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第2章 夏
5.本心
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グラウンドから、野球部のノックの音が響く。それを聴きながら、嵯峨本は自主勉強をしていた。他のクラスはこの時間を使って競技の練習をしていることもあるが、3年2組は行わないそうだ。まあ、いい。嵯峨本は無理に練習をしたいとは思っていないし、放課後のこの時間を誰にも邪魔されたくないのだ。
「嵯峨本、ちょっといいか」
声の主は坊主頭の日比谷だった。すぐ右側にすくっと立っている。しかし、勉強の手は止めない。無関心そうに、「何だ、帰ったんじゃなかったのか」そんなことを訊こうとしたが、口を開けようとしたとき、日比谷が再び訊いた。
「これからどうしたらいいと思う」
日比谷が真面目な顔で問うてきて、嵯峨本はたじろいでしまったが、ペンだけは止めなかった。
「それって、大縄のこと?」
いや、そうだよな、ごめん。日比谷はすぐに謝った。我ながら当たり前なことを聞いてしまった。こんなに真面目な顔をしているのに、大縄以外のことを訊いてくるなんてありえないのに。瞬間、日比谷の気持ちに少しでも寄り添っている気がして、内心自分に嫌気が差した。そんなことはいさ知らず、日比谷は構わず続けた。
「俺さ、正直大縄に固執しようとは思わないんだよね。木口の言うこと、確かにそうだと思うし。先生からは大縄の練習を主にしろって言われたけど」
「じゃあ、大縄にそこまで思い入れはないの」
「うーん、そう言われたら、そうなのかな……」
「そうなのかな、って、自分のことなのにわかんねえのかよ」
「わかんないというか、こう、何かモヤモヤすんだよ。大縄を捨てないことに合理的な理由が見つからない。このまま続けても意味がないかもしれない。これのせいで負けてしまうかもしれない。でも――何か、腑に落ちねえんだよなあ」
「腑に落ちない、か」遂に、嵯峨本はペンを置いた。
腑に落ちない、つまり納得できないということ。一体、何が納得できないというのか。いや、何となく日比谷の言わんとすることはわかる。しかし、それを言うのは憚られた。むしろ、それを言う権利はないとさえ思う。
「体育祭実行委員はお前しかいないんだからさ、お前が好きなようにやればいいと思うよ」嵯峨本は平静を装って言った。
「でもそうすると、また木口みたいな奴が現れたらどうしよう、って。さっきの帰りの会、めちゃくちゃ怖かった。誰も味方なんていないんじゃないかって錯覚した。もしかしたら本当にいなかったのかもしれないけど」
きっと、彼は本当に怖かったに違いない。クラスメイトに跳ね除けられるであろう意見を、あれほど毅然として言えるだろうか。ずっとメモを見ていたから頻りに緊張していただろうが、声は通っていて、自分のものにしていたと思う。しかし、自分がそんなことを言うのはガラではないのをわかっている。
「そうか、大変だったな」嵯峨本はペンを再び進め、同じように呟いた。
「……なんかさ、冷たくない?」日比谷は少し苛立ちながら言った。日比谷の方をチラ見すると、中野に追い返された後の眼をしていた。
その負を背負った眼に、嵯峨本は言ってやる。
「じゃあ、どうやってほしかったんだ。何かやったとして、俺の返事が変わると思うか」
日比谷は、少し俯いた。その後、ごめん、と呟いた。
嵯峨本はため息を大きく吐いて見せる。
「別に、責めてるわけじゃないんだよ。お前がどうかってのを聞いてんだ。さっきだって、もう少し労われって言えばよかったんだ。まあ、易々とそうはしないけど」
自分でちぐはぐなことをしているのはわかっている。でも、この一言だけは言わせてくれ。声には出さないが、どこの誰に対してかも知らないが、祈る。
「正論はいつでも強い。でも、いつでも正論が正答とは限らないじゃん。お前、一回だって本心で言い返したことあるのかよ」
ちょっと便所、と嵯峨本は席を立つ。教室を出る時、日比谷の低い唸り声が腹の底に響いてくる。
「俺だって、言いたいよ。でも、自分でもわかんないんだよ」
嵯峨本は振り返った。日比谷の表情は逆光でよくわからなかった。
よくわからなかったから、そのまま言い通せた。
――それがお前の本心なのか。
「嵯峨本、ちょっといいか」
声の主は坊主頭の日比谷だった。すぐ右側にすくっと立っている。しかし、勉強の手は止めない。無関心そうに、「何だ、帰ったんじゃなかったのか」そんなことを訊こうとしたが、口を開けようとしたとき、日比谷が再び訊いた。
「これからどうしたらいいと思う」
日比谷が真面目な顔で問うてきて、嵯峨本はたじろいでしまったが、ペンだけは止めなかった。
「それって、大縄のこと?」
いや、そうだよな、ごめん。日比谷はすぐに謝った。我ながら当たり前なことを聞いてしまった。こんなに真面目な顔をしているのに、大縄以外のことを訊いてくるなんてありえないのに。瞬間、日比谷の気持ちに少しでも寄り添っている気がして、内心自分に嫌気が差した。そんなことはいさ知らず、日比谷は構わず続けた。
「俺さ、正直大縄に固執しようとは思わないんだよね。木口の言うこと、確かにそうだと思うし。先生からは大縄の練習を主にしろって言われたけど」
「じゃあ、大縄にそこまで思い入れはないの」
「うーん、そう言われたら、そうなのかな……」
「そうなのかな、って、自分のことなのにわかんねえのかよ」
「わかんないというか、こう、何かモヤモヤすんだよ。大縄を捨てないことに合理的な理由が見つからない。このまま続けても意味がないかもしれない。これのせいで負けてしまうかもしれない。でも――何か、腑に落ちねえんだよなあ」
「腑に落ちない、か」遂に、嵯峨本はペンを置いた。
腑に落ちない、つまり納得できないということ。一体、何が納得できないというのか。いや、何となく日比谷の言わんとすることはわかる。しかし、それを言うのは憚られた。むしろ、それを言う権利はないとさえ思う。
「体育祭実行委員はお前しかいないんだからさ、お前が好きなようにやればいいと思うよ」嵯峨本は平静を装って言った。
「でもそうすると、また木口みたいな奴が現れたらどうしよう、って。さっきの帰りの会、めちゃくちゃ怖かった。誰も味方なんていないんじゃないかって錯覚した。もしかしたら本当にいなかったのかもしれないけど」
きっと、彼は本当に怖かったに違いない。クラスメイトに跳ね除けられるであろう意見を、あれほど毅然として言えるだろうか。ずっとメモを見ていたから頻りに緊張していただろうが、声は通っていて、自分のものにしていたと思う。しかし、自分がそんなことを言うのはガラではないのをわかっている。
「そうか、大変だったな」嵯峨本はペンを再び進め、同じように呟いた。
「……なんかさ、冷たくない?」日比谷は少し苛立ちながら言った。日比谷の方をチラ見すると、中野に追い返された後の眼をしていた。
その負を背負った眼に、嵯峨本は言ってやる。
「じゃあ、どうやってほしかったんだ。何かやったとして、俺の返事が変わると思うか」
日比谷は、少し俯いた。その後、ごめん、と呟いた。
嵯峨本はため息を大きく吐いて見せる。
「別に、責めてるわけじゃないんだよ。お前がどうかってのを聞いてんだ。さっきだって、もう少し労われって言えばよかったんだ。まあ、易々とそうはしないけど」
自分でちぐはぐなことをしているのはわかっている。でも、この一言だけは言わせてくれ。声には出さないが、どこの誰に対してかも知らないが、祈る。
「正論はいつでも強い。でも、いつでも正論が正答とは限らないじゃん。お前、一回だって本心で言い返したことあるのかよ」
ちょっと便所、と嵯峨本は席を立つ。教室を出る時、日比谷の低い唸り声が腹の底に響いてくる。
「俺だって、言いたいよ。でも、自分でもわかんないんだよ」
嵯峨本は振り返った。日比谷の表情は逆光でよくわからなかった。
よくわからなかったから、そのまま言い通せた。
――それがお前の本心なのか。
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