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1巻

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 いつも通りの時間に入浴を済ませ、ベッドに横になったエミリアは夜中になっても寝付けず、何度も寝がえりをうつ。
 朝になれば領地を離れ、王都にある王立学園へ向かわなければならない。
 此処から離れられる嬉しさ半分、今後の不安が半分。相反する気持ちが混じり合い寝付けない。
 レティシア王国では、貴族の子どもは、十五歳になった年の春から三年間、王都にある王立学園へ入学し学ぶことを義務付けられている。
 王家を支える官僚、王国を守る要となる騎士や魔術師の候補となる者を見極め育成するためだと言われているが、貴族の忠誠心を試すための場だとも言われている。
 十五年前から貴族以外の平民にも入学が許されており、入学試験で優秀だと判断された者や強い魔力を有する者が学費免除での入学を許可されていた。
 王立学園は王都にあるため、多くの生徒は実家を離れて寮で共同生活を送ることになる。
 デビュタントの舞踏会を欠席したエミリアには同年代の知り合いは少ない。そのため、王都の貴族達はエミリアが表に出て来ないのは、「みにくい容姿をしているからだ」と勝手に判断しているらしい。本当の理由は、ダルスと喧嘩をして一緒に川に落ち、風邪をひいたからだ。
 同年代の友人がいなくても、情報収集には特に事欠かない。淑女教育よりも剣技と魔法の習得に力を入れ、家族と離れて別邸に住んでいる自分は「変わり者」と周囲から評されていることも、婚約者のはずのイーサンから存在を無視されていることも、ノアに集めてもらった情報で知っている。貴族内で囁かれるエミリアの悪評を知ったイーサンは、都合の良い理由を作り婚約を解消したいと考えている、ということも知っていた。

「前は此処から出たかったのに、今は離れたくないと思うなんて、変わるものね」

 今のエミリアは、別邸で信頼できる者達と心穏やかに暮らせている。
 見知った者がほとんどいない学園生活に不安があっても、恋慕も情も全く抱いていない婚約者から婚約解消されたとしても、破滅を回避出来れば大した問題ではない。頭ではそう分かっていても、出来れば平穏な生活を続けたいと思ってしまうのは致し方ないことだろう。
 考え込んでいるうちに、サイドテーブルに置いてある時計の針は深夜一時半を示していた。
 あと数時間で朝になり、王都へ向けて出発する。

(学園では目立たず揉め事を起こさず、静かに過ごして卒業出来れば上出来ね。婚約破棄されて退学となっても、真面目に勉強すればその知識だけでも生きていける。死ぬ恐怖から解放されて、自由の身になれるのよ)

 左腕を伸ばして、サイドテーブル上に置かれたランプのスイッチを入れる。
 上半身を起こしてヘッドボードにもたれかかり、枕の下に隠している黒革の手帳を取り出す。
 前のエミリアの記憶、学園生活編のページを開くとそこには入学式での出来事が書かれていた。
 表紙をめくった最初のページ、そこに書いてある文字を人差し指でなぞる。

『エミリア・グランデ、九歳。これから起きることの記憶を、前のエミリアの記憶を忘れないように記録をしておく』

 静かな室内に日記帳のページをめくる音が響く。

『十五歳になった春、王立学園へ入学する。学園で何かと注目を浴びるシンシア・ミシェル男爵令嬢が婚約者と仲良くなり、私は婚約破棄される』

 日記の文章は、レティシア王国の文字とは違う異国の文字で綴られている。『前のエミリア』が晩年を過ごした修道院で、旅人が教えてくれた、異国の古代文字。遠い異国の文字ならば、王宮の学者か広い知識を持つ外交官以外は読めないはずだ。
 前のエミリアの身に起こった出来事を忘れないように、幼いエミリアが書いたものだった。

「シンシア嬢がC組になり、後に生徒会役員となる男子と親しくなったら、イーサン様と知り合うわ」

 イーサンに最後に会ったのは、二年前。渋々出席した両家の食事会で挨拶を交わしただけ。それ以外の交流はといえば、誕生日に短い手紙をやり取りするだけの希薄な関係の婚約者。
 食事会の時に彼がどんな顔をしていたのかは、今はもうぼんやりとしか思い出せない。
 前のエミリアの記憶、イーサンに婚約破棄を宣言された時に向けられた侮蔑の表情を覚えている。真っ赤に染まったイーサンの顔は、赤色の髪と相まって金魚みたいだったとエミリアは苦笑いした。

「今度は友達を作りたいな。平民の子なら、私の評判を気にせず仲良くなってくれるかな」

 現国王陛下が王位を継いだ頃から、貴族の子どものみが通っていた学園は、入学試験に合格した平民の子どもも入学出来るようになり、成績優秀者や、実家が商売をしている裕福な家庭の生徒も在学していた。
 学園を退学した場合、あるいは伯爵家が没落した場合、仕事を斡旋あっせんしてもらえるように人脈作りが必要だ。

「イーサン様が心変わりしても嫉妬もしないし、女子に嫌がらせをするダルスは蹴っ飛ばしてでも止める。干ばつ被害が大きかった領地の水源管理も、私とギルドの人達がやっているから今のところ災害に襲われていない。あの時の私と同じ生き方はしないわ」

 手帳を閉じたエミリアは、色のくすんだ表紙を人差し指の腹で撫でて両手で抱き締めた。


 不安と緊張で朝方まで眠れなかったというのに、習慣というものか、いつもの起床時刻になると自然と眠りから覚めてしまう。
 あと少しだけ眠ろうと目蓋を閉じて心地よい眠りの淵へ落ちかけた時、部屋へやって来たメイドに肩を揺さぶられ起こされてしまい、エミリアは重たい体を起こした。
 眠たい目を擦りながら洗顔を済ませ、鏡の前でメイドに髪をかしてもらう。寝癖でうねっていた栗色の髪は真っ直ぐになり、眠気で半開きだった空色の瞳も徐々に開いた。
 トントントン。
 ようやく頭が目覚めてきたタイミングで部屋の扉がノックされた。

「お嬢様、おはようございます」

 挨拶と共に入室した銀髪の執事は、エミリアの前まで来るとふわりと微笑み頭を下げた。
 朝日で輝く金色に近い銀髪は後ろへ撫で付け、しわ一つないスーツを着て銀縁眼鏡をかけた長身の執事は、初めて会った六年前と変わらない容姿。
 いつ見ても完璧な芸術作品のように綺麗だと、エミリアは彼を見上げた。

「おはよう、ノア」
「朝食の準備は整っております。出発時刻に間に合いますようにお着替えを……お嬢様? どうされましたか?」
「え?」

 問われてからノアを見つめていたことに気付き、エミリアは苦笑いした。

「気になることでもあるのですか?」

 領民の反乱で赤い炎に包まれた屋敷から逃げ出し、最果ての修道院に辿り着くまでの過酷な日々と命が尽きる瞬間を夢に見て泣いていた、幼い頃の情緒不安定な姿を知っているせいか、ノアは些細な心の揺れも見逃してはくれない。

「あのね、その」

 王都へ行きたくないと言えば、ノアなら違法な手を使ってでも学園入学を阻止してくれるはずだ。
 幼い頃、契約を結んだ時から彼は、エミリアのことを第一に考えてくれていた。

(逃げるのが一番楽だわ。でも、それは駄目。重篤な事情がない貴族は、学園入学を義務付けられているのだから。でも、ノアと離れるのは怖い)

 声に出そうになった思いを呑み込み、エミリアは唇をきつく結ぶ。

「ノアと皆がいてくれたから、頑張れたなって思ったの。今日までありがとう。私、頑張るね」

 感謝の言葉は嘘偽りではない本心だった。
 ノアに出逢わず実父と継母に冷遇されて過ごしていたら、前のエミリアの記憶があっても精神は疲弊していき、心を病んでいた。

「ノアとみんなはどうするの?」
「数名は別邸の管理のために残りますが、私は此処を離れます。私の雇用主はお嬢様ですから。お嬢様がいらっしゃらない伯爵家には用はありません」

 表情はやわらかく穏やかだが、ノアの深紅色の瞳に冷たい光が宿る。
「一緒に来て」と、喉まで出かかった言葉を呑み込み、エミリアは唇を動かして笑みを作った。

「そう、そういう契約だったわね」

 六年前、ノアと出逢った時のやり取りを思い出してエミリアは目を伏せた。


 襲いかかって来た熊形の魔物から必死で逃げていたエミリアの前に、突然現れた冒険者の青年。
 涙を流して助けを請うエミリアに魔物が襲いかかろうとした瞬間、青年は目にもとまらない速さで動き魔物をたおしたのだった。

『助けてくれてありがとうございます。あの、貴方は、冒険者の方ですよね? ギルドを介さなくても、代金を渡せば私の依頼を引き受けてくれますか?』
『俺に依頼だと? お嬢様が?』
『ええ。私の護衛になっていただけませんか? 此処にいるということは、貴方の狙いはこの先の遺跡でしょう? だから、遺跡に行って戻るまでの護衛をお願いしたいのです。報酬は……』

 腕組みをして無言でエミリアを見下ろしていたノアは、不意にたのしげに口角を上げた。後から聞いたところによると、揺るがない意志の強さを小さな体から感じ取った、らしい。

『分かった』

 幼いエミリアからの依頼を引き受けてくれたノアのおかげで、湖の遺跡の調査はスムーズに行えた。
 その後、伯爵家までの帰り道で再度結んだ契約。

『これからは俺、いや、私が貴女を守ります』

 契約を結んだ後、ノアが顔なじみだというギルドマスターに掛け合ってくれたおかげで、湖の管理の代行依頼もスムーズに進んだ。
 孤独だった前のエミリアが得られなかった味方。
 たとえ契約で結ばれた関係でも、傍に味方がいることはこれほど安心できるものなのだと知った。


 王立学園へ入学する日まで仕えると膝を折ってくれたノアとの契約は、今日で終わる。

(ノアと離れるのが寂しい。でも、雇用期間は終わる。それに、王都へ一緒に行けるのは女性のメイドのみだわ。ノアと一緒には行けない)

 一緒に王都へは行けないと前々から分かっていたのに、ノアと離れると考えるだけで急に胸の奥が苦しくなってきて、エミリアは胸に手を当てて深い息を吐いた。

「皆さん、今日までありがとう」

 別館の使用人達を呼んだ朝食の席で、エミリアは彼等に感謝の言葉を伝えた。豪華な朝食なのに、込み上げて来た涙をこらえたせいで、しっかり味わうことは出来なかった。

「お嬢様、お気をつけていってらっしゃいませ」
「ありがとう。行ってきます。ノアも皆も元気でね」

 玄関前に並んで立つノアと使用人達に見送られ、エミリアは馬車へ乗り込んだ。
 同じく学園へ入学するダルスが「行きたくない」と駄々をこねているらしく、説得に手間取っているのか父親と継母の見送りはない。
 異母弟を待たずに出発するという伝達を頼み、エミリアを乗せた馬車は王都へ出発した。


 整備された街道とはいえ、半日以上馬車に揺られ続ければ腰も痛くなってくる。
 同行するメイドのメリッサに、休憩しようと訴えようかとエミリアが口を開きかけた時、ようやく王都の街並みが見えてきた。
 女神の加護を与えられている王都は、当然ながらグランデ伯爵領よりも栄えており、整備された街並みは色とりどりの花で彩られていた。
 前のエミリアの記憶にある王都と重なる光景に、以前とは違いエミリアの胸の奥に不安が湧き上がってくる。

(大丈夫。今の私は前の私とは違うし、ダルスも標準体型を維持しているし、婚約破棄されて実家を勘当されても冒険者ギルドマスターが助けてくれる。前と同じ結果にはならないわ)

 華やかな車窓からの景色を楽しむ余裕もなく、これから通う王立学園へと向かい、馬車から降りた。
 白百合のレリーフが掲げられている男子禁制の女子寮。
 男子は足を踏み入れることも出来ないため、荷物もメイドか本人が持たなければならない。エミリアもメリッサと一緒に、御者が馬車から降ろした荷物を持って寮の扉をくぐった。

「エミリア嬢、ようこそいらっしゃいました」
「これからよろしくお願いします」

 入寮手続きの書類にサインを書き、初老の寮母に先導されて部屋へ移動する。
 休日とはいえ、寮内は静まり返っている。前回もこうだっただろうか、この静かな建物で三年間を過ごすのかと、エミリアは不安を抱いた。

「エミリア嬢の部屋は此方です。先にいらしたメイドの方が部屋の掃除をされていますよ」
「先に?」

 メリッサ以外のメイドが王都へ来るとは聞いておらず、エミリアは首を傾げる。
 今も隣で荷物を持つ彼女を見てもただ微笑むだけ。
 寮母が部屋のドアを開けると、室内の掃除をしていた長身のメイドが振り向き、エミリアへ向けて一礼する。

(え? 誰?)

 メイドの顔を見て、エミリアはポカンと口と目を開いて固まった。
 手にしていた箒を壁に立てかけ、メイドはエミリアの手からスーツケースを抜き取る。その様子を見ながら寮母が柔らかく注意を促した。

「あなた達は問題なさそうですが、荷解きは静かに行ってくださいね。規律を守り騒がしくしてはいけませんよ」
「は、はい。案内、ありがとうございました」

 立ち去ろうとする寮母へ、エミリアは慌てて頭を下げる。
 扉が閉まり寮母の気配が離れていくのを確認してから、ようやく長身のメイドは口を開いた。

「お待ちしておりました。お嬢様」

 女性にしては低い声でも、見た目は完璧な『女性』のメイドの口調には聞き覚えがあり、エミリアは目を見開いた。

(え、どうして?)

 そんなことはないと、何度も目を瞬かせてメイドの全身を見る。
 エミリアよりも頭一つ分背の高いメイドは、陽光で淡い金髪に見える銀髪を後頭部で一まとめにして、印象的な深紅色の瞳とすっと通った高い鼻、意志の強そうな薄い唇をした、一度顔を合わせたら忘れないほど綺麗な外見をした女性だった。
 頭の先から足元まで凝視して……彼女の放つ雰囲気が誰に似ているのか理解したエミリアは、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「ノア?」
「はい」

 此処にはいないはずの執事の名を呼べば、メイドは心底嬉しそうに微笑んだ。
 見た目は女性にしか見えないのに、気配は慣れ親しんだノアのものへと変化する。

「やはり、お嬢様は分かってしまいましたね」
「どうして此処に? その格好は、どうしたの?」

 学園の女子寮には、親族であろうと緊急時を除き男性は入れない。規則を守れない場合は謹慎以上の罰則があると、先程寮母から説明を受けた。
 それ以前に、ノアとの契約期間は今朝終了しているのだ。

「私はお嬢様の側で、貴女を守ると誓ったでしょう。此処は、男子禁制でしたので仕方なく女装をすることにしました。この姿の時は『ノアール』とお呼びください」
「じょ、そう……?」

 唇に人差し指を当てて微笑む仕草は、どう見ても完璧な女性そのもの。
 見た目だけでなく仕草も声もノアとは違う。どうなっているのかとか、どうしてそこまでして側にいると決意してくれたのかとか、聞きたいことは沢山あるのに、あまりの衝撃の強さにエミリアの体から力が抜けていく。

「お嬢様?」

 長旅の疲労と緊張も相まって、エミリアの意識が遠くなる。暗転する視界の隅に、慌てるメリッサの姿と、傾いでいくエミリアの体を支えようと手を伸ばすノアールの顔が見え、そして珍しく焦ったノアの声が耳元で聞こえた。


「ノア」

 遠ざかろうとする背中へエミリアは手を伸ばす。これは幼い頃の夢だ。
 悪夢を見た後や体調が悪い時ほど、一人で眠るのは苦しくて悲しい。精神年齢は成人を過ぎていても、弱った時は体の年齢に心が引き摺られてしまう。
 破滅を迎える未来を変えるのだと意気込んでいても、常に不安が付きまとい傍らで支えてくれる相手を欲していた。

「行かないで」

 幼くなった精神は孤独に耐えられなくて、彼に縋りたくなってしまうのだ。
 ポロリ、エミリアの目尻から涙が零れ落ちる。

「……ここにいる」

 仕方ないと息を吐き、振り向いたノアは伸ばされたエミリアの小さな手を握る。

「俺のお嬢様は甘えん坊だな」

 目蓋を閉じていても、彼が苦笑したのが気配で分かった。

「あたま、なでて」
「仰せのままに」

 大きな手で頭を撫でられると不安がなくなっていく。
 夢の中で更に眠りの淵へ落ちていきながら、エミリアは大きな手のひらに頬を擦りつけて甘えた。


 部屋に射し込む朝日の眩しさでエミリアは目蓋を半分開く。
 昨夜、あまり眠れなかったことと移動の疲れとで、朝までぐっすりと眠っていた。

「あれ? 此処は?」

 自室とは違う部屋に目を瞬かせたエミリアは、ベッドに手をついて上半身を起こし室内を見渡した。

(寮の部屋? ノアがいたのは夢だったの? そうよね、メイド服を着たノアが女子寮にいるなんて)
「おはようございます」
「きゃあっ、うぐっ」

 気配を全く感じさせずかけられた声に驚き、悲鳴を上げたエミリアの口を大きな手のひらが塞ぐ。

「しっ、大声を上げるのは他の方の迷惑になりますよ」

 灰色に青紫が混じったラベンダーグレイ色の髪を後頭部で一まとめにした長身のメイドは、エミリアの口から手を外し自身の唇へ人差し指を当てた。
 身を屈めた彼女の口から発せられたのは低いけれど女性の声。
 やはり、昨日の出来事は夢ではなかった。

「ノア、いくら似合っていてもその上背では無理があると思うわ」

 見た目は女性でも、彼女は小柄なエミリアよりも頭一つ分近く背が高く、メイド服で多少カバーしているとはいえ、互いの息遣いを感じる至近距離では女性にしては筋肉質な体つきなのが分かる。

「ノアール、です。これでも魔法で背を低くして女性的な骨格に変化させています。認識阻害魔法をかけておけば、周囲の者からは女性だと認識されます。何もない所でも転ぶお嬢様は危なっかしくて目が離せませんし、何より体が小さいとお嬢様を守る際に抱きかかえられません」

 名前を訂正したノアはエミリアの脇に手を差し込み、幼子を起こすように抱きかかえようとする。

「か、抱えなくてもいいって。自分で歩けるから」

 密着して互いの熱を感じ、我に返ったエミリアはノアの腕を押さえて止めた。
 昨日の朝までノアに抱えられても平気だったのに、女装した彼に抱えられるのは何故だか恥ずかしい。

「では、早くベッドから出て着替えをしてください」

 朝日の眩しさも相まって、メイドの擬態を解けば性別が男に変わるのが信じられない。
 完璧な仕草でスカートの裾を直したノアは、どこからどう見ても女性の顔をして微笑んだ。
 寝間着から制服に着替えて、寝癖のついた髪を整えてもらっている間に部屋へ朝食が運ばれてくる。

「よし、変じゃないし地味過ぎないよね」

 朝食を食べ終えたエミリアは、鏡の前で身だしなみのチェックをする。
 入学式受付に提出する書類を再確認したメイド姿のノアと共に女子寮を出た。
 余裕があると思っていたのに腕時計を確認すると、入学式受付時間の二十分前になっていた。
 歩く速度を速めれば、何とか受付終了時刻には間に合う。

「会場前まで転移しましょうか」
「駄目よ。敷地内は特別な理由がある場合、一部の魔法以外は使用禁止よ。あら? あれは……」

 女子寮の門を出てすぐの外灯を背にして、腕組みをした男子生徒が立っている。誰なのか気づいて思わず「うっ」と声を漏らした。
 まさか、心細くなって一緒に行こうと誘いに来たわけではないだろう。女子寮ではなく、入学式会場へ向かわなければ間に合わないのに何を考えているのか。何を考えているかは分からないが、関わるとろくなことにならないことだけは分かる。

「おい! エミリア!」

 エミリアは、無視して通り過ぎようと歩く速度を上げるが、その前へ立ち塞がったダルスは、彼女を睨み付けた。
 伯爵家にいた時は大して身だしなみに気を使わないダルスでも、入学式は特別なのか、緩く癖のある髪についた寝癖は直し、シャツもボタンを上まで止めてきちんと制服を着ていた。

「俺を置いて先に行くとはどういうことだ!」

 鼻息が荒いダルスの背後で、鞄を両手に持ち顔色を悪くしている若い従者は、エミリアに申し訳なさそうな視線を送る。従者の様子から、ダルスは彼の意見を無視して此処まで来たのだろう。

「何で入学式会場じゃなくて、女子寮に来ているのよ」

 二人そろって入学式に遅刻するのは、ただでさえ評判の悪いグランデ伯爵家姉弟の評判がさらに悪くなってしまう。思わずエミリアは片手で顔を覆った。

「そこを退いていただけますか? お嬢様が入学式に遅れてしまいます」

 ダルスの前へ進み出たノアは、自分の背にエミリアを隠す。
 全く敬意を払わないメイドの態度に、ダルスの額には青筋が浮かんだ。

「誰だお前? 見ない顔だな。またエミリアお得意の、冒険者上がりで生意気なメイドを新しく雇ったのか?」
「ノアール、と申します」

 自分よりも長身のノアを見上げたダルスの表情は、眉をひそめたまま固まった。
 口元はわずかに弧を描いているのに、瞳は全く笑っていない冷笑を浮かべたメイドに、心臓を鷲掴みにされたような気がした。心臓の鼓動は速くなり、湧き上がってくる恐怖から背中に寒気が走り抜け、全身から汗がふき出る。

「ひいぃぁっ!?」

 恐怖で青ざめたダルスは、悲鳴を上げて後方へ飛び上がり地面に尻もちをついた。

「お、お坊ちゃん?」
「ああああ、何で、何で? 姿は違うのに、お前はあいつと似た魔力を持っているんだ!?」

 全身を恐怖で震わせて涙ぐみ、ダルスは駆け寄った従者にしがみ付く。
 数年に及ぶ教育という名の矯正の結果、ダルスの心の奥深くまで、ノアという存在が、恐怖の対象として根付いているのだ。
 すっかり怯えて立ち上がれないでいるダルスと、彼に冷笑を向けるノアを交互に見たエミリアは、はぁーと溜息を吐いた。

「ノアール、規律違反になってしまうけれど緊急事態だわ。誰にも見つからないように入学式会場近く、ダルスも一緒にいて目立たない場所へ転移してもらってもいい?」
「はい。感知されないよう、慎重に転移します」

 そうすることが当然のように答え、ノアは右手を地面へ向けて転移魔法陣を展開した。
 足元に広がった魔法陣から発せられた光が眩しくて、思わず閉じた目蓋を開くと、エミリア達は入学式会場の裏手にある茂みへ転移していた。
 そのまま移動し、会場入り口の受付を通ったのは、受付時間終了間際。
 新入生が整然と椅子に座り、静まり返っている状態の会場に入ったエミリアとダルスは、周囲から向けられる好奇という視線を浴びながら、受付で渡されたクラス名簿に載っている指定席へ座った。

(私がA組、ダルスがC組? 前は私がB組、ダルスはC組だった。C組になるのを回避してほしかったから、真面目に勉強をするように言ったのに。きっと、自主勉強をしていなかったのね)

 一年時の所属クラスは入学前試験の結果で決まる。
 前よりも勉強に励んでいる今のエミリアがAクラスなのは、全教科満点に近い試験結果が返ってきたため頷ける。だが、一緒に勉強していたダルスが前回と同じC組ということは誤算だった。
 前回と同じ流れなら、学園生活の鍵を握る人物のシンシア・ミシェルはダルスと同じC組。
 ダルスがシンシアに歪んだ感情を抱き、付きまとい行為を繰り返してしまう可能性がある。
 時間がなくてクラス名簿をチェックしきれず、記憶通りC組にシンシアがいるのか分からない。
 ダルスの行動を知りたくとも、彼が座る場所まで離れていて知ることが出来ず、エミリアは視線だけを動かしてC組の方を見た。


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