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一つめの願い
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アデライデが口を開こうとしたとき、小さな咳が出た。アデライデは苦しさを感じて、胸を押さえた。
魔物は自分の臭気がアデライデの体に障りだしたことに気がつくと、急いでこの場を離れようとした。
「……もう行く」
アデライデは込み上げる咳を押さえ、魔物に尋ねた。
「どこに行くのですか? あなたはこの館で休まないのですか?」
「……俺がここにいたのでは、おまえはゆっくり休めないだろう」
その言い方にはどこか胸を打つような悲しい響きが含まれていた。アデライデは、魔物が自分の思っている以上に孤独なのかもしれないと感じた。
体の辛さはあったが、アデライデは思わず魔物を引き留める言葉を口にしていた。
「あの、もう少しだけ、お話ができませんか?」
思いもかけず引き留められて、魔物は驚いてアデライデを見た。
「俺は構わんが……」
淡い期待と名状しがたい不安のような気持ちが一時に魔物の体に押し寄せた。
アデライデは咳を我慢しながら昼間の鳥のことについて尋ねた。
「昼間のあの鳥のことですが……。いったいどういう鳥なのですか?」
アデライデの問いかけに、魔物は慎重に考えるような目つきになって、沼鏡で見た鳥の鮮やかな姿を頭に描いた。
「俺にもわからん。あんな鳥は見たことがない。だがここにはときどき人間の世界から鳥が迷い込んでくるのだ。この館は、人間の世界と魔物の世界のちょうど中間にあるからな」
「人間の世界と魔物の世界の中間……?」
「あぁ、俺はどちらにも居場所がないものでな。その中間にいるというわけだ」
魔物は自嘲するように嗤った。だがすぐにアデライデを心配そうに見ると、
「そろそろ限界だろう」
と呟いた。アデライデが無理をしていることは充分わかっていた。実際アデライデの体は、強い刺激を受けて苦しさを増していた。
アデライデは魔物に声を掛けようと口を開いたが、言葉の代わりに激しい咳が出た。魔物は一瞬悲しげに目をすがめてアデライデを見たが、現れたときと同様にさっと吹いた風と共に急いで姿を消した。
魔物が去ると室内の臭いはすぐに消え、アデライデの呼吸は楽になった。アデライデは深く息を吸って、椅子の背に体を預けた。またひとり風の叩きつける館に取り残されたが、もうあまり寂しさや怖さを感じなかった。
アデライデは窓の外を見た。砂を舞い上げながら叩きつける風の向こうに、暗い夜空が見えた。今夜は月が見えないようだ。
アデライデはゆっくり体を起こすと、二階の寝室に向かった。暖炉の火で充分にあたたまった部屋のベッドに座って、ぼんやりと窓の向こうのバルコニーを見つめていると、突然夜空に厚く立ち込めていた雲のすき間から、一筋の月の光が射してきた。アデライデは心が浮き立つのを感じながら、もっと月が見えないかと夜空を見上げた。昨夜とほとんど変わらないが、それでも少しだけ欠けたとわかる月が、雲の間に姿を現した。
「……不思議だわ。森にいた頃よりも、ずっと月の光が明るく感じられる……」
アデライデはしばらく座ったまま月を眺めていたが、ゆっくりとベッドに横になった。思った通り、月の美しい姿がよく見えた。アデライデは部屋を照らす月明かりの中、次第にうとうとし始め、やがて眠りに落ちていった。
それからの数日、アデライデは日中は館の掃除や修繕に精を出した。時折視線を感じることはあったが、それが魔物の視線だと思うことは、かえってアデライデを安心させた。昼夜を問わず吹き続ける激しい風の音にも慣れてきた。日に日にきれいになっていく館の様子にアデライデは満足を覚え、次第に館を自分の家のように感じ始めるようにもなっていた。
それに、魔物はアデライデがこの館で快適に暮らせるよう、いろいろと心を配ってくれた。朝、アデライデが目を覚ますと、生活に必要な物が用意されていることがよくあった。たとえばブラシや服や石鹸などが、アデライデの目につくところに置いてあるのだ。はじめ何もなかった寝室の衣裳部屋は、魔物が用意した服でいっぱいになっていった。
夜には短い間ではあったが、アデライデのもとに魔物がやって来て、短いおしゃべりをした。短い会話の中でも、その言動から魔物がとても紳士的で、繊細な心や感覚を持っていることがよくわかった。
アデライデは、しだいに夜が来て魔物が姿を現すのを楽しみに待つようになっていた。もちろん、臭いの問題は依然としてこの夜のひと時のなかでひとつの妨げとなっていたが、それでも魔物がそのことを非常に気にしていて、アデライデに苦痛や負担がかからないよう配慮を怠らないでいるのを見るにつけ、アデライデは魔物に信頼を寄せるようになっていった。
魔物はアデライデが日を追うごとに自分に対して心を開いていくのを肌で感じ、それまで一度も感じたことのなかった感覚が体の中にあふれていくことに気がついた。最初はこのむずがゆく、暖炉の炎のようにあたたかい未知の感覚に戸惑ったが、すぐにそれが喜びによる幸福であることに思い至った。
夜のわずかなひと時をアデライデと共に過ごす喜びは日増しに大きくなったが、しかしアデライデのそばにいて、自分の臭いがアデライデの体に害を与えることや、自分の醜い姿がアデライデの美しい瞳に映ることが気になる魔物にとって、一日のほとんどすべての時間を沼鏡の前で過ごすことは、引け目や気兼ねを感じずアデライデを見つめられる至福の時間でもあった。
濁った茶色の沼を呪文によって鏡に変え、輝きに満ちたアデライデの姿が映し出されると、魔物は心の底から湧き上がってくるような嬉しさと恍惚に、自分の大きな黒い体が満たされるのを感じるのだった。アデライデの様子を見ていて、困っていることや必要なものがありそうなときは、苦手な魔術をなんとか駆使して問題を解決してやることに力を尽くした。
しかし何より魔物を喜ばせたのは、自分のアデライデに対するさまざまな気遣いや行動を、アデライデがちゃんと理解して感謝を示してくれることだった。
魔物の世界では、他者を騙すという目的以外で思いやりや配慮といった行動をすることは、馬鹿にされたり蔑まれたりする要因になるものだった。それで魔物は自分のことをつくづく情けない魔物なのだと思い、卑屈になっていたのだが、自分がずっと欠点だと思っていた性質がアデライデを喜ばせ、安心させ、信頼を勝ち得ていることで、魔物の心には少しずつ自尊心が芽生え始めていた。
魔物はアデライデが自分に心をかけてくれる態度を見、感じるうちに、もっとアデライデのそばにいて、その美しい姿ややさしい声や、内側からあふれ出しているまぶしい光に直接触れていたいと思うようになっていった。
だがその想いを阻むのは、何にもまして自分の臭いだった。魔物は沼鏡の縁に座って、大きな逞しい背中を丸めて鏡に映し出されるアデライデの姿を見ているとき、喜びと共に冷たい沼の水のような惨めさが、ひたひたと足元から上がってくるのを感じ、切ないため息を吐くのだった。
魔物は自分の臭気がアデライデの体に障りだしたことに気がつくと、急いでこの場を離れようとした。
「……もう行く」
アデライデは込み上げる咳を押さえ、魔物に尋ねた。
「どこに行くのですか? あなたはこの館で休まないのですか?」
「……俺がここにいたのでは、おまえはゆっくり休めないだろう」
その言い方にはどこか胸を打つような悲しい響きが含まれていた。アデライデは、魔物が自分の思っている以上に孤独なのかもしれないと感じた。
体の辛さはあったが、アデライデは思わず魔物を引き留める言葉を口にしていた。
「あの、もう少しだけ、お話ができませんか?」
思いもかけず引き留められて、魔物は驚いてアデライデを見た。
「俺は構わんが……」
淡い期待と名状しがたい不安のような気持ちが一時に魔物の体に押し寄せた。
アデライデは咳を我慢しながら昼間の鳥のことについて尋ねた。
「昼間のあの鳥のことですが……。いったいどういう鳥なのですか?」
アデライデの問いかけに、魔物は慎重に考えるような目つきになって、沼鏡で見た鳥の鮮やかな姿を頭に描いた。
「俺にもわからん。あんな鳥は見たことがない。だがここにはときどき人間の世界から鳥が迷い込んでくるのだ。この館は、人間の世界と魔物の世界のちょうど中間にあるからな」
「人間の世界と魔物の世界の中間……?」
「あぁ、俺はどちらにも居場所がないものでな。その中間にいるというわけだ」
魔物は自嘲するように嗤った。だがすぐにアデライデを心配そうに見ると、
「そろそろ限界だろう」
と呟いた。アデライデが無理をしていることは充分わかっていた。実際アデライデの体は、強い刺激を受けて苦しさを増していた。
アデライデは魔物に声を掛けようと口を開いたが、言葉の代わりに激しい咳が出た。魔物は一瞬悲しげに目をすがめてアデライデを見たが、現れたときと同様にさっと吹いた風と共に急いで姿を消した。
魔物が去ると室内の臭いはすぐに消え、アデライデの呼吸は楽になった。アデライデは深く息を吸って、椅子の背に体を預けた。またひとり風の叩きつける館に取り残されたが、もうあまり寂しさや怖さを感じなかった。
アデライデは窓の外を見た。砂を舞い上げながら叩きつける風の向こうに、暗い夜空が見えた。今夜は月が見えないようだ。
アデライデはゆっくり体を起こすと、二階の寝室に向かった。暖炉の火で充分にあたたまった部屋のベッドに座って、ぼんやりと窓の向こうのバルコニーを見つめていると、突然夜空に厚く立ち込めていた雲のすき間から、一筋の月の光が射してきた。アデライデは心が浮き立つのを感じながら、もっと月が見えないかと夜空を見上げた。昨夜とほとんど変わらないが、それでも少しだけ欠けたとわかる月が、雲の間に姿を現した。
「……不思議だわ。森にいた頃よりも、ずっと月の光が明るく感じられる……」
アデライデはしばらく座ったまま月を眺めていたが、ゆっくりとベッドに横になった。思った通り、月の美しい姿がよく見えた。アデライデは部屋を照らす月明かりの中、次第にうとうとし始め、やがて眠りに落ちていった。
それからの数日、アデライデは日中は館の掃除や修繕に精を出した。時折視線を感じることはあったが、それが魔物の視線だと思うことは、かえってアデライデを安心させた。昼夜を問わず吹き続ける激しい風の音にも慣れてきた。日に日にきれいになっていく館の様子にアデライデは満足を覚え、次第に館を自分の家のように感じ始めるようにもなっていた。
それに、魔物はアデライデがこの館で快適に暮らせるよう、いろいろと心を配ってくれた。朝、アデライデが目を覚ますと、生活に必要な物が用意されていることがよくあった。たとえばブラシや服や石鹸などが、アデライデの目につくところに置いてあるのだ。はじめ何もなかった寝室の衣裳部屋は、魔物が用意した服でいっぱいになっていった。
夜には短い間ではあったが、アデライデのもとに魔物がやって来て、短いおしゃべりをした。短い会話の中でも、その言動から魔物がとても紳士的で、繊細な心や感覚を持っていることがよくわかった。
アデライデは、しだいに夜が来て魔物が姿を現すのを楽しみに待つようになっていた。もちろん、臭いの問題は依然としてこの夜のひと時のなかでひとつの妨げとなっていたが、それでも魔物がそのことを非常に気にしていて、アデライデに苦痛や負担がかからないよう配慮を怠らないでいるのを見るにつけ、アデライデは魔物に信頼を寄せるようになっていった。
魔物はアデライデが日を追うごとに自分に対して心を開いていくのを肌で感じ、それまで一度も感じたことのなかった感覚が体の中にあふれていくことに気がついた。最初はこのむずがゆく、暖炉の炎のようにあたたかい未知の感覚に戸惑ったが、すぐにそれが喜びによる幸福であることに思い至った。
夜のわずかなひと時をアデライデと共に過ごす喜びは日増しに大きくなったが、しかしアデライデのそばにいて、自分の臭いがアデライデの体に害を与えることや、自分の醜い姿がアデライデの美しい瞳に映ることが気になる魔物にとって、一日のほとんどすべての時間を沼鏡の前で過ごすことは、引け目や気兼ねを感じずアデライデを見つめられる至福の時間でもあった。
濁った茶色の沼を呪文によって鏡に変え、輝きに満ちたアデライデの姿が映し出されると、魔物は心の底から湧き上がってくるような嬉しさと恍惚に、自分の大きな黒い体が満たされるのを感じるのだった。アデライデの様子を見ていて、困っていることや必要なものがありそうなときは、苦手な魔術をなんとか駆使して問題を解決してやることに力を尽くした。
しかし何より魔物を喜ばせたのは、自分のアデライデに対するさまざまな気遣いや行動を、アデライデがちゃんと理解して感謝を示してくれることだった。
魔物の世界では、他者を騙すという目的以外で思いやりや配慮といった行動をすることは、馬鹿にされたり蔑まれたりする要因になるものだった。それで魔物は自分のことをつくづく情けない魔物なのだと思い、卑屈になっていたのだが、自分がずっと欠点だと思っていた性質がアデライデを喜ばせ、安心させ、信頼を勝ち得ていることで、魔物の心には少しずつ自尊心が芽生え始めていた。
魔物はアデライデが自分に心をかけてくれる態度を見、感じるうちに、もっとアデライデのそばにいて、その美しい姿ややさしい声や、内側からあふれ出しているまぶしい光に直接触れていたいと思うようになっていった。
だがその想いを阻むのは、何にもまして自分の臭いだった。魔物は沼鏡の縁に座って、大きな逞しい背中を丸めて鏡に映し出されるアデライデの姿を見ているとき、喜びと共に冷たい沼の水のような惨めさが、ひたひたと足元から上がってくるのを感じ、切ないため息を吐くのだった。
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