飛ぶことと見つけたり

ぴよ太郎

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 その後、痛み分けとなった俺と山下は、形だけの和解をした。二人とも水に落ちたことで、文字通り頭を冷やしたのかもしれない。
 結局、この大会では二人とも記録なしに終わってしまった。だが、これでよかったのかもしれない。我が校の野球部ならば、たとえ敗れてもライバルとして認めあうこともできようが、今の俺と山下にはまだ無理だ。俺が勝っていれば奴を見下すし、奴が勝っていれば同じように俺を見下すに違いない。今はまだ、喧嘩両成敗ということにしておいた方がいいのかもしれない。
 ただ、学校はどうか知らないが、俺と山下の関係も少しは改善できそうだ。これもやはりスポーツの力だと言われればそうだし、お互い大人になったのだと言われればそれもそうであった。山下は、下を向きながらひねくれたようにであったが俺の成長を褒め、俺は左を向きながら自分でも聞きとれないような声ではあったが、山下のミスを慰めた。山下も視線を右に泳がしながら、俺の慰めを受け止めた。二人の視線の先には、あの祖母と孫がおり、孫はなんだか楽しそうにこちらを眺めている。奇妙なことに、俺と山下は顔を見合わせ、口角だけでニヒルに笑いあった。こんなことは初めてだ。これから二人は、変わることが出来るだろうか。
 少しだが、俺は山下と仲良くなってもいいと思った。きっと、奴も心のどこかでそう感じているのではないだろうか。二人とも、間違っても表には出さないが。

 今シーズンも終わろうとしていた。本来のフィーエルヤッペンにシーズンがあるかどうかは知らないが、これから先の季節、川に落ちたら随分とひどい目に遭うことは火を見るより明らかで、おまけに関東勢には中年が多い。自粛というよりも、やりたくない、落ちたら死ぬ、という空気が充満しているのだ。
 オフの間にフィーエルヤッペンというものを忘れてやめてしまう人がいるのも事実である。来る者拒まず出る者追わずの精神である鎌田さんたちは、やめていく人を追ったりはしないが、それでもなんだか淋しいのが事実であるらしく、交流会などを催している。場所はもちろん、やじろべえだ。

 「今年はたくさん新しい人が入ってくれたので、なんだか充実したシーズンになりましたね」

 顔を赤らめながら鵜殿さんが言った。たくさんといっても俺を含めて四人だから大した数ではないが、ここ数年ルーキーが入るなんてことはなかったようだから、やっぱりたくさんなのだろう。

 「いい記録も出ましたしね」

 笠木さんは顔だけでなく、あらゆる部分が赤かった。酒に弱いのに芋焼酎のロック一本なので、すぐに回るのだという。その横では、新記録を出した熱血フラワーデザイナーの羽生さんが、ウィスキーをストレートでがぶ飲みしている。なんだかガソリン補給しているマシンのようだ。
 俺もいい気分で酔っ払っていると、ふいに粘着質の空気が流れた気がした。予想、というよりも確信だったのだが、やはりそこには山下がいた。奴は俺と目が合うと、小さく頭を下げた。
 まだ隣の席に座って談笑できるほど仲良くなってはいない。奴も同じ気持ちなのだろう、俺から少し離れた席についた。だが、お互い気にしているのが、なんとなく分かる。悪くない。俺も、きっと奴も悪い気はしていない。
 みんな完全に酔いが回ったようだ。ぐでんぐでんになりながらも羽生さんは演説をはじめようとしているし、普段クールな鎌田さんも鵜殿さんと肩を組みながら尾崎豊のI love youを歌っている。俺はこの曲が好きだが、酒の席で肩を組んで歌う歌ではないと思う。おまけに酔っているからメロディーは滅茶苦茶である。
 俺は、山下に話しかけてみようと思った。あの日以来、きっとお互いに今の状況を打破したいと思っているはずだ。俺が席を立とうとした時、なんと奴の方から近づいてきた。

 「や、やあ」
 「ど、どうぞ」

 二人とも、我ながら情けなくなるような、えらくぎこちない挨拶だ。何が「どうぞ」なんだ。そんな二人を、小笠原先生は気楽そうに見ている。こっちのほとばしる緊張感も知らないで。

 「まま、一杯」

 そう言って小笠原先生は山下のグラスに酒を注いだ。本当はこんなことは言いたくないけど、それは俺が注文して、まだ手を付けてない酒だ。
 俺のそんな気持ちもおかまいなしに、小笠原先生は山下のグラスに「おーっとっと」などと古臭いことを言いながら注いでいる。でかいグラスと「おーっとっと」というセリフの割にやたらとちびちび入れるもんだから、中々グラスは満たされない。それを見ているとイライラするが、山下の野郎もイライラしているのがよく分かる。

 「山下先生は、シーズンオフは何をしていらっしゃるんですか?」

 ようやく一杯になったグラスから酒瓶を机に置きながら聞いた。

 「フィーエルヤッペンの他にスポーツでも?」
 「いやあ、お恥ずかしい」

 何がお恥ずかしいのだ。

 「エクストリーム・アイロニング、という競技をご存知ですか」
 「いや、存知ませんな」
 「極限状態において、いかに平然とアイロン台を取り出してアイロンがけができるかを競う競技なんです。極限状態であればどんな場所でよく、一流のアイロニストなんかは海底やキリマンジャロの斜面でアイロニングしたり、パラシュートで降下しながらかけたりするんですよ」

 アイロン本来の行為はこの際一切関係がなく、ただひたすら「極限状態でのアイロンがけ(のポーズ)」を要求するのだという。意味がわからん、ここに極めり。
 しかし、私の横に座っているつるぺた美術教師の反応は違った。ほう、と小さく呟くと、山下の話に真剣に聞き入っている。まさかとは思うが・・・・・・。

 「“アイロン・マン”カリックはなんと、アルゼンチンのアコンカグアの頂上でアイロンを掛けたんですよ。尊敬に値します」

 アコンカグア。標高六九六二メートル、南米最高峰の山である、らしい。一九六八年には植村直己も登頂を果たしている、らしい。が、凄いのか?いや、凄いんだろう。いや、でもやっぱりそれ凄いのか?分からない。

 「その記録に挑戦したホット・プレート・ブラザーズは、残念ながら頂上に到達できなかったんですが、彼らもまたすごかった」

 悔しそうにそう呟いたのは小笠原先生だ。その呟きがえらく説明臭いのは、俺が聞いているからだろう。心遣いはありがたいが、本音を言うと、二人だけで語ってもらっても一向に構わない。それにしても、アイロン・マンだのホット・プレート・ブラザーズだの、一体何の話だ。いや、エクストリーム・アイロニングなる競技の話だというのは分かる。しかし、やっぱり何の話だ。

 「ひょっとして、小笠原先生もエクストリーム・アイロニングを?」

 むふふん、と小笠原先生は不敵に笑った。

 「私、こう見えてもエクストリーマーなんですよ」

 やはりメインはアイロンよりエクストリームの方らしい。
 「やや、そうなんですか」

 これまた実生活では使わなさそうな感嘆詞を持って驚いた。

 「是非とも小笠原先生のご活躍を聞かせていただきたいものですなぁ」
 「いえいえ、私なんぞまだまだ。でもね、去年は僕、頑張りましたよ。恐山でエクストリームしたんですよ」
 「いいんですか、それ?!」

 二人の邪魔はしないでおこうと誓った俺ではあったが、思わず反応してしまった自分が憎い。だが、山下の反応は違った。

 「凄いじゃないですか!」

 純粋に驚いている。陶酔するイタコさんの横でアイロンかけをするのは確かに難易度が高いだろう。いろんな意味でエクストリームしてしまいそうだが、その難易度の高さとエクストリーマー達の憧れは一致するのであろうか。分からない。ふふんと鼻息を漏らす小笠原先生に山下は言う。

 「実は私も去年の暮れ、長良川の鵜飼観覧船でエクストリームしましたよ」

 迷惑行為である。業務妨害でもある。それが教育者の行為なのか、甚だ疑問である。

 「それはまた思い切ったことを」
 「いえいえ、それほどでも」
 「でもやはり、エクストリーム・アイロニング愛好家としては、海外でやってみたいものですなぁ」
 「もちろんですともさ。私は是非とも、ガンジス川を泳ぎながらやってみたいんですよ」
 「それはいいですなぁ。それなら私はイスタンブールで――」

 意味不明な会話がそれ以上俺の頭に入ることはなく、呪詛とも子守唄ともつかない奇妙な音とかして俺を眠りの世界に導いた。帰りしな、鵜殿さんが駅まで連れていってくれたようだが、その間ずっと俺は「溺れる・・・・・・」とうなされていたらしい。小笠原先生のせいに違いない。

 二日酔いの頭を抱えての授業は辛かった。美術教師と違い、生徒に絵を描かせて自分は裏で寝る、というような行為を国語教師はできない。自分でも分からない問題を生徒たちに答えさせ、適当に「よく出来た」とか「惜しい」とか言いながら二枠こなすと、俺の体力は尽きてしまった。幸い三時間目は空いているので、こっそり寝ようと職員室に戻ると、小笠原先生が妙に興奮したような表情を浮かべ、近づいてきた。

 「押井先生!やっつけよう!」

 主語と目的語が抜けている、と、一応は国語教師らしいツッコミをしてみた。

 「山下先生だよ!あやつ、私たちより自分の方がよっぽどエクストリーマーだ、なんて言うんだよ!」
 
 「たち」をつけるな。エクストリーマーはあんただけだ。

 「ああ、分からないかなあ。僕たちが侮辱されてるんだよ。僕たちが」

 だから「たち」を付けるな、「たち」を。俺が乗り気でないとわかると、小笠原先生は悔しそうな顔で音楽の村治先生の元に歩いていった。才色兼備が服を来て歩いているような、わが校のマドンナだ。他にもっと誘ってよさそうなのがいるだろう。なぜ村治先生なのだ。

 「僕たちの名誉がね・・・・・・」

 演説をぶっている。どうしても「たち」をつけたい場合、きっとこれが正しい。どうやら俺たちは、あまり進歩できていないらしい。
 俺はつかの間の眠りに付くため、ゆっくりと目を閉じた。村治先生の戸惑ったような「うーん」という声が聞こえてきた。
さあ、おやすみなさい。
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