18 / 84
第2章 ライフワーク
第17話 暗愚の将
しおりを挟む
『最初から終るまで、忠明殿が付きっきりの素振りだ。忠明殿を嫌う家光には拷問に等しかったろう。
だから木刀による打ち合いを命じたのだ。
忠明殿に躊躇はない。位の上下に拘わらず、気に入らなければ遠慮無しに打ち込む。
この日も同じであった』
「し、しし、試合うぞ、た、忠あ、明!」
キツイ吃りにも構わず、家光は目の前に立つ、枯れ枝のように痩せた老人を怒鳴り付け、睨んで木刀の切っ先を向ける。
将軍家兵法指南一刀流、小野次郎右衛門忠明に、である。
次郎右衛門忠明がいつものように、家光に真剣の素振りを命じた直後のコトであった。
次郎右衛門忠明の目には、家光が技を習う以前にしか見えない故である。
身体が出来ていない人間に、理論や実践は意味がない。次郎右衛門忠明はそう考えていた。
素振り一つを見ても、振るたびに身体が流される程度だと話にならないのだ。
まず基礎体力を向上させ、剣を扱う膂力を鍛え、足腰の安定を図るのが第一である。
理屈は家光にも判る。
しかし、家光にはそれが我慢出来るほどの忍耐力はない。
将軍家の剣術に庶民の理屈はいらんと豪語する始末である。
剣術を修めるのに将軍も庶民も関係ないと、家光の屁理屈を一笑する次郎右衛門忠明だが、
「た、た、但馬はす、筋がい、良いと、も、も申してお、おる!」
同じ将軍家兵法指南新陰流の柳生但馬守宗矩を引き合いに出され、苦い顔を見せる。
これは矯正が必要か。益体もない。
次郎右衛門忠明は木刀を手にし、一刀一足の間合いを開けて、ゆるゆると家光の前に立つ。
「宜しゅうござる。いずれからでも参られよ」
「お、お応よ!」
家光の口角がニヤリと嗤う。
道場の入口を背に、御入側で座して控えていた十兵衛の額に青筋が浮く。
剣に対しては妥協のない次郎右衛門忠明だ。それ故に癇も強い。その次郎右衛門忠明が堪忍を重ねている状況を、家光は利用したのだ。
家光は次郎右衛門忠明と打ち合い、打ち込まれた際に無礼を申し立てて十兵衛を乱入させ、次郎右衛門忠明を打ち据える腹積もりであった。
次郎右衛門をやり込めるこの方法に、宗矩は使えない。何より宗矩に反対されるし、コトが大きくなりすぎるからだ。
しかし、相手が十兵衛であれば、まだ子供の悪戯で済む。さらに次郎右衛門忠明を蟄居させ、一刀流より新陰流の有用性を説くコトも出来る。
また、十兵衛が次郎右衛門忠明を打ち据えれば、次郎右衛門忠明の未熟を痛罵出来るだろう。
家光の頭の中では、一石二鳥にも三鳥にもなる方策であった。
家光の頭の中では。
実際には十兵衛が次郎右衛門に打ち勝つ目はない。
乱入と言う形で次郎右衛門に対しても、一刀の元に打たれるだろう。
それほど、次郎右衛門忠明に油断はないのだ。
例えコトが家光の思惑通りに行ったとしても、新陰流は卑怯卑劣の剣だと忌避されるようになる。
家光にはそれが見えていない。
見えるハズがない。家光は腐っても将軍なのだから。
否。『腐った将軍』である。
このような児戯に等しい理屈で利用されるコトに、十兵衛は憤った。
元より、十兵衛は次郎右衛門を宗矩よりかっている。
兵法家として、次郎右衛門の矜持は正しいのである。しかし、宗矩はこの兵法家の矜持を無用と打ち捨てる者の代表だ。
『平時の兵法は天下万民の安寧を治める礎』が持論の宗矩は、個人の研鑽が大事とする次郎右衛門を兵法家とは見ていない。
『あれは武芸者よ』
そう嘯く姿を十兵衛は何度も目にしている。
武を以て踊る芸者であると。
ある意味、家光という暗愚を作ったのは宗矩なのかも知れない。
「大兵法とやらの筋で一刀を打擲なさりませ」
言外に『出来るなら』と含み、次郎右衛門は笑う。
「推参ぞ、忠明っ!」
あまりの激高に言葉への意識が飛んだのか、吃りもせずに次郎右衛門を非難する家光。
今更だろうにと、襖の向こうで十兵衛が溜飲を下げる。
家光が構えた正眼を上段に持って行こうと動いた刹那、次郎右衛門はついと間境を越え、下段から木刀を跳ね上げた。
カランと乾いた音が道場に響き、家光は両手を挙げた状態で表情を歪ませる。
次郎右衛門忠明の木刀の切っ先は、家光の喉に宛てられていた。
本気であれば、木刀といえども喉を突き破っていたであろう。
それでも家光に痛い目を見せて未熟を突き付けるのは、次郎右衛門の次郎右衛門たる所以だろう。
喉を押さえて二、三歩下がり、尻餅を突いた家光を見下ろして、次郎右衛門は元の位に戻って襖を睨む。
正確には、襖の向こうの十兵衛を。
次郎右衛門には家光の企みは見透かされていた。
「さて、いかがなされますや、十兵衛殿」
「ぶぶ、ぶ、無礼っも、者!じ、じゅ十兵衛!!」
スパーンと襖が開き、次郎右衛門と家光の目に十兵衛が映る。
次郎右衛門は相手が格下にも関わらず、冷静に十兵衛の動きを窺い、家光は表情を輝かせて十兵衛を迎えた。
涙と鼻水と涎が見苦しく家光の顔を汚している。
だから木刀による打ち合いを命じたのだ。
忠明殿に躊躇はない。位の上下に拘わらず、気に入らなければ遠慮無しに打ち込む。
この日も同じであった』
「し、しし、試合うぞ、た、忠あ、明!」
キツイ吃りにも構わず、家光は目の前に立つ、枯れ枝のように痩せた老人を怒鳴り付け、睨んで木刀の切っ先を向ける。
将軍家兵法指南一刀流、小野次郎右衛門忠明に、である。
次郎右衛門忠明がいつものように、家光に真剣の素振りを命じた直後のコトであった。
次郎右衛門忠明の目には、家光が技を習う以前にしか見えない故である。
身体が出来ていない人間に、理論や実践は意味がない。次郎右衛門忠明はそう考えていた。
素振り一つを見ても、振るたびに身体が流される程度だと話にならないのだ。
まず基礎体力を向上させ、剣を扱う膂力を鍛え、足腰の安定を図るのが第一である。
理屈は家光にも判る。
しかし、家光にはそれが我慢出来るほどの忍耐力はない。
将軍家の剣術に庶民の理屈はいらんと豪語する始末である。
剣術を修めるのに将軍も庶民も関係ないと、家光の屁理屈を一笑する次郎右衛門忠明だが、
「た、た、但馬はす、筋がい、良いと、も、も申してお、おる!」
同じ将軍家兵法指南新陰流の柳生但馬守宗矩を引き合いに出され、苦い顔を見せる。
これは矯正が必要か。益体もない。
次郎右衛門忠明は木刀を手にし、一刀一足の間合いを開けて、ゆるゆると家光の前に立つ。
「宜しゅうござる。いずれからでも参られよ」
「お、お応よ!」
家光の口角がニヤリと嗤う。
道場の入口を背に、御入側で座して控えていた十兵衛の額に青筋が浮く。
剣に対しては妥協のない次郎右衛門忠明だ。それ故に癇も強い。その次郎右衛門忠明が堪忍を重ねている状況を、家光は利用したのだ。
家光は次郎右衛門忠明と打ち合い、打ち込まれた際に無礼を申し立てて十兵衛を乱入させ、次郎右衛門忠明を打ち据える腹積もりであった。
次郎右衛門をやり込めるこの方法に、宗矩は使えない。何より宗矩に反対されるし、コトが大きくなりすぎるからだ。
しかし、相手が十兵衛であれば、まだ子供の悪戯で済む。さらに次郎右衛門忠明を蟄居させ、一刀流より新陰流の有用性を説くコトも出来る。
また、十兵衛が次郎右衛門忠明を打ち据えれば、次郎右衛門忠明の未熟を痛罵出来るだろう。
家光の頭の中では、一石二鳥にも三鳥にもなる方策であった。
家光の頭の中では。
実際には十兵衛が次郎右衛門に打ち勝つ目はない。
乱入と言う形で次郎右衛門に対しても、一刀の元に打たれるだろう。
それほど、次郎右衛門忠明に油断はないのだ。
例えコトが家光の思惑通りに行ったとしても、新陰流は卑怯卑劣の剣だと忌避されるようになる。
家光にはそれが見えていない。
見えるハズがない。家光は腐っても将軍なのだから。
否。『腐った将軍』である。
このような児戯に等しい理屈で利用されるコトに、十兵衛は憤った。
元より、十兵衛は次郎右衛門を宗矩よりかっている。
兵法家として、次郎右衛門の矜持は正しいのである。しかし、宗矩はこの兵法家の矜持を無用と打ち捨てる者の代表だ。
『平時の兵法は天下万民の安寧を治める礎』が持論の宗矩は、個人の研鑽が大事とする次郎右衛門を兵法家とは見ていない。
『あれは武芸者よ』
そう嘯く姿を十兵衛は何度も目にしている。
武を以て踊る芸者であると。
ある意味、家光という暗愚を作ったのは宗矩なのかも知れない。
「大兵法とやらの筋で一刀を打擲なさりませ」
言外に『出来るなら』と含み、次郎右衛門は笑う。
「推参ぞ、忠明っ!」
あまりの激高に言葉への意識が飛んだのか、吃りもせずに次郎右衛門を非難する家光。
今更だろうにと、襖の向こうで十兵衛が溜飲を下げる。
家光が構えた正眼を上段に持って行こうと動いた刹那、次郎右衛門はついと間境を越え、下段から木刀を跳ね上げた。
カランと乾いた音が道場に響き、家光は両手を挙げた状態で表情を歪ませる。
次郎右衛門忠明の木刀の切っ先は、家光の喉に宛てられていた。
本気であれば、木刀といえども喉を突き破っていたであろう。
それでも家光に痛い目を見せて未熟を突き付けるのは、次郎右衛門の次郎右衛門たる所以だろう。
喉を押さえて二、三歩下がり、尻餅を突いた家光を見下ろして、次郎右衛門は元の位に戻って襖を睨む。
正確には、襖の向こうの十兵衛を。
次郎右衛門には家光の企みは見透かされていた。
「さて、いかがなされますや、十兵衛殿」
「ぶぶ、ぶ、無礼っも、者!じ、じゅ十兵衛!!」
スパーンと襖が開き、次郎右衛門と家光の目に十兵衛が映る。
次郎右衛門は相手が格下にも関わらず、冷静に十兵衛の動きを窺い、家光は表情を輝かせて十兵衛を迎えた。
涙と鼻水と涎が見苦しく家光の顔を汚している。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる