フロイント

ねこうさぎしゃ

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一つめの願い

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 台所はあらかたきれいになったので今度は他の部屋を掃除しようと思って廊下に出たとき、まだ二階を見ていないことを思い出したアデライデは、掃除道具を抱えて階段を上っていった。
 二階はどの部屋にも凝った細工が施された家具が置かれ、贅沢な印象を与える部屋ばかりだった。そのうちの一つは壁に深い緋色のビロードが張り巡らされており、バルコニーに出るための大きな掃き出し窓のそばに、天蓋から熟れたプラムを思わす赤紫色のカーテンが垂れ下がった寝台が置かれていた。月を眺めながら眠ることができそうで、アデライデはここを自分の寝室にしようと思い、まずは窓の内側をきれいに拭くことから始めた。バルコニーに出てみたい気持ちはあったが、恐ろしい勢いで駆け抜けていく風の音を聞いていると、とても外に出るのは無理だと思い、ため息を吐いて諦めた。
 でもそれ以外では、ほんとうにこの部屋は居心地が良さそうだった。寝台の上に汚れやほこりがほとんどたまっていなかったことも幸いだったし、暖炉を囲む黒い大理石のマントルピースの上には、繊細な蔦の縁飾りのある大きな鏡も置かれていた。部屋の隅には隠し扉がついていて、中身は空っぽではあったが、小さな衣裳部屋までついていた。
 あらかた部屋の掃除が済むと、アデライデは寝台の上に長々と横たわってみた。まるで雲の上に寝そべっているような寝心地に、思わず小さなあくびが出た。ゆうべは椅子に座ったまま寝てしまったのであまりよく眠れていなかった上に、急な身の上の変化の緊張もあった。今朝も早くからずっと体を動かしていたせいで、アデライデの体は疲れ切っていた。寝台に身を横たえていくらもしないうちに、アデライデは引き込まれるように深い眠りに入って行った。


 目が覚めたとき、窓の外はすでに暗くなっていた。いつの間にか暖炉には火が入っていて、薪のはぜる心地良い音が部屋に響いていた。部屋のあちこちに置かれた燭台のろうそくにも火がともっており、家具の影を床に長く伸ばしていた。
 アデライデは寝台から身を起こすと、一階に下りて行った。正餐室ではやはり赤々と暖炉の炎が燃えていた。暖炉の前の椅子もそのまま置かれている。暖炉のそばに近づいていく途中、ひときわ大きな風が窓にぶつかってアデライデを驚かせた。心地よい睡眠でくつろぎを取り戻していたはずのアデライデは、途端に恐慌の渦に放り込まれた。今日まだ一度も魔物の姿を見ていないということが、アデライデに大きな不安を抱かせた。こんな恐ろしい荒野の館に、たったひとりで取り残されているのだろうかと思うと、飢えた獣の吠え声のような風の音にも心臓はびくびくと縮み上がった。
 なんとか気を静めようと、暖炉の前の椅子に腰かけて一心に炎を見つめたが、気持ちはなかなか落ち着かなかった。アデライデの頭には父の顔が浮かんだ。森にいた頃はいつも父と一緒で、こんなに長い時間をひとりで過ごしたことなどなかったし、ラングリンドの森ではたとえどんな嵐の夜であっても、恐ろしいという気持ちになったことはなかった。それが今は、風の唸りに身を縮め、心細さのために震えているのだった。
 強い風がまた、小動物に襲いかかるオオカミのように正餐室の窓に噛みついて、ギシギシと嫌な音を立てた。アデライデの不安は大きくなる一方だった。暖炉の前にいても、体はどんどん冷えていくように思えた。
 そのときアデライデの髪を一陣の風が揺らし、例のひどい臭いが立ち込めた。思わず口元を覆って振り向くと、少し離れた部屋の隅に、あの魔物が立っていた。魔物の姿を見た途端、アデライデは意外にも自分の心が恐怖による緊張の鎖から解き放たれるのを感じた。魔物の出現に安堵している自分に、アデライデはいささかの驚きを感じて戸惑った。
 魔物は部屋の隅に立ったまま、黙ってアデライデを見つめていたが、しばらくすると低い声で言った。
「震えているが、俺が恐ろしいのか?」
 アデライデは魔物の声に、抑えられてはいるが不安の色を聞き取った。アデライデは口元を覆っていた手をすっと静かに下ろした。
「──いいえ、わたしが震えているのは、風の音が恐ろしかったからです」
 沈黙が続いた。だがアデライデは、自分がずっと落ち着いてきていることに気がついていた。魔物の臭いは肺にこたえたが、風が激しくぶつかって来ても、もうあまり怖いとは思わなかった。
「……今日はよい日だったか」
 魔物の低い声は同じだったが、先ほどより不安の色は薄くなっていた。アデライデは昼間の出来事を思い出しながら、魔物に返事をした。
「はい、そう思います。……あの、鳥を助けたのですが……」
 すると魔物はすぐに頷いて、
「知っている」
「え?」
 アデライデは驚いて目を見開き、魔物を見上げた。魔物はバツの悪い顔で赤い瞳を逸らした。
「知っているって、どうしてですか?」
「それは……つまり……ずっとおまえを見ていたから……」
「わたしを、ずっと? でも、どうやって?」
 魔物は観念したようにアデライデに向き直ると、
「ここからずっと遠くに行ったところに小さな沼がある。そこを鏡にしておまえを映し、見ていたのだ」
 アデライデは美しい目を見開いて、魔物を見つめていた。アデライデが何も言わないでいると、魔物は言い訳をするように急いで言葉を続けた。
「俺の臭いはこたえるだろう? おまえのことは気になったが、あまり長くそばにはいられない。だからあの沼鏡で見ていたのだ」
 アデライデは日中に感じた例の視線を思い出した。アデライデへの控えめでありながらも強い関心を示していた視線は、今まさに目の前にいる魔物の瞳そのものだった。アデライデは自分を刺し貫いた視線のことをも思い出したが、やはり常とは違う環境に身を置いている緊張が我知らず神経を張りつめさせ、そのような強烈な感覚を抱かせたのだろうと考えた。そう思うと、安堵が胸に広がった。


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