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一年目 ~移民の歌~
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「実際はどうしたんですか?」
僕はマキさんに聞いてみた。吉川さんと戸田のやり取りが始まると、話が進まなくなることも多いのだ。
マキさんは困った顔を浮かべた。どう言おうか迷っているのだろう。松井さんが言った。
「タマが、公園にいないかと思って・・・」
マキさんが困った表情で、叱りきれない理由が分かった気がした。
娘とふたり暮らしということもあって、母親の役割も負わなければならないと毎日頑張っている松井さんは、ゆきちゃんが「簡単に甘えてしまう子にならないように」と、厳しく教育するようにしているのだが、元来ゆきちゃんを溺愛しているせいか、厳しさもどこか甘い。
今回も泣いているゆきちゃんを尻目に「犬の為に仕事を休むことは出来ない」と出社したのだが、家を出る時に見たゆきちゃんの泣き顔が頭から離れず、結局午後から有給休暇を取り、警察に行ったりして探し回っていたらしい。
よっぽど探し回ったのだろう、スーツは泥だらけだ。松井さんがタマちゃんの散歩をする時は必ず公園で休憩しているようなので、ひょっとしたら公園中を、それこそ這いずり回るように探したのかもしれない。
「ゆきちゃん、タマちゃんだけじゃなくてお父さんも帰って来ないって、心配していたんですよ」
不安に押しつぶされそうなゆきちゃんを思い出したのか、マキさんの目には少し涙が浮かんでいた。
お父さんも帰って来ない、というのは少し大げさに聞こえるけれど、ゆきちゃんはまだ小学生三年生だ。タマちゃんがいなくなっただけでも不安に押しつぶされそうなのに、いつもの時間にお父さんが帰って来ないとなると、やはり不安で仕方がないだろう。そしてマキさんは、そんなゆきちゃんを大切に想っているのだ。素晴らしい人だ。
松井さんが、小さく口を開いた。
「甘やかすのはよくないから、タマは明日探そうと思っていたんです。でも、やっぱり・・・」
「ばかもん!」
吉川さんの叱責が響き渡った。僕と小山さんは体を跳ねさせて驚き、戸田はそんな僕らを見てにやついた。
「ひとりで子供を養うのは大変だろうさ。私の家も母親しかいなかったからね、その苦労はちょっとは知っているつもりだよ。私も厳しく育てられたもんさ。でもね、だからこそ、どんな時でも側にいてくれたよ。ゆきちゃんは賢い子だから、あんたの厳しさも愛情のうちってことは知っているさ。でもね、不安に押しつぶされそうな時、誰よりもあんたに側にいてもらいたいんだよ」
松井さんが目頭を押さえた。いつも朗らかに笑っている松井さんが見せる、初めての涙だった。
奥さんが病気で亡くなった時、残された松井さんは五歳のゆきちゃんを抱えて、途方に暮れている暇なんかなかったのだろう。幸いこのアパートには大家の吉川さんや、天使の心を持つマキさんがいて、小山さんや戸田も子供に好かれやすい。それでも松井さんは、ゆきちゃんを甘やかさないように、自分自身も周囲に甘えてしまわないように、精一杯気を張って生きてきた。
ゆきちゃんはとてもいい子だ。隙を見てはゆきちゃんを甘やかそうという輩が多い中、ゆきちゃんはそんな大人たちからの誘惑に負けることもなく、清く正しく生きている。
それでも、松井さんにはゆきちゃんがアパートの住人たち、主におば様たちに甘えているように見えるらしく、甘やかしたいのを我慢して一生懸命厳しくしていたのだ。
「これを持っていってあげな」
吉川さんはそう言ってドッグフードを取り出した。
「これ、タマちゃんが一番好きなやつだろ?」
「あ、いえ。そこまでして頂くわけには」
松井さんが慌てて手を振る。
「遠慮することないよ。私が好きであげるんだからさ」
「実は・・・」
松井さんが照れくさそうに鞄の中からドッグフードを取り出した。同じ商品だが、更にワンランク上の高価なものだ。
「タマも、あれで賢い犬なので、もうきっと帰ってきていると思います」
吉川さんが笑うと、松井さんもようやく笑顔を見せて微笑んだ。
小山さんが僕の袖を引っ張った。バランスを崩した僕は思わず振り返ると、戸田がタマを僕に押し付けてきた。
「俺はこういうシーン苦手だから、清が渡してやってくれないか」
戸田の言葉を聞いて、小山さんが微笑んだ。
「僕は犬アレルギーだから、触れないんだよねえ」
そんな話は聞いていなかったけれど、僕はそれが何を意味しているのか分かったので、小さく口を動かしてありがとうと伝えると、松井にさんに「あの・・・」と声を掛けて、腕の中で気持ちよさそうに眠るタマを差し出した。
「見つけてくれたのかい?」
「ええ、実はベランダで寝ちゃっていまして」
「ベランダで?」
戸田が後ろから声を掛けた。
「犯人は清だ。すぐに警察に通報しよう」
僕が驚いて戸田を見ると、隣に立っている小山さんが「相談してくれれば犬のぬいぐるみくらいなら買ってあげられるのに」と言った。
慌ててみんなの顔を見渡すと、吉川さんが実に非難がましい顔で僕を見ている。もちろんこれは冗談なのだけれど、僕はこういうのが苦手だ。松井さんが涙を浮かべながらも微笑ましい表情を浮かべていること、マキさんが世界一美しい笑みを湛えていることが救いだ。
「ベランダを辿って戸田の部屋まで来ちゃったみたいで。そこで寝ちゃったみたいです」
僕が説明すると、吉川さんが僕を見ながら「セキュリティーを強化しないとねえ」と言った。
この悪ノリは終わりそうにもない。
僕はマキさんに聞いてみた。吉川さんと戸田のやり取りが始まると、話が進まなくなることも多いのだ。
マキさんは困った顔を浮かべた。どう言おうか迷っているのだろう。松井さんが言った。
「タマが、公園にいないかと思って・・・」
マキさんが困った表情で、叱りきれない理由が分かった気がした。
娘とふたり暮らしということもあって、母親の役割も負わなければならないと毎日頑張っている松井さんは、ゆきちゃんが「簡単に甘えてしまう子にならないように」と、厳しく教育するようにしているのだが、元来ゆきちゃんを溺愛しているせいか、厳しさもどこか甘い。
今回も泣いているゆきちゃんを尻目に「犬の為に仕事を休むことは出来ない」と出社したのだが、家を出る時に見たゆきちゃんの泣き顔が頭から離れず、結局午後から有給休暇を取り、警察に行ったりして探し回っていたらしい。
よっぽど探し回ったのだろう、スーツは泥だらけだ。松井さんがタマちゃんの散歩をする時は必ず公園で休憩しているようなので、ひょっとしたら公園中を、それこそ這いずり回るように探したのかもしれない。
「ゆきちゃん、タマちゃんだけじゃなくてお父さんも帰って来ないって、心配していたんですよ」
不安に押しつぶされそうなゆきちゃんを思い出したのか、マキさんの目には少し涙が浮かんでいた。
お父さんも帰って来ない、というのは少し大げさに聞こえるけれど、ゆきちゃんはまだ小学生三年生だ。タマちゃんがいなくなっただけでも不安に押しつぶされそうなのに、いつもの時間にお父さんが帰って来ないとなると、やはり不安で仕方がないだろう。そしてマキさんは、そんなゆきちゃんを大切に想っているのだ。素晴らしい人だ。
松井さんが、小さく口を開いた。
「甘やかすのはよくないから、タマは明日探そうと思っていたんです。でも、やっぱり・・・」
「ばかもん!」
吉川さんの叱責が響き渡った。僕と小山さんは体を跳ねさせて驚き、戸田はそんな僕らを見てにやついた。
「ひとりで子供を養うのは大変だろうさ。私の家も母親しかいなかったからね、その苦労はちょっとは知っているつもりだよ。私も厳しく育てられたもんさ。でもね、だからこそ、どんな時でも側にいてくれたよ。ゆきちゃんは賢い子だから、あんたの厳しさも愛情のうちってことは知っているさ。でもね、不安に押しつぶされそうな時、誰よりもあんたに側にいてもらいたいんだよ」
松井さんが目頭を押さえた。いつも朗らかに笑っている松井さんが見せる、初めての涙だった。
奥さんが病気で亡くなった時、残された松井さんは五歳のゆきちゃんを抱えて、途方に暮れている暇なんかなかったのだろう。幸いこのアパートには大家の吉川さんや、天使の心を持つマキさんがいて、小山さんや戸田も子供に好かれやすい。それでも松井さんは、ゆきちゃんを甘やかさないように、自分自身も周囲に甘えてしまわないように、精一杯気を張って生きてきた。
ゆきちゃんはとてもいい子だ。隙を見てはゆきちゃんを甘やかそうという輩が多い中、ゆきちゃんはそんな大人たちからの誘惑に負けることもなく、清く正しく生きている。
それでも、松井さんにはゆきちゃんがアパートの住人たち、主におば様たちに甘えているように見えるらしく、甘やかしたいのを我慢して一生懸命厳しくしていたのだ。
「これを持っていってあげな」
吉川さんはそう言ってドッグフードを取り出した。
「これ、タマちゃんが一番好きなやつだろ?」
「あ、いえ。そこまでして頂くわけには」
松井さんが慌てて手を振る。
「遠慮することないよ。私が好きであげるんだからさ」
「実は・・・」
松井さんが照れくさそうに鞄の中からドッグフードを取り出した。同じ商品だが、更にワンランク上の高価なものだ。
「タマも、あれで賢い犬なので、もうきっと帰ってきていると思います」
吉川さんが笑うと、松井さんもようやく笑顔を見せて微笑んだ。
小山さんが僕の袖を引っ張った。バランスを崩した僕は思わず振り返ると、戸田がタマを僕に押し付けてきた。
「俺はこういうシーン苦手だから、清が渡してやってくれないか」
戸田の言葉を聞いて、小山さんが微笑んだ。
「僕は犬アレルギーだから、触れないんだよねえ」
そんな話は聞いていなかったけれど、僕はそれが何を意味しているのか分かったので、小さく口を動かしてありがとうと伝えると、松井にさんに「あの・・・」と声を掛けて、腕の中で気持ちよさそうに眠るタマを差し出した。
「見つけてくれたのかい?」
「ええ、実はベランダで寝ちゃっていまして」
「ベランダで?」
戸田が後ろから声を掛けた。
「犯人は清だ。すぐに警察に通報しよう」
僕が驚いて戸田を見ると、隣に立っている小山さんが「相談してくれれば犬のぬいぐるみくらいなら買ってあげられるのに」と言った。
慌ててみんなの顔を見渡すと、吉川さんが実に非難がましい顔で僕を見ている。もちろんこれは冗談なのだけれど、僕はこういうのが苦手だ。松井さんが涙を浮かべながらも微笑ましい表情を浮かべていること、マキさんが世界一美しい笑みを湛えていることが救いだ。
「ベランダを辿って戸田の部屋まで来ちゃったみたいで。そこで寝ちゃったみたいです」
僕が説明すると、吉川さんが僕を見ながら「セキュリティーを強化しないとねえ」と言った。
この悪ノリは終わりそうにもない。
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