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第2章 ライフワーク
第17話 暗愚の将
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『最初から終るまで、忠明殿が付きっきりの素振りだ。忠明殿を嫌う家光には拷問に等しかったろう。
だから木刀による打ち合いを命じたのだ。
忠明殿に躊躇はない。位の上下に拘わらず、気に入らなければ遠慮無しに打ち込む。
この日も同じであった』
「し、しし、試合うぞ、た、忠あ、明!」
キツイ吃りにも構わず、家光は目の前に立つ、枯れ枝のように痩せた老人を怒鳴り付け、睨んで木刀の切っ先を向ける。
将軍家兵法指南一刀流、小野次郎右衛門忠明に、である。
次郎右衛門忠明がいつものように、家光に真剣の素振りを命じた直後のコトであった。
次郎右衛門忠明の目には、家光が技を習う以前にしか見えない故である。
身体が出来ていない人間に、理論や実践は意味がない。次郎右衛門忠明はそう考えていた。
素振り一つを見ても、振るたびに身体が流される程度だと話にならないのだ。
まず基礎体力を向上させ、剣を扱う膂力を鍛え、足腰の安定を図るのが第一である。
理屈は家光にも判る。
しかし、家光にはそれが我慢出来るほどの忍耐力はない。
将軍家の剣術に庶民の理屈はいらんと豪語する始末である。
剣術を修めるのに将軍も庶民も関係ないと、家光の屁理屈を一笑する次郎右衛門忠明だが、
「た、た、但馬はす、筋がい、良いと、も、も申してお、おる!」
同じ将軍家兵法指南新陰流の柳生但馬守宗矩を引き合いに出され、苦い顔を見せる。
これは矯正が必要か。益体もない。
次郎右衛門忠明は木刀を手にし、一刀一足の間合いを開けて、ゆるゆると家光の前に立つ。
「宜しゅうござる。いずれからでも参られよ」
「お、お応よ!」
家光の口角がニヤリと嗤う。
道場の入口を背に、御入側で座して控えていた十兵衛の額に青筋が浮く。
剣に対しては妥協のない次郎右衛門忠明だ。それ故に癇も強い。その次郎右衛門忠明が堪忍を重ねている状況を、家光は利用したのだ。
家光は次郎右衛門忠明と打ち合い、打ち込まれた際に無礼を申し立てて十兵衛を乱入させ、次郎右衛門忠明を打ち据える腹積もりであった。
次郎右衛門をやり込めるこの方法に、宗矩は使えない。何より宗矩に反対されるし、コトが大きくなりすぎるからだ。
しかし、相手が十兵衛であれば、まだ子供の悪戯で済む。さらに次郎右衛門忠明を蟄居させ、一刀流より新陰流の有用性を説くコトも出来る。
また、十兵衛が次郎右衛門忠明を打ち据えれば、次郎右衛門忠明の未熟を痛罵出来るだろう。
家光の頭の中では、一石二鳥にも三鳥にもなる方策であった。
家光の頭の中では。
実際には十兵衛が次郎右衛門に打ち勝つ目はない。
乱入と言う形で次郎右衛門に対しても、一刀の元に打たれるだろう。
それほど、次郎右衛門忠明に油断はないのだ。
例えコトが家光の思惑通りに行ったとしても、新陰流は卑怯卑劣の剣だと忌避されるようになる。
家光にはそれが見えていない。
見えるハズがない。家光は腐っても将軍なのだから。
否。『腐った将軍』である。
このような児戯に等しい理屈で利用されるコトに、十兵衛は憤った。
元より、十兵衛は次郎右衛門を宗矩よりかっている。
兵法家として、次郎右衛門の矜持は正しいのである。しかし、宗矩はこの兵法家の矜持を無用と打ち捨てる者の代表だ。
『平時の兵法は天下万民の安寧を治める礎』が持論の宗矩は、個人の研鑽が大事とする次郎右衛門を兵法家とは見ていない。
『あれは武芸者よ』
そう嘯く姿を十兵衛は何度も目にしている。
武を以て踊る芸者であると。
ある意味、家光という暗愚を作ったのは宗矩なのかも知れない。
「大兵法とやらの筋で一刀を打擲なさりませ」
言外に『出来るなら』と含み、次郎右衛門は笑う。
「推参ぞ、忠明っ!」
あまりの激高に言葉への意識が飛んだのか、吃りもせずに次郎右衛門を非難する家光。
今更だろうにと、襖の向こうで十兵衛が溜飲を下げる。
家光が構えた正眼を上段に持って行こうと動いた刹那、次郎右衛門はついと間境を越え、下段から木刀を跳ね上げた。
カランと乾いた音が道場に響き、家光は両手を挙げた状態で表情を歪ませる。
次郎右衛門忠明の木刀の切っ先は、家光の喉に宛てられていた。
本気であれば、木刀といえども喉を突き破っていたであろう。
それでも家光に痛い目を見せて未熟を突き付けるのは、次郎右衛門の次郎右衛門たる所以だろう。
喉を押さえて二、三歩下がり、尻餅を突いた家光を見下ろして、次郎右衛門は元の位に戻って襖を睨む。
正確には、襖の向こうの十兵衛を。
次郎右衛門には家光の企みは見透かされていた。
「さて、いかがなされますや、十兵衛殿」
「ぶぶ、ぶ、無礼っも、者!じ、じゅ十兵衛!!」
スパーンと襖が開き、次郎右衛門と家光の目に十兵衛が映る。
次郎右衛門は相手が格下にも関わらず、冷静に十兵衛の動きを窺い、家光は表情を輝かせて十兵衛を迎えた。
涙と鼻水と涎が見苦しく家光の顔を汚している。
だから木刀による打ち合いを命じたのだ。
忠明殿に躊躇はない。位の上下に拘わらず、気に入らなければ遠慮無しに打ち込む。
この日も同じであった』
「し、しし、試合うぞ、た、忠あ、明!」
キツイ吃りにも構わず、家光は目の前に立つ、枯れ枝のように痩せた老人を怒鳴り付け、睨んで木刀の切っ先を向ける。
将軍家兵法指南一刀流、小野次郎右衛門忠明に、である。
次郎右衛門忠明がいつものように、家光に真剣の素振りを命じた直後のコトであった。
次郎右衛門忠明の目には、家光が技を習う以前にしか見えない故である。
身体が出来ていない人間に、理論や実践は意味がない。次郎右衛門忠明はそう考えていた。
素振り一つを見ても、振るたびに身体が流される程度だと話にならないのだ。
まず基礎体力を向上させ、剣を扱う膂力を鍛え、足腰の安定を図るのが第一である。
理屈は家光にも判る。
しかし、家光にはそれが我慢出来るほどの忍耐力はない。
将軍家の剣術に庶民の理屈はいらんと豪語する始末である。
剣術を修めるのに将軍も庶民も関係ないと、家光の屁理屈を一笑する次郎右衛門忠明だが、
「た、た、但馬はす、筋がい、良いと、も、も申してお、おる!」
同じ将軍家兵法指南新陰流の柳生但馬守宗矩を引き合いに出され、苦い顔を見せる。
これは矯正が必要か。益体もない。
次郎右衛門忠明は木刀を手にし、一刀一足の間合いを開けて、ゆるゆると家光の前に立つ。
「宜しゅうござる。いずれからでも参られよ」
「お、お応よ!」
家光の口角がニヤリと嗤う。
道場の入口を背に、御入側で座して控えていた十兵衛の額に青筋が浮く。
剣に対しては妥協のない次郎右衛門忠明だ。それ故に癇も強い。その次郎右衛門忠明が堪忍を重ねている状況を、家光は利用したのだ。
家光は次郎右衛門忠明と打ち合い、打ち込まれた際に無礼を申し立てて十兵衛を乱入させ、次郎右衛門忠明を打ち据える腹積もりであった。
次郎右衛門をやり込めるこの方法に、宗矩は使えない。何より宗矩に反対されるし、コトが大きくなりすぎるからだ。
しかし、相手が十兵衛であれば、まだ子供の悪戯で済む。さらに次郎右衛門忠明を蟄居させ、一刀流より新陰流の有用性を説くコトも出来る。
また、十兵衛が次郎右衛門忠明を打ち据えれば、次郎右衛門忠明の未熟を痛罵出来るだろう。
家光の頭の中では、一石二鳥にも三鳥にもなる方策であった。
家光の頭の中では。
実際には十兵衛が次郎右衛門に打ち勝つ目はない。
乱入と言う形で次郎右衛門に対しても、一刀の元に打たれるだろう。
それほど、次郎右衛門忠明に油断はないのだ。
例えコトが家光の思惑通りに行ったとしても、新陰流は卑怯卑劣の剣だと忌避されるようになる。
家光にはそれが見えていない。
見えるハズがない。家光は腐っても将軍なのだから。
否。『腐った将軍』である。
このような児戯に等しい理屈で利用されるコトに、十兵衛は憤った。
元より、十兵衛は次郎右衛門を宗矩よりかっている。
兵法家として、次郎右衛門の矜持は正しいのである。しかし、宗矩はこの兵法家の矜持を無用と打ち捨てる者の代表だ。
『平時の兵法は天下万民の安寧を治める礎』が持論の宗矩は、個人の研鑽が大事とする次郎右衛門を兵法家とは見ていない。
『あれは武芸者よ』
そう嘯く姿を十兵衛は何度も目にしている。
武を以て踊る芸者であると。
ある意味、家光という暗愚を作ったのは宗矩なのかも知れない。
「大兵法とやらの筋で一刀を打擲なさりませ」
言外に『出来るなら』と含み、次郎右衛門は笑う。
「推参ぞ、忠明っ!」
あまりの激高に言葉への意識が飛んだのか、吃りもせずに次郎右衛門を非難する家光。
今更だろうにと、襖の向こうで十兵衛が溜飲を下げる。
家光が構えた正眼を上段に持って行こうと動いた刹那、次郎右衛門はついと間境を越え、下段から木刀を跳ね上げた。
カランと乾いた音が道場に響き、家光は両手を挙げた状態で表情を歪ませる。
次郎右衛門忠明の木刀の切っ先は、家光の喉に宛てられていた。
本気であれば、木刀といえども喉を突き破っていたであろう。
それでも家光に痛い目を見せて未熟を突き付けるのは、次郎右衛門の次郎右衛門たる所以だろう。
喉を押さえて二、三歩下がり、尻餅を突いた家光を見下ろして、次郎右衛門は元の位に戻って襖を睨む。
正確には、襖の向こうの十兵衛を。
次郎右衛門には家光の企みは見透かされていた。
「さて、いかがなされますや、十兵衛殿」
「ぶぶ、ぶ、無礼っも、者!じ、じゅ十兵衛!!」
スパーンと襖が開き、次郎右衛門と家光の目に十兵衛が映る。
次郎右衛門は相手が格下にも関わらず、冷静に十兵衛の動きを窺い、家光は表情を輝かせて十兵衛を迎えた。
涙と鼻水と涎が見苦しく家光の顔を汚している。
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