のない岡に、嵯峨本は怪訝そうに訊いた。
「お前、今日ずっとそんな調子だよな。どうしたんだよ」
「いや、ちょっとね。調子悪くて……」
作り笑いを浮かべる岡に対し、嵯峨本は冷たくあしらった。
「そ。まあ、お前が話したかねえならそれでいいけど。じゃあ、15分な」
15分後、採点。その最中にも、何度もため息を吐く岡に薄々不快感を感じた。採点が終わった時、嵯峨本も大きなため息を吐いた。
「60点。どうした、どれも簡単な問題だぞ。ほら、ここなんて連立方程式の代入法の最たる例じゃないか。それに、あからさまにシャーペンが進んでなかったぞ」
「うん……」
「昨日、ちゃんと復習しなかっただろ」萎れている岡はいさ知らず、嵯峨本は責め立てる。
「ごめん」岡は軽く頭を下げる。その態度が、余計に嵯峨本を苛立たせた。
「俺に謝ったって仕方ねえだろ。……で、何があったんだよ。このままじゃ支障をきたすし、やりづらいったらありゃしない」
嵯峨本が鋭い目で岡を睨むと、観念したのか、岡は静かに答えた。
「昨日ね、帰ってきたら親が画材を全部捨ててた」
「それで、しょぼくれて勉強しなかったってことか」
嵯峨本は脚を組んで、吐き捨てた。
「ばっかみてえ。そんなに大事なモンなら意地でも取り返せよ。第一、反抗か何かしなかったのかよ」
「一応はしたよ。でも、聞いてくれなかった」
「聞いてくれないから、一生親の言うこと聞いてるのか」
「運が悪かったんだよ」
「運が悪いって……、どうせ大人になったらグチグチ言うんだろ。こんなはずじゃなかった、って」
「仕方ないだろ!」
初めて感情を昂らせた岡を見て、そこで漸く嵯峨本は肘を机に乗せ、凭れた。
「姉が親の反対押し切って留学してから、両親はもう僕に付きっ切りというか、僕だって姉ちゃんがそんなことするなんて思わなかったし……。親が僕に期待しちゃうのも、正直わかるんだよ。あれから居心地悪いし、これ以上家族を崩すのは嫌なんだよ……」
いつからか、岡の目には涙が浮かんでいた。
「絵なんてこの先いくらでも描ける。絵を職業にしなくても、安定した収入を得られる仕事なんていくらでもある。だから――」
「でもお前、勉強したくないんだろ?」
嵯峨本の無機質な言葉に、岡は頷く。その時、涙が数滴頬を伝った。
「お前のその考え方、俺には理解できないな。お前の人生はお前のものだろ。俺らまだ中学生だぜ? そんな大人びることはないんじゃないか?」
言葉としては少し棘があるかもしれないが、それでも嵯峨本は続けた。
「その気になりゃ勉強だってどこの高校に行ったってできるぞ。結局は個人だ、今のお前なら、無理だ。お前が優しいのはわかった。いや、単にお人よしってだけだな。勿論、それも大事な処世術だとは思うよ。でもな、お前だって夢を語る権利はあるんだよ。お前の姉貴みたいにさ」
「てかお前は、自分の絵を誰かに見せたことがあんの? 親に見せたことがあんの?」
「でも、どうせ見せたって……」
そこまで言ったところで、岡は止まった。
嵯峨本の眼は、母の眼と同じだった。何も目的のない者へ向けられる、ある種の憐みの眼。
「ちょっと、付き合ってくれる?」
しかし、嵯峨本は腕を組んで、黙り込む。そこに、岡が小声で言う。
「ポテトもつけるから」
教室の窓から黄色い夕陽が差し込み、机の影が真黒く伸びている。
「じゃあ、今日は1次関数から最後の確率までな。なかなか重い単元だけど、覚えることは意外と少ないから、一つずつ押さえていこう。その前に、昨日の確認のミニテストをまた作ってきたから、やってみよう」
「うん……」
いつにも増して元気のない岡に、嵯峨本は怪訝そうに訊いた。
「お前、今日ずっとそんな調子だよな。どうしたんだよ」
「いや、ちょっとね。調子悪くて……」
作り笑いを浮かべる岡に対し、嵯峨本は冷たくあしらった。
「そ。まあ、お前が話したかねえならそれでいいけど。じゃあ、15分な」
15分後、採点。その最中にも、何度もため息を吐く岡に薄々不快感を感じた。採点が終わった時、嵯峨本も大きなため息を吐いた。
「60点。どうした、どれも簡単な問題だぞ。ほら、ここなんて連立方程式の代入法の最たる例じゃないか。それに、あからさまにシャーペンが進んでなかったぞ」
「うん……」
「昨日、ちゃんと復習しなかっただろ」萎れている岡はいさ知らず、嵯峨本は責め立てる。
「ごめん」岡は軽く頭を下げる。その態度が、余計に嵯峨本を苛立たせた。
「俺に謝ったって仕方ねえだろ。……で、何があったんだよ。このままじゃ支障をきたすし、やりづらいったらありゃしない」
嵯峨本が鋭い目で岡を睨むと、観念したのか、岡は静かに答えた。
「昨日ね、帰ってきたら親が画材を全部捨ててた」
「それで、しょぼくれて勉強しなかったってことか」
嵯峨本は脚を組んで、吐き捨てた。
「ばっかみてえ。そんなに大事なモンなら意地でも取り返せよ。第一、反抗か何かしなかったのかよ」
「一応はしたよ。でも、聞いてくれなかった」
「聞いてくれないから、一生親の言うこと聞いてるのか」
「運が悪かったんだよ」
「運が悪いって……、どうせ大人になったらグチグチ言うんだろ。こんなはずじゃなかった、って」
「仕方ないだろ!」
初めて感情を昂らせた岡を見て、そこで漸く嵯峨本は肘を机に乗せ、凭れた。
「姉が親の反対押し切って留学してから、両親はもう僕に付きっ切りというか、僕だって姉ちゃんがそんなことするなんて思わなかったし……。親が僕に期待しちゃうのも、正直わかるんだよ。あれから居心地悪いし、これ以上家族を崩すのは嫌なんだよ……」
いつからか、岡の目には涙が浮かんでいた。
「絵なんてこの先いくらでも描ける。絵を職業にしなくても、安定した収入を得られる仕事なんていくらでもある。だから――」
「でもお前、勉強したくないんだろ?」
嵯峨本の無機質な言葉に、岡は頷く。その時、涙が数滴頬を伝った。
「お前のその考え方、俺には理解できないな。お前の人生はお前のものだろ。俺らまだ中学生だぜ? そんな大人びることはないんじゃないか?」
言葉としては少し棘があるかもしれないが、それでも嵯峨本は続けた。
「その気になりゃ勉強だってどこの高校に行ったってできるぞ。結局は個人だ、今のお前なら、無理だ。お前が優しいのはわかった。いや、単にお人よしってだけだな。勿論、それも大事な処世術だとは思うよ。でもな、お前だって夢を語る権利はあるんだよ。お前の姉貴みたいにさ」
「てかお前は、自分の絵を誰かに見せたことがあんの? 親に見せたことがあんの?」
「でも、どうせ見せたって……」
そこまで言ったところで、岡は止まった。
嵯峨本の眼は、母の眼と同じだった。何も目的のない者へ向けられる、ある種の憐みの眼。
「ちょっと、付き合ってくれる?」
しかし、嵯峨本は腕を組んで、黙り込む。そこに、岡が小声で言う。
「ポテトもつけるから」
教室の窓から黄色い夕陽が差し込み、机の影が真黒く伸びている。
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