フロイント

ねこうさぎしゃ

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魔物の舘

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 魔物はアデライデのその様子を見ると、他の人間たちと同様に、自分の醜さに驚き、拒絶しているのだろうと思った。けれど、それでもなお匂い立つような美しさに光り輝くアデライデに、心は完全に魅了されていた。衝動的にさらって来てしまったことに、魔物は未だ自分自身でも戸惑っていたが、こうして間近でアデライデを見ていると、体中の血が沸き立つような喜びに我を忘れそうになるのだった。
 魔物はこの美しい人間の娘を、ずっと手元に留め置くことしか頭になかった。だが自分が拒絶されることもわかりきっていた。娘がどんな頑なな態度で自分を避けようとするかを想像するだけでも、魔物の心は深く傷つき、恐れおののいた。魔物は身じろぎひとつせず自分を見上げる娘に、いったいどんな最初の一言をかけるべきか、延々と頭を悩ませていた。できるなら、自分が害を与えるつもりのないことをわかってほしかったが、無理に連れ去ってしまっておいて、傷つける気がないと言うのも空々しい。それに、何より魔物は娘の反応が怖かった。考えあぐねた末、魔物は「魔物らしく」迫ろうと決めた。そこでできるだけ威圧的な声で、体を固くしてじっと自分を見上げている娘に向かって最初の一言を発した。
「俺はこの館の主だ。先刻承知だろうが、俺は魔物だ。そして俺はおまえを我が妻とするべく、ここへ連れて来た。おまえは、これからここで一生を過ごすのだ」
 魔物の言葉に、アデライデはひどいショックを受けた。ひとまず食べられるわけではないということはわかったが、いきなり連れ去られた上、魔物の妻として恐ろしい風の吹き荒れる見も知らぬ荒れ地の館で一生を送るよう命じられるなど、悪夢にも見なかったことだった。アデライデはまっしろになった頭で、茫然と魔物の赤い目を見つめていた。
 脳裏には次々とラングリンドで過ごした日々のことが浮かび、中でもたったひとりの父の顔が大きく胸に迫ってきた。アデライデの澄んだ瞳からは涙がはらはらとこぼれ落ちた。ただの一言のあいさつもできないまま父と別れて来なければならなかった不幸に、まさかこんなことになるなら、父の言うことを聞いてもっと早くに誰かと結婚し、町に移り住んでいればよかったという後悔が押し寄せてきた。そうすれば、少なくともこんな形で父と別れなければならないという状況だけは避けられただろう。アデライデは固く目を閉じ、肩を震わせて泣いた。
 魔物は自分がいかにも冷酷無比な悪党であるような気がして、罪悪感を覚えずにはいられなかった。どうにか慰めてやろうと適当な言葉をさがしたが、よい言葉はなかなか見つからなかった。が、厚い灰色の雲に隠れた薄い太陽が、荒野の地平線に沈み始めたのに気がつくと、ふと今夜が満月であったことを思い出した。魔物はいくらかやわらかな口調になるよう心掛けながら、アデライデに言った。
「確かに突然おまえをさらったとは言え、俺はそう残酷な魔物というわけじゃない。その証拠として、我が花嫁となるおまえに、婚礼の贈り物をしてやろう。今夜はちょうど満月だから、俺の魔力も少しは強くなる。だからなんでもおまえの願いを叶えてやろう。──ただし、元の場所に帰してくれというのはなしだ。それ以外なら、どんな願いでも叶えてやろう」
 けれど娘の涙は止まらず、そればかりかますます激しく泣き出したようで、魔物は慌てて言葉を足した。
「これから三ヶ月の間、満月と新月の晩に、おまえの願いをひとつずつ叶えていってやる。そうして六つの願いを叶えたら、おまえを俺の妻とする。それまでは、俺はおまえに指一本手出しはしないと約束しよう」
 そのとき、沈んだ太陽の代わりにのぼり始めた月の光が、厚い雲を割ってガラスをはめ込んだ窓の外から射してきた。アデライデは閉じたまぶたの向こうからでも感じる月明かりに思わず目を開けて、汚れとほこりのために曇った窓ガラスの方を見た。汚れを通して尚、明るく輝いている満月が浮かんでいるのを目にすると、その月のあまりの美しさに驚き、強く胸を打たれた。これほど美しい月を、アデライデは見たことがなかった。ラングリンドの森の上にかかる月をこの世でいちばん美しいと思っていたが、今夜からその考えは訂正しなければならないだろう。
 アデライデの涙はいつしか止まっていた。
 魔物は、射しこむ月明かりに照らし出された美しいアデライデの顔に吸い込まれそうになりながら、低く声を掛けた。
「それで、おまえはこの贈り物を不服とするか?」
 アデライデは魔物に視線を戻した。魔物は大きな体を折り曲げるようにして、アデライデを見つめていた。その赤い瞳には、やはりどこか悲しみが静かにさざめき、不安の色が濃く滲んでいる。
 アデライデは少しの間、魔物の瞳を見返していたが、その白くほっそりとした手で口を覆ったまま、静かな声で言った。
「わたしの名前はアデライデ。わたしのことは、アデライデと名前で呼んでください」
 魔物ははっと目を見開いて身を起こした。俄かに沸き起こった喜びが、腹の底から喉元までせり上がってくるのを感じた。その喜びに魔物の喉はぎゅっと絞められるようだった。魔物は必死に声を押し出した。
「──わかった、おまえのことはアデライデと呼ぼう」
「あなたのことはなんと呼べばいいのですか?」
 アデライデの澄んだ瞳に問いかけられて、魔物はいよいよ言葉を詰まらせた。沸き起こったはずの喜びは、冷たい氷の塊となって腹の底に戻って行った。
 アデライデは辛抱強く返事を待ったが、魔物は凍りついたように沈黙し、瞬きひとつせずにアデライデを見下ろしていた。答える気がないのだとさとったアデライデは視線を足元に落とし、
「……それではあなたのことは、今のように『あなた』とか『魔物さん』とお呼びしますわ」
「……あぁ、それでいい……」
 魔物はいたたまれなさに目を逸らし、小さく頷いた。しかし視線は惹きつけられるように、すぐにまたアデライデの方に向かっていく。アデライデの姿を目にすると、消えかけていた喜びが再び大きく心に燃え上がった。魔物は目を伏せて黙っているアデライデに呼びかけた。
「それで──アデライデ」
 アデライデの名前を口にした途端、その響きはどんな甘美な菓子よりも甘く舌の上にとろけ、魔物の心を酔わせるようだった。
「……贈り物のことだが、おまえはどう思った?」
 アデライデは顔を上げるとじっと魔物を見つめ、小さな声で訊ねた。
「ほんとうに、どんな願いでも叶えられるのですか?」
 魔物はアデライデが関心を示したことに喜び、
「あぁ、俺の魔力は月の力を拠り所としているから、満月と新月のときには強くなるのだ。たいていの願いなら叶えられないことはないだろう」
 と嘯いた。魔物の言ったことは半分はほんとうだったが、残りの半分は確証のないことだった。独学で魔術を学んだ魔物は、自分の魔力が月の満ち欠けに合わせて増減することを経験的に知ってはいたが、いずれにしても魔術は不得手だった。自分がどんな術を使えるのかも、正直なところわからない。だが、せっかくアデライデが示した関心を失いたくはなかったので、口から出まかせに大きなことを言ってしまったのだった。
「それなら……」
 アデライデはいったん言葉を切った後、思いつめたように魔物を見つめて言った。
「願いたいことがあります」
「いいだろう。だが、俺に願いを告げる以上、おまえは俺との婚姻を自らの意思で承知するということだぞ」
 言い募るような口調の魔物に、アデライデは口元を覆っていた手をおもむろに膝の上におろした。魔物が驚いて見ていると、アデライデは目を伏せて長いまつ毛の影を白い頬に揺らめかせながら、静かな低い声で言った。
「こうなった以上、これも運命だと思って受け入れるより他にないのだろうと思います。──はい、わたしはあなたの申し出を受けます」
 そう言いはしたが、やはりアデライデの瞳からは涙がこぼれそうになるのだった。





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